3.獄楽園
死んだ後に楽園へたどり着くことはない。また、地獄に落ちることもない。
死んだ後に行き着く場所なんて、生きている限り観測できるわけがない。地獄や天国といった概念は大きな矛盾をはらんでいる。
私たちはただ、この世の尺度で地獄や天国を想像したに過ぎない。
つまり、地獄や天国については死後だけではなく、そのかけらがこの世に存在しているのだ。
私たちは生きている中で、時として地獄に踏み込み、時として楽園へと踏み込む。死後に楽園や地獄に行くということは、もしかしたら今一度この世に戻って来るのと変わりがないのかもしれない。
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鼓膜を通り越し、脳に直接刺さるようなアラームの音で目を覚ました。
今井は現在職をもってなく、溜まった貯金を崩しながら生活をしている。アルバイトもせずにマンションの一室で引きこもりの生活を送る。そんな27歳である。
彼はあまり社交的な性格ではなく、また後腐れを嫌っていた。高校の友達とは高校まで、大学ゼミでの仲間はゼミが終わるまで、職場の同僚は仕事を辞めるまで。
そんな風に、彼は節目ごとに他人との関わり合いを消していた。そういった行為は両親にまで及び、彼は社会人となった際に両親との連絡を絶った。お互いの電話番号を知っているため、まだつながっている状況ではあるが、今の彼は電話が鳴っても出ることはないだろう。
そんな今井だからこそ、無職の今は完全なる孤独であった。世界から孤立した人間。
それでも、彼はちゃんと夜に寝て朝に起きている。また職に就く気持ちは薄くある。生活リズムの乱れが生じたとき、もう戻れなくなるような気がしていた。
今井は、ベッドから起き上がると体を伸ばして大きなあくびを一つしてカーテンを開いた。
「ん?」
外を見た瞬間、大きな違和感を抱いた。すぐにそれは違和感とは呼べるものではなくなった。なぜなら現在進行形で異変が起きているから。
「なんだ……これ?」
上昇していた。
外の景色が上へ上へと昇っていく。
目に見える景色ではそう映ってはいるが。現実は違っていると今井は理解し始めていた。
景色が上に昇っているのではなく、この建物が降下しているのだった。それは、落下ではない。エレベーターで下へ降りるように等速でまっすぐに下へと降りて行っているのだ。
今井は掃き出し窓を開けようとしたが、フックを回しても窓は開かず、力をいくら入れてもびくともしなかった。
すぐに玄関へと向かう。扉を開けようとしたが、窓と同じように開くことはなかった。
どうしようもないと悟った今井は、とりあえずいつも通りの朝を送るように、コーヒーを一杯淹れて昨日買っておいた総菜パンを頬張った。
彼は食事をとりながらも、今起きている事態について少しでも把握しようと努めた。
まずテーブルに置いてあるコーヒーはマンションが下降しているというのに波の一つもたっていなかった。この部屋は揺れてないのだ。また、下に降りて行っているような音も聞こえない。
それに食べているパンについては、昨日朝食用に買っておいたもので間違いなかった。つまり、この事態については昨日という現実から地続きとなった「今日という現実」なのだ。
状況を掴もうとするほど、混乱してく。天井を見上げると、電気がついている。アラームを消すのと同時につけた。でも、建物が落ちているなら電気が使えるはずもない。
蛇口を捻ってみると透明な水道水がいつも通りに流れた。これもおかしい。
もう一度外の景色をじっくりと見てみようと窓を見たとき、ちょうどその景色は光を奪いながら地中へと降りていく瞬間であった。
途端に部屋の中に影が増して、LEDライトの白くて目に痛い光だけが頼りとなった。狭いワンルームではその光だけで充分ではある。
外の景色はすぐに暗闇ではなくなった。
まるで高速道路でトンネルの中を走っているときのように、等間隔に配置された小型のライトが上へと昇っては下から現れるのを繰り返し始めた。
彼を淡々と地の底へと運んでいく。そんな非日常が始まったのだった。
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目覚めてから3時間が経過していた。閉じたカーテンを再び開いたが、外の景色は変わらず、上に流れていっている。最初はこのマンション全体が下りていると思ったが、次第にこの部屋だけがエレベーターのように降りているという結論に至った。
なぜなら、外は変わらない日常が進んでいるから。
今井がパソコンの電源を入れると、電気や水道が使えるようにWi-Fiも問題なく使用できた。つまり、この部屋のに発生している異常は、外の景色と窓や扉があかないことだけなのだ。部屋の中自体は昨日と何一つ変わりがない。
それと同じようにネットニュースを見ても、沈みゆくマンションなんて大事件の様に扱われてもいいような出来事について何一つ書かれていなかった。変わらない日常がそこにあるだけだ。
自分だけが今この下降現象の中にいる。だからマンションではなく、自分の住んでいるこの部屋だけの異常なんだと彼は思い始めていた。
ネットが使えるため、この現象についてどこかに訴えてみようという考えも浮かんだ。しかし、他人にこの非現実を認めてもらおうとする努力を行う気にはなれなかった。ネットで現状を公開したところで、たとえ動画を撮ったとしても合成と思われるだけだろう。
また、外部への連絡についても今の彼には相談できる相手はない。警察への通報とかも考えたが、説明するのも馬鹿馬鹿しい。それに、あの開かない玄関の扉が向こう側からこじ開けられたら、この非現実が夢のようになかったことになるんじゃないかと思えた
そうなると彼はただ、可笑しな発言をして助けを求めた迷惑な人間だ。気の狂った可笑しな奴として見られるだろう。
だから、外への連絡についてはどうしようもなくなった際の最終手段としておくことにした。
幸いなことに水道が生きてるため水には困らず、食料の買い溜めは多くはないが、とりあえず買ったばかりの5キロの精米があった。限界に近い状態だが、何とかなる。
それに、寝て起きたら嘘のように元通りになっているかもしれない。
今井は現実逃避をするようにカーテンを閉めて、いつも通りにパソコンを起動する。変わりなく、ゲームをしたり動画サイトで時間をつぶしたりしながら、一日を浪費していった。
その時間は、本当にいつもの無職生活と変わりない。現実そのものであった。
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異常が発生してから、数日がたった。未だこの部屋は地下深くに向けて下降を続けている。
今井はこの状況について世界のバグであると思うことにしていた。
そのバグが自分という生命体を中心として起こっているのか、この空間で起こっている異常に自分が巻き込まれただけなのか、わからなかった。
しかし、おかしなことに部屋の中には異常はないのだ。この部屋は変わらず生活のすべてが整っている。故に自分という個人を中心に起こっているのだろうか。
考えれば、自分は人間としての矛盾を抱えていた。人間はコミュニティの中に生きる生き物だ。群れるからこそ強い。それなのに、自分は他社との関わりを絶った。人間としてバグっているのかもしれない。だから、自分の世界はおかしくなったのか?
一体この状況は何なのだろうか。
何が原因なのか。そんなことを考えても、彼の様な無力な個人ではこの問題について答えを出すどころか、その糸口すら見つけられることはできない。
結局今井は、答えのない今後について先延ばしにしながら引きこもり生活を続けるしかなかった。
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今一度現実をみなければならないと、今井が感じたのはもうすぐで1ヶ月になろうとする頃であった。
そうして、彼はカーテンを開いてじっと変わらない窓の外を見つめた。
そう言えば下降した先はどこなのだろうか。終点は一体どこなのだろうか。今井は疑問を抱いた。
考えてみると、ゆっくりとはいえ下がり続けてから多くの時間がたった。この部屋のなかの気温は変わらず、外の景色も変わらない。となるとこれは単に地球の底へ降りて行っているのではない。
オカルト的な考えを持つとしたら地底世界にでも行こうというのだろうか。実は地の底には都市があり、そこには地表とは違った文化圏が存在する的な。
そうだとしても自分の命が保証されるわけではない。どんなことにしろ、世界から隔離されている自分では、良い結末を迎えることができないだろう。
そんな最悪を考えながらも、彼はこの状況からの脱出を思い立つことはなかった。今井はこの生活で充分と感じていた。
自分の生活に日の光はいらない。
自分の生活に他社との交流はいらない。
自分の生活には、狭い部屋と少しの食料があればいい。
この異常はそれを強制してくれる。現実の世界ではこんな限界の様な生活を送っていても期限を設けてくる。どんな生活であれ、働かなければ収入がなくやがて貯金が尽きる。社会に出ることは恐ろしいことだった。そこがいかに慈愛に満ちて明るい場所であったとしても、今井にとっては地獄であった。
そうであれば、やはりこの異常事態にも終点があるように思えた。何事にも終わりがあるのだ。もし、一生下降を続けたとしてもいずれ食料がなくなり飢え死ぬ。それもまた終点だ。
どのような終点であれ、まだこの生活でいられるのなら。楽園の中にいられるのであれば。それに越したことはない。朽ちるまで、楽園で過ごしたい。そうして、今井はまた怠惰の中に身を沈めていくのだ。
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1ヶ月すぎてから今井に異変が起こり始めていた。
急に涙を流すことがあり、暗い部屋の中で外の景色をじっと見つめることがあり、急に浮かんだ過去の羞恥の記憶に発狂することがあった。
このようなことは下降が起こる前からあったが、この状況に陥ったことで度を超えるようになった。
他人への交流が苦痛な彼は、他人への迷惑について神経質になっていた。部屋の中でも物音を立てないようにしていた。しかし、今の彼は壁を殴りつけ、床を踏みしだくことも多かった。
ため込んでいた整理のつかない不安や恐怖が次第に彼を狂気の中へと引き込んでいくのだった。
それでも彼は完全に狂うことはなかった。突如として涙を流すことがあれど数分もすればまた切り替えて堕落した生活を過ごし、また突如として発狂する。
考えてみればずっと日の光を浴びていなかった。狭い部屋の中で終わりの見えない非現実に漬かっていた。次第に、非現実が当たり前となり。元の日常の常識が薄れていくのも当然なのかもしれない。
少しばかり額が広がってきているように感じた。
今井はもう、元の現実に戻ることに対しても恐怖を抱いていた。自分がおかしくなってきたことについての自覚はあった。そのため、もう元の現実では生きていけないように思っていた。
彼は窓の外を見ながら考える。
もし、自分ではない。例えば、普通に働いて、友人がいて、両親との仲も円満で、それでいて交際中の相手もいる。夢や目標があり、日々充実していると感じている。そんな人が、この異常事態に襲われたらどうするだろう。
誰かに連絡を取るのだろうか。助けを呼ぶのだろうか。もしかしたら、窓をかち割るのかもしれない。そんな風に必死になって、生きようとする。そう思う。
そんなこともできないまま、もうすぐ食料も尽きる。そんな彼はもう、死んでいるのと同義のようだ。
私は一体何なんだ? 今井は強く自問する。
異常事態を受け入れるという選択。いやもっと前だ。貯金を削りながら働かずに時間を浪費することを選んだこと。こんな堕落の日常、こんな味のしない人生。
一体、これは何なのだろう?
もはや、自分が人間なのかすら判断できない。人としての一線を越えているような気がしてならない。もう、この部屋の外では生きられない。水の合わない魚のように、適応なんてできないままゆっくりと衰弱していくに違いない。
この部屋は楽園のはずだった。
でも、次第に苦しみや辛みが侵食してきた。
この部屋は地獄だ。
自分という存在がいる限り、もうここは地獄であり続けるのだ。この世の地獄なのだ。
今井はただただ絶望していた。
実際のところ彼の人生にズレなんてなかったのかもしれない。彼は小学生の頃に、夏休みに物足りなさを感じていた。まるで自分だけ、時間の進みが違うかのようにあっという間に夏は過ぎ去っていく、クラスメイトが新学期へと切り替えていくのに自分だけが遅れていた。「休み気分がぬけてない」と何度も言われた。
ただそれだけだった。もっと長く休みたい。宿題とか、新学期とかそんな終わりに急かされながら終わっていく休みじゃなくて、嫌になる程長い休みが。
その考えは年を取るごとに強まって行った。その、「終わりに急かされない休み」は彼にとっての楽園だった。
他人との交流、社会との繋がり。これらは、終わりを作り出す。終わりを急かしてくる。楽園を汚してくる。だから切り捨てた。
しかし、そうやって手に入れた楽園なのに。今となっては地獄。
自分自身。または、生きるということ。それが、切り捨てるべき最後の現実。
また、楽園に戻ろう。
突如、電灯が点滅を始めた。蛍の光のように力なく消えては輝きを繰り返す。しかし、だんだんとその点滅は速さを増していった。
今井が窓の外を見ると、明らかに下降の速度が速まっていた。早くなっているだけではない。窓の外は激しく揺れていた。それは、下降ではなく落下だった。
しかし、部屋の中に揺れはない。ただ、電灯の点滅が早くなっていく。
慌ててスマホを手に取ったがそこには『圏外』の文字が映し出されていた。
終わりの時を悟った。
終わりに急かされない日常では、突如として終わりが襲い掛かってくるものだと、そんな当たり前の様な事を今井は理解した。
そして獣のように甲高く鳴いた。笑ったつもりではあったが、泣いているのかもしれなかった。
その心の中には、楽園を去る名残惜しさも。地獄から解放される安堵もない。
そうして完全な暗闇が訪れた。
もはや己に形が残っているのか分からないまま。今井の思考は溶けていく。
一体、彼はいつ死んでいたのだろうか。また、いつ死ぬのだろうか。
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