2.深海の泥

 生きるのに理由はいらない。という言葉が目に入った。その時、天性の天邪鬼精神によって、死ぬことを決意した。


 灰原は、生きる意味が分からなかった。それはきわめて個人的な領域での話であり、「人間はどうして生きるのか?」などという哲学的なニュアンスは含まれていない。


 あくまで自分が生きていることにどういった意味があるのか。そんな誰もが眠れない深夜に抱く、考えても仕方がないような疑問。かれはそれを長い間、自問し続けていた。


 灰原はコミュニケーションが苦手だ。社会になじめない自分が価値のない人間であると信じ込んでいる。そのため、一端の性欲や人恋しさはあれど、自ら恋愛を求めることはなかった。また没頭できる趣味も持ち合わせていない。


 社会に恐怖する彼にとって、働くことは苦痛でしかなかった。また労働の先に「幸せな家庭」や「充実した生活」等のゴールを望んでいない。しかし、働かなければ生きてはいけない。


 そんな当たり前のことについて、考えに更けていると。なんども「自分は普通じゃない」という結論に至った。


 その普通じゃないというのは例えば片翼をもがれた昆虫のような。もう、自然の中で生きていけず、ただ死を待つばかりの存在のような。空からの景色を眺めることもできず地面をただ這うばかりのような。そんな存在が自分であるのだと。


 もはや崖の淵に立っていた。あと一歩で真っ逆さまという心境であった。


 ある日、灰原は本でも買おうかと電車に乗って街に行こうとしていた。席は満席であり、ドア前に立って窓の外を眺めながら到着を待つ。そんな何気ないひと時の中、一瞬視界に入って過ぎていった広告。横顔がアップで撮られていた綺麗な女学生の写真、そして『生きるのに理由はいらない』というキャッチコピー。


 一体それが何の広告だったのかはわからなかったが。その時、灰原は世界に否定されたような心地になった。


 そして、どこか遠くへ行き、死んでしまおうと思った。

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 味わったことのない暗闇がそこにあった。


 深夜の海辺には一切の灯りはない。月の光を反射させた波に視線は吸い込まれていった。


 自分のような身勝手に命を投げ捨てる人間には苦しんで死ぬのが相応しい。彼は自分が上位存在になったかのように、そう身勝手に自身の運命を決定づけた。


 歩けば死ぬ。それを望んで、彼は進んでいく。


 膝まで水が迫った時。馬鹿馬鹿しくなり、引き返そうかと思った。しかし、思いながらも前に進んだ。


 腰まで使ったとき、波に押されて体が揺らいだ。まるで「早まるな!」と必死で押し戻そうとしているかのように感じた。しかし、その後「こっちへおいでというように沖の方へ引かれていく。


 いつの間にか全身を使って泳いでいた。邪魔な服は脱いで、あとも先の見えない暗闇の中を進んだ。もう戻りたくはなかった。あの生きにくい世界からやっと脱出できたような心地だった。この先にもっとよりよい居場所があるのだと。


 彼は最後に深く潜った。月明かりに照らされてはいるが、手を伸ばした先も見えない闇の世界がそこにあった。それは彼の思い描く『死』そのものであった。


 ゆっくりと力が抜けていく感じがした。やけに一瞬一瞬が長く感じた。死に対する恐怖と期待が鼓動を繰り返すたびに交差していく。その鼓動は大きくなっていき、次第に遠くに。遠くへ。遠くへと。

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 灰原は信じる宗教を持っていなかった、それは両親も同じであった。しかし、クリスマスを祝うし、祖父の葬式ではお経を唱えた。


 そして、当たり前のように輪廻転生を信じていた。輪廻転生の詳細は分からない。ただ何となく魂だけの存在となり今とは違う時代・世界で今とは違う存在になるんだろうなという認識。


 その認識にご都合を含めて、彼の中での輪廻転生は「全部なかったことにしてもう一回」という解釈であった。


 故に彼は、簡単に死に縋ってしまったのだ。


 「やり直し」それは、とても魅力的な概念だ。


 だが、人は死んだあとどうなるのか。という問題については答えを出すことなんてできない。死の先のことなんて誰もわからない。だからこそ、人はその深淵的な恐怖に対し、様々な解釈を信じることで問題を隅に追いやる。


 繰り返すが死んだ後のことなんて誰もわからないのだ。


 突如、死んだ灰原が目を覚ました。


 死者蘇生などではない。彼は死んでいる。死んでいることの証明は難しい状況ではあるが、暗い海のそこで人は生きられない。故に死んでいるといえるのではないだろうか。


 しかし、彼は動いている。さらに意識もあるのだから死んでいないとも思える。


 だがやはり、死んだ後のことは誰にもわからないのだ。故に、意識をもって動いていることを「死んではない」と決めることはできない。


 動き回る死後の可能性もある。


 幽霊みたいな解釈もある。


 そう、まさしく今の灰原は幽霊であった。深海の幽霊だ。


 意識がはっきりし始めるのと同じくして、異常なほど灰原は冷静になっていく。自分が夜の海に沈み死んだこと。また、死ぬ前の生活・人生をちゃんと覚えていること。自分が灰原であること。


 深海の定義ははっきりとはしていないが、水深200m以上になると太陽光が届かないため、その先が一応深海と呼ばれている領域になる。


 灰原がいるその空間はまさしく光のない闇の世界であった。


 灰原はその深海の底に立っており、水を感じるが濡れている感覚は一切なく、水中での動作に不便さもなかった。また、地上と同じように上に浮かぶことができなかった。


 灰原はここが死後の世界だと仮定した。しかし、同時にここはまだ生きていた時の変わらない世界であり、真っ暗な海の底にいるだけだという考えもあった。


 灰原はこの場所についてもっと知るべきだとして、足を進めた。砂煙が上がることもなく、水の抵抗も感じず。本当に前に進んでいるのかも怪しい。


 彼はひどく混乱していた。


 一体これは何なのか。死後このような状態になることの意味について図りかねていた。死ねばみんなこのように幽霊みたいな状態で動き回れるのか。みんな暗闇の中を彷徨うのか、それとも地上で死ねば地上を彷徨えるのだろうか。じゃあ、それが生死のシステムとしたらそのシステムにどういう意図があるのか。終わりがあるのか、次があるのか。


 死んだ後ではそんなことを考える意味もない。


 ただ、そんな風に自分を俯瞰してみて、思うのだ。


 死んでも自分は孤独なんだな。死んでも自分は普通ではないのだな。そう思って、悲しくなる。その悲しみにすらもう意味はない。


 突如、一匹の魚が脇を通り過ぎていった。


 もちろん、闇の中ではその姿は見えないが、水からその存在を伝えられたのだ。海の中ですれ違う存在としたら魚だろう。また、感覚的にはかなりの大物の様だった。


 深い思考の底から押し上げられた気分であった。


 やはりここは深海であり、まだ生前の世界を彷徨っている状態なんだと悟った。


そして、しばらく進んでいくとまた新たな発見があった。


 壁があった。岩の壁。


 上ることはできなかった。体が重く、浮き上がることができない。そのまま壁をに触れながら右周りに進んでいく。


 しかし、それ以降新たな発見はなかった。この場所ではたまに魚とすれ違いいくら進んでも左側に壁がある。離れて壁から逆方向に進んでいくと、いずれまた壁に当る。


 つまりそれがこの場所のすべてであった。深海の穴。人一人にしては広いが、広大な海の中の一部としてみれば毛穴にも満たない小さな凹みのの様な穴の中。それは自分の死の果てにたどり着いた場所。


 死んでも、何も変わらないんだなと灰原は初めて死に絶望した。


 生きていた頃も同じだ。世界の広さを知りながらも決まった生活圏の中で細々と暮らし、自分の居場所の狭さを嘆き。またその狭さが自分の人生のすべてだと感じていた。


 この暗闇の中には、他者との交流は一切ない。労働もなく。そもそも生きるということがない。


 でもこの深海に灰原はいる。


 一体どれほど時間がたったのか灰原にはわからない。魚が泳ぎまわっていることから時間が流れているような気はしていた。彼の心境にも移ろいが生まれていることからも、時間の概念があることは量ることができる。


 生きていたころは死が魅力的であった。生きづらい世界からの脱却は強く願っていることであり、またやり直したいという願望が死に強く結びついていた。


 しかし、今。そのやり直したいという思いに変化があった。死なずに人生を続けたかった。まだ、挽回の機会はいくらでもあった。希望はしっかりと未来に存在していた。


 この深海の様な何もない世界ではなかった。まだ生きたかった。もう一度、生きてみたかった。


 死に魅了されていた灰原は、いつしか生を渇望していた。


 深海で目覚めた最初の頃は、彼の心はそれでもまだ地上にあった。しかし、次第に深海の闇に染まっていき。遅れて死の恐怖や絶望が彼を蝕んだのだった。


 わががままだと彼は思わなかった。生きるものが死を目指し、死ぬのもが生を求める。それは、当然のことであると。


 天上から光が降り注いだのはその時だった。


 一瞬にして、視界が白に染まっていく。その時、また魚が彼のを横切って行った。しかり、そこではじめて彼はそれははっきりと見た。


 それは、魚ではなく灰原の死体だった。死体は遠くに流れていき次第に光の中に飲み込まれていった。

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 目覚めたのは自室のベッドの上であった。


 彼は深海の中で意識するよりも果てしなく多くの時間を過ごしていた。しかし、その瞬間そのすべてが夢となり朽ち果てていた。


 彼は夢の内容をうっすらと覚えていたがそれは夢でしかなかった。しかし、死というものに対する恐怖はしっかりのそこにあった。


 目覚めたのは彼が自殺を決意した日の朝だった。


 同じ日を再現するように、彼は外出の支度をした。


 本を買いに行こうと街へ向かう電車の中、彼は「生きるのに理由はいらない」というキャッチコピーの書かれた看板を見たが、特に興味を抱くことはなく、瞬きの間にその存在について忘れていた。


 彼がその日に死ぬことはなかった。


 しかし、その1ヶ月後、灰原はまた夜の海にその身を沈めていた。


 仕事で些細なミスをしてしまい、叱責を受けた翌日。職場に出勤せずに街をぶらぶらと歩きまわり、日が傾いたころに行き詰まったと絶望した末の自殺だった。


 灰原は大学中退後、4年間のフリーター生活を送っていたが、サボりや遅刻の常習犯だった。1年続いた仕事はなかった。一から就活を初めて、何とか正社員として雇用されたとき、いつかはサボってしまうだろうと自分でもわかっていた。


 それでも、無欠勤無遅刻を守り続けてきた。それが、たった1回の単純なミスで崩れ去ってしまった。そんな自分が、これからもこの社会で生きていくことが不可能なように思えた。そうして、またやり直したいと思ってしまったのだ。


 彼は決して死にたがりの人間ではない。すぐに死んでしまうか弱い生物ではない。でも、誰にでもあるような単純な絶望で暗い海へ向かうのだ。


 深海で目覚めた彼は前回の死をすべて覚えていた。しかし、改めて人生を送ったことにより「やはり、自分はあの世界では生きていけないんだ」と実感していた。


 しかし、また死後の世界。この暗い深海に絶望するまでに時間はそうはかからなかった。


 そうして彼はまた、全てを夢にして朝に目覚めた。当たり前のように職場へ向かったのだった。昨日のミスを引きずりながら、新たなミスに怯えながら。


 灰原はその後も死に続けた。それでも、全部を夢にしてまた起き上がると、死なない日常を送っていく。


 最初の自殺から10年がたっていた。彼は、今も変わらぬ職場に出勤している。遅刻も何度かした、欠勤もあった。叱られることも数えきれないほどあった。


 今は、そんな日は酒を飲みかわす仲間がいた。


 そして、帰るべき家庭もあった。初々しい恋の果て仕事の契約先で働いていた女性と結婚し、子供もいる。もうすぐ2人目も生まれようとしていた。


 彼は、過去の彼自身が思い描いていた「普通の人」になっていた。


 ここ5年の間、彼は自殺をしていない。逆を言えば5年前までは自殺を行っていたわけではあるが。そして、その最後の自殺も客観的に見れば実に些細なきっかけによる実行であった。


 今でもふとやり直したいと思う灰原ではあったが、思うだけだ。


 5年も前に見た夢のことなど覚えているわけもなく、当たり前に何もなかったようにその日を生きて、娘を抱き上げ、愛する者に抱擁する。酒の席では後輩に向かって「昔の俺もヤバかったよ」なんて笑って見せる。そこに至るまで確かな過程があった、段階があった。しかし、どこか彼にとって過去の自分は他人だった。

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 深い深い海の底。一匹の捕食者が一瞬のうちに小魚を丸のみにし、泥を大きく跳ね上げた。泥はそこから波に揺られて、上へ上へと昇っていく。そうして、微かな日の光のかけらを浴びた。


 そうしてまた、ゆっくりと闇の中へと沈んでいった。


 それは、生と死にも似た。ただの自然だった。







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