朝陽の亡霊

 3週間も続くステージレースには規定によって2回の休養日が含まれる。

 休養日といっても殆どの選手が軽く自転車に乗ってリズムを崩さないように努めているけれど、それでも休養日翌日というのは意外とクセモノとなる事が多い。



 自転車に乗り始めてから、こんなふうに集中できなくなったのは初めてだった。

 高校に入学した頃のように、朝陽の事を考えないようにしようとすればするほど頭から離れない。


 リュカの後ろを走りながら、凪は知らないうちに朝陽の後ろを走っているような錯覚に陥る。

 朝陽が欲しているであろう動きをしてはリュカに怒られる。


「ノー」

 リュカの制止の声に凪はハッとする。

 そんな事を何度も繰り返し、2人の連携が上手く取れなくなっていく。

 この2週目でマイヨジョーヌを奪いたかったチーム・アンドゥの目論見は崩れた。

 最終週に入った今、それでもリュカは現在総合3位で、まだまだ逆転できる可能性はある。


 そして明日、ついに今大会最大の山場を迎える事となる。山頂ゴールの厳しい山岳ステージ。残りの2日間は難易度の低い平坦ステージなので、ほぼほぼ明日で総合優勝争いの決着は付くと思われる。


「ナギ、お前の働きが鍵を握っている。明日は頼むぞ」

 監督からもリュカからもそう言われる。


 僕が鍵なんだ。しっかりしなきゃ。

 凪は少しでも疲労をとって、良い働きが出来るように、いつもより早めにベッドに潜り込んだ。




 寝つきが悪い。

 寝入りに入れたかと思うと、また現実の世界に引き戻される。

 寝苦しい夜だった。

 ちゃんと眠っておかないとと心がかす。


 隣を見ると、ルームメイトとなっているリュカの寝息が規則正しく聞こえてくる。

 リュカは僕なんかよりずっと大きなプレッシャーを抱えているはずだ。


 リュカの寝息と自分の呼吸を合わせるようにしていると、いつの間にか凪も眠りに落ちていった。


 ★


 最後の山だ。僕もリュカも絶好調でここまで走れている。

 泣いても笑っても、ここが最後。

 あと14キロで全てが決まる。

 頂上に続く幾つものカーブが見えている。


 突然最終局面がやってきた。最後の山で僕は全力でリュカの前を走り、他の全ての選手を切り捨てた。力尽きるまで先頭を引き、あとはリュカに託した。少しでもタイム差を広げたい。


 リュカのマイヨジョーヌ確定を見届け、僕はリュカに続いて、今2番目でゴールラインを越えようとしている。

 きっとリュカが感謝と喜びのハグを交わしてくれるだろう。


 最高の走りが出来た。僕がゴールラインを越えて息を整えながら流していると前方にリュカの姿が見えた。

 両手を広げ、こっちに向かってやってくる。

 僕はリュカの前でバイクを止め、両手を広げた。



 え? 朝陽?

 そこにいたのはリュカではなくて朝陽だった。

「アサヒ!」

 朝陽の胸に思いっ切り飛び込む。

 朝陽は強く強く僕を抱いてくれた。



 それは山頂のはずだったのに、いつの間にか僕たちはベッドの上にいた。


 朝陽が長い脚を僕の脚に絡ませてくる。僕はその脚を押さえつけるように体勢を変えた。

 朝陽の温かな吐息と共に、柔らかな唇が僕の胸を襲う。

 優しい両手が胸からゆっくりと下降していく。

 呼吸音が聞こえる。彼の呼吸と僕の呼吸が入り混じり共鳴している。一体となって坂を駆け上がっていたあの時のように。

 どこか遠くに気を持っていかれそうだ。助けてくれ。


 ヘソの所まできていた手が左右に分かれ股関節へと降りていく。

 思わず変な声が漏れる。

 朝陽の指が波打つ。

 もうどうにでもしてくれ。

 でも、ダメだよ‥‥‥




 ピピピピッピピピピッ


 何の音だ? 誰にも邪魔されてたまるものか。


 ピピピピッピピピピッ


 音はどんどん大きくなっていく。



 えっ!

 ここはどこだ?

 今日は何の日だ?


 僕は飛び起きた。

 そう、今日は大切な勝負の日だ!



「ナギ、大丈夫か? うなされてたぞ」


 リュカの声を聞いて急に恥ずかしくなった。

「え? あ、ご、ごめん。僕‥‥‥」

 何を謝っているのか分からない。


「今日は頼むぞ」


 リュカのいつもの声を聞き、凪は両手で自分の頬をパシッと叩いて気合いを入れた。

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