4.枷と沈む

『今どこにいるんだ?』


 朝、目が覚めてすぐに兄からそんなメッセージが届いていることに気づく。ここまで逃げて来たのに、こんな最悪な朝を今日も迎えてしまうのか。


「……ん。ミツヒコ起きたんだ」


 僕の隣で寝ていた女性がむくりと起きる。昔から朝は弱いっと言って仕事に遅れてきていたくらいの人だった。本当につらそうな顔を見て、思わず呆れてしまった。


「先輩は、まだ寝ていていいですよ。僕はただの癖ですから。この時間にメールのチェックをしないと不安なんです」


「ううん、起きる。コーヒー淹れてあげる。それと、ホットサンド」


 そう言いながら彼女は眼を瞑った状態で起きると部屋を後にした。


 僕も寝室を後にしてリビングまで向かうとノートパソコンの電源をつけてメールのチェックを始める。まぁ、先日仕事を辞めたばかりだからもう確認するメールなんて来ない。


 やめてすぐの頃は、取引相手まで連絡が言ってないせいか僕宛に次々にメールが来ていて、それに対応する必要があったがそろそろ落ち着いたようだった。


 ぱたりとノートパソコンを閉じて、キッチンのほうを見る。眼鏡をかけて髪を結んでソーセージを焼くレイコさんがいる。普段のかっこいい彼女を見ているとこういった一面が新鮮に思える。誰だって、表の顔と自分の顔を持っている。その中で裏の顔を持ち合わせている人もいる。


 大きくあくびをして、改めてスマホを開いて兄からのメッセージを確認した。


『今どこにいるんだ? 俺が今こんなに苦しんでいるというのにお前は一体どこで何をしている? どうせ金に目がくらんでいる薄汚い女をひっかけて愉悦の時間を送っているんだろ? お前はどれだけ俺を馬鹿にすればいいんだ』


 その文章を真正面から読むことはできなかった。ホラー映画のグロテスクなシーンを見るかの如く、眼を細めて顔をそらしながらその文章を読んだ。


 兄の声になってその文章はまるで現実で言われたかのように僕の脳に焼き付く。


 メッセージをスクリーンショットで保存する。


 いつか、揉め事になった時の保険だ。


 こういった文章は決まって昼過ぎに消されてしまう。このメールが送られてきたのは今から3時間前。深夜の4時だった。


 兄はこういう人だ。昼過ぎに起きて日の出近くに寝る。深夜の間は精神が不安定になり、酒を煽り僕を罵る。


「出来損ないの弟」「お前は人間じゃない」「母はお前を恨んで死んだに違いない」


 兄は言葉で僕を陥れようとする、強い言葉を使って僕をダメ人間に仕立て上げようとする。昔はこんな人じゃなかったのに。


 そして、朝起きた時。「昨日なぜあんなことを言ってしまったのか」と後悔して謝罪する。


「俺はこんなつもりじゃないんだ。いま書いている作品の中に魂が引き込まれて俺の人格を食らっているんだ。物語を書いたことのないお前にはわからないだろうが、自分が自分なのかわからなくなる瞬間があるんだ。すまない、お前は自慢の弟だよ。昨日のことは許してはくれないか」


 何度そんな言葉を聞かされたことか。


「はい、できたよー」


 レイコさんによって食卓に並べられた朝飯。


上等なお皿、どこかのお土産っぽいマグカップ、片面だけ焦げ付いたホットサンド、真っ黒で香りをかいだだけで目が覚めそうなコーヒー。


 この人のこだわるとこにはこだわって、あとはテキトーなところが見てわかる。


「てか、あれだったね。先にコーヒーだけ作って渡しておくほうがよかったかも。やっぱ、朝は頭が回らないなぁ。ごめんね」


「いやいや、こうやって作ってくれるだけでありがたいですよ」


「そう? じゃあ私、いいお嫁さんになれるかな?」


 急にそんなことを言われて、思わずぽかんと口を開けてしまった。この人は、何よりも仕事とプライベートを大事にする人だ。『遊び』はいいが、『恋愛』は邪魔だと、昔語っていた場面もあった。


 僕をからかうように笑うと『冗談。冗談。そんな顔しないでよ』と豪快にホットサンドにかぶりついた。パキッとソーセージの折れるいい音が聞こえた。


「今日は天気いいし、どう? ドライブとか?」


 どこか遠慮がちにレイコさんは言ってきた。


「えぇ、ぜひ。お供させてください」


「よし来た」


 やっと彼女の表情がいつもの『かっこいい先輩』の顔になった。

____________________________________


 小さい頃は兄が好きだった。というより、憧れだった。三つ上の兄は大抵僕のできないことができたし、優しかった。僕も、はやく兄のようになりたいと背中を追う日々。


 父は僕が四歳の頃に亡くなった。ガンが見つかって最初は『すぐに治療すれば大丈夫』と言われていたが、入院中に症状が深刻化してそのまま家に帰ることなく亡くなった。


 僕はまだよくわかっていなかった。「お父さんいつかえってくの?」と毎日のように聞いていて。


「もうすぐよ」という回答から「もう帰ってこないの」と回答が変わっただけだった。実際、僕はどこか遠くに行ってまだ帰ってこれないんだと思っていて。数年後にやっと『僕のお父さんはもうこの世にいないんだ』と気づいた。


 でも兄は違った。もう物事をしっかりと判断できる年だった彼は父の死に大きなショックを抱えていたし、貧乏になった家の中で「俺がどうにかしないと」という責任を持っていた。


 それゆえに、兄は高校卒業後、叔父さんが経営している会社に就職した。叔父さんは僕らの生活の支援もしてくれていたしその恩を返すつもりもあったのだろう。


 おかげで僕は大学に行けた(行かされた)し、その結果名のある営業職に就いた。かなりガツガツしたところで、厳しいって有名だったけど結果を出せば収入が大きいというのが理由だった。


 兄の背中を追い続けていた僕にとって自分の力を思う存分に試せる場所で合っていた。


 レイコさんと出会ったのもそこだった。教育係として僕と同期数人の担当になった。


「君は残りそうだねー」


 と飲みに行ったときに言われて、言葉通りいつの間にか同期のほとんどがいなくなり僕だけが残った。


 そして、レイコさんも出ていって本当に僕だけが残った。


 その頃には結構稼げていたし、毎日忙しいながらも充実していた。


 顔も広なり、上司から褒められることも増えた、相応して給料も上がり、メキメキと自分が成長していることが実感できる日々。


 成長を実感するたびに兄のことを思っていた。


 兄さんにはいろいろ迷惑をかけてしまったし、おかげで僕は大学にも行けたわけだ。こうして僕が稼げるようになったんだから、兄さんもやりたいことをやってもらいたい。


 いつか、家族がそろったときにはそういってあげようと思っていた。それが僕からできる一番の恩返しだと。


 そして、その日は案外早く訪れた。


 母が入院した。父と同じガンだった。


 僕はすぐに駆け付けた。


 病室の中には、ベットの上で体を起こした母と、傍らには兄がいた。久々に見た兄は、どこか覇気がなく、ひげが伸びきっていて、服も地味で。はっきり言うとみすぼらしかった。


 母よりも先に、兄に対して「大丈夫?」と言いそうになり、ぐっとこらえて。その言葉を母に投げた。


「大丈夫よ。心配させてごめんね」


 どうやら、手術をしてしばらくしたら家に帰れるらしい。僕はほっと胸をなでおろして、母をゆっくりと抱きしめた。


 そして、朗報の後には悲報が待っていた。


 兄が叔父の会社を辞めていた。

 彼はニートになっていた。

 僕は知らぬ間に母だけではなく兄も養っていたのだ。


 それは僕が考えていたことでもあったが、何もせず目標もなく金と時間を浪費しこんな姿になっていた兄に絶望した。


 もっと早くに僕は帰ってくるべきだった。兄さんと話し合うべきだったのかもしれない。


でも、僕は兄には何も言わなかった。現状では兄が母につききりになってくれるなら安心と思ってしまったから。


 それに僕はその日仕事を休んだだけでも、職場に大きな迷惑をかけてしまっていた。すぐに戻ってやらないといけないことが溜まっていた。


 兄に付き合っていられる余裕はなかった。


 そうして、兄に任せて仕事に戻って二週間後。


――母が死んだ。


 手術は成功したはずなのに、帰った後に体調が急変した。僕らは父と同じように、安心した瞬間に絶望に叩き落されたのだ。


 しかも、話を聞けば兄は母が倒れたのに気づかずに部屋にこもりきっていたという。母に付ききりだったら、すぐに救急車を呼べば助かったかもしれなかった。


 そのせいで、兄はおかしくなった。


「俺、ライトノベル作家になるわ」


 さすがにぶん殴った。


 葬式の準備や進行は全部僕がやったし、その間兄はぼーっと何かを考えていた。僕だって気を使っていたのだ。自分を責めているんじゃないかと。

母を見殺しにしたのは僕も同じだ。でも、身近にいた兄は僕の何倍も辛いはずだ。


 兄のおかげで僕はどうにか罪悪に心を押しつぶされずにすんでいた。だから、僕が全部を指揮した。


 そして一段落して、兄弟二人で家の中で酒を飲んで語り合うことにした。ニートの兄のこれからのこともあった。


 そこで兄の口から出たのが「ライトノベルを書きたい」だったら、「舐めんじゃねぇぞ!」と拳が出るに決まっている。


 しかし、兄は本気だったし、もう僕も疲れていた。そうして、僕は職場に近いマンションから自宅に戻り兄と暮らしながら彼の面倒をみる日常が始まった。


 広い家の中に兄を一人で住まわせるのはもったいないし、マンションの家賃よりも車で通勤するほうが安かった。繁忙期には会社に泊まり込んだ。


 兄は精神的に不安定になり、酒に入り浸り一向に作品を書かないし、深夜に僕をたたき起こして罵りだす日もあった。


 そんな日々が長く続くわけがなかった。一年くらいは経ったころ、兄はやっと作品を書いたが、大賞に落選し、もはや一緒にいたら本格的に僕も病んでしまいそうなほど、精神が乱れていた。


 僕は兄から逃げたくて、逃げたくて。じゃあ、なぜ一緒にいるのかと考えていたら、僕が働いていて彼を養っているからだという結論が出た。


 もしかしたら、僕が養ってるから兄はダメになってしまったんじゃないか? 兄は僕ら一家を救うために自ら働きに出たじゃないか。甘やかしている環境がダメなんだ。


 そんな言い訳もあったが、自分自身の心身がボロボロで限界だった。だから会社を辞めて。逃げ出した。


 頼ったのはレイコさん、というか頼れる人が彼女しかいなかった。彼女が会社を辞めた理由は独立することであり、彼女は自分の会社を作っていた。


 その後も交流は続いて、彼女から愚痴を聞く日もあったし、僕が愚痴る日もあった、もちろん兄のことも。だから、彼女に対しては何も説明しなくてよかったのだ。


「これからどうすればいいのかわからないんです」


 僕がそういうと彼女は「ゆっくり、休みな」といって僕を招待してくれた。そこは、海沿いの丘にたたずむ彼女の別荘だった。豪邸ってほどではないが、彼女が別荘を持つほどに会社を大きくしていたのは知らなかった。


 レイコさんは、いつあっても僕の先輩だったし、そんな金持ちなオーラを感じなかった。全然傲慢じゃなかったし、利害なく接してくれた。兄とは大違いだった。


 そうして、彼女が夏季休暇で別荘にいる二週間、居候させてもらうことになった。その間は、次の仕事のことも、兄のことも考えなくていいよと言ってくれた。


 思わず大粒の涙を流してしまった。仕事で何度叱られようが、母が急死ししても、兄に罵られても。なぜか涙が出なかった。


 それなのに、今になって涙があふれて止まらなかった。

_________________________________


 彼女らしいと思ったが、あまりにも「らしく」て思わず笑ってしまった。


「どう? きもちーでしょ?」


「えぇ、最高ですよ」


 太陽が真上で輝く真夏の正午。海岸沿いを飛ばすオープンカー。まるで映画のワンシーンの様で、思わず立ち上がって全身で風を浴びたく思えてしまう。


 このままどこか遠くに運ばれてしまいたいと思ってしまう。今ならどこでも行けそうな気がする。


 右手に広がる雄大な海、地平線に至るまで水面は輝き、真っ白な雲が漂う、からっと晴れた青空。夏休み期間なこともあり、浜辺にはサーフィンを楽しむ人たちもいるし、定道には釣り師の群れができている。


 そんな人たちが思わず目線をよこすエンジン吹き荒れる真っ赤なオープンカー。その中で風に揺らされている。


 優越感ではない。もっと特別な心地に満たされている。


 兄にボロクソに罵られて、すり減らしていた。視野が狭くなり、思考が曇り、怯えていた。母はなくなり、頼れる人もいない。


 僕はこのままこの兄の奴隷であり続ける運命なんだと信じ切っていた。


 世界はこんなにも広いのに、こんなにも輝いているのに、道はどこまでも続いているのに。


 可能性なんて、無限に広がっているのに。


 僕はあの狭い家の中で生きていた。会社に向かい帰る。その往復が僕の世界だった。


 なんてもったいない。


『――今どこにいるんだ?』


「……ッ⁉」


 急に全身が痒くなり嫌な汗が、シャツを濡らした。夏の暑さのせいじゃないことは確かだ。こんな涼しい海岸をオープンカーで走っているんだから。


 あぁ、声が聞こえる。あの、低く重苦しいじめじめとした声が。


 本当に可能性なんてあるのだろうか? どれだけ、世界が広くても、道は続いていても。


『俺が今こんなに苦しんでいるというのにお前は一体どこで何をしている?』


 どこに行っても僕の世界の中心には、あんたがいるんだ。


「大丈夫? ちょっと、飛ばしすぎちゃったかもね?」


「いえ、違うんです。車酔いとかじゃなくて」


 急に僕の顔色が悪くなったのを察して、レイコさんは海水浴場がある町の方に道を変えた。コンビニからアクエリアスを買ってくると僕に渡した。

「熱中症とかでもないよね? 昨日眠れてなかったみたいだから、大丈夫かなーって思ってたんだよね」


 あぁ、そっか。ドライブに誘うときちょっと遠慮がちだったのはそういうことだったか。


 確かに、昨日はあんまり眠れなかった。家に置いてきた兄のことで不安がいっぱいだったし。でも、何も言わずに仕事をやめたから帰る気も起きない。最近は安心してぐっすりと寝れたためしがなかった。


「大丈夫です。ちょっと、嫌なことを思い出しただけで」


 そういって、冷えたアクエリアスを飲みこむとちょっとだけ気分が落ち着いた。


「嫌なことって、お兄さんのこと?」


 車の扉に手をのせて、彼女はそっと僕を見つめて言った。


「……はい」


 レイコさんにはすべてを説明している。僕を気遣って別荘での夏季休暇に誘ってくれたし、今日のドライブも気分転換の意図があったのもわかっている。


 でも、時間がたてばたつほど。辛くなっていく。今になって母親を亡くした時の身の痛さが蘇る。


――今度は兄を見殺しにしようとしている。


「すみません、やっぱり。僕……」


 帰ろうと思います。と言おうと瞬間、バタンと扉が閉じる音がして遮られた。レイコさんは座席に乗り込み、エンジンをふかせている。


「ダメだよ。帰ったら何も変わらない」


 まるで、僕を逃がさないというように車はまた動き始めた。


 車が止められたのは、山を少し上った麓の道の駅であった。海沿いは展望台になっていて、大きな望遠鏡で遠くの島が見えるようになっていた。


 そこから見える、海景色は絶景だった。雄大で、とにかく広い。ここから見る夕焼けは思わず、涙が出るほどノスタルジックだろうし、夜景は愛の言葉の一つでも添えたくなるくらいロマンチックだろう。


 夕焼け前の景色も当然悪くはない。熱い太陽の下で涼しい風の吹くこの場所を彼女が気に入るのも納得がいった。


「私ね、結婚するんだ」


「そうなんですね……」


 自然と驚かなかった自分が意外だった、でも一緒にいる間ちょっと異変を感じていたし、今朝も『いいお嫁さんになれるかな』なんて言ってたわけだし、あぁ、やっぱりねって感じだ。


「でも、いいんですか? こんな場所で男連れて一人でいるなんて」


 そう聞いた瞬間、ちょっとだけ彼女は悲しい顔をした。まっすぐ水平線の向こうを見つめながら、ゆっくりと瞼を閉じて、開く。


「いいんだけど、悪い。相手は私のことなんて気にしない、向こうは私の会社が目当てだからさ」


 言葉を選ぶようにゆっくりと彼女は語る。一瞬でも気を緩めたら、あふれる気持ちが抑えられないといったようだった。


「盗られちゃうんだ。私が作ったもの全部が、私はそのオマケ、だから一人で休暇を過ごしても別に問題ない。まぁ、でも流石に結婚前に別の男と夏を過ごすのは、世間的にアウトだよね」


 そう言って、乾いた笑い声をあげたレイコさんはおもむろに車のキーをつまみ上げた。


「あの別荘も、この車も実は私のじゃないの。まぁ、いくつか自分のものを持ち込んでるけど、最低限。それでね」


 風が数秒止んだ。それだけで、太陽の熱が体をじりじりと焼き、すぐに汗が噴き出てくる。


 レイコさんは握りしめたキーを僕に投げつけてきた。


「おっと……」


 受け取ってしまった、物を見と彼女を交互に見る。


 交代しろってことだろうか? それだったらお断りだ。赤の他人の高級車を運転するなんて、怖くてできるわけがない。


 しかし、どうやら、そういうことではないようで。一歩二歩と近づいた彼女は、僕の手を取り、キーを握っている拳を掌で包み込んできた。


「ねぇ、もういっそ、二人でどこか遠くにいかない?」


 押して引く波の音と共に、また風が強く吹いた。


 彼女の身に何が起こっているのかよくわからない。一体何があって彼女は、好きだった仕事を手放すのか。それによってどう心が追い詰められているのか。


 でも、多分僕にこの提案をしたということはこの人も同じなんだろう。


 今が地獄なんだ。

 何か強力なものに縛り付けられて苦しんでいるんだ。


――この提案にこたえるだけで。僕は逃げられる?


 そうだ、もう仕事もないんだ。帰る場所もないんだ。この提案はまさに渡りに船だ。


 ただ、これには別の解釈もできる。


――兄さんを捨てるか、捨てないか。


 ……。

 むしろ、そう考えた方が答えは明確だった。


「レイコさん僕……」


―――――ッ。テレレレン。テレレレレン。


 携帯が鳴った。

 なぜか其の音を聞いた瞬間。全身が冷え切って、汗がひいた。


 兄の可能性は低い。今の時間は基本的に穏やかだ。仕事中に電話を寄こすことはなかったし、さすがに後ろめたさは感じているんだと思っていた。でも、今は兄にとっての緊急事態。掛けてきた可能性は大いにあった。


 僕はキーをレイコさんに返し、ゆっくりとスマホを取った。レイコさんが何かを言おうとする、


「すみません、この電話で答えを決めますから」


 僕がそういうと、彼女は黙ってキーを握った両手を胸までもっていき祈るようにぎゅっと抱きしめた。


「もしもし」

______________________________


 波の音が聞こえない。日の光は遠い。不気味な風が吹き荒れている。


 そして、ピーッ、ピーッと規則的に鳴る機械音。


 電気の消えた病室の中に僕はいた。


 腰かけた椅子の隣、ベッドに横たわるのは兄の姿。


『絞殺には種類があります。首を吊った勢いや圧力によって骨が折れて即死。脈を占めることで脳に血が通わず呼吸もできず、じわじわと苦しんで死ぬ。この二種類。お兄さんは後者で死ぬところでした。行為に及ぶ前に騒音騒ぎを起こしていたことで、警察が着来て、幸いなことに最悪の事態は免れました。しかし……』


「なぁ、なんで死ななかったんだよ」


 自分自身で辛くなる。そんなことを言うために、戻ってきたわけじゃないのに。


 両親は死んだ。仕事は辞めた。頼れる人は去って行った。そして、唯一の肉親は植物状態。


「あんたはどれだけ、僕を苦しめればいいんだ!」


 暗い病室の中でベッドに頭を伏せて泣き喚いた。誰も救ってはくれない、世界の端の端。それでも、もう、泣くしかなかった。


 昔を思い出す。僕ら二人はあんなに仲良しだったじゃないか。僕はずっとあなたのことが大好きだったじゃないか。


 あの仲良しの兄弟は。笑いあっていた二人は。


 あの時の僕らは、今どこにいるんだよ……。


「答えろよ……答えてくれよ」


――僕を、


――僕らを見殺しにしたのは、どこのどいつなんだ?



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