第16話

 玲は大きく耳を動かした。遠くの音まで拾う耳に聞こえてきたのは、不快な咀嚼音。そして、朧から尋常ではない霊力を感じ取った。

 居間でくつろいでいた玲は慌ててみつの部屋に向かう。勢いよく扉を開けると、朧が隅から隅まで掃除をしていた部屋が凄惨なものになっていた。


 寝台に染まる赤色。絵の具をかけるようにそれは壁にまで飛び散っていた。


「あ、兄貴……まさか」

 怯える目を朧に向ける。朧から感じる霊力が強すぎて肌が痛い。

 妖怪には霊力がある。どれだけ強いかで格が決まるものだ。一般的には修行をして霊力を溜めていくのだが、手っ取り早く手に入れる方法があった。

 妖怪達の間では禁忌とされている方法。

「……喰ったんだな」

 人間を食べること。


 6本あった尾は、新たな霊力を手に入れ7本になっている。玲は後退りした。

 妖怪が、人を喰らう事を禁忌としているのには理由がある。1つは人間との協定があること。もう1つは自我を失ってしまうため。強大な霊力と引き換えに、人を喰らった妖怪は獣のように成り果てる。


 今の朧も獣だった。ぎらりと光る鋭い牙の間からは、涎と血が混じった液体が垂れている。次の獲物を狙う獰猛な獣のようだった。

 あんなに優しかった兄の面影はどこにも無い。玲の目の前にいるのは、自分を餌だと認識した巨大な狐だった。


「文福! 逃げろ!」

 玲はみつの部屋から走り去る。朧が体を打ちつけ扉を壊し、玲の後を追いかける。

 玲は居間でお茶を啜っていた文福を掴むと、翠玉邸を出た。


「玲様、何が起きているんです!?」

 首の後ろの皮を片手で掴まれて宙ぶらりんになった文福は、必死に走る玲に問う。彼の返答は無かったが、文福は後ろを見て察した。

「やっぱりあの人間、元の世界に帰しておけば良かったんだよ!」

 そうすれば玲が好きだった朧のままだったろう。ぎり、という音が聞こえそうなくらい歯を食いしばる。


 人間を寄越せ、もっと喰わせろと言うように、朧の咆哮が響く。街の建物は半壊状態で、逃げ惑う妖怪達がお互いを押し合う。誰もが朧から逃げようと必死になっていた。

「玲様、翠玉邸に朧様を縛り付けましょう」

「そうしたって兄貴は元に戻るのか?」

「戻らないでしょうが、そうするしかありません。このままでは街が壊れてしまいます」

 玲は文福の首の皮を掴んで走る。暴れ狂う朧の元へ。


「文福、頼んだ!」

 皮を掴まれたまま、文福は呪を唱える。効いているのか朧が動きを止めた。このまま縛り付けられる、と思った時だった。

 7本の尾が文福を襲う。文福を守るため、玲が立ち塞がる。しかし、圧倒的な強さに歯が立たないまま、玲と文福は吹き飛ばされてしまう。


 一瞬だけ金の瞳が二人を捉えた。光を戻した瞳は迷いを浮かべる。顔を背けると、朧は山の方へ去っていく。

「兄貴!」

 玲の叫びに振り返る事なく、朧は駆けていった。


 その後、玲は長代行として街の復興に尽力する。妖怪達の協力もあって、街は元通りになった。しかし、朧は戻ってこないままだ。


「明日は花嫁送りの日ですね」

 文福は空を飛ぶ鳥の妖怪を見上げる。花嫁送りが近々行われる事を知らせる鳥の妖怪、#華燭__かしょく__#。華燭が空を3日間飛ぶと、その2日後に花嫁がやって来るのだ。

 本来ならば婚礼の儀式を済ませると、花嫁送りは行われない。だが、朧とみつは儀式をしていない為に花嫁送りが続いてしまっているのだ。


 玲は文福と同じように華燭を見る。

 朧が居なくなってから半月。鳳仙の方から朧の霊力を感じるが、動きは感じられなかった。

 どうやって朧の自我を取り戻すか。玲と文福は古い文献を読み漁るが、解決策は見えてこない。


 何も出来ない日々が続き、花嫁送りの日がやって来た。代行である玲は正式な長ではない。その為、妻を娶ることは出来ないのだ。やって来る花嫁に事情を話し、元の世界に帰ってもらおうと玲は湖の畔で花嫁が現れるのを待った。


「何だか今日は風が強いですな」

 文福は毛をなびかせながら言う。確かに文福の言う通り、強風だ。しかも嫌な風だった。不吉な予感がする。

「胸騒ぎがする……」

「あ、小舟が見えてきましたよ」

 霧の中から現れた小舟の影。様子がおかしい。


 玲はゆっくり近付いてくる小舟へと歩き出す。着物が水に濡れて重くなるが、気にせず向かう。水がちょうど腰辺りになるくらいの深さで、小舟に追い付いた。

「なんだこれ……」


 小舟に花嫁は乗っていなかった。

 玲の目に入ってきたのは、血まみれになった白無垢だけだった。

「文福、見てくれ!」

 水面を蛙のように跳ねながら文福がやって来る。小舟の中を覗いて言葉を失った。

「兄貴だ。人間を求めて降りてきてる」


 朧の霊力を探すが、既に場を去っているのか近くには居ないようだった。

「兄貴を止めないと」

 玲は鳳仙の山を見やった。

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