【短編集】ひと世の戯れ Vol.5

岩咲ゼゼ

1.琥珀色の夢

 ふと、あることに私は気づいた。その気づきは本来起こってはならないもののような気がしてひどく恐れを抱く。


 今、今この時。私は自分がどこにいるのか分からなかった。

 私は確かに望んでここにいる。そして、満ち満ちた幸福に包まれ、胸いっぱいに温もりが広がっている。


 美しいピアノの旋律に身を任せているように穏やかであり、落ち着かせてくれる。そんな数秒前があったはずだ。


 でも、思い出せない。


 私はここで、何をしていたのか。なぜこんなにも幸福なのか。私は何のためにここにいるのか。そのすべてが思い出せずに、記憶が真っ暗なのだ。


 だんだん視界も暗くなっていくようで、このまま記憶どころかすべてが消えてしまいそうで、さすがにダメだと思考を置いていくことを決意し、今の景色に集中することにした。


 私は湖畔の上で立ち尽くしている。目の前に広がる湖は、艶やかな琥珀色。トパーズのように滑らかでもあり、油彩画のようにゴテゴテでもある。絵画のようなその世界。


 季節は秋だろうか、鮮やかな橙色に染まり上げた山々。


 四方八方がそんな景色に囲まれ、まるで箱庭だ。


 別にキャンプをしていたわけでもない。


 私はただ、この景色に見とれていたのだ。または、この景色の中に自分が溶け込んでいることに酔いしれている。


――これだ。これが描きたかったんだ。


 ここで一生絵を書いていたい。

______________________________


 世界は暗転し。憂鬱な朝が私に襲い掛かってくる。この瞬間が訪れるたびに私は疑問を抱いてしまう。なぜ、ここまで残酷なことが現実なのか。世界のルールなのか。


 別に、夜が来た後に、朝が来ない日があっていいじゃないか。窓を開いた瞬間、『今日は雨かぁ』ってなるように、『今日は夕暮れかぁ』みたいに、もっと適当でいいじゃないか。


 そんな世界だったら、まるで創作のように自由だったらよかったのに。


 体を起こすと、一枚のカンバスと目が合った。


「そっか。まだ白塗もしてなかったのか……」


 もし、この部屋の中に誰かがいたら「何を当たり前のことを言ってるんだ?」と叱ってくるかもしれない。


 作業を進めていないのは私がさぼりつつけているせいだ。夢遊病なんか患ってないし、この部屋に妖精はいない。目を離しているすきに作品が出来上がっているなんてファンタジーはないんだ。


 カンバスの真後ろの机。その上のスマホを拾い上げる。いつの間にかスマホ依存していた。だから、朝一番にいつもスマホを触ってしまう。それを防ぎたくて、朝一番に絵のことを考えるようにしたくて、カンバスの後ろの机に置くようになった。


 結局進まない絵を見て、憂鬱になってすぐさまスマホに飛びつくようになった。


 しかし、今日はすぐにスマホを手放してキッチンに向かった。歯磨き粉を付けた歯ブラシを口に突っ込むと、カンバスの前まで行って椅子に座り、向かい合った。


 表情はだんだんと情けないものになっていく。


 書きかけの絵画。琥珀色の湖畔がそこにはあった。


 改めてみると粗末な絵だ。手前と奥行きを意識すればもう少し見栄えが良くなるし、琥珀色の湖が悪目立ちせず、逆に色彩表現として程よい意味を作ってくれるだろう。


 広がる山々にしてもそうだ。山を塗ってどうする? 山って橙色じゃないだろ? 山じゃなくてそこに生い茂る木々の葉。その葉っぱ一枚一枚が集まって秋の情景を作り出すんだ。


 技術的に言えば、もっと細かく様々な色を重ねて山に秋を作り出していけばいい。


 あと、欲を言えば人物が欲しい。奥行きもなく、色も単調。そのせいかぱっと見ですぐ飽きてしまう。いっそ、椅子に座る女性でも書けば、この奇怪な景色が『女性を思う男の心情』を表すといったイメージとしての奥行きも出てくるだろう。


 一通り、酷評を頭で描き。その後口を濯いだ水道水とともに吐き出した。今思ったことに意味はない。


 この絵の作者はすでに筆を捨てているからだ。


 カレンダーの今日の日付に×をつける。どうせ、今日も何もせずに終わっていくことは分かっている。


「あとひと月になったなぁ」


 ぺらりとカレンダーをめくり翌月。そこには黒いマッキーで星印がつけられている。県立の美術館が毎年開催する公募大賞の期限となっている。


 芸術の秋となれば各所で様々なアートコンクールが開催される。全国区のものもあれば、ポスターなどの企業の公募、地域的なもの。


 自分の身の丈に合ったところに作品を提出するのが常だろう。しかし、ここの公募大賞は違う。作品が出そろった後の一週間、集まった作品は館の一角で展示される。


 そして、この展示中にある人物がやってくるのだ。現代の日本では珍しいというかもはや伝説。近代ヨーロッパ時代の芸術を支え続けた、なくてはならなかった存在。『パトロン』。


 富裕層がお気に入りの画家を発見し、支援するといった文化が存在する。その『パトロン』と呼ばれる存在が、この展示会に姿を現すのだ。その名はミセス・フジノ。


 有名画家のパトロンは少なからず存在するが、無名の画家を支援するパトロンであるミセス・フジノはもはや都市伝説のようなものだ。でも、存在はしている。


 正体は不明だが、大企業の社長の愛人説が有力とされている。まぁ、そこらへんはいい。このミセス・フジノは日本だけではなく世界の有名美術館・コレクター・マニアとコネクションを持っており、ひとたび彼女の評価を得られれば十年は画家として生きていける。そんな伝説がある。


 だから、将来が不安な画家志望の学生たちはこぞってこの公募大賞に作品を出す。目指すは大賞ではなく、一人の女性を堕とすこと。


 私もその一人だった。


 そんな私だが、現在全く筆が進んでいない。


 理由の一つは、この大賞のレベルが高すぎること。去年、私はただの怠慢で作品が完成できずに仕方なく展示だけ見に行った。そこで、「出さなくてよかったー」と胸をなでおろしたものだ。こんな化け物どもと一緒に並べられたら恥ずかしくて一生筆を持つことができなかっただろうと。


 でも、やっぱり画家として生きていきたくて。でも、目を見張る経歴を持たない私にとってはミセス・フジノの一発逆転に望みを託すしかなかった。


 そして、もう一つ。金がない。絵を書く準備を終えた段階で貯金がわずかであった。その時は良かった。創作に必要なのはハングリー精神だ。ある意味いいエッセンスとなるだろうと思っていた。


 しかし、貧しい暮らしを続けていく中で不安で満たされるのが必然だった。このままこんな生活を続けるのか? ここまでして残る結果が『恥』だったら、筆が持てないどころか生きてもいけない。もはや、死んでしまいたい。


 そうやって、自分で自分の首を絞める始末。


 さて、ようやく話が一周するわけだが、最後の理由がこの今カンバスに描かれている絵になる。


 多くは語るつもりはない。この絵については、筆を捨てたかつてのライバルの絵。と言っておこう。友と書いてライバルだ。


 現代のルソーを自称していたそいつは、自信家であり過剰なほど自分の才能を信じていたルソーとは真逆だった。自分の絵を常に批判してヘタクソだと罵っていた。


「でも、俺が書きたいものを書くためにはこのやり方しかできないんだ……」


 そんな不器用な奴だった。


「金がないなら俺のカンバスを使えばいい。失敗作だから塗りつぶして使ってくれ」


 言葉とともにおいて行かれた、中途半端に出来上がったこの琥珀色の湖畔。黄色と橙色で塗りつぶされた目が痛くなるような一枚。


 私はそれから一か月半、そのカンバスに筆をつけることができなかった。友が最後に書こうとした美しき世界を塗りつぶして私は何を描けばいいのだろうか?


 その絵に向き合い「ヘタクソだ」と言い放つ。 


 悪いところを見つけて、改善点を見つけて、何度も評価を繰り返す。それでも、塗りつぶすことはできない。酒に酔っても、孤独で満たされても、『勢いで塗りつぶしてしまった』なんてことにはならなかった。


 ミセス・フジノはこの絵を見てどう思うのだろうか?


 いっそ彼女に「こんなつまらないもの見せないでくださる?」なんて言われたい。そうしたら目が覚めて塗りつぶせる気がするんだ。


 書きたいものはたくさんある。道具も揃っている。それなのに未だスタートラインに立てていない。


 はぁ。とため息をついて、もう寝込んでしまおうかと思ったその時、放り捨てていたスマホが震えた。

___________________________________


――またここに来たかと思ったが、始めてきたようにも思えた。


 琥珀色の湖、橙色の山々。


 目の前がぼやけていく。数秒前すら思い出せずに。また、過去をなぞることを諦めてこの世界の今に集中する。


 何度も、何度もここに来たということだけは分かる。


 それがなぜかひどくつらかった。すぐにこの世界から切り離されてしまうような気がした。


 どこからか、声がする。この場所で人の声が聞こえることにひどく違和感を覚える。


「思い出すべきだ」


 はっと顔を上げると、目の前に友の姿があった。私はまるでずっと待っていたかのように安堵感と、嬉しさが表情に湧き出てしまった。


「やっと来てくれたんだな」


「いや、違う。お前が求めているものを満たすために現れたわけじゃない。思い出すべきなんだ、ここで。今ここで。」


 何を不思議なことを言っているんだ? と顔をしかめたが。私は流されるがまま深い思考にもぐりこんだ。友を置いて私は深い、深い琥珀の水に溺れていった。


 息苦しさはない、どこまでも明るい水の中に一切の闇はない。


 琥珀色の水の底、這いあがろうと手を伸ばした空の先。真っ白な空の先、見えた空の色とは思えない緑黄色。


「あっ……」


 そこで私はついに思い出してしまったのだ。いや、思い出したのではない。あの日から何度も何度も何度も繰り返し見てきたこの夢。ついに心が追いついた。明晰夢となり、夢と現実が繋がった。


 ここに沈んでいるのは紛れもなく夢の私ではなく。現実の私であった。そして、向こうの現実を知っていた。


「私は、完成させたんだッ!」


 そっか。そうだった。


 一か月となったあの日、あの着信が来た。そうして、私はキャンバスを塗りつぶしたんだ。それでも、幸福な琥珀色の夢を見た。次の日から下書きに入った、何度も消しカスを床にまき散らし、琥珀色の夢を見た。


 形を作り、色を重ねて。琥珀色の夢を見た。


 夢の中の私は、現実で作業が進んでいることに気づかなかった。ただ、幸福の中にいて。朝起きた瞬間に、私は現実に絶望し、それを押し付けるようにカンバスに向かった。


 そんな毎日だった。そして、昨日。ついに完成したのだ。


 でも、思い出せない。大事な部分が。


 それを思い出すために、私は友をこの夢に呼んだのだろうか。


 どうして、私はカンバスを白に塗りつぶしたのか? あの瞬間に掛かってきたのは誰からのどんな着信だったか。


 そして、完成した作品は『美しい』のか。

 この琥珀色の夢よりも、『美しい』のか。


 こんな美しい世界を塗りつぶして、私はどんな傑作を書いたのか。無意識に期待してしまう。自分はミセス・フジノに認められる作品を書けたのか? 私はこの作品で画家になれるのか? 


 友の絵を、世界を壊して。私は傑作を完成させたのだろうか?


 この天井に見える緑黄色の世界は一体どんな景色なのだろうか。


――私は目覚めるべきなのだろうか?


 思い出せる。


私は作品を完成させた。

絵具はもう乾ききった。

目を覚まして発送すればギリギリ期日に間に合うはずだ。


 それなのに、こんなに不安になる。


――何が待っているんだ?


 起きて、私が見る絵は一体どんな一枚なんだ?


 自分の才能を確信できる一枚か? それとも現実を見るべきだと、友と同じ道を歩ませる一枚か。


 朝起きた瞬間の私は、頭の中が真っ白でいつも純粋な心で絵を見ていた。だから、無性にムカムカしたのだ。あんなヘタクソな絵に一瞬でも感動する私に。


 あの感動を今起きた、その時にも味わえるのか?


 でも、これまで私は苦しんでいた。起きるたびにあの絵がなくなってしまったことに苦しんでいたはずだ。


 琥珀色の水の中。

 私は、泣いていた。

 涙は泡となり水上に浮かんでいく。


 もう、いっそ。目覚めたくないとさえ思える。


――つらい思いはもう、したくない。


「怖い、怖いんだ友よ。君はなぜ筆を捨ててしまった。こんな美しい作品を置いて行ってしまった。なぜ、なぜ私を見捨てた? あぁ。友よ。下手な絵しか描けず、されど己の世界を表現するために、その絵に向き合い続けてきた人よ。一体、私は君を追い越していたのだろうか? 追い越されていたのだろうか?」


 怖くて、怖くて。仕方がないんだ。


 自分の知らない自分の作品。


 あの日の朝私は思った。夢遊病じゃないし、妖精なんかいない。勝手に絵が完成するわけないと。


 でも、私は今その状況にある。勝手に恋した世界をつぶして勝手に完成した、誰でもない私の作品。そんな現実がこの幸福な夢の先に待っている。


 こんなに起きるのが恐ろしい夢があるだろうか?

 泡となった涙はなおも琥珀の水の中をゆれて浮かび上がっていく。


 もういっそこの夢の中に溶け込んでしまいたいと思う。この琥珀の底に身を委ねて、何も考えずに揺蕩っていたい。それって、とても素敵なことじゃないか。


――次に絵を書くならそんな絵を書こう。


 急に世界が大きく揺れ始めた。そして、体が浮かび始める、浮かぶというより上昇だ。無理やり引っ張り出されるような感覚。


――あぁ、そうか。もうすぐ起きないといけないのだろう。そういえば、寝過ごさないようにタイマーをセットしたんじゃないか。


 最初っからこの目覚めたくないって思いは無駄だったわけか。


 無力のまま起こされるんだ。それが現実なんだ。


「嫌だ! 嫌だ嫌だ嫌だ!」


 もはや美しき世界は崩れ去り、真っ暗な闇の中に吸い込まれていく。口を動かすこともできず、ひたすらに駄々を捏ねるように頭の中で叫んだ。


 崩れる世界の中、なぜか平然とどこかへ飛んでいく影を見た。友は、何の憂いもなく、「じゃあな」というように、いつもの別れのように手を振って遠くに消えていった。彼は、黄金を手放したんだ。

________________________________


 タイマーの叫びに身を起こした。そして、すぐ目の前に一枚の絵が飛び込んできた。なぜかお化けでも見たかのようにビクッと体が震える。


 私の目覚めを待っていたのは、うっそうとした密林だった。蒸し暑いほど緑で覆われたジャングルの景色。どこかルソーの『夢』を思わせる作品。


 私は急いで鳴り響くタイマーを切って、歯ブラシを口に突っ込むとその絵に向き合った。


 そして、ゆっくりと思い出す。


『――実は、やっぱりまだ絵を書こうと思うんだ。なんか、絵を書かない生活って、もう違うんだよ。表現できない生活は、思った以上に窮屈でさ。ほら、ルソーだって日曜画家って呼ばれていたんだぜ。公募とかコンテストとか、とりあえず辞めてさ。日曜画家で楽しくやっていこうと思ってるんだ。……だからさ、もしあの書きかけの絵が残っているなら返してくれないか? もちろん、新しいカンバスと交換で』


『ごめん、もう塗りつぶしてしまったんだ』


それが私の答えだった。


 着信がきた瞬間は、まだあの絵は渡された時の状態そのままだった。でも、その言葉を聞いた瞬間私はすぐに塗りつぶした。


「何が日曜画家だ。それはルソーへの蔑称だろっ。そんな奴にこの絵は渡さない。この絵の続きを絶対に描かせない!」


 必死になって塗りつぶした。

 そして、ジャングルで覆い隠した。


 この密林の奥の奥。そこには私だけの黄金郷があるのだ。


 私はじっくりと絵を堪能した。表面だけでなく、この中身も味わえるのは世界で私だけであり、この絵の真の価値を見出せるのも私だけであった。


 故に、この絵は何の成果もあげることができなかった。賞も貰えず、ミセス・フジノもこの絵の黄金には気づけない。目からX線でも出せない限り誰も気づけないだろう。


 公募に出した作品は帰ってはこない。結局あの黄金郷も、ジャングルも、すべて一つの夢のように消えてしまった。


 しかし、私は未だ筆を持っている。日曜画家じゃない、画家志望として。今までと同じような不安を抱えて、毎日苦しんで、自分の絵を書いている。朝起きて、ふと見たときに安らかな気持ちになれるような作品を今は目指しながら。


 今もなお、こうやって書き続けられることが不思議でならないが、一つ確かなことがある。あの黄金郷はまだ、私の中にある。どうしても不安な時、自信を失ったとき。私は、ふらりと琥珀色の世界に足を運ぶのだ。


 いつか、いつか必ず私が完成させる。


 未完成のまま、あの世界は密林の深く、奥深くで。


 私のことをずっと、今も待ってくれているのだ。

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