パニック

 看護師さんが声を掛けると、その人はゆっくりと布団から顔を出した。



 涙でグチャグチャになったその人の顔は、見覚えのある顔をしていた。

 凪の心の中にあるあの人の輝かしさは消え失せていて、哀れだとしか思えない顔をしていても、別人ではない事ははっきりと分かってしまう。

 信じたくはないけれど、辛い現実がここにある。


「アサヒ‥‥‥」

「ナギ‥‥‥」


 朝陽は声を上げて泣いた。

「お、俺、どうしたら、どうしたらいいんだ」



 看護師が凪に告げた。

「東山さんは軽い脳震盪だけで済んだので、2〜3日安静にすれば問題ありません。ただ、かなりのショックを受けていてパニック症状が出ています。もし貴方が彼の親友であるなら、話だけでも聞いてあげて下さい。少し落ち着くかもしれないので」


 凪が「はい」と答えると看護師さんはその場を後にした。



「分からないんだ。何も。頭を打ってその前後の記憶が全く無い。だけど、俺のせいでとんでもない事になってしまった」


 その人は泣きながら誰にともなく話しているようだった。


「ごめん。ごめん。俺のせいで」とその人は謝り続けていた。


 これが本当にあの朝陽なのか? 僕が憧れ、僕が愛した朝陽なのか?




 凪はついさっきまで、病院に向かう車の中でこの事故のニュースを見ていた。


【レース観戦に興奮した日本人がコース上に乗り出し、優勝候補筆頭のリュカと接触。大落車を招いた。

 この事故でリュカは鎖骨骨折しリタイア。調子が良いと言われていただけに非常に残念である。

 リュカと接触した日本人は脳震盪を起こし病院に搬送された。容態の回復を待って詳しい事情聴取が行われる事になる。】




「聞いてほしい事がある」とその人は言った。


「自信がないんだ。故意に起こした事故じゃないって言い切れない」


 その人は前日に僕たちが泊まっているホテルに来て、ラウンジでリュカと僕がコーヒーを飲むのを見ていたと言った。その時に抱いてしまった気持ちを話してきた。


 だからレースの現場で、事故を起こそうというつもりはなくても、もしかしたら心が耐えられなくなって、あんな行動を起こしてしまったのかもしれない、と言った。


「故意じゃなかったっていう自信がない」

 その人はを繰り返した。


「8年たって、ようやくナギのツールを観にこれたっていうのに‥‥‥。ナギにまで怪我をさせてしまった。来るんじゃなかった。来るんじゃなかった」


 その人を見ていて本当にあわれだと思った。僕は憤りを隠せなかった。


「僕もリュカもすごく調子が良かったんだ。このツールの為にどれだけの事を注ぎ込んできたか、アサヒなら分かるだろ?

 何で君なんだよ。何で? 君は何に嫉妬してるんだよ。何に⁉︎

 それに、8年なんて嘘だ。4年前にも亡霊のようにツールの沿道に立っていたくせに」


 何を言っていいか分からなかった。

「もう行かなきゃ。明日も走るんだ」

 凪はそう言って立ち上がった。


 「4年前、気づいていたのか」

 その人は独り言のように小さく呟いた。



 凪は最後に一言を残した。


「君が無事で良かった」

 それだけは心から思っている事だった。




 本当に久しぶりなのに、こんな形で会う事になるなんて。

 あれから8年がたって、やっと交わせた言葉がこれか?

 やるせない気持ちでいっぱいになる。


 信じたくなかった。傷ついている朝陽に怒りをぶつけるような事を言ってしまった。

 朝陽も最低だし、自分自身も最低だ。悔しくて涙が流れた。



 チームのスタッフが待っていてくれて、ホテルに向かった。

 僕は朝陽の事をずっと考えていた。


 またか‥‥‥。

 何でだよ。プロになってから、朝陽はまるで僕にとっての疫病神のようだ。上手く封じ込めて、上手くいっている時に現れて災いをもたらす。

 今も、そしてあの時だってそうだった。いい加減にしてくれよ。


 朝陽は変わってしまったな。もうあの頃の朝陽じゃない。

 そうだ。あれは僕の心の中にある朝陽じゃない。今のあんな哀れな朝陽は、僕が愛した朝陽とは別人なんだ。忘れよう。

 綺麗さっぱり。今ならそれが出来るはずだ。

 

 明日も走るんだ。あの人はああやって泣いて寝ていればいいけれど、僕にはやらなきゃならない事がある。僕はあの人とは違うんだ。

 今日の事は忘れて明日に向かわなきゃ。

 

 凪は必死に自分に言い聞かせていた。

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