2.変格前夜

 そこはまるで、未開のジャングルのようであった。自分が進む道に自信が持てない。周囲からの懐疑的な視線、一度でもやらかしたら食って殺してやろうとでも言いたげだ。


 怖くて怖くて仕方なく、相談したら。そんなことないとマネージャーのモエは言ってくれた。


「皆さん貴方に期待しているのですよ。そう。あなたのファンだけじゃないんです。共演者の方々は確かにベテラン揃いですが、あなたの役作りの熱心さには舌を丸めていました。そして皆さん『撮影の日が楽しみだ』と口々に仰っていましたよ。皆さん、期待しているのです」


 モエのいう通り、この映画『デカダンス』の主演に選ばれた日からジュンペイは人が変わった。


 デカダンスとは、長い文学の歴史の中で生まれた一つの思想の名であり、退廃主義ともいわれるものである。


 世間では童話など、ファンタジーなロマン派と呼ばれる文学が流行り始めていた時代、一部の創作家たちは逆の道を進んだ。


 人間という集団の中で起こりうる醜さ、悪さ、誰にも語りたくない汚点。下水道の水をすすりながら狂ってもなお今日を生きていくような、目を凝らせばそこらへんに転がっている、しかし目をそむけたくなるようなリアリティ。それがデカダンスの美しさだ。


 映画『デカダンス』はまさしく退廃主義の現代版。今の鬱屈のした世の中で、誰もが目を背ける汚点に焦点をあて、それを美として昇華した作品となっている。


 主人公の男は、立派に教育を受け、大学も卒業し就職をするが、いわゆるブラック企業。退職するが、心的な病を患い、社会から切り離されていく。


 人として生きていたはずなのに、次第に人として扱われなくなる苦悩。戻りたいと喚くほど落ちていく人生。


 彼の奇行により両親・婚約者・友人も不幸な事件に巻き込まれていき、男は最終的に自らの命を捨てる。


 どこか遠い話のようで、誰もが身近に感じている。創作だというのに現実として受け止めてしまうような物語。


 脚本家、樋水キョウヤによってより感情的で、ストレートに彩られた今作。自信作と銘打つはおろか、彼はこう言葉を残した。


「社会現象が起こることでしょう。私は時代の分かれ道を作ったのです。『デカダンス』が誕生した世界と、しなかった世界。大きく異なる世界が生まれた。こっちの世界はとっても幸福な世界になりました」


 しかし、問題となったのがキャスティングであった。一体どんな名俳優が、歴史に名を残すのか注目が集まる中、選ばれたのはなんと一人のアイドルだった。


 岸本ジュンペイ。今をトキメク、イケメンアイドルグループの花のセンター。


 以前に漫画原作のドラマにも主演として抜擢されており、その演技力は誰もが認めるものとなった。視聴率も上々で数字としても結果を出した。


 話題性もあり、俳優としての原石でもある。彼を起用することは悪手ではないはずだった。


 しかし、世間の目は冷たい。


【映画業界は腐っている。名作を作るより、どれだけ稼げるかしか考えていない。脚本家の言葉はただの話題性をあおるだけの虚言だったか】


 色とりどりの批判がネットを飾る。


 しかし、それを黙らせたのもジュンペイだった。


『役作り、頑張っています。もう少しだけこっちに集中したい。ファンのみんなは不安だと思うけど、応援してくれると嬉しいな』


 それは撮影開始一か月前に彼のSNSにて発信された画像と文章。人々は絶叫した。


 そこには、醜い男が写っていた。全体的に体はやせ細り、髪は伸び切っている。そして、その瞳。アイドルとしてあんなにも爛々とした瞳には、もはや何も映っていないかのように黒く霞んでいた。


 主演への抜擢が決まったのは、世間に公表されるよりもずっと前だ。社会が『デカダンス』に期待を高めている間も、主演が公開され騒がれている間も、彼は崩落していく一人の男の人生について考えては、自分に重ね続けていた。


『アイドルを捨てた男』


 そんな風に呼ばれてしまうほどであった。


 ゆえに、誰もが彼に期待を寄せていた。


「どうも、向井ヒロトです。今日は足を引っ張らないように頑張ります」


 ボソボソとジュンペイはそう名乗った。


 シーンッと現場が冷えた。向井ヒロトは、『デカダンス』の主人公の名だ。


 一人の女優が冗談かと引きつって笑ったが声は出なかった。ベテランの一人は咳払いをしたのちに襟を正した。


 監督の姿勢が前のめりになる。


 そうやって異様な空気の中、撮影は始まる。


 現場にいた全員が同じことを考えていた。ここにいるのは本当にデカダンスの向井ヒロトなのだと。それと同時に、深い悲しみのような波と共にふと想うのだ。


『じゃあ、岸本ジュンペイどこに行ってしまったのか。この数か月の間、あの写真を公開した後から、この男に何があったのか?』


 誰も知る由はない。


――昨晩まで、彼はまだ『岸本ジュンペイ』だった。

____________________________________


 天井の低い子供部屋で育った。頭の上で常に誰かの足音がしていた。笑い声が聞こえた。


 薄暗い部屋の中で、自分を何度も見失った。そうして、暗闇に沈んでいると天井の扉が開き、折り畳み式の梯子がおり、母の足が見える。


「……ごめんね」


 暴力的な日もあったが大抵は弱弱しく、泣き虫な人だった。だから、だんだんとこの人には自分が必要なんだと気づき始めた。


 テクニックなんて覚える余地もないはずなのに、子供ながらその弱みに付け込んだ。そうすることで助かるように思えた。


 天井から怒声と共に何か、たくさんのものが流れ 落ちていく音がした夜。僕はついに子供部屋から出してもらった。


 そのあとのことはよく覚えていない。ただ、聞いた話では母親は僕の存在を隠して男と付き合い、男も僕の存在に気づきながらも見て見ぬふりをした。


 しかし、その関係は破綻し、男が僕の存在を警察に告げて、母は捕まり、僕は救出された。そうして親戚のもとに預けられた。


 そんな話が自分のことであるとは、今でもにわかに信じがたい。しかし、なぜか最初から持ち合わせている「たぶらかし」の才能、そして「たぶらかす」ために無意識に自分を飾った姿。それがある意味証拠でもあった。


「アイドルとか興味ない? あるでしょ? そんなにイケメンならなれるって思ったことあるよね? てか、もうそうだったりって。もしかしてモデルさんかな~」


 そんな怪しいスカウトに出会い、育て親に相談した。向こうも向こうで僕のことがお荷物だったようで。


「あんたに合ってるよ」


 なんて無関心に笑った。


 そんな、『自分』なんてよくわからないまま、流されるままに生きてきた。


 アイドルとして階段を歩む中でも、自我やプライドが育つことは無かったし、ある程度から伸び悩んだ際には『カリスマ性』のなさが原因だと、怒鳴られたりもした。


 ただ、一つ楽しかったのが演技だった。


 誰かに成れる仕事がある。その間、僕は借り物でも誰かの自我をもらえた。


 でも、今回は。


 僕とは逆だった。


 悲惨な幼少期の自分とは違い、このキャラクターは幸福で普遍的な日常を過ごしていた。


 ちょうど、今の僕と同い年くらいに、就職先で精神をすり減らしていく。


 僕は今となっては誰もが知る一時のスターだ。


 ヒロトが転落人生をたどったのは明確に強い自我があったからだ。両親から愛を注がれ、誕生日やクリスマスには欲しかったものをプレゼントされた。部活で汗を流し、趣味を持って、時には嫌でも我慢して勉学に励み、大学では初めての一人暮らしに羽を伸ばしすぎて苦い経験を積み重ねる。


 脚本の中にはそんなこと一文も書いていない。あくまでこの『デカダンス』は醜悪の美を謳う作品であり、彼が転落して、追い詰められていく姿が主だ。


 でも、過去のまだ良かったころに戻りたいと切実に願う姿や、両親も「どこかで良くなるよ」と最後までヒロトを見捨て切れない姿を見ると、むしろ『楽しかった過去』についての妄想が膨らんでしまう。


 でも、それはただ「そうであって欲しい」という僕の妄想を押し付けているだけに過ぎないのかもしれない。


 そんな人生に、憧れているだけなのかもしれない。


 撮影開始の前夜。ジュンペイのコンディションは最高といっても差し支えなかった。彼は、常に『向井ヒロト』に向き合い続け、人を避け、部屋にこもり、己の精神をすり減らし続けた。


 あのSNSに投稿された画像より、より卓越した姿へと変貌を遂げた。


 鏡を見ればそこには向井ヒロトがいた。口から出る言葉は弱弱しく覇気はなく、喉から絞り出すように必死。


 もはや、完璧に等しかった。


 しかし、ジュンペイであった。


 話す言葉は、脚本に書かれていることをそれっぽく意識して読む。動作も、それっぽさを意識する。


 常に意識を絶やさず、一挙手一投足にヒロトを宿す。しかし、それは紛れもなく、ジュンペイの意志であった。


 ごく当たり前のことである。人は他人にはなれない。朝目が覚めると、別人の体に乗り移っていたなんて物語はファンタジーだ。


 しかし、ジュンペイはどこかネジが外れてしまっていた。彼は本当に向井ヒロトになろうとしていた。


 彼は、ヒロトに、ヒロトを介した夢物語に、憧れてしまったのだ。


 家族に愛されて育つこと、人生に挫折すること、他人にまで不幸をばら撒いたことに心を痛め己の意志で人生に幕を下ろす。その自我に。


 その憧れこそ、ジュンペイが初めて宿した『自我』でもあった。向井ヒロトになること。心も体も、すべてをこのキャラクターにささげたい。


 自分は過去両親から溺愛されていた。


 自分は学生時代にサッカー部に入り、恥ずかしいほどの恋をした。


 大学では遊びを覚え、たびたび馬鹿をやって夜を明かす。


 仕事でうまくいかず、悩める中で運命の人と出会い、立ち直り、理不尽を受け入れて、毎日を生きた。


 その果てに、気づけば心が擦り切れて、手が震えて、人前でうまく歩くことができなくなった。


 意識すればするほど、ぎこちなくなり息がうまくできずに倒れてしまう。

 そこからこの物語が始まるんだ。


 この『物語が始まる前』の大半はジュンペイの妄想であったが、もうすでに向井ヒロトの人生として昇華されつつある。


 最後に、ジュンペイはヒロトであることの意識を捨てた。それは、自転車の補助輪をとるようなものであり、歯の矯正を外す様なものでもあり、松葉杖を捨てることでもあった。


 部屋の中に、麻のロープでいかにもなオブジェを作る。物語の中でのヒロトの自殺は、睡眠薬の過剰摂取によるものだ。故にこのオブジェは岸本ジュンペイを殺すためのもの。


 そのオブジェの前で、ジュンペイは一人黙々と脚本を読み進めた。


 自分の中で湧き出る感情に従い、あるがままを吐き出す。それはもはや『演じる』とは言えない代物であった。


 この夜。起こってはいけないことが起きてしまったのだ。一人の人間が完全に別の人間に変わってしまう。そんな恐怖。


 岸本ジュンペイはどこか遠くに行ってしまった。無を吊るした麻のロープに影が差した。


 ここに向井ヒロトが降臨したわけではない。創作のキャラクターを引っ張り出すなんて不可能な行為である。


 生まれてしまったのは『向井ヒロト』を自称する何かだ。実際には起こりえなかった記憶を持ち、書面には記載不可能な経歴を持つ。


 実在しない家族に愛されて育ち、起こってもいない不幸に心をすり減らした。


 嘘の塊。


 それは人間の革命であった。決して他人になることができない世界の常識をぶち壊した夜だった。


 そして、世界の常識の元、夜は明けて、ナニカは、向井ヒロトのまま、当たり前のように撮影現場に向かった。

___________________________________


 平日の正午過ぎ、ランチタイムがもうすぐ終わるといった中、せわしなくオフィスに戻ろうとする人々の逆を歩く男がいた。


 背を丸め、視線はせわしなく動き回り。右の手で左の肘を握りしめ、口で深く息を吸って吐く。


 足取りはぎこちなく、皺だらけのヨレた服。そして、生きているのかわからないほど生気のない表情。


 スーツ姿の活気ある人々の間を縫い歩き、当てもないように進んでいく。

 岸部ジュンペイは、主演の座を下ろされた。


『デカダンス』は失敗に終わった。交代で導入された俳優の演技力に誰も文句はなかった。しかし、誰もがあのSNSを見ていたため『ジュンペイだったら』を思わずにいられなかった。


 さらに、ジュンペイが役を下ろされた理由として公表されたのは『役作りに没頭した末に、精神を病み、撮影が不可能になった』という内容だった。


 実際は、この言葉通りであるが少し違う。


「あっ。。。あ。」


 向井ヒロトとなったジュンペイは、もはや演技ができない状態だった。アイドルであり、役者の才をもつあの男ではない。ゆえに、セリフが頭をから飛び、挙動不審になり、最終的に逃げ出した。


 監督はあらかじめ代役を用意していた。


 役作りにのめりこみ、読み合わせにも参加せず、脚本の樋水にもアドバイスをもらうことをしなかったジュンペイに不信感を抱き抱いていたのだ。


 現場に現れたジュンペイに対して、その場にいた原因が期待をした。この作品は本当に社会現象になるだろう。日本の映画史の中に名を刻むだろう。


 次第にその期待は薄れていく。この事件を知る者の中には「役者としてキャラクターに食われたらおしまいだね」とのちに彼を笑ったものもいる。


 そうして、幕を下ろしたデカダンス。

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 自宅部屋の中で、ロープを前に頭を抱える男が一人。岸部ジュンペイとはもう呼べず、向井ヒロトであることを否定されてしまったナニカ。


 ゆっくりと立ち上がると、鋏をとりだしてそのロープを切り始める。安い刃では簡単には切れず、ゆっくりと、じっくりと刃を滑らせていく。


 そうして、ロープを切り終えた後、鋏を捨てて不敵な笑みを浮かべながら彼は夜の闇に身を溶かしていった。


 朝がおとずれた後、完全に岸田ジュンペイは消えてしまっていた。この町のどこかで、別の誰かとして生きているかもしれないし、入り乱れた路地のどこかで野垂れ死んでいるかもしれない。


 誰も、彼を見てもジュンペイだとは思わないだろう。


 彼は、誰でもないのだから。


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