08「この御恩は必ず返さなければならない」
(ええ……!?)
思いがけない言葉にヴェロニカは心の中で叫んだ。
「え、ええと……それはつまり、エリアス様が私の執事になるということですか?」
ボーハイツは執事の家。仕えるというのは、つまりそういうことなのだろう。
「はい」
エリアスは顔を上げた。
「誠心誠意務めさせていただきます」
(……どうしよう)
執事といわれても、そういうものが自分に必要なのかも分からない。
(でも断るのも……きっと失礼なのよね)
家訓とも、家長の命令とも言っていたし。エリアスにとってそれは果たさなければならないものなのだろう。
(だけど執事なんて荷が重すぎるし……あ、そうだわ)
「……執事になるというのは、まだ待ってもらっていいでしょうか」
考えて、ヴェロニカは口を開いた。
「父に相談しないとなりませんし、それにまだ学生なので執事をつけるというのは早いかと……」
ヴェロニカの世話をする専用の侍女はいるが、執事はそれよりもずっと権限が強い。
未成年のヴェロニカには過分な存在だ。
「ああ、そうですね……」
エリアスは小さくうなずいた。
「ですから、そのお話は卒業してから改めて……」
「では、在学中の二年間は見習い期間ということで務めさせていただきます」
保留にと提案しようとしたヴェロニカの言葉を遮ってエリアスは言った。
「見習い……」
「はい。ヴェロニカ様や侯爵閣下に認めてもらえるよう、誠心誠意努力いたします」
「……あ……はい……よろしくお願いいたします」
エリアスのあまりにも真剣な眼差しに、それ以上断れずヴェロニカは返事を返した。
「ところでヴェロニカ様はどちらかへ行かれる予定でしたか」
「あ、ええ。図書館へ行こうかと……」
「ではお供をさせていただきます」
エリアスはすっと立ち上がった。
(うーん……おかしなことになったわ)
図書館で本棚を眺めながらヴェロニカは思った。
(まさかあの時の少年が同級生で、しかも私の執事になりたいと……)
不思議な巡り合わせだ。
前世で怪我をしたエリアスの代わりにヴェロニカが怪我をして、それがきっかけとなって色々変化して……。
「目的の本はおありですか?」
背後からエリアスの声が聞こえた。
「あ、ええ。アダム・アンカーソンの小説を探しているんです」
「アダム・アンカーソン……申し訳ございません、聞いたことのない名前です」
「有名ではないですから、他国の方ですし。でもとても面白い推理小説を書くんです」
彼が有名になるのは来年だ。
今はまだ無名作家の一人にすぎないから知らなくてもおかしくはない。
「ヴェロニカ様は推理小説がお好きなのですか」
「小説全般が好きなんです。小説ならなんでも読みます」
「そうなのですね。ああ、こちらではないですか?」
エリアスは本棚の一番上を示した。
そこには確かに数冊のアダム・アンカーソンの本が並んでいた。
「どの本でしょう」
「一番左は読んだことがあるので、その隣にします」
ヴェロニカが示した本をエリアスが取った。
(背が高いと簡単に取れるのね。さすがだわ)
台に乗らなければ届かないヴェロニカとは大違いだ。
「どうぞ」
「ありがとうございます、エリアス様」
「その『様』はやめていただけないでしょうか」
エリアスは困ったように眉を下げた。
「ヴェロニカ様は私の主人になる方ですから」
「……でも今はまだ違います」
「それでも、爵位も下ですし。丁寧な口調もおやめください」
「そうです……そうなのね」
ヴェロニカは言い換えて答えた。
「私はこちらの本を読んでみます」
エリアスは左側の本を取った。
「推理小説に興味があるの?」
「主人が興味あるものを把握することは執事にとって重要ですから」
ヴェロニカを見ると、エリアスは笑みを浮かべてそう答えた。
*****
「――これでよし」
家族宛の手紙を読み返してエリアスはうなずいた。
手紙には、やはりヴェロニカが六年前の恩人だったこと、執事見習いとして側にいることを認めてもらったことなどを書き記した。
(ヴェロニカ様はとても美しくて優しく、素晴らしい方だったな)
昼間のことを思い出して自然と笑みがもれた。
六年前のあの日、エリアスは市に行ってみたいという弟アントンを連れて街へ出かけていた。
暴走した馬車が自分たちへ向かってきているのは瞬時に理解したが、身体が動かなかった。
それでも弟だけでは守らなければと思った瞬間。
目の前に宝石のように綺麗な青い瞳が現れ――ドン、と突き飛ばされた。
激しい音と馬車のいななく声が響き渡り、頭の中が真っ白になった。
(……え……)
弟の泣き声に我に帰ると、目の前に頭から血を流しながら少女が倒れていた。
「お嬢様!」
人混みをかき分けて現れた二人の男が少女にかけより、血まみれの頭に布を巻きつけ抱え上げて立ち去っていくのをエリアスは呆然と見送るしかできなかった。
ボーハイツ家は元々平民だった。
先祖が身につけた執事としての能力を高く評価され、多くの貴族に望まれた。
その技術や知識を広く教えて欲しいと請われ、三代前の当主が子爵位を授かり、王国の支援を得て学校を作ることになった。
執事たちの能力が上がることは貴族たちの生活の質が上がり、国益にもつながるからだ。
エリアスたちを救った少女はボーハイツ家にとって大恩人だ。
おそらく少女がエリアスを突き飛ばさなければ、兄弟は大怪我をしていたか、死んでいたかもしれない。
少女の素性は分からなったが、しばらくして父親があるうわさを耳にした。
王太子の婚約者が馬車の事故で大怪我をし、それが理由で婚約を辞退したというのだ。
その婚約者がエリアスたちの命の恩人ではないのか。
そう思いフォッケル侯爵家に手紙を出したが、「娘の怪我は本人の行動の結果であり、また周囲に少年たちがいたか分からないため関係は不明だ」と返事が届いた。
二つの事故が同じ事故かは明らかにせず、ボーハイツ家の責任はないとしたのだ。
エリアスたちが王太子との婚約解消の原因となれば多額の賠償金が必要になるかもしれない、その配慮もあるのだろう。
「だが、この御恩は必ず返さなければならない」
ボーハイツ子爵は息子たちに言った。それがボーハイツ家の家訓でもあるのだ。
フォッケル家の令嬢とエリアスは同じ歳。今は領地で療養中だという令嬢も寄宿学校には入るだろう。
学校で会った時に本人に確認すればいい。
入学するまでエリアスは学問や護衛術などを必死に学んだ。
あの時、自分は動けなかったのに自分よりも小柄な少女は動けた。それが悔しかった。
(ああ、あの方だ)
入学式。ヴェロニカの姿を見た瞬間エリアスは分かった。
夜になる直前の空のような、紫がかった深い瑠璃色の長い髪。
六年間脳裏に焼きついたままの青い瞳はそのままに、少女はずっと美しく成長していた。
式後、すぐに声をかけたかったが、ヴェロニカは友人と一緒にいて、また王太子となにか言葉を交わしその後二人は一緒に寮へと帰っていったため接触することはできなかった。
翌日ヴェロニカが一人になったのを見計らい、エリアスは声をかけた。
万が一別人かもしれないという可能性もあったが、やはりヴェロニカはあの時の少女だった。
怪我が原因で婚約を解消したことは知っていたが、まさか額に傷が残ったままだとは思いもよらなかった。
女性は見た目が重要視される貴族社会で、顔に傷があることは大きな負い目となる。
けれどヴェロニカは傷の原因であるエリアスを責めることはなく、むしろエリアスと弟を気遣うほどだった。
(なんと美しい方だろう)
容姿も心も美しいヴェロニカが、自分のせいで王太子妃という輝かしい未来を絶たれてしまったのだ。
(なんとしてもヴェロニカ様を守らなければならない)
それが一族の、そしてエリアスの意思だ。
執事という言葉に戸惑うヴェロニカに言葉を尽くし、見習いとして側にいることを許可させた。
(あとは誠心誠意、彼女に尽くすだけだ)
改めて決意しながら、エリアスは手紙を便箋に入れると封をした。
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