第3話
日が昇りきっていない時刻に椿は目が覚めた。昨日はあのまま何も食べずに眠ってしまった。空腹を知らせる腹の虫に起こされる。
「そういえば、お風呂も入ってなかったなぁ」
化粧は眠る前に落としたが、湯浴みするのは失念していた。
「文福さん、いる?」
虚空に向かって狸の名を呼ぶが、返事はない。
まだ早い時間だ。文福もきっと眠っているのだろう、と椿は部屋を出た。昨日は文福についていくだけだったので、屋敷の中はあまり見ていない。
散策がてら風呂場を探そうと歩いていると、廊下から庭が見えた。池にいる鯉に餌をやっている玲がいた。
「玲さん、おはようございます。早起きなんですね」
近付いて声を掛けると返事もなく、こちらを見ることもなく、玲は鯉を眺めている。しかし、玲の狐耳は椿のいる方向に立っていた。
「お風呂場ってどこにあるんですか?」
「……来い」
玲は機嫌が悪そうに立ち上がる。そのまま歩き出す彼に、椿は慌てて追いかけた。
「鯉がお好きなんですか?」
「別に」
「このお屋敷、とっても広いですけど私と玲さんだけなんですか? 文福さんはどこに居るんですか?」
「文福は隣の家で暮らしてる。あいつは朝は弱いから、朝だけは身の回りの事は自分でやれ」
風呂場に案内してもらう道中、椿は玲に質問をした。初対面ではあの態度だったから嫌われているのかと思ったが、少なくとも会話はしてくれるらしい。
「ここだ、風呂の使い方を俺に聞くなよ」
幾つか廊下の角を曲がり風呂場に辿り着く。椿は、ありがとうございますと言って玲を見つめた。
「まだ何かあるのか」
苛立つ玲の6本の尾は壁を叩いている。
「花嫁送りって人間の花嫁を迎えるのが本当の儀式なんですよね?」
「それがどうした」
「貴方は私を食べないなら、私をどうするんですか?」
玲の青みがかった灰色の瞳が揺れた。
「結婚はしないし、喰わない。第一、お前みたいなちんちくりんを喰っても美味くないだろ」
そう言って玲は、もういいだろと去っていく。玲の背中から目を逸らし、椿は風呂に入った。
「食べられないし、結婚もしないんだったら、追い出されるまでここに居ても良いよね?」
湯船につかりながら椿は独り言を呟く。
向こうに帰っても居場所など無い。それに帰る手段も分からない。
この世界の住人達が善い妖怪なのかは知らないが、玲も文福も椿に危害を加える気はないようだ。
それならば、この世界を楽しもうと椿は決めた。
お湯はちょうど良い温度で、窓からは小さな庭園が見えた。風呂を楽しめるよう設計されているのだろう。
風呂から出た椿は気持ちの良い気分のまま、台所へと向かった。台所は風呂場のすぐ近くにあったので迷うことはない。
お腹も空いたので何か作ろうと部屋に入ると、台所に隣接する居間に玲が座っていた。
「玲さん、お風呂ありがとうございます。ところで何か作ろうと思うんですが、食材って勝手に使っても良いんですか?」
「お前もここに住んでるんだから俺に聞くな」
どうやら使っても良いらしい。分かりにくいな、と思いながらも食材がどんなものか見る。
床下に食料庫があるらしく、中を覗くと野菜や調味料が入っていた。大根、人参、葱、豆腐。味噌もある。
「その隣に魚もある」
食材を探す椿に玲が声をかけた。玲の言うように、そこには新鮮な魚がある。
椿は手にした食材で、味噌汁と焼き魚を作る。
「玲さんも召し上がりますか?」
無言で頷くのを見て、食卓に料理を配膳する。
玲の目の前には、炊きたての白米と、味噌汁、焼き魚と、文福が作っていたらしい漬け物が並べられた。
「お口に合うか分かりませんが……」
椿が座ったのを見て、玲は手を合わせ箸を取る。まずは味噌汁を口に含む。
「どうですか?」
返事はないが、玲の耳がぴくりと動く。焼き魚に手を出した玲は目を見開いた。
「美味い」
またぴくりと耳が動いた。尻尾がわらわらと動く。どうやら喜んでいるらしい。
それから二人は無言で食事をした。玲は余程気に入ったらしく、鍋ごと味噌汁を飲み干す。
「ご馳走さまでした」
二人揃って手を合わせる。椿は誰かと食事をしたのが随分久しぶりだった。
「良いですね、こういうの」
「何がだ?」
「誰かと食事をするって楽しいですね」
会話がなくとも美味しいと思ってくれるのが分かる。そんな相手に料理をするのは楽しい。一緒に食べても楽しいんだと椿は感じた。
その事を伝えると、玲はふうん、とそっぽを向いたが耳と尻尾がせわしなく動いているので、嬉しいらしい。
玲とも仲良く出来そうだ、と椿は微笑んだ。
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