新月

 冬至を過ぎてもキルシュの街は暖かかった。

 夜は少し肌寒い程度だ。

 新月の夜、カールーンはキルシュ南西の沖からボートに乗り、櫂を漕いで浜辺に上陸した。

 茂みにボートを隠すと、夜陰に紛れて東へ向かった。

 船にはトゥベルが残って指揮をとった。

 他の船と遭遇し、接触を受けた場合は逃げるように指示した。

 ただ次の満月にキルシュに係留せよとだけ伝えた。

 期限は2週間。

 その間にケルビン将軍と接触して説得し、キルシュに戻らなければならない。

 カールーンは急いだ。

 道中自分の身分をどう説明しようか悩んだ。

 手元にあるのは偽装用の書類だけだ。

 リエナ・ベイヤーの直筆署名と印だけが本物だ。

 それ以外何もない。

 これは半分賭けだな。

 カールーンは自嘲した。

 目指す場所はケルビンの邸宅だ。

 王都シェプールの南にあり、上陸地点から北極星を左に見ながら歩けば到達するはずだった。

 カールーンは自分と並走する別の足音を、後方に感づいた。

 野犬だろう。

 一定のリズムで走っている。

 四、五匹はいるようだ。

 こちらが疲れるのを待っているのだろう。

 隙を見せれば包囲してくる。

 包囲されたら勝ち目はない。

 犬は賢く、強い。

 カールーンは何かに蹴つまずいて体勢を崩した。

 木の枝のようだ。

 手で探って探すと、手頃な太さの枝で、いい具合に乾いていた。

 外套の裾を破ると枝に巻きつけ、鞄から火打石を取り出した。

 野犬は迫っていた。

 既に分かれて広がろうとしていた。

 賢い連中だなまったく。

 カールーンは悪態を突きながら火花を飛ばした。

 亜麻仁油でも持っておくのだったと思った時、うまく着火した。

 手で覆い、吹くと広がった。

枝を掴んで翳した。

 剣でなく短剣を抜いた。

 犬の攻撃は口しかない。

 そこが最大の弱点であり、噛まれても着込みがあるので四肢は大した怪我にならない。

 舌を掴んで動きを封じても良いし、刺しても良い。

 犬は濃い毛色で垂れ耳だった。

 マスティフだろう。

 番犬が野生化したのかもしれない。

 カールーンは、プルトが黒豹を懐かせた時の話を思い出した。

 念が効くらしい。

 穏やかな記憶を送れば良い。

 そう言っていた。

「本当に効くのかよ」

 カールーンは穏やかな記憶を探した。

 犬と戯れた記憶を送った。

 すると一瞬彼らは止まった。

 しかしまだ歯を剥き出しにして唸っている。

 試しに燃え盛る炎の記憶を送った。

 驚いた様子でさがった。

 そして先日見た原生林の景色を送った。

 四匹の犬から敵意が消えた。

「ここを知っているのか?」

 カールーンは鞄から干し肉を取り出して、四つに切り分けて投げてやると、彼らは齧り付いた。

 皮袋から水を手に溜めて、掛けてやった。

 欲しそうにしているので、手に溜めてやると、舐めにきた。

 なんとか敵意は消えたようだ。

 皮袋の水は無くなってしまった。

 もう一方は、酒しか入っていない。

 飲ませたら寝るかと思い、試しに飲ませてみようかと思ったが、勿体無いので自分で飲んだ。

 襲ってくる様子はないので、星を見ながら進んだ。

 途中火を継げそうな枝を探し、いくつか拾っておいた。

 犬は一定距離を保ってついてきていた。

 食い物を狙っているのか、自分を食おうとしてるのかは分からなかった。

 肉はもう一塊あったが、自分が飢えては困る。

 手頃な木を見つけて登ると、そこで休んだ。

 肉を切り、口へ運び、硬いパンを齧ると酒で流し込んだ。

 犬はまだ木の根元付近を取り囲んでいた。

 仕方なく、そこで夜を明かすことにした。

 太陽が顔を焦がすのに気づいて目が覚めた。

 汗をかいていた。

 水がないのだ。

 脱水で倒れる前に水を補給しなくてはならない。

 まばらな木立と草原が広がっていた。

 カールーンは人工物を探した。

 遠くに畑らしきものが見えた。

 進もう。

 酒で喉を潤したかったが、だめだ。

 体がかえって水を出そうとするため、水分を失うのだ。

 忌々しい犬め。

 目が覚めた時には既に見えなくなっていた。

 蜃気楼だったなんてことはないよな。

 カールーンは畑に見えたものに向かって進んだ。

 随分走った。

 目標は間違いなく畑だ。

 畑なら、近くに水場がある。

 カールーンは畑に出ると用水路を探した。

 かなり広い畑だ。

 畑に沿って歩いていると、誰かが馬に乗ってやってきた。

 男だ。

 武装している。

 槍を構えていた。

 真っ直ぐこちらに向かってくる。

 カールーンは手を広げて敵意はないことを示したが、構えを解こうとしない。

 随分迫ってきた時、畑の中から黒い獣が飛び出した。

 それに馬は驚いたのか、前足を大きく上げて止まると、騎手は後ろに投げ出されて背中から落ちた。

 カールーンは男に駆け寄ると、声を掛けた。

「大丈夫か?」

 男は息ができないらしい。

「落ち着け、ゆっくり、ゆっくりだ」

 男は呼吸が戻ってきた。

「くそう、なんだあの犬は」

 犬はカールーンの後ろにいた。

 どうやら尾けてきていたらしい。

「野犬だよ。昨夜襲われて餌をやったら着いてきちまったらしい。立てるか?」

 カールーンは男を立たせてやると、男は槍を構えた。

 まだふらついていて足元が危うい様子だ。

 職務には忠実らしい。

「貴様、何者だ」

「ただの商人だよ」

「商人がなぜこんなところにいる? ここは私有地だ」

「ケルビン将軍か?」

「そうだ。何しにきた?」

「将軍に会いたい」

「会えるわけないだろう」

「介抱してやっただろう?」

「それとは別だ」

 カールーンは先に進もうとした。

 男は槍でそれを制した。

 それを見た犬が歯を剥いて男を睨んだ。

 畑から三匹出てきて、さらに男を囲んだ。

「五対一だな、やるかい?」

 カールーンは笑った。

「分かった、俺の負けだ」

 男は槍を納めた。

 カールーンは鞄から干し肉を取り出して、切り分けて犬に与えた。

「野犬を手懐けるなんて、変わった男だな。悪い奴じゃなさそうだ。ついて来い」

「ありがとよ」

 男は畑の畦道を進んだ。

 畑には木材が地に刺してあって、そこを蔦が絡んでいた。

 胡椒だ。

 辺り一面胡椒が植えられていた。

 しばらく進むと、別の木が植えられていた。

 大きく艶やかな葉が生えた植物だった。

「これは何だ」

「コーヒーだよ。将軍はこれが好きでね」

 これがコーヒーの木か。

 焙煎して粗く挽いて湯で抽出すると、実に美味い。

 南方ではよく飲まれるが、広まっていない。

 売れるかもしれんな。

 カールーンは覚えておこうと思った。

 しばらく行くと建物があった。

 煉瓦を積んだ、この辺りにはよくある家だ。

 鳥が放し飼いになっていて、犬が飛びつきそうで心配だった。

 彼らの粗相は自分のものになりかねない状況だ。

 男はここで待つように言うと、家に入って行った。

 暫くすると男が出てきて手招きしていた。

 会えそうだ。

 犬に感謝せねばな、とカールーンは思った。

「あいつらに水をやってくれないか?」

「野犬だろう?」

「あぁ、だが何故かついて来ちまったから放って置けないだろう」

「分かったよ」

 男は木桶に水を汲んで、置いてやると、犬はそれを飲んだ。

 奥へ案内されると、男が一人テーブルで食事をとっていた。

「こんな場所に一人で来るとはな。野犬まで従えて、何をしに来た?」

「カールーン・ビエナと言います。商人をやっています。あなたに買って頂きたい情報があります」

「ほぉ、どんな情報だ?」

「オセル王と学院に関する一連の証拠です」

 ネイルスは湯呑をテーブルに置くと、周囲の者にここから出るように指示した。

 そしてそこに座るようにカールーンに言った。

「いくらだ?」

「あなたの信頼はおいくらほどで?」

「変わった男だな」

「よく言われます」

 カールーンは笑った。

「内容次第だな」

 カールーンは説明した。

「阿片は金融ギルドの連絡船を使って、サルマンに運ばれました。彼らから学院長ファリス・ベローナ侯に渡りました。阿片はカレアン産です」

「お前はどうやってそれを知った」

「学院長に入知恵をしてきた男を捕獲しています」

「そいつはどこにいる?」

「私の船です。次の満月にキルシュに停泊予定です」

「そいつに会いたい。できるか?」

「できますが、次の満月までお待ちください」

「何故だ?」

「その日まで逃げ続けろと指示を出しました」

「何故だ?」

「あなたとの面会し、説得してキルシュへ向かうのにニ週間程度必要だと考えたからです」

「新月は昨夜だぞ? 読みが外れすぎだ」

 カールーンは笑いながら頭を掻いた。

「犬の協力は予定外でしたので」

「捉えた男の名は?」

「エドム・ベイヤー」

 ネイルスは黙ってカールーンを見据えた。

「ご存知ですか?」

「カレアンの銀行家だな」

 カールーンは頷いて応えた。

「貴様を信用してやる。一緒に来い。その前に飯だ」

 ネイルスはカールーンにコーヒーを注いでやった。

 そして好きに食べて良いと促した。

 カールーンは犬にも食事を貰えないか尋ねると、ネイルスは生肉を持ってくるよう部下に言った。

 カールーンは指を四本立てていた。

 ネイルスは舌打ちをして、さらに部下に伝えた。

 カールーンが皿に肉を置いてやると、尾を振って寄って来た。

「山岳犬だな。そいつらは賢い」

「はい。随分助けられました」

 カールーンはテーブルに戻った。

「陛下は崩御なさっております」

「知っている。それを引き出すための情報を探していた」

「そうだと思いました。だから此処へ来たのです」

 ネイルスはカールーンを睨んだ。

「貴様何者だ?」

 カールーンはネイルスの目を真っ直ぐ見て答えた。

「説明は極めて難しい。私が誰に仕えているかを話せば、貴方とは敵になるやもしれません。しかしそれは私も主人も望んでいません」

「陣営は明かさぬが信頼しろと言うのか?」

「はい。ただ他国ともカレアンとも関係はないとだけお伝えいたします」

「そんな陣営があるとも思えんが」

「今は此処に潜伏している、とだけお伝えしましょうか」

 カールーンは偽装書類をネイルスに見せた。

「ベイヤーの内輪揉めか。それに付け入ったのか、それともその一味か。どっちにしろ面倒な男だな」

「よく言われます。ですが、あなた方が敵と看做さなければ、決して敵にはなり得ませんよ。我らは民の味方ですので」

 ネイルスはカールーンを見つめて笑った。

「シエラのあの爺が言いそうな言葉だな。だいたい分かった。捕縛はせんでおく」

「助かりました」

 飄々とした男だ。

 軟そうな男を演じてはいるが、剣の腕は相当だろうとネイルスは思った。

 この男が持つ剣は見たことのないものだった。

「その剣見せてもらえるか?」

 カールーンは紐を解いて刀を抜き、ネイルスに渡した。

 ネイルスはゆっくりと鞘を払うと、刀を見た。

 見慣れない鉄だった。

 二尺一寸ほどの刀で、緩い反りがあった。

「これはどこで得たものだ?」

「シエラの若い職人の手によるものです」

 刀を見つめている目が、カールーンに移った。

「わしと立ち会え」

 ネイルスは笑っていた。

 カールーンは手を差し出した。

 刀を返せと言うことだろう。

 ネイルスは刀と鞘を渡すと、壁の剣に手を伸ばして、抜き放って外へ歩き出した。

 カールーンは一度鞘に納め、帯に差すと、紐で留めた。

「抜かんのか? なら行くぞ」

 そう言うとネイルスは剣を挙げて斬りに出た。

 その時カールーンは大きく踏み込むと、 右の掌をネイルスの柄頭に当て、左手で柄を握ると、そのまま体を低く潜り込ませ、右足を伸ばし、ネイルスの腰を浮かせると、そのまま転がした。

 ネイルスは背中から落ち、剣を奪われた。

 彼は天を仰いだまま笑った。

「はっはっは。此処までの使い手とは思わなんだ」

 カールーンは右手を差し出した。

 ネイルスはカールーンの腕を掴むと、カールーンも同じように掴んで、引き起こした。

「貴様いい腕をしとるな」

「剣より体術の方が得意なんですよ」

「剣の間合いに躊躇なく入ってくる度胸は認めてやる。貴様は短剣使いだな?」

 カールーンは頷くと、背中に差した短刀を取り出して見せた。

「なるほどな。昔似た体術を使う男がいた。相手は組みついた瞬間投げられていた」

「何と言う方ですか?」

「コールドン。その男の孫に目をかけていたが、愚かな将が戦犯にしてしまったものだから軍を離れてしまった」

「惜しいことを」

「全くだ。わしの近くに置くべきだったと後悔しておる」

 今頃何処で何をしているのだろうか、とネイルスは思った。

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