第4話 おやすみ



 先が見えない真っ黒なトンネルを歩く。

 暗闇においては、ちょっとおかしいレベルの超視力&超視界があるはずのおれだが、なぜかこのトンネル内では闇を見通せなかった。


 一歩進むとそこにはブ厚い暗幕があり、それを押しのけ進むとまた次の暗幕があるといった具合で、誇張でも比喩でもなく実際に一歩先までしか見えない。

 そのくせ、自分の荒い息遣いだけはやたらと反響するものだから、そう広くないトンネル状の通路なのだとあたりをつけることはできるのだが……。


 まあ、どう考えても普通の場所じゃない。

 そもそもここは、空間にぽっかり空いた穴の中だ。

 おれの勝手なイメージでは、猫型ロボットの引き出しタイムマシン空間みたいなものだと思っている。

 だがそうなると。

 

 ――対の窓が閉まる前に、はやくお行きなさい。


 あいつのいう対の窓――まあ普通に考えると出口だろう――が閉まってしまうと、おれはここに取り残されることになる。

 そう思い至った瞬間、おれは今出せる全速力で駆け出した。


 が。


 その速度は、若手のカタツムリが『お先!』といいながら隙間のないチョキをこめかみに当てつつ追い抜ける程度のものでしかない。

 ……いや、動けているだけ、歩けているだけでもホントすげえ忍耐と努力と根性の織り成す奇跡なんだよ?

 生きたまま解体された激痛とか、そうそう簡単に引くもんじゃないって。


 おかげで今おれは、身体を引きずるようにしてじりじり進むのがやっとだ。


 ざっと全身を確認してみたところ、出血や損傷はなかった。

 だが指一本でも動かせば嫌でも理解した。

 激痛と吐き気とあちこち突っ張る違和感と魂の根っこがずたずたになっている恐怖が、これでもかというほど教えてくれた。

 無事なのは『ガワ』だけだと。

 それ以外は、もう本当にどうしようもない、お終いの一歩手前まできてしまっていると。


 だが、所詮は一歩手前。まだ終わってはいない。

 弱気を振り払うように、たったひとつの道しるべをただ辿る。


 その間隔の短さから見て、彼女もそう易々とは進めていないようだった。

 おれと同等か下手をすればそれ以下の遅遅とした歩みだ。

 なんでこんな暗黒空間に、こうもはっきりと足跡が残っているのかはわからない。

 けど今は、まあラッキーぐらいに思っておく。実際これしか進むあてもない。

 なのでとにかく進む進む進む。


 そうしてイマジナリーでんでん虫とのデッドヒートを繰り広げていたおれの足がふと止まる。

 何十枚目かのブ厚い暗幕を押しのけた先、そこにあるはずの足跡がなかったのだ。


 焦らず慌てず、一歩後に戻る。

 そうして右か左かどっちだと悩むまでもなく、右手側に窓があった。


 闇の中にあっても、ドス赤いフレームと真っ黒な漆塗りのような光沢が目につく、観音開きの小さな窓だ。

 イメージとしてはあれ、柱時計で鳩が飛び出す場所みたいなやつ。

 それがほんの少しだけ開いているようで、向こう側から一条の光が射している。

 サイズ的には……おれなら余裕で通れる。まあ、あの姉さんが通れたんだから当然か。


 ならばさっさとひうぃごーと実写映画が大コケした配管工ブラザーズのように飛び込みたいところだったが……少し考えて、まずは様子を見ることにした。


 よくよく考えるとあの姉さんは、何故かステルス子機を目視できていた上、問答無用で黒い杭ミサイルをぶっぱなしてきた武闘派だ。

 しかもそこから先はこっちも反撃しまくったし、なんだったらあの姉さんが無傷な保障もない。

 ここで迂闊に飛び込んで、おれ産の黒杭が突き刺さった姉さんと鉢合わせなんかしたら……その瞬間に死合開始となってもおかしくはない。ちなみに今のおれは何もしなくても死にそうなので、それだけは絶対にかんべんな。


 なので、少しだけ開いたままの観音開きの隙間を、そっと覗き込んでみた。


 向こう側は……眩しいなおい。んーなんだ、普通の部屋だな。

 いや、正確にいうなら、広くて居心地の悪そうな部屋だ。

 絨毯に暖炉と木製のテーブルに椅子。それ必要か? と聞きたくなるごっちゃりとした装飾の数々。白銀に金と水晶を用いたインテリア。いつでもどこでも一定の価値は保障されている貴金属類。趣味はともかく値打ちは高い。まあ、どう考えても金持ち宅って感じだな。


 それをこうして見下ろせるということは、この『窓』は部屋の上方、天井付近の壁にあるということか。


 視線で探すまでもなく、例の姉さんはすぐに発見できた。

 まだこの『窓』から出たばかりらしく、後ろ姿を見下ろすだけで顔は見えないが……あのボア付きの真っ赤なタイトドレスは間違いあるまい。


 その姉さんが迷うことのない確かな足取りで、右手奥のドアへと向かう。

 左側にもドアはあるのに、一瞬たりとも迷う素振りがないということは、この場所のことをよく知っているとみて間違いない。

 緊急避難でとにかく適当に飛び込んだ、ではなく、あらかじめ用意していた逃走経路だったということか。


 そこでいきなり、姉さんの行く先――右手奥にあるドアがばんと開いた。


「お、お嬢様! これは一体どういうことで……!」


 部屋に飛び込んで来たのは若い男だった。

 姉さんへの呼称とその服装で、彼がどういった位置にいるのかすぐにわかった。

 まあ、どう見ても執事ってやつだよなあ、あれ。


「……喚くな。家主の帰還に、出迎えひとつできんのか」


 あ、やっぱりここって姉さんの家なのね。


「しかし」

さえずるな」


 ぴしゃりと叩きつけられた執事が、おれのいる『窓』と姉さんを交互に見て「そんなまさか」と呟く。その間も姉さんの歩は止まらない。


「で、ですがお嬢様、屋敷内での術行使など、ローゼガルド様が何と仰るこ」


 いい終わることなく、姉さんの進路を遮るように立っていた男が吹っ飛んだ。

 ビンタのように見えたが、あの細い腕で男がカッ飛ぶのがよくわからない。


「邪魔だ。当主の前で、他の威を借りてふんぞり返るな、痴れ者が」


 背中から壁に叩きつけられた男が、鼻で笑う。


「……やりましたな、お嬢様。わたしに手を上げたこと、後悔なさ」


 どす、と黒杭が男の肩に刺さった。

 得意げなペラ回しは途切れ、呻きながら崩れ落ちる。それを一瞥もせずに、姉さんはドアから退室して行った。


 ……やっぱりあの姉さん、おっかねえな。

 第一印象ってやつは、実はかなり高性能なレーダーなのかもしれない。


 だが、ぶっちゃけ執事の方も論外だった。

 ぶん殴られたあげく杭まで刺され散々だが、やられた方が善人とはならない。

 つーかどう考えても、明らかに執事の方がイキっていた。


 どうやら当主らしい姉さんに対して執拗なまでの『お嬢様』呼び。

 これはつまり『おめーなんか当主って認めてねーし』という主張だろう。それを本人の前でこれ見よがしに連呼するのは、心の底からナメきっている証拠だ。

 さらに、どうやらイレギュラーな方法で帰還したらしい当主に対しての第一声が、出迎えや心配の声ではなく詰問だったのもそれを補強する。


 まあその結果が、ぶん殴られてからの黒杭プレゼントだったので、結局のところあいつ執事は何かしら勘違いをしていたのだろう。


 現実ってやつは身も蓋もない。

 殴れないやつは殴れないし、無視できないやつは無視できない。

 殴れるやつは殴られるし、無視できるやつは無視される。


 ここでおれが拾うべきなのは。


 あの男が勘違いした原因。

 あの男が教えてくれた、なんだか重要っぽい名前、ローゼガルド様。

 一番偉いはずの当主が、自分の家の中で『威』と認める存在。

 使用人が当主を軽んじ、その威光を背にマウントを取ろうとするネームバリューを持つローゼガルド様とやら。


 ……なんだかドロドロした人間関係の腐臭がする。どう考えても関わりたくない。

 けどおれ、今からここに降りるしかないんだよなあ。

 せめて無人になってからこっそり降りよう。

 などと考えている内に、さらに人が増えはじめる。


「おい、さっきの揺れは何だ、何があった!?」


 最初は同僚と思しき同じ執事っぽい服を着た男たち。

 壁に張り付けられるように黒杭がぶっ刺さっている同僚を見て、慌てて介抱をはじめた。


「ねえ、今ヒルデガルド様とすれ違ったんだけど、いつお戻りになられたの? 何かすっごい不機嫌で、もう寝るから絶対に誰も部屋に入れるなってめちゃくちゃ怒っててさ――あ」


 次いでメイド服を着た、その立場に疑問の余地のない女中たち。

 ちなみにガチな女中服だったので、妙にスカートが短かったりはしない。


「もしかして、この馬鹿が原因?」

「なにあの黒いの、怖い」

「嘘だろ、あれ、禁呪……?」

「つまりお前は、ヒルデガルド様に無礼を働いたと」

「お飾り相手に、頭の固い爺だなおい」


 そんな彼や彼女らが、わいわいがやがやしている内から、今の自分に必要そうな内容を抜き出し整理する。


 その1。

 姉さんの名前はヒルデガルド。

 老執事と2人のメイドだけが「ヒルデガルド様」呼びで、あとは「お飾り」とかネガティブなやつばかり。ここに使用人全員が居るわけではないだろうが、姉さん――ヒルデガルドの味方は少ないようだ。


 その2。

 今おれが居るこの『窓』は激ヤバな禁呪らしい。

 周りの制止を振り切った一人が「なら斬ってしまえばいいだろう」と闇を凝縮して造りあげたやたら格好いい剣を片手に近づくと、じゅううううと焼けた。

 ちょっとだけ笑いそうになったが、よく見ると深度Ⅲまでいってそうなガチな火傷だったので一瞬で素になった。


 その3。

 おれ的にはこれが一番の大発見。

 黒杭に貫かれたイキり執事と禁呪に近づき焼けた執事。

 この2名の怪我はワリとあっさり治った。

 メイドのひとりが患部に手をかざし、何か黒っぽいモヤを塗りたくると……なんと傷は消えていたのだ。

 ――やっぱりあった回復魔法!

 古来からのイメージ的に水や光だったので、まさか闇でも出来るとは盲点だった。

 ならば早速と自分自身に試そうとするも、よくよく考えるとおれに外傷はなかった。


 そんなこんなで、もうそろそろ新しい情報も尽きてきたかなと思い始めた頃。


 唐突に、部屋に居た全員が一斉に口をつぐみ、壁に張り付くように直立の姿勢で整列した。

 そしてそのまま1秒、2秒、3秒経った時、かちゃりと丁寧にドアを開けた執事に続き、そいつが現れた。




 ――あ、だめだこりゃ。




 どこかヒルデガルドに似た面持ちに、さら年齢を二周りほど追加したその女は。


 ここに来る前に見た巻角野郎――ゲオルギウスと同レベルで、どうしようもなかった。


 これまでの短い経験から、この『どうしようもない』感覚は、ピラミッドさんから教わった『カルマ値』の大小に連動する感覚だと当たりをつけている。

 おれのボキャブラリーではカルマ値とは――どれだけクソかの目安、という位置づけだ。


「……」


 整列する使用人一同を視線で一舐めしてから、女がいう。


「……で? 最初に着いたのは誰?」

「はっ! わたしですローゼガルド様!」


 まあわかっちゃいたけど、やっぱりがローゼガルド様か。

 この短時間に、こんなのが2人目とか、何なんだろうねここは。壺毒のグランドチャンピオン大会かな? 大銀河外道博覧会でも、もうちょい綺麗なやつがディスプレイされてるぞ絶対。


「話しなさい。全部」

「はっ」


 ちなみにこのカルマ値、おれの基準じゃ、松葉杖ついてる病人蹴飛ばしてゲラゲラ笑ってプラス1ポイントって感じだ。見てて胸が悪くなる行為ってやつは理屈抜きにクソ度を上げる。プラス2から先のアクションは言葉にするだけで気分が悪くなるので割愛するが、このローゼガルド様、ざっと見ただけで……数値化するなら、50万ポイントぐらいある。

 100とか200じゃない。500000だ。


 いやいやいや。普通に考えたら100の時点で現代日本なら絶対に檻の中だ。

 正義感だけじゃなく、こいつを野放しにしておくと自分や身内の安全が脅かされるという共通の防衛本能によって、絶対に野放しにはできないし、されない。

 100でそのレベル。

 で、このローゼガルド様500000。


 ……なにをどうすれば、こんな生き物が誕生するのかわからない。


 わかってはいたが、改めて再確認する。

 ここは日本ではない。

 ぶっちぎりで最強の武力を持った警察組織が、その威信にかけて一定の秩序を固守している現代日本では、こんな生き物は存在できない。

 逆説的に、今ここにこいつが存在しているという事実から、此処にはまともな法などないのだろう。いや、最悪の場合、こいつ自身が法という可能性すらある。


 つまり。


 こいつとは絶対に関わっちゃダメだ。

 そう確信したおれは、こいつら全員がどっか行くまで、いくらでも待つ決心を固めた。


「ふうん。これをあのコがねぇ。こんなの、いつの間に覚えたのかしら?」

「はっ。分かりかねます。我々には『これ』が何なのかも理解できておりません」

「……これは窓よ。あちらとこちらを繋ぐ道。距離を超えた原初の裏道。その入り口と出口」


 いってこちらをガン見してきたので、慌てて首を引っ込めた。


「あの、ローゼガルド様。その……窓、ですか? 少し開いてませんか?」


 勘のいい執事は嫌いだよ。


「あらほんと。あのコったら、きちんと閉めなかったのね。まだ残留してるのはきっとそういうことね」


 あ、この流れやばくね。


「ならあなた、あのコの杭で貫かれた、あなたが閉めなさい」

「……恐れながら、わたしでは途中で燃え尽きるかと」

「あのコは自力で『あの中身を』突破してきたのよ? まだあのコの魔力が体内に残留している今なら、きっとどうにかなるわ。ならなければ、閉じてから、燃え尽きて、死になさい」

「……御意。装備と強化のご裁可を」

「許可するわ」


 そうして今日は散々なイキり執事が準備を始める。

 メイドや執事が数人がかりで、おそらく補助魔法と思われるキラキラを振り撒き、さらにどこからか用意した黒いフルアーマーを数名の補助をかりて装着していく。


 おれはどうするか決めかねていた。

 いくら防具で身を固めても、近づくだけで大火傷を負う怪現象には無意味ではないのか。

 このままじっと見ているだけで、結局は失敗し、じゃあ自然に消えるまでここは立ち入り禁止な、と解散になるのではないか。


 そう思う一方で。


 もしあのフルアーマーイキり執事が根性の限りを尽くし、この『窓』をぐいと閉めてしまえば。

 おれは未来永劫、この暗黒空間に取り残されてしまうのではないか。

 ならば向こうがゴタついてる今の内に一気に飛び出し、適当に場を荒らして逃げる方が、まだ芽があるのではないか。

 いやいや、若手のカタツムリに負ける速度で、一体どうやって逃げるというのか。

 だがステルス子機を先に降ろせばあるいは。


 ……結局おれは、無難な方を選んだ。

 失敗してはい解散、になって欲しいと願い……様子見を選んだ。


 そうして、フルアーマー執事の特攻チャレンジが始まった。


「行きます! 崩れたら、追加の援護頼む!」


 がっしゃんがっしゃん金属音を響かせながら、おれの方――窓へと突進してくる。

 最初のダークセイバー執事が燃えた地点を過ぎても、その勢いは衰えない。

 鎧から煙が上がる。鎧の中から悲鳴のような雄叫びが上がる。それでも足は止まらない。


 ちらりと視線を後方へ向けると、ローゼガルド様クソの塊が愉しそうに笑っていた。

 ……今さらあいつのクソさ加減を目撃したところで何の驚きもない。

 がしかし、違和感はあった。


 はたして、この程度なのだろうか。


 問題の解決に際し部下に身体を張らせるのは……そう珍しいことじゃない。

 決して褒められたことじゃないが、悲しいかな、どこでも普通に行われている、ありふれたやり口ですらある。

 そんなありふれた行いをするだけのやつが、ああも吐き気を催すようなカルマ値を叩き出すだろうか。



 答えは、すぐに来た。



 残り5メートルの地点で鎧の足が止まった。

 気絶でもしたのか、五体からだらりと力が抜ける。

 そしてそのまま倒れようとしたところで。


 ローゼガルド様期待を裏切らないクソが手を振った。あっちへ行けというジェスチャーのように、手首だけを下から上へ。


 たったそれだけの動きで発生した黒い波が、倒れようとしていた鎧の背を舐める。

 すると、フルアーマーを装着した成人男性が、冗談みたいに吹っ飛んだ。

 無論、天井付近にある『窓』に向かって。


 あー、なるほど。最初から砲弾のつもりだったわけね。重い方が威力増すもんね。それでフルアーマーの装着を許可したと。

 ……こいつ、本当に、どうしようもねえなマジで。


 この勢いと重量なら、ちょっとだけ開いた観音開きの小窓など、まず間違いなく閉まる。

 おれに選択肢などない。

 こうなればいいな、という願いに縋りつき思考を止めた。

 願いと現実に、さして因果関係はないと知っていたはずなのに。

 ローゼガルドが生粋のクソだと知っていたにもかかわらず、そこから先を考えずに。

 おびえて、縮こまった。


 まるで誰かが助けてくれると、期待でもしていたかのように。


 鍛え抜いた屈強な消防士が「もう大丈夫だ」と来てくれるとでも思ったか。

 柔道の有段者かつ最強武器の銃を持った警官が、令状片手に踏み込んで来てくれるとでも思ったのか。


 来るわけがない。日本どころか地球かすらも怪しいここに、そんな都合のいい話はない。

 わかってはいても、縮こまって、とぼけた。


 こちらから襲撃するという可能性を、なかったことにした。

 人間のかたちをしたものを、殺傷するのを嫌がった。


 露骨な化け物ではなく、中身はともかく『ガワ』は完全に人間と同じかたちをしたものに、黒杭をぶち込むのを怖がった。

 一番やばいのは人間だと、とっくの昔に知っていたはずなのに。

 超暴力の庇護がない、日本国憲法もない、まったくの別世界だというのに、中途半端に日本感覚のままで、自分が気持ちいいだけの選択をした。


 なので今から、そのツケを払う。


 砲弾と化した鎧が『窓』にぶつかる。叩きつけられるように、ばんと閉まる。

 他に選択肢がないおれは、一息はやく窓から飛び降りていた。

 着地を決める余力などなく、べちゃりと無様に墜落する。


 そうして、絶対に関わってはいけない外道とその配下達の前に、瀕死のおれはその姿を晒した。

 晒すしか、なくなってしまった。


 全身全霊を振り絞って、どうにか平静を装い立ち上がる。

 正直にいうと、落ちた時に打った右腿がめちゃくちゃ痛い。もうこれ、走るのとか絶対ムリだわ。……おかげでまたひとつ、ハードルが高くなった。


 余計な感情は捨てよう。

 できることをしよう。全部しよう。

 安全が確保されている時のみ愉しめる、綺麗な理屈を転がし気持ちよくなれる『贅沢な嗜好品』はここにはない。

 ぎりぎりになってようやく、そんな当然の事実が理解できた。

 ……自分の頭の悪さが嫌になる。


 きっとここが、一番苦しいところだ。

 下を向く心根を、強引に捻り上げるようにして前へと向ける。


 だから、ここさえ切り抜ければ、あとはもう上がるだけだ。きっと全部上手くいく。

 根拠なんかなくていい。満たせ。膨らませろ。縮こまるな。ついさっきの失敗を繰り返すな。


 広間にいる全員の視線が突き刺さる。

 ……どう考えても、一度は命を晒さなくてはならない。どんなに急いでも間に合わない。

 自分の勘違いが招いた窮地だ。死んだらおれのせいだ。……ならまあ、いいか。


 気が遠くなるような沈黙のあと、


「とらえ!」


 ローゼガルドが叫んだ。

 次の瞬間、執事2人に挟まれるようにして、おれの両腕は拘束されていた。

 成人男性との身長差から、黒服に捕まった宇宙人のように足がぷらぷら浮いている。

 両腕だけで体重を支えるかたちなので、腕の付け根が痛みはじめる。

 だが、それだけだ。


 ――よし! 切り抜けた!


 安堵のあまり、おれの口元がほころんだ。

 何せ死の瀬戸際からのだ。多少気が抜けるのもしょうがないって。


「……あらぁ、何か良い事でもあったの?」


 不審者確保の成功にローゼガルド様もにっこにこだ。


「それで貴女、どちらさまかしら?」


 答えは用意してある。最後のチャンスである1秒を浪費させるため、尊大に切り出し注意を引く。


「ヒルデガルドの連れだよ。ローゼガルド」


「……あのコに妙なコトを教えたのは貴女?」


 さっぱり意味がわからなかったので、笑っておいた。

 もういつでもいける。

 あとはタイミングだ。

 他の連中の虚を突く。動き出した鼻先に叩きつけるのが理想だ。


「何がおかしいのかしら。薄気味悪いコねえ」


 何がおかしいのか。強いていうなら。

 右足が痛くてじっと立っていられないステルス子機が、さっきからずっとお前にもたれ掛かっているというのに、ちっとも気付かないその様が――おかしくて、安心するんだよ、ローゼガルド。


「まあいいわ。ザイン、トール、それの両手両足を切断なさ」



 ――悪魔の弁護人ディアボロス



 ローゼガルドの言葉が止まり、震え、背が折れる。

 突然の異変に戸惑う左右それぞれの執事に向け、形成し滞空させておいた黒杭を引き寄せる。


 あの姉さん――ヒルデガルドが当然のように撃っていたので、この部屋に『闇』があるのは知っていた。

 ならおれにも『杭』は出せる。


 それぞれ執事を突き抜け、2本の黒杭がおれの両肩にぶつかり、しゅるんと吸い込まれる。

 拘束が解け、そのまま両足で着地。

 激痛が走る右足から崩れ落ちそうになるも、ここで弱みを見せるわけにはいかない。

 タネも仕掛けもないやせ我慢で踏ん張る。つい下を向きそうになる視線を強引に上げる。


 目の前のローゼガルドは、ちょうど3度折れて圧縮されるところだった。


 その様子に心から安堵する。

 超存在であるピラミッドさん由来の『製本』はどこでもできるはずだと決め付けた。

 できなきゃここで終わるので、できるを前提に進めて、進んだ。



「――全員、動くな! 動けば撃つ!」



 どこまで意味があるか不明だが、残りの使用人たちに釘を刺しておく。

 無論、いつでも撃てるよう、それぞれの頭上に黒杭をセットした上でだ。

 実行が伴って初めて、脅しは脅しになる。



「が、ご、おお、お前たち! 今すぐそぃ」



 そこでローゼガルドの頭部が折り畳みに巻き込まれ、熟練たこ焼き職人の御技が如く一瞬でクルっといった。

 そこから先のグロ展開を見届けることなく、すぐさま左右の執事を確認する。


 一撃当てたとはいえ、こいつらが死に物狂いで襲い掛かってくるのが一番まずい。

 なので追加の黒杭を盾のように向けつつ備えていたのだが……二人とも倒れたままピクリとも動かない。血の代わりに真っ黒い液体が池をつくっているのが気にかかるが、今はそれどころではなく。



「――おい」



 視界の端で動き出すそれ老執事の鼻先に、黒杭を撃ち出すのが最優先だった。

 一発だけなら脅しが弱いと思い、できるだけ沢山ぎりぎりに着弾させる。



「……勘違いするなよ。お前たちを皆殺しにしたいワケじゃない。四肢を切断しようとした奴と命令を下した奴がああなった。お前たちはまだ何もしていない。だからああはならない。わかるな?」



 本音だ。

 いくら日本国憲法がないからって、やればやり返されるのは基本中の基本だ。

 だからもう本当にどうしようもないローゼガルド以外はできる限りやりたくない。


 なので左右で拘束していた連中には、できるだけ小さくしたミニ黒杭を肩口にさくっと刺して痛みでびびらせる予定だったんだけど……。

 実際には貫通しておれにまで届いてしまった。

 子機おれを解体した4本腕の筋肉レッサー阿修羅マン(仮)は、レギュラーサイズ濃縮版が数本刺さっても元気一杯だったというのに。


 倒れ伏しぴくりとも動かないふたりを見やる。

 肩口から入り脇腹を抜けて貫通。

 どう考えても主要臓器が損壊してる。

 まずい。これはまずい。


 自分たちを使い捨てとしか考えていないクソ暴君の死と同僚の死では、おれに対して積み上がるヘイトの量がケタ違いだ。

 手違いだった、などという言い訳は通用しない。

 へりくだる必要はないが、やって当然という傲慢さは身を滅ぼす予感しかしない。

 フィジカルくそ雑魚で脆すぎるおれとしては、こういう所が先の明暗を分けると思う。


「あ」


 そこで、ようやく思い出した。

 ――そういやあった回復魔法。

 しかもそこに、実際に使ってたメイドさんがいるじゃないか。


「そこの金髪と赤髪のふたり」


 そう声をかけるも、ローゼガルド様によるグロテスクショーに夢中らしくガン無視される。

 やむなく黒杭で肩をとんとん叩いて気付いてもらい「金髪はこっち、赤髪はこっち」とそれぞれ振り分け、治せそうですか? と問うと。


「む、むりです。ここまで崩れると、そ、その、足りません!」


 いわれて見ると確かに、メイドさんの手元に溜まる闇を塗り込むようにして被せるも、すぐになくなりドロリと零れ落ちていた。

 というか、空いた穴から見える体内の様子が、おれの知っている筋肉や内臓とは明らかに異なっている。

 かつて理科室にいた人体模型君が体を張って教えてくれたあれらとは、似ても似つかない何かがそこにある。

 そもそも全部が全部真っ黒で、血も黒いとかこれどう考えても。


「……人間ではない?」

「え? あ、は、はい。そうですが……」

「じゃあ何?」

「あ、えと、その、何といわれましても……。あ、分類的には闇精霊の一種に」


 闇精霊ときたか!

 まあいわれてみればそうか。

 ケンタウロスやレッサー阿修羅マンが跋扈する世界で、単なる人間では分が悪すぎる。

 肩を並べる仲間としては、頼りないを通り越して格落ち感すらある。

 だがヒルデガルドはあの場にいた。他の化け物たちと肩を並べてあそこにいた。

 それはつまり、やつらと同等の『何か』だということに他ならない。

 その『何か』の答えが――闇精霊。


 名前からして何となく、どんな存在か想像がつく。

 今さっきメイドさんは「足りません」といった。ならば。


 そこいらにわだかまっている闇をべりべりと剥がし、それぞれ瀕死の2人に被せる。


「これで足りるか?」

「……え、あ、はい。……はい?」


 ダメっぽいのでさらに3枚ずつ追加。

 そこでいきなり金髪メイドさんが嘔吐した。

 可愛らしい娘の突発ゲロとか、おれには徳が高すぎる。まだそのステージにない。

 つまりドン引きだ。


「げほっごほっ、や、やってみせます! できます! ですからもう十分ですので!」


 激しくむせながら、もう一人の赤髪メイドが叫ぶ。

 ふと過剰摂取オーバードースという言葉が浮かんだが、これ以上専門家の邪魔はしないでおこうと、さっさとその場を離れた。


 そうして向かう先に、ばさっと一冊の本が落ちる。

 くっそグロい製本過程を終えて、その表紙の上にぼちゃりと脈打つ心臓が落ちる。

 染み込むように沈み行き、ようやく出来上がる。


 ローゼガルドBOOKの完成だ。


 躊躇うことなく手に取り、まずは最重要事項を調べる。

 前回の失敗を忘れないよう、ページと使用人の顔をわかりやすく往復しながら確認する。見てるから余計なことすんなよと、しょぼい牽制をしつつ、部屋にいる全員の顔とフルネームを一致させた。

 なら次は。

 ページをめくる。



 この家に居る裏切り者の名は?

 ――ヒルデガルド。ハウザー。アメジスト。ヨランダ。プルメリア。ヴィンセント。ロイ。

 お前とヒルデガルドの関係は?

 ――叔母と姪よ。わたしの姉の娘がヒルデガルドね。

 なぜヒルデガルドはお前を裏切るのか?

 ――わたしが前当主だった姉を殺したからでしょうね。せっかく逆らわないよう丁寧に念入りにしてあげたのに、嫌になっちゃうわほんと。

 なぜお前が当主にならなかったのか?

 ――どうしてわたしがそんな雑務をしなきゃいけないのかしら? 馬鹿じゃないの?



 そこで一旦本を閉じた。

 これは思いのほかきつそうだ。

 この疲れきった瀕死の体に、クソの内面を見せ付けられるのは堪える。

 さらに全方位を警戒しながらの読書が追加で精神を削る。


 なので、一歩踏み出してみることにした。

 いきなり本を読み始めるという隙を晒しても何もしてこなかったので、いけると踏んだ。

 踏んだなら、掴んで手繰り寄せろ。


「なあハウザー。そこの椅子とサイドテーブルを持ってきてくれないか?」


 ローゼガルドのいう裏切り者である老執事に声をかけた。


「……は?」


 返ってきたのは疑問と困惑。しかし激高しない時点で決まりだ。なら手繰り寄せろ。


「お前とわたしが敵対する必要はないだろう? 少なくともわたしはそう信じている。だから次はそちらの考えを示してくれないか? 最初にもいった通り、わたしはヒルデガルドの連れだよ、ハウザー」


 ヒルデガルドが連れてきたのは事実だ。まあ本人は知らないだろうが。

 ……うん、ギリセーフ。嘘ではない。それに今頃本人は自室で休んでいるだろうから、ここはいった者勝ちだ。


「………………ヒルデガルド様の客人とあらば」


 よし通った!

 おれVSおれ以外の全て、という図式が塗り変わった。味方とはいいきれないが、少なくとも敵ではなくなった。


 ハウザーがすっと重さを感じさせない滑らかな動きで、椅子とサイドテーブルを持ってきてくれる。かなりがっしりした、引越しセンターなら2人掛かりで運ぶ系のくっそ重そうなやつなのに、何気にすげーなこの爺さん。


「どうぞ」


 それを確認したおれは、この部屋にいる『ローゼガルドにとっての裏切り者』ハウザー、ヨランダ、プルメリアの頭上に形成していた黒杭を塵へと砕いた。

 実はそっと消すこともできるのだが、まあこういうお前らは敵じゃないアピールは大切だ。

 残る他への、お前らは動けばぶっ刺すぞアピールもまた同じぐらい大切だ。


「うん、ありがとう」


 鷹揚にいってぴょんと椅子に腰掛ける。

 座り心地はいまいちだが、馬鹿みたいに豪華な背もたれが、背後からくる不意打ちの盾となってくれること間違いなしの逸品だ。

 座った足が地に届かずプラプラするのはナメられ兼ねないと危惧し、胡坐をかくことにする。


 そうして、脇に置かれたサイドテーブルから一番の本命である目的の物――羽ペンを手に取った。


 少し悩んで最初のページに決める。注意書きは最初の方がいいだろう。

 意を決して、必要だと思う事柄を書き込んでゆく。


 ずっと気になっていたのだ。

 この製本魔法(物理)によって作られた『本』に、あとから何か書き込み継ぎ足せば、一体どうなるのか。

 聞けば答えてくれる素直な本に、何らかの要望や条件を書き足せば、はたしてそれは叶うのか。今こうして普通に字が書けている時点で、まったくの見当外れではないと思うのだが……。


 答え合わせの機会は不意に訪れた。


 最初の一文を書き終わった時、唐突に執事のひとりが消えた。

 ちょうど真正面のやつだったので常に視界内に捉えていたのだが、何の前触れもなくいきなり消えた。膝を曲げることも重心を前方に倒すこともなく、棒立ちのまま一瞬で居なくなった。

 次の瞬間、手が届く至近距離に、おれの眼に向けて闇剣を突き刺そうと右腕を引く執事がいた。


 ――やっぱりあった、やばい反則技ドンデモ魔法


 しかもこれは間違いなく、おれの天敵といえる最悪のやつだ。

 超スピードによる突進なら腕を引いて突き刺す動きはいらない。前方に剣を突き出しそのまま進めば勝手に突き刺さる。

 なのにそのワンアクションが必要だということは、ここまで一気に前進してきたクセに、すぐ目の前にある標的おれを貫くための運動エネルギーが発生していないということだ。

 つまりは慣性ガン無視の超常現象。


 瞬間移動。テレポーテーション。


 近づかれたら終わりのおれを殺すためにあるような、最悪の反則技だ。


 執事が突き、

 おれの右眼に闇で出来た剣がぶっ刺さる。

 慌てず騒がず、持っていた『本』ローゼガルドを執事へとパスした。

 とっさに執事は、半ばまで刺さった闇剣を手放し、両手で本をキャッチした。


 おれが冒頭に書き足した条文は以下の通り。


 ――おれとヒルデガルド以外がこの本に触れることを禁ずる。


 本と接触した執事の両手が炎に包まれ、一瞬で全身が火達磨になった。

 禁ずるとしか書いていないのに、弾いたり消えたりするでなく、迷わず攻撃を選びしかも殺意100パーセントの大炎上。

 間違いない。

 本になってもローゼガルドあのクソの性質は色濃く残ったままだ。


 炎上執事はごろごろ転がって火を消そうとするものだと思っていたが、横になるとそのまま動かなくなった。

 なんだかあんまりだったので、べりべりと闇を剥がして被せ鎮火しておく。

 ついでに本を取り返し、また椅子に腰掛けた。

 そうして読書を再開しようとページをめくったところで、右眼に闇剣が刺さったままだったのを思い出す。

 邪魔だったのでぐいっと押し込むと、そのままちゅるんと吸い込まれて消えた。


 まあ、闇で出来た黒杭がちゅるんと吸い込まれるんだから、闇で出来た剣もそうなるよな。


 ……なんて余裕ぶっこいてはいるものの、無事で済むという確信があったわけじゃない。

 素手でぶん殴られてたら、たぶんそのまま撲殺されてた。

 懐に短刀でも隠し持っていて、それで突かれていたらアウトだった。


 だから信じた。


 あの闇剣が武装していない(闇精霊の一種らしい)執事たちにとって標準的な武器だろうと。

 主であるローゼガルド様を(物理的に)本にするやべーやつ相手に素手で殴りかかるほど無謀な馬鹿ではないだろうと。

 黒い杭を武器に使う相手に、わざわざそれよりも短いナイフを使い、リーチによる利を捨てて接近戦を挑みはしないだろうと。

 それぐらいの当然のこと、考えた上で行動できる、最低限の知性があるはずだと。

 信じて、運よく、なんとかなった。

 と、ここで気を抜いては同じことの繰り返しになりかねない。

 なので意図的に冷たく強い言葉でいう。


「ハウザー、ヨランダ、プルメリア以外は壁際で整列してろ。これ以上無駄な作業をさせるな」


 さすがに今のでびびったのか、全員が素早く従った。


「ハウザーは治療の手伝いを。そこの墨屑も助けてやれ。無理なら無理で、まあ文句はないだろ」

「は。……これなら、どうにかなりそうです」


 減らそうヘイト。掴もう未来。


 そうして、実はまだ心臓がばっくばくなのをおくびにも出さず読書を再開する。

 なにせ知りたいこと、知らなくてはならないことは山積みなのだ。

 うず高いその山を、最短最速で崩す作業に没頭していると不意に、目眩にも似た強烈な眠気に襲われた。


 魔法でも一服盛られたわけでもない。ただ純粋に体力の限界だ。


 思えば、目覚めてからここまで色々なことがありすぎた。

 体力も精神力も、もはやすっからかん一歩手前だった。


 その一歩分の余裕がある内に畳み始めなければ手遅れになってしまう。

 ……ここまでだな。


「プルメリア」


 治療が終わったのか、立ち上がった金髪メイドに声をかける。

 大まかな方向性はもう決めた。ならある程度は開き直る。ダメなら駄目でその時だ。


「客間に案内してくれ。今日はもう休む」

「は、はい! かしこまりました!」


 よし通った! なら後は。


「ハウザー。この本はここに置いて行く。ヒルデガルドだけは触れるようにしてある」

「は」

「宿賃だと、伝えておいてくれ。知りたいことを知りたいだけ知ればいいと」

「一言一句相違なく」

「それと、殺そうとすると道連れにされる呪いがあるだろうから、やるなら気をつけろと」

「……格別のお心遣い、有難く」


 あまりくどくどいうと、遠足前の母みたいになりそうだったので、ここらで止めておく。

 そうしてメイドの案内に従い、馬鹿みたいに広い屋敷の中を延々と歩き続け、そろそろこれ何かの罠なんじゃと本気で心配になり始めた頃、ようやく客間に通された。


 起きたら呼ぶからそれまではそっとしといて、と退室するメイドに告げてドアを閉める。

 本当ならすぐさまベッドに飛び込みたいところだったが、さすがにそこまで豪気にはなれない。


 普通に考えたら、寝ている間に襲撃がある。絶対にある。おれならそうする。

 いきなりやって来た不審者が、実質上のトップをグロ魔法で本にして執事3名が重体。

 うん。生かしておく理由がないね。

 暴力でびびらせて少数派に恩を売ったところで……どうにかなる次元の話じゃないよなあ。

 最悪、恩の押し売りに怒ったヒルデガルドが自ら襲撃の指揮を執る可能性すらある。敵の敵はまた別の敵でしかないってやつだ。


 ……嫌で嫌でしょうがないが、可能性から目を逸らすのは止そう。

 それが面白くないものなら、なおさらに。


 ならまず必要なのは……探すまでもなく、目の前にある。

 無駄に重量感のあるカーテンを開け窓の外を眺めると、綺麗な月夜だった。

 3つあったりファンシーな生物が居たりはせず、おれの知っている通りの満月だった。

 窓を開け上下を確認する。高さは2階程度。闇をこねこねねじねじしたロープもどきがあれば脱出は可能。なのでさっそく作成開始。


 次いで窓の外にいくらでもある闇を、べりりと剥がして貼り付ける。当然一度では足りないので、何度も何度も切り貼り切り貼りを繰り返す。

 ドアやその隙間はもちろん、床に壁や天井、その四隅に至るまで徹底的に闇を敷き詰めるように塗り広げていく。


 さすがは闇精霊の居城。

 あの地下空間ほどではないにせよ、どろりとした濃密な良い闇が満ちていた。

 それをふんだんに用いて、この客室をできる限り補強する。

 絶対に外から進入できないように。

 どんな攻撃にも耐え抜けるように。

 最悪の場合、おれが逃げるまではもつように。


 もう本当にぶっ倒れる一歩手前まで補強作業に尽力したあと。

 おれは吸い込まれるようにベッドへと倒れ込んだ。


 あー、もうだめ。

 たぶんこれ、18時間爆睡コースだわ絶対。


 そうしておれの意識は途切れた。











 ――おやすみ。



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