第2話
花嫁送りが行われる場所は、
瑞鶴湖の向こう岸が、あちらの世界との境界線なのだという。湖にはいつも濃い霧がかかっていて、椿は向こう岸を見たことがない。本当に端があるのだろうか、と不安に思いながらも小舟へと足を乗せる。
無事、小舟に乗れた椿は、ふと後ろを振り返る。そこには、相変わらず無表情の父と、同じ白無垢姿で微笑みを浮かべる桜、その桜に夢中な北里が見えた。彼等は椿に興味がない事が嫌でも伝わる。
泣いているのは昔から世話をしてくれていた使用人達だけ。他の住民は物珍しそうにこちらを見ている。
また鐘が鳴った。それを合図に小舟は進む。櫂を使って椿は岸へと進めた。
だんだんと皆がいる岸から離れていき、やがて霧に包まれて見えなくなった。
ひたすら前に進むが、霧が濃くて辺りが全く見えない。自分がどこにいるのかも分からなかった。霧のせいか、気温も低くなっていく。漕ぐ手が氷のように冷たくなっている。
もう漕ぐのを止めよう、と思った時だった。
暖かい風が一方向から吹いてくる。椿は、風が吹いてくる方向に小舟を進めた。不思議な事に、風に逆らって漕いでいるはずなのに、小舟は引っ張られるようにして勢いよく進んでいく。
やがて霧が晴れ、辺りの景色が明確になった。
「何これ……」
椿を待ち受けていたのは岸で待つ何か。人のように見えるが、獣のような手だったり、兎のような耳が生えていたり。さらには、建物と同じくらい大きい蛙がいた。
そこにいたのは妖怪達だった。
椿が漕がなくても、小舟は岸にたどり着く。
「花嫁様がやって来ましたぞ!」
老いた狸が嬉しそうに声を上げる。椿は差し伸べられた狸の前肢を掴んで、岸へと上がった。
白無垢姿の椿を見た妖怪達は歓声をあげる。
あまりの喜びように椿が呆然としていると、足元の狸が微笑みを浮かべて、手を握ってきた。
「この度は
人語を操る狸に戸惑っていると、失礼しましたと狸が自己紹介をする。
「儂は
文福と名乗る狸は、傍にいた背の高い無表情の人間を紹介した。
見た目は人間だが、頭頂部には狐の耳が生えている。後ろには輝く銀の毛並みをした6本の尾がゆらゆらと動いていた。さらに特徴的なのは、左目を眼帯で覆っている所だ。
「玲様、花嫁様にご挨拶を」
文福は小声で告げるが、玲と呼ばれた妖怪はふてぶてしく、椿を片目で睨み付ける。
「玲だ。言っておくが俺はお前とは結婚しないからな」
「玲様! 初対面で一体何をおっしゃいます!」
窘める文福の声は届かず、玲はそれだけ言うとどこかへ去って行った。
「申し訳ございません、花嫁様。玲様はいつもあんな感じでございまして……。とりあえず、翠玉邸へとご案内致します」
丁寧にお辞儀をする文福に椿は疑問を投げ掛けた。
「私はこれから食べられるんですか?」
その言葉を聞いた文福は、悲しげに笑った。
「花嫁送りは生贄を要求する儀式では無いのですよ。その名前の通り、花嫁に人間の世界からこちらに来てもらう儀式なんです」
ということは、椿は食べられない。その言葉に張りつめていた神経が緩む。
翠玉邸と呼ばれる屋敷は、中華風の広くて立派なものだった。
文福曰く、ここには長である玲と花嫁の椿が住むのだという。
「とりあえず、今日はお疲れでしょうからお部屋でお休みください。食事はいつでもご用意出来ますので、文福を呼んでくだされ」
「ありがとうございます」
何から何まで丁寧におもてなしをしてくれる文福にお礼を言うと、とても嬉しそうにふわふわの尻尾を揺らした。
「そういえば、花嫁様の名を聞いておりませんでしたな」
「私は椿と申します」
「椿様……良いお名前です」
文福はそう言うと、一礼して部屋を出た。
椿に用意された部屋は、大きな丸窓から陽光が差し込む明るい部屋だった。部屋に繋がるテラスから屋敷の庭と池が見える。池の中を泳ぐ優美な鯉の姿まで見ることが出来た。
服を着替えて天蓋付きの寝台に寝転がる。色々あったが、この世界は楽しそうだと思った。
だんだんと瞼が重くなっていき、いつの間にか椿は深い眠りに落ちていた。
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