5.エイリアンだった兄

 「おい、サコ。医者を呼んでくれ。救急車を呼んでくれ」


 ベッドの上の男が、苦しそうにそういった。


 斎藤シズルは僕の兄だった。いや、今も兄なんだけど。実は兄じゃなかったというか。


 少し心配になって顔を覗くと、笑っていたので頭を軽く小突く。


「いたわれよ。こっちは病人だぜ」


「そうだね。もしかしたら本当に小突いただけで死んじゃうかも。僕は兄さんのことがよくわからないよ」


「……まだ、兄さんって呼んでくれんだな」


「うん、今更だしね」


 このやり取りをするのは何回目だろうか。兄が寝込んで、体を壊して、彼の正体を僕が知ったその日から、彼は何度も確認してくる。


「大人でしょ、救急車くらい自分で呼びな」


 試すように、僕はスマホを兄の顔の横に置いた。これで、本当に救急車を呼んだなら、僕らはもう一生会えないかもしれない。


 期待していたのは「ジョーダンだってば」って笑い交じりに言われることだった。でも、兄は全く予想外の言葉を口にした。


「これじゃない。『俺の通信機』をくれ」


「……『通信機』って。まさか」


「うん、俺の星の通信機。助けを呼ぶなら、それが必要だ」


 僕は固まってしまった。それもまた、かすかな希望でありながら、一生兄と会えなくなるかもしれないという、絶望でもあった。

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 ある日、兄が倒れたと連絡が入った。兄の職場の人が家に電話をしてきたのだ。


 突然兄が「家から出られないくらいの病気だから仕事を辞めさせて欲しい」と願い出たとのことだった。


 職場としては証明が必要であった。兄に対し、とりあえず病院に行って診断書を出してもらいなさい。そもそも、そんなに重体なら入院せねばいかんだろうに。手遅れになる前に、早くことを進めなさい。と忠告をしてくれた。


 しかし、兄はそれに対し聞く耳を持たず。すみません、すみません。ご迷惑をおかけして。と謝るばかりで一向に病院には行かなかった。


 というわけで、実家のほうに連絡が来たわけだった。僕は大学二年の夏休み中であり、実家でダラダラと過ごしていたため「じゃあ、明日兄ちゃんとこ行ってきてね~」と一人派遣されたのだった。


 両親は、なぜか兄に対しては無関心を決め込むというか、やりたいようにやらせる部分が多かった。今回のことも、そこまで重要視してないようだった。確かに兄は、自由人であり、なんでもそつなくこなす手間のかからない人間だ。心配するだけ損なのだろう。


 しかし、僕は、めちゃくちゃ心配していた。会社に行けなくなるほどの重症って大丈夫なのか?


 電車に揺られて、バスに揺られて、急いで駆け込んだ真新しいアパートの二階。


 インターホンを鳴らしても、応答はなく。仕方なくドアを叩いて自分の名を名乗ると中で動く音がして、兄がドアを開けて現れた。


「おう、久しぶりだな」


 久々に見た兄の顔は変わりないものだった。


 顔色は全く悪くないし、いつもの兄。全然元気そうだし、やっぱりなんともないのかと疑ってしまう。


「はいれよ」


 そう言われるがまま玄関に招かれて。ドアが閉められた瞬間だった。


 兄は力なく地面に倒れこんだ。


「兄さん!?」


 僕は慌てて、兄を抱きかかえてベッドまで運んだ。でも、その体温が異常に熱く、体重も貧弱な肉体と不釣り合いなほど重たい。そして、腹のあたりに違和感があった。


 僕は、ベッドの上の兄の服をそっとたくし上げた。


「えっ……」


 ちょうどへそのあたりを中心として、ぽっかりと穴が開いていた。そして、その中心にピンク色の柔らかそうな塊があった。


 肉塊のようなそれは四方に触手を伸ばし、クモが巣を張るように、穴の開いた兄の腹に張り付いている。


 思わず僕は叫んでいた。


 この名も知らない生物はたぶん寄生動物であり、映画とかで見るエイリアン的なものに違いない。もしかしたら、自分にも寄生してくるかもしれないし、このまま兄を殺してしまうかも知れない。


 そして何より、『未知』で『気色わるい』ため、叫ばずにはいられなかった。


 でも、その口は跳ね起きた兄に押えられた。その勢いで抱きしめられ、耳元でそっとささやかれる。


「ごめんな。俺、お兄ちゃんじゃないんだ……」


 その言葉の意味を教えてもらったのはその翌日だった。


 兄はエイリアンだった。


 あの肉塊となった個所は、寄生生物なんかじゃなく肉体なのだという。体調不良のせいで、あの部分だけ人の形が保てなくなり、醜い姿になっているのだと。


 今更そんなこと言われても。今目の前に寝ているのだって、布団をかぶっていれば何ら変わりない兄なのだから。どう考えればいいか。


「えっと、どうしよう。ま、まずさ。兄さんは、母さんの腹から生まれたわけじゃないってことだよね?」


「そうだ。だから、サコとは血も繋がっていない。俺は人間として生きていくために、赤ん坊の姿となり、夫婦を洗脳し育ててもらうことにしたんだ。そして、その後お前が生まれて兄弟となった」


「は、はぁ。なるほど」


 いつもと変わらない兄の顔でそんなこと言われるもんだから、変に馬鹿にすることはできなかった。しかも、お腹のものも見てしまったし。


「俺はもう長くはない」


 そこから兄が語った内容はいささかファンタジーが過ぎていて、なんだか海外の有名作家が書いた壮大な物語を聞かされているような。「そんな面白い話もあるもんだなぁ」と現実として受け取り切れないような。そんなお話だった。


「俺のいた星は、地球のように一つの星ではなく、中心の巨大な星とその周囲を公転する三つの星によって成り立っていた。俺は公転する星の住人だった。

 俺の星では不治の病がはやっていて、星は隔離され、流行り病が収束するか、文明が終わるかってくらいだった。そして、いくつかの健常な住人たちは病から逃げるために、星々に散っていったんだ。

 もちろん周辺の星に逃げることはできない。入星しようものなら撃ち落されただろうからな。そして、俺は長い宇宙の旅の末、ここ地球に降り立った。文化形態は俺たちの星と近かったし、そもそもそういう星に送られるように機械は設定されていたんだ。

 まぁ、そこからはさっき説明した通り。で、まぁ。今更だけど、発病したんだ。不治の病に。なぜか何十年もたった今頃になって。

 俺はもう、幸せでさぁ、自分が宇宙人であることなんてどうでもよかった。宇宙人であることを忘れてることもあった。でも、もう駄目だ」


 兄は、服をまくって肉塊を見せつけてきた。うねうねと動いているそれは、確かに気持ち悪いけど、必死に生きようとする意志を今は感じる。


「そのうち、俺は全身がドロドロに溶けて、このピンクの塊になり、腐っていく」


 そうして、服を下ろすともう一度僕に向けて「ごめんな」と呟く。どういう意味での「ごめん」なのかは全く分からなかった。


 でも、兄は泣いていた。ボロボロに泣いていた。


 僕はその姿を唖然と見ていた。


 本当は気持ち悪かった。兄の腹の肉塊も、体が最終的にドロドロになってあの塊になってしまうことも。そして、少しだけ「病気移るんじゃないの?」なんて思ったりもしたが、なんだか本心は話せなかった。


 ただただ、そんな遠いファンタジーなお話よりも、兄がもう死んじゃうかもしれないこと、そのことで大好きだった彼がボロボロに泣いていることがショックだった。


――マジで死んじゃうのか?


 どんな話よりも、それが信じられないでいた。

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「通信機って。だって兄さんの星って病で滅んだんだよね? どこと通信するんだよ」


 もう兄は、ベッドから一歩も出られない状態になっている。全身のいたるところに穴が開いて、その中心に肉塊ができて、かなりきもい状態だ。唯一見てられるのは特に変化はない顔だけだ。


「滅んでないから。滅びかけていただけだ。若くて健常な者が逃げただけで、何億の仲間が星に残っている。もしかしたら、病に打ち勝ったかもしれない。そういうことなら、俺を助けてくれるはずだ。もし、ほかの星が病のことを理解してくれて、助けを出してくれたならその可能性だってある」


 じっと天井をにらみながら兄はそういった。ちなみに、僕はこうやって兄のことをお世話し続けているのだが、感染することは無いという。


 兄と僕ら人間は肉体を形作る主成分が異なっているし、構造も別物だ。彼の星でもその種族のみで見られる病であったらしい、(地球で言えば人間しかかからない病ということだ)。なんなら、感染症というより遺伝的な病という説が強いという、今になって兄が発症したのを考えると、その説は納得できる。


 他の星も感染者は一人も出なかったという。しかし、腐った肉の塊になるその恐ろしい病を見て、「もしかしたら、移る可能性もある」「そもそも、直し方がわからないのだ。これは無闇に触らず隔離したほうがいい」という怖さから兄の星は見捨てられたという。


「帰る気なんてなかったから、ずっと忘れていたよ。そもそも、自分が宇宙人であることを忘れていた時間があるほどだったからな。でも、縋れる希望があるなら、利用するほかないよな」


「で」と僕は、兄の寝ているベッドに腰かけて顔を見下ろした。


「その通信機はどこにあるの?」


「……わすれた」


「ばか」


 せっかく下した腰をまた上げて、窓辺に向かう。今日も外は晴天で、宇宙人とか不治の病とか話しているだけバカバカしく思えてくる。


「なぁサコ……」


 兄が体を転がして僕のほうを見てきて言った。


「探してきてくれないか?」


 僕はその顔をじっと見た。やっぱり布団にくるまっていると、ただ寝ているだけの男にしか見えない。病気だとかエイリアンだとか。変なことを考えなくて済む。


「いいよ。夏休みの間は暇だから、その間なら」


「たすかるよ」


 本当に安心したかのように、兄は眠りについてしまった。


 いいよといったが、僕はその場から離れず兄のそばで座り込んだ。


 もしかしたら、もう兄は眼を開けないかもしれない。もし、僕がいない間に、誰かがきてこの人の体を触ったら。


 そもそも、どこにあるかもわからないし。通信機だっけ? どんな形をしてるんだろうか。なにもわからない。だから今はそばにいて起きるのを待つしかない。


――だから、まだ。傍にいていいんだ。


 でも、多分。僕は、兄の探しているそれを知っていた。

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 兄のことを尊敬していた。


 僕は小学校の頃から友達が少なかった。何か欠点があるわけではなく、ただ家がほかの子たちと真逆の場所にあっただけだ。小学校の校門の前、同級生の中で右に曲がるのが僕だけだったのだ。


 学校終わりに遊びに行くには遠い。でも、みんなは集まって遊んでいる。学校であっても自分だけ変な疎外感があって、だんだん集団から離れて行ってしまったのだ。


 そんな僕の遊び相手は兄だった。


 兄は僕とは違った。運動も勉強もできるし、クラスの人気者だった。


 それでも、僕と一緒にいてくれた。兄は遊び場を知っていたし。いろんな遊びを知っていたから、飽きなかった。


 勉強がわからなかったら教えてくれたし、自転車に乗るのが苦手だった僕の練習にずっと付き合ってくれた。


 そんな生活が続いたわけだから、僕はなんとなく「あぁ、お兄ちゃんがいれば全部大丈夫なんだ。お兄ちゃんと一緒にいれば安全なんだ」っていう考えを持ってしまった。


 兄と、同じ中学校に通った。兄は帰宅部だったから、僕も部活に入らなかった。


 兄と、同じ高校に通った。これじゃだめだと思って、自分一人で運動部に入った。練習がきついし、メンバーになじめずに1年の夏に辞めた。


 兄と違う大学に入った。そもそも、学力が足りなかったのだ。


 自分の人生をなぞれば惨めさが募る。兄から独り立ちしようとしたら失敗する。人間としても、学力や様々な分野においても、僕は兄に劣っていることを自覚する。


 でも、嫌いにはならなかった。ただただ、尊敬していた。


 そして、本当にしょうもないことなんだけれども、『兄という存在を意識せずに自分の力で生きる』それが僕の人生の目標だった。


「それが、僕の目標だったんだ」


 気持ちいい風が凪いで、伸ばしすぎた前髪が鬱陶しく目前で揺れる。


 実家の近所に小さな神社があった。その社の裏手に開けた場所があって、一本の大きな楠木が高く枝を広げて立っている。


 神社のほうに蜂の巣ができているみたいで、立ち入り禁止の手書き看板が立てられたが無視して入ってきた。大切な用事があるから、僕はここにいる。


「覚えているもんだな」


 シャベルを地面に突き刺して汗をぬぐった。


 兄から通信機のことを言われたとき、僕はその正体に記憶があった。もしかしたら、兄も覚えていたかもしれない。試すように「わからない」とからかってきたのかもしれない。


 小さい頃は『宝探しゲーム』をよくしたものだった、いろんなものを兄が隠し、僕に探させた。お菓子や、おもちゃが掃除のたびに変な場所から現れて、母が「この家にはリスがいるね」と笑っていたのを思い出す。


 だから、これもまた『宝探しゲーム』だったのかもしれない。


 楠木の根元を掘り返す。もしかしたら、誰かに見つかって回収されているかもしれないという不安があった。掘っても掘っても手ごたえがなかった。


 それでも、僕は無言で掘り返し続けた。そうやって黙々と作業をやっていると、この場所で兄と遊んだ幼いころの記憶も掘りおこされるように浮かんできていた。


 唐突に来た、ベコンッっと固いものに当たる手ごたえ。


 シャベルを投げ捨てて、あとは手作業で必死に掘り出す。


 心臓がバクバクとなっている。焦る思いを抑えることができなかった。


「どんだけ、深くに埋めてんだよ……」


 呆れながらも、それを引っ張り出して、張り付いた土のカスを払った。


『この中にはすごいお宝が入っているんだ。ニュースになるくらいヤバい。特大のお宝が入っている』


『なに? 何が入っているの?』


『……エイリアンの死骸さ』


『エイリアン!?』


『そう、もしかしたらまだ生きてるかもしれない。ほらっ、ほらッ』


『まって、開けないで! 揺らさないで! 嫌だ、怖い』


『はははっ。……そうだな。だから、封印だ。エイリアンが出てこないようにここに封印する!』


 馬鹿みてぇ。


 何が封印だよ。あんなにグロテスクな見た目になってさ。死んじゃうとか言っちゃってさ。そんなことなら、封印とかしてほしくなかった。


 最初っからこの木の下でさ。ひそひそ話するみたいに僕に打ち明けてくれればよかったんだよ。


 そうしたら、僕も納得できたはずなんだ。お兄ちゃんはエイリアンだから、特別だから何でもできるんだって。僕が普通なんだって、割り切れていたかもしれないのに。


 僕はゆっくりと、エイリアンの封印を解いた。

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 死にたくないな。って、何度思っただろうか。


 ずっと憎んでいた。実の親も、仲間も、皆、皆。憎くて仕方がなかった。


――勝手に死にやがって。


 ずっとそう思っていた。でも、その全員の最後の言葉を俺は聞けなかった。全員が隔離された病室に閉じ込められて、腐り果ててどっかに消えた。


 もしかしたら、泣いていたかもしれない。「死にたくない」って叫んでいたかもしれない。俺が前にいたら抱きしめて「ごめんね」と伝えてくれたかもしれない。


 星から脱出できると決まった時それを伝える相手は一人もいなかった。


「あっそ、出ていけば」と冷たくあしらう人も「良かったね」と泣いてくれる人もいなかった。


 ずっと冷たかった。宇宙をさまよっている間も、地球に降り立った当初も。


 地球人として生きて、星からの交信を待つ。迎えを待つ。それだけだった。マニュアル通り、その星の生物に擬態して、洗脳して、溶け込んだ。


 でも、弟が生まれたんだ。いつのまにか、この場所が自分の居場所になっていた。弟は洗脳しなくても、当たり前に俺の弟だった。それが、温かくて。温かくて。


 俺があの星で生まれた時にはパンデミックの中だった、誰も余裕がなかった。でも、この星の人たちはみんな温かくて毎日が楽しくて。


 本気で帰りたくないって思ってしまった。


 自分がエイリアンであることが辛くて、辛くて仕方がなかった。なんで、この世界で生まれることができなかったのか。


 そうだな。だったら次は。死んだら次は、ここに生まれたい。あんな今にも死にそうな星じゃなくて。温かくて、楽しい星に生まれたい。


「……まだ、生きてるな」


 体が重い。しかも熱い。


 痛くはないけど、なんとなく死ぬんだろうなっていう異常感が抜けない。消えかけの火のように、いつ消えるか目が離せない、消えるか? 消えるか? とずっと構え続けているような。


 少し、懐かしい匂いがした。土の匂いだった。


 顔を横に向けると、通信機が目の前に置かれていた。その奥、部屋の隅でサコが丸まって眠りについている。


――持ってきてくれたんだな。


 嬉しかったし、切なくもあった。


 まだ、兄でいたかったんだ。こんな姿になったけどお前のお兄ちゃんでいたかった。だから、少しわがままを言ってしまった。


 重い腕を伸ばして通信機を握った。その腕には数か所小さな穴が開いている。もういよいよ、終わりが近い。ぐずっている暇はない。


 それでも、なかなか押せなかった。


 ちらりと、サコのほうを見る。


「最後まで人間でいたいからな」


 ボタンを、押した。


 ザッザッとノイズが刻まれていく。つながる気配はないが、そんなにすぐに繋がってくれるものでもなかった。


 願いは半々だった。


 繋がって欲しい。助かるかもしれないし、今の姿のまま消えてしまいたい。


 でも、もう間に合わないだろう。繋がってもどうせ死んじゃうんだ。だったら、繋がらないままこの星で死んでいいと思わせてほしい。


 そんなことをぼんやり考えているその時、急にノイズが止んだ。


「―――ッ! ―――!!!」


「は?」


「―――。―――――!」


「は、ははッ」


 あぁ、これは。うん、なんとなくでわかる。俺の星の言葉だ。ってことはまだ生きているんだな。あの星は。


 でも、でもこれは……。


「ハハハッ。わかんねぇ。何言ってんのかわかんねぇ」


 絶望ではなかった。それは喜びだった。しっかりと地球に染まってしまったことの。自分が、本当にエイリアンの自分を捨てることができていたんだという。喜びだった。


「兄さん?」


「おう、サコ。起こしちゃったか?」


 なんだか、急にドッと疲れが出てきてしまった。今まで必死に塞き止めていたものが崩壊した感覚がある。でも、そのおかげで少し軽い。


通信を切って体を起こした。


「寝てなよ。きついでしょ?」


「いや、いいんだ」


「……そう」


 サコは、何かを感じ取ったかのように悲しそうな顔をして、俺のそばに腰かけた。


「なぁ、サコ」


「どうしたの?」


「最後に、もう一度『兄さん』と呼んでくれないか?」


 兄のその言葉を聞いて、もう終わりなんだと悟ってしまった。できる限り自然が良いと思ったけど、たまらず兄の腕を握ってしまっていた。


 そして、震える唇を必死に制御して声に出した。


「ありがとう、兄さん」


「あぁ」


 兄は体を倒すように抱き着いてきた。


「お前も最後まで、弟でいてくれてありがとうな」


 そう言うと、兄は力なく僕の胸から滑り落ちていった

「兄さん! おいッ! 兄さんってば!」


 必死に声を張り上げた。でも、目は開けてくれない。


「お兄ちゃん……ッ」


 ボロボロと涙があふれ出た。それをふき取ることもせずに必死に兄に縋って呼びかけた。


 しかし、返事として返ってきたのは、今までなんの変化もなかった顔に、大きな穴が開いたことだった。


 僕は、必死に涙を抑えて。部屋の外に出た。


 見るべきではないとわかっていた。兄は、兄のまま死にたいはずだと。だから、見るべきではない。

_________________________________


 兄の姿は消えてなくなった。姿だけではなく、僕以外の人間が兄の存在をすっかり忘れてしまっていた。両親は時折、変に混乱することがあった。記憶は消えても、一緒に過ごした日々が消えたわけじゃないから。


 僕はきっと、これからも兄のことを意識しながら生活していくのだろう。でもそれは、誇らしいことでもあった。


 たとえ、彼がエイリアンでも。兄はずっと兄なのだ。ずっと兄でいてくれたことに、感謝している。


 そっと、彼の存在を確かめるように「兄さん」と呼んでみた。

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【短編集】ひと世の戯れ Vol.5 岩咲ゼゼ @sinsibou-r

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