3.汚れた潔癖虫

「今どこにいる? 今何をしている? 君は無事なのか? 君はまだ、汚れを知っていないか?」


 我が身に起きている異変には十分に気づいていた。これが夢であるのか、現実であるのか。自分はこれからどうなるのか、なぜこんなことになったのか。


 僕にとってそれは二の次のことであり、状況を理解して一番に考えたのは君のことだった。


 それは仕方のないことなんだ。僕の毎朝のルーティーンのようなもの。いや、呪いに近い。


 眠りから覚めた朝は、不安で一杯になる。君が昨日までの君じゃなくなっているんじゃないかって。だから、すぐに声が聞きたくなるし、いっそ君のもとに駆け付けたいとすら思ってしまう。


 でも、今日は。今日だけは一旦その思いを押し込もう。いつもなら、スマホに手が伸びるだろう。でも、今日はできない。


 昨日までの自分でなくなってしまっているのは、寧ろ僕のほうなのだから。


 自分がどこにいるのかわからなくなって、ここが自分の部屋であることに気づくのにかなり時間がかかった。鏡の前に行くと、誰も映ってなく。でも、近づけば近づくほど僕が鮮明に見えた。


 僕は虫になっていた。

 ハエくらいの小さな虫になっていた。


 自分の見た目に嫌悪感はない。人として虫を見ているのではなく、虫として虫を見ているせいか若干ユーモラスに見えないこともない。


 飛びまわることに疲れは感じないし、視界も複眼ではなく人のそれだ。いうなれば、キャラクター視点で操作するゲームのような。だから、自分が虫になったと理解してるのに、どこか心は遠くにある。


 ゆえに、相変わらず君のことを考えてしまったのだろう。それは、現実逃避なんかじゃなく、ただ僕にとって最も重要なことであるだけだ。


 しかし、少しユーモラスであれ、虫なんて惨めで醜い存在になった今。どうやって彼女と連絡を取ればいいだろうか? 彼女のもとに向かったって話すことは愚か、殺されかねない。


 しかし、卓上のデジタル時計を見るや否、羽を揺らして僕は喚起口から外に飛び出ていた。


 今すぐに彼女のもとに向かわなければならない理由を思い出した。


 今日はあのヘルパー、中西が彼女のもとにやってくる日であったからだ。


 あの男。表面では清純気取っているが、皮を一枚めくったら、欲望の煮詰まった化け物がいるに違いない。ダメだ、いつ化けの皮がはがれるかわからない獣が彼女のそばにいる。なんて耐えがたいことか。


 虫ケラとなった僕にできることは無いかもしれないが、ここでじっとできる僕でもないのだ。

______________________________


 彼女……雪城エリに出会ったのは、ただの偶然に過ぎなかった。そもそも、平凡と言って差し支えない人生を送っている僕と、彼女引き合わせるためには偶然の二つや三つ重なる必要があった。


 モブとプリンセスの出会いといっても差し支えない。


 エリは、脊髄の障害によって車椅子で生活をしていた。右の足は一応力が入る。数十秒程度なら片足立ちできるくらいらしいが、左足は感覚すらない。

 そんな現実を影一つない笑顔で語ってくれた眩しい人。


 あの日、僕はなんとなく外を歩いていた。何かあてがあったり、買いたいものがあったわけでもなく、なんとなく音楽を聴きながらぼーっと歩いていただけだった。


 そんな、余裕に満ち溢れている時間の中で、目の前に倒れた車椅子と、地べたを懸命に這っている女性が現れたら。


 そりゃあ、後先考えずに駆け寄ってしまうものだ。


「大丈夫ですか!」


 ただでさえ、人目のあるところで転んでしまって慌てているのに見知らぬ男が大声で駆け寄ってきた怖さ。


 僕の声によって彼女はもはやパニック寸前の状態になってしまった。


 僕は、『余計なことをしてしまったかも』と後悔して頭を搔いた。


 車椅子は立て直したが、改めて考えると彼女を抱き上げてもいいものなのかと不安になった。自分の度胸のなさをここまで恨んだことはない。


 ただただ惨めな数秒間。僕は彼女を見下ろし固まっていた。


 何かを察したのか、見ていた一人の女性が駆けつけてきて彼女を抱えて車椅子に乗せた。


 注目を浴びたくなかったのか、厄介ごとに絡まれたくなかったのか。仕事だけ終えて、何も言わずにその女性は立ち去って行った。


 様子を見ていた人たちも、ことが終わったのを確認して、また歩を進めていく。さっきまで非日常感ある空気に包まれていた周囲が、一瞬で日常に変わった。


 でも、車椅子の女性は顔を真っ赤にして、涙目で僕を見上げていた。何かを言いたそうで、でも声が出ないといった感じだった。


「大丈夫ですよ。どこか違う場所に移動しましょう。落ち着いてください」


 そう言って笑って見せると、彼女はほっとしたように目じりが下がりこくりこくりと頷いて見せた。


 そうして、僕は初めて雪城エリの車椅子を押して、最寄のカフェまで連れていき、そこで改めて色々話を聞いたのだった。


 わざわざ、カフェにまで連れていく必要があったかと言われれば『ない』としか言えない。


 助けた人が、想像以上に可憐で、しかも雰囲気も悪くはなかった。ここで、車椅子を道端に寄せて落ち着くのを見計らってから「じゃあ、これで」といって立ち去る。


僕はそんな『優しいだけの人』ではないのだ。


 お近づきになれるかもしれない。

 それに時間はあるし。

 恩も売れるかもしれない。


 別にその恩がどうとか、お近づきになれてどうとかは考えるものではないだろう。その後のことはその後のことだ。ただ、その後を生み出すためのチャンスがあれば逃したくないといっただけだ。


 まぁ、結果として二時間近く彼女と話して結構楽しかったし、連絡先も教えてもらった。売った恩はカフェの代金をおごってもらうことで片付いた。


 しかし、その夜のことだった。


 僕の中にじんわりと濁った何かが広がっていく、そんな気持ち悪い感覚に襲われた。それは、自分に対する羞恥であり、嫌悪であった。


 なんで、僕は声をかけてしまったんだ? 車椅子は立て直したけど彼女に触れることはできないって。どれだけ惨めなんだよ。


 最初っから、誰かが助けに行くのを待つって選択肢もあったのに、出過ぎた真似をしてしまった。


 その挙句、結局なんにもしてないのに彼女をカフェに連れていくし、気の利く話の一つもできなかった。


 今考えれば僕だけが変に盛り上がっていなかったか? つまらない人間に思われたかもしれない。彼女はあの二時間嫌な思いを必死で押し殺していたんじゃないだろうか?


 頭を抱え、両目を見開いて。


すぐに収まるが、数分したらまた湧き上がってくるそんな負の感情。


 なぜか寝てしまえばその問題は小さなことになってしまい、次の日はうきうきで彼女とメッセージを送り合う僕がいる。


 そうしている間の僕は笑っていた。その笑顔は決して卑しいものじゃなかった。ただただ、嬉しくてドキドキしてた。本当にそれだけだったはずだった。


 でも、この後も、夜になると惨めな思いがふつふつと湧き上がってきた。


 綺麗なはずの、自分の感情をどんどん塗りつぶしていく。


 水彩画のような鮮やかで淡い思い出を、ゴテゴテとして重苦しい油彩の絵の具で塗りつぶしていってしまう。


 その後も、エリとの関係は良好に続いた。彼女は異性同性関係なく、歳の近い人が苦手だったという。眩しすぎるといっていた。でも、僕はその例外になれたようだった。


「あなたは、少し大人っぽいですし、一緒にいても落ち着くから」


 その言葉は誉れでもあったが、僕からしたら彼女が幼すぎるだけのように思えた。彼女の両脚は、生まれつきのものではなく、高校卒業後に事故に会い、その後遺症だという。大学は一年もたたずに卒業し、特に働くこともなく今まで過ごしてきたという。


「最初は入院していたし、そのあとはリハビリとかもあったし、それに急に歩けなくなって病んでいたんだ。でも、そろそろ何とかしないとなぁって思っているんだけど、どうしているかわからなくて」


 まぁ、そういうことで彼女は、4年ほど空白の期間があり、そのせいか子供っぽさが捨てきれていなかった。


 僕はちょうど入社したてで社会に揉まれている最中だったから、彼女にとっては少しだけ大人っぽく見えたのかもしれない。


 僕としても、今の仕事が自分に合っていないような気がしていて、そんな中でのエリとの出会いだったから、助けられている部分もあった。


 エリは、結構外出には積極的だった。僕が休みの日には一緒に買い物に行ったし、僕が自車持ちだったこともあり遠くに行きたいということが多かった。


 繰り返すが、本当に良好な関係であった。踏み込めば付き合うこともできたかもしれない。でも、彼女には遠慮があったし、僕も自信が持てなかった。


 彼女が好きだった。付き合ったら少しは心情的なモヤモヤが晴れるだろうということは分かっていた。でも、僕は彼女の障害的な部分を見て見ぬふりをしていた。


 それがかえって彼女の好印象につながったのだろうが、自分は介護的な知識や、車椅子目線の不便などの勉強をしなかった。


 彼女に会うたびに、これ以上一歩先の関係になるには理解が必要だと思うのだが、なぜかその一歩が踏み切れなかった。


 いや、『なぜか』じゃないんだ。僕は分かっていた。


 エリと過ごす中で、僕は彼女に対して謎の潔癖症を患っていることを理解していた。少し子供っぽくて、現実をイマイチわかっていない彼女に現実を見せてはいけない。決して彼女を汚してはいけないし、そういった妄想をしてしまう僕は汚い存在だ。


 彼女を理解しようと努力することは、彼女を自分のものにしたい、汚してしまいたいという欲望がガソリンとなっているんじゃないか?


 お前は偽善者なのではないか? とっても惨めな虫ケラなんじゃないか。今の関係を続けることが一番純潔なんじゃないか?


 怖くて仕方がなかった。この関係が壊れることが。でも、無情にも時間は過ぎ去り、環境には変化も訪れる。


 エリは仕事を始めた。小さな工場の事務の仕事だった。どうやら、障碍者を雇うと設備をバリアフリー化するために国から補助金が来るし、『私たちは差別なく従業員を採用します』というクリーンなイメージをつけることができるといった理由で、意外と求人は多かったという。


「あなたが、働いている間ずっと暇だったから。それに、ずっとこのままじゃダメって思うって前に言ったでしょ?」


 そしてもう一つ、変化が起きた。


 彼女のもとには週に一回ヘルパーがやってくる。大きな買い物だったり、外に散歩に行ったり、彼女ができない家事回りだったり。


 そのヘルパーさんが変わって、新しく男がやってきたのだ。名前は中西さん。下の名前は知らない。


 エリと会う約束をしていたある日、待ち合わせの場所に行くと彼女と彼女の車椅子のハンドルを握る彼がいた。


 体躯はがっしりとしていて髪は短く刈り上げていた。爽やかな笑顔に、はきはきとした声。真面目な体育系って印象だった。そして、その印象の通りの人だった。


「エリさんから、あなたの話をよく聞くんですよ。だから一度会ってみたくて」


 そうして、なぜか公園のベンチに男二人で座って、エリは一人で車椅子を押してどっかへと向かった。


 中西さんの話はこうだった。


 半年前に、大きなミスで居場所がなくなり営業の職を辞めた。もっと人のためになる仕事がしたくてヘルパーに。


 でも前の職のトラウマで、ミスが怖くて満足に仕事ができない。そのため、エリについて色々知っておきたいとのことだった。


 担当はエリだけでなく一週間のうちに様々な人の家に向かい、介護をするらしいが、やはり歳の若い女性であるエリには細心の注意をしているという。その分、消耗が激しく、どうにかしたいのだと。


 勝手な妄想だが、僕に対して「私はただのヘルパーです」と先手を打ってアピールする狙いもあったんじゃないかと思う。


 でも、それがかえって悪かった。


 僕はその場では真摯な彼を受け入れて色々話したし、話が盛り上がることもあった。表面的には、僕とエリとの関係に中西さんが割り込んでくるということは無かった。


 でも、だんだんと。だんだんと夜だけだった不安に、僕の日常は飲み込まれていったのだ。


 彼女は職を見つけ社会を知っていく。


 僕以外の若い男性と関係を手にしていく。


 僕がだんだんと特別から離れていく気がした。


 彼女への潔癖が日に日に増していき、いつかそう遠くない未来、自分が彼女の枷になるのが目に見えていて怖かった。


 それなのにこの関係が崩れるのも怖くて。毎日一回は電話を掛けた。


「今どこにいるの? なにしてた?」


 休みの日は積極に彼女に会いに行った。


 中西さんと話しをたり、メッセージのやり取りすることもあったが、決まってそのあとにイライラが抑えられなくなった。


 妄想はだんだんと悪い方向に向かった。


 中西さんはいつかあの筋肉質な剛腕を振るって彼女を襲うのではないか? その機会を探るためにいろんな情報を手に入れようとしているのではないか?


 あの清純そうな顔や言葉には裏があるはずだ。


 エリは大丈夫だろうか? 職場でセクハラとかされていないだろうか? 中西に言い寄られたりしてないだろうか?


 電話の回数は増えていった。朝起きた時、会社の昼休憩。夜彼女が寝る前の時間。


 それと同時に、どんどん惨めになっていく自分がいた。どうして、こんな化け物になってしまったんだろうか? 明日こそは、彼女への電話は抑えよう。束縛してはだめだ。


 だってよく考えてみろ。まだ付き合ってもいないんだぞ。


 戻ろう。まだ、戻れるはずだ。


 彼女に対する潔癖を抑えよう。誰だって成長していくんだ。時間がすべて奪っていくんだ。仕方ないことなんだ。それは、ちゃんと適応していかなくちゃ。


 それでも、自我を抑えきれない日々。いつ彼女に嫌われてもおかしくないし、もう嫌われているかもしれない。


 職場で頼れる人がいて、その人に「友人が変に束縛してくるんです。最近どんどんエスカーレートしていて」なんて相談しているかもしれない。


 もしかしたら、その相手は中西なのかも。


 あぁ、許せない。醜い内面を隠して清純気取ってあいつは「わかりました、私がなんとかします」なんて言うに違いない。


 そうして、僕を排除した後。彼女を襲って、抵抗もできない体を担いで押し倒して。汚して、汚して……。


「違う。違う、違うだろ!」


 何を考えているんだ。獣は僕じゃないか。どれだけ腐ったら気が済むんだ。どこまで自分を下げれば気が済むんだ。


 惨めでみじめで仕方がないんだ。いっそもう、どこか遠くへ行ってしまいたい。


――それかせめて、人間ではない何かになってしまいたい。

________________________________


 目が覚めた。やはり私は虫のままであった。そして、相も変わらず君を思うのだ。


 河川敷の雑木林の中で、こんな醜い姿であっても、やっぱり君を思い、君に執着する。


 振り払っても、振り払っても、視界の端々を飛び交うコバエのようなこの感情。


 さぁ、エリを探そう。今どこにいるだろうか? 昨日一緒に買い物に行ったばかりだから、多分中西と共に散歩でもしているに違いない。


 となると、どのルートだろうか。確か、三パターンあるって言っていたよな。ここから一番近いのはどこだろうか?


 そうやって、ふらふらと浮かんで視界の先。


 川を挟んだ向こうの道。桜並木の下を中西が車椅子を押して、彼女はゆったりと腰かけている。


「見つけた……」


 文字通り私は飛んで行った。


 僕はどんなに煩悩を抱えていようが、人間不信に堕ちても彼女の前では変わらない僕でいられた。


 自分を嫌悪することもなく、ただエリと話すこと、一緒にいることに満たされていた。


 それなのに、今の僕は汚れを抱いたまま彼女のもとに向かおうとしている。

 そうだ、僕は虫になったんだ。


 もう、取り繕うのはやめようじゃないか。この姿のまま、中西の本性を暴こう。彼女の部屋の中でずっと共に暮らそう。あの白く細い腕の上に止まり、愛おしい左足の太腿を這うのだ。


「あぁ、なんて。なんて汚いんだ」


 どんどんとスピードが落ちていく。


 反射的なものだった。虫の姿となり、ついに自分の本性があらわになった。自分が醜い存在であることを認めたというのに、それと同時に自分を嫌悪する自分が湧き上がる。


 僕は最初から虫けらなんだ。こんな汚い欲望にまみれて彼女を汚す。ずっとまえから彼女の世界の邪魔虫なんだ。


 もう、いいや。


 視界の奥、鮮やかな薄桃色の花びらが降り注ぐ世界。


 車椅子に座る彼女は変わらず可憐で美しい。職場も、中西さんも彼女を汚してなんかいない。そして、僕も。


 僕はただ、僕を汚しているだけだった。


 その結果、僕は虫になったんだ。


――あぁ、惨めだ。なんて惨めな僕だ。


 思い返してみろ、僕が毎日のように彼女に電話をかけている日々の中で、彼女が僕に対して「今どこにいるの? 何をしていたの?」と返したことはあっただろうか?


 すべてはただの、妄想だったんじゃないか。


 もう、虫でいることはやめようじゃないか。


 また、人間に戻って。すべてなかったことにしようじゃないか。


 僕は空中に止まっている。川の上でただ浮かんでいる。完全に彼女のもとに向かう意欲は消え失せていた。


「帰ろう」


 そうして、後ろを振り返った瞬間。


「あっ」


 川底から一匹の魚が飛び出してきた。大きく口を開けて、真正面まで迫ってきている。


 その魚の真っ黒な瞳の中に。疲れたような僕がいた。

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