07「お会いできる日を待ち望んでおりました」

 テストは言語学と数学、歴史の三教科で行われる。

 明日は休日で、このテスト結果を元にクラス分けを行い、明後日の朝発表されるのだ。


「難しかったわ……」

 最後の数学が終わるとルイーザがほうと大きく息を吐いた。

「図形の問題は苦手なの」

「そうなの?」

「ヴェロニカは全部解けたの?」

「ええ」

 前世のお妃教育で仕込まれたし、今世でも家庭教師から学んでいた。

 この試験問題も、全て覚えていたわけではないが、ヴェロニカにとっては過去に解いたことのある問題だ。


「すごいわね。私はどうしても数学が苦手だわ」

 ルイーザはもう一度息を吐くとお腹をさすった。

「終わったと思ったらお腹が空いちゃったわ」

「まあ。じゃあ食堂に行く?」

「ええ……あ、でもカフェがいいわ」

 ヴェロニカの言葉にルイーザは首を振った。

 学校には食堂とカフェが一つずつある。

 食堂は昼食の時間しか空いていないが、カフェは一日中利用することができる。

「カフェ?」

「ケーキが食べたいの! 頭を使ったから甘いものが欲しいわ」

「ふふっそうね」

 ヴェロニカは笑顔でうなずいた。



「ほら、あの右側の人よ」

「怪我はどこにしているのかしら……」

 二人がカフェでケーキを楽しんでいると、ひそひそ声が聞こえてきた。

「……またヴェロニカのうわさ話ね」

 ルイーザが眉をひそめた。

「ホント、うわさが好きな人たちね」

「仕方がないわ」

 お茶を飲みながらヴェロニカは言った。

「王太子殿下の婚約者選びは今の社交界で一番の話題だから、私のこともうわさになるだろうって。お母様が言っていたもの」


 十六歳になっても王太子が婚約者を定めていないというのは異例なことらしい。

 そのため様々な憶測や邪推があるのだろう。

(昨日の殿下の言い方だと、私への後悔が消えれば婚約者を決めるということなのかしら。……まあでも、来年アリサが入学すればきっと彼女になるでしょうし。それまでの辛抱だから)

 それに、ヴェロニカとフィンセントが友人だと知られれば変なうわさも減るだろう。


「王太子殿下といえば、昨日送ってもらった人。ディルク・コーレイン様っていって殿下の側近らしいんだけど、ヴェロニカのことを聞かれたわ」

 ルイーザが言った。

「え? ……なんて?」

「関係を聞かれたから友人だって言ったら、どういう人かって。だからとっても優しくていい子だって答えておいたわ」

「……ありがとう……でもどうしてそんなことを聞いたのかしら」

「さあ?」

 ルイーザは首をかしげた。


(殿下の友人として変な相手じゃないかという確認かしら。そういえば前世でも彼に言われたわ、殿下の婚約者としてふさわしくないって)

 ヴェロニカのことを最初に「悪女」と言ったのもディルクだったような気がする。

(それに対して『私が悪女なら殿下を誘惑する者たちは淫女だわ』なんて言い返していたのよね……)

 今のヴェロニカにはとてもそんな言葉は言えないけれど。


 あの時は自分自身で心を制御できなくて。それでも毎日必死だったように思う。

(必死になる方向性が間違っていたのよね)

 フィンセントを守るディルクも大変だったろう。そんなことを思いながらヴェロニカはケーキを口に運んだ。


「お腹が満たされたら今度は眠くなっちゃった」

「え?」

 予想もしていなかったルイーザの言葉に、ヴェロニカは思わず聞き返した。

「眠いの?」

「ええ。寮に帰ろうかしら。ヴェロニカは?」

「私は図書館に行くわ。昨日行きそびれたから」

「そう。じゃあ先に帰るわね」

「ええ」

 ルイーザの後ろ姿を見送って、ヴェロニカは歩き出した。



(あの本はあるかしら)

 前世で読み損なった作家の本が何冊かあった。

 新作がベストセラーとなったため、他の本も人気が出て借りられなくなってしまい、一冊しか読めなかったのだ。

 長期休暇以外は外出するのに許可が必要で、買い物がしたいという理由だけでは許可がおりなかったし、まして警備が必須の王太子の婚約者として、一人で本を買いに行くなどできるはずもなかった。

 だから本は学校の図書館にあるものしか読めなかったのだ。


(今思えば、家に頼んで送ってもらえばよかったのよね)

 気軽に家に帰ることはできないが、本など学業に必要だと認められるものは寮に送ってもらうことができるのだ。

(次からはそうしよう。ふふ、こういう時は前世の記憶があると便利ね)

 図書館にある本はだいたい把握している。それに以前読んだもの以外の本を読めば、在学中に二倍読めることになるのだ。

(あの時は……本を読む間だけ、心が穏やかだったわ)

 本の世界に没入している時は嫌な感情を忘れることができる。

 ヴェロニカにとって読書はとても大切なものだった。



「ヴェロニカ・フォッケル様」

 名前を呼ばれてヴェロニカは振り返った。

「不躾に申し訳ございません。私、エリアス・ボーハイツと申します」

 一年生の男子生徒が立っていた。

 黒髪に黒い瞳。

 一見冷たそうに見えるが知性的な顔立ちの青年だ。

(この人……ボーハイツって、あの?)

 ボーハイツ家は二百以上ある子爵家の中でも特に有名な家の一つだ。

 代々非常に優秀な執事を出す家柄で、当主やその直系は数多の家から仕えて欲しいと望まれている。

 執事を養成する学校も経営していて、その学校の卒業生は他と比べて給料も良く、平民にとっては憧れの学校だ。


 エリアス・ボーハイツとは、前世で直接関わったことはないけれど。

 彼のことは知っている。

 長男だが幼い時に事故で怪我をしてしまい、利き手が不自由になり執事になることは無理だとされ、嫡男にもなれなかったと聞いたことがある。

 そうして彼は二年の時に、男子生徒から襲われそうになったアリサをかばい、命を落としてしまうのだ。


(その彼がどうしてここに……?)

「ヴェロニカ様は、六年前に起きた馬車の事故を覚えておいででしょうか」

「六年前……」

 エリアスの言葉に、ふいにヴェロニカの脳裏に六年前の記憶が蘇った。

 あの事故現場にいた少年と、エリアスの髪は同じ黒色で……。

「あの時の……?」

「ヴェロニカ様にお会いできる日を待ち望んでおりました」

 エリアスは綺麗な笑みを浮かべると、ヴェロニカの前に跪いた。


「貴女は私たち兄弟の恩人です。今日までお礼を申し上げることすらできず、申し訳ございませんでした」

 深く頭を下げるとエリアスはそう言った。



「え、ええと……。どうして私だと分かったのでしょう」

 ヴェロニカには事故直後の記憶はないけれど、すぐに護衛が診療所に運んだと聞かされていた。

 少年たちの素性も聞いていなかったから、互いに名乗ることなどなかっただろう。


「ヴェロニカ様が馬車の事故で大怪我をされたといううわさを耳にしまして、調べましたら時期が一致していたのでおそらくそうだとは思っていたのですが。昨日の入学式でお顔を拝見して確信いたしました」

 頭を下げたままエリアスは言った。

「我々のせいで大怪我をさせてしまい……さらに王太子殿下との婚約を解消されたなど……謝罪してもしきれません」


「あ、あの。そんなに気になさらないでください」

 地面に頭がつきそうなくらい深く頭を下げたままのエリアスにヴェロニカは答えた。

「実際は大怪我というほどでもなくて、ただ額をぶつけて傷が残っただけなので……」

 かなりの出血があったそうだから、あの時そばにいたエリアスたちには大怪我に見えただろう。


「額に傷!?」

 エリアスはガバッと頭を上げた。


「女性の顔に傷を……」

「あっこうやって前髪で隠せますから」

 見る間に顔が真っ青になったエリアスにヴェロニカは慌てて前髪を指さした。

「それより、お二人は怪我などしなかったでしょうか」

「全くの無傷です。……そのように我々の心配をなさるようなお優しい方こそ王太子妃となるのにふさわしいのに。我々のせいでその未来を潰えさせてしまうなど……」


(責任感が強い人なのかな……)

 ヴェロニカは身体を震わせるエリオスを見つめた。

 執事を家業とするのだから、きっと責任感や礼儀といったものに厳しいのだろう。

(でも……正直私は助かっているのに)

 エリアスには言えないが、この傷で前世を思い出せたし、婚約破棄されたから今のヴェロニカがあるのだ。

 むしろ彼には感謝したいくらいだ。



「あなた方のせいではありません」

 ヴェロニカは口を開いた。

「馬車が暴走したところにたまたま私たちが居合わせた。そうして私が怪我をした。ただそれだけです」

「ヴェロニカ様……」

「それにあの時に飛び出したのは私が勝手にしたことです。あなたが責任を感じる必要はありません」

「――ありがとうございます」

 エリアスは深く頭を下げた。

「ですが、ヴェロニカ様が命の恩人であることに変わりはありません」


(そうか……この人は前世のように怪我をしなかったのね)

 ヴェロニカは気づいた。

 代わりに自分が怪我をしたから、彼は無傷だったのだ。

(彼の未来も変えられたということかしら)

 まだこの先どうなるかは分からないけれど、少なくとも利き手が不自由になるということはなかったのだ。

(来年、彼が死ぬ未来も変わったかもしれないのね)

 そうあればいいとヴェロニカは思った。

 せっかく無事だったのだ、彼にはこのまま健康に長生きして欲しい。


「どうぞ立ってください」

 ヴェロニカは跪いたままのエリアスに言った。

「お礼の気持ちは十分伝わりました。ですから、もうあの事件のことは終わったことにしてください」

「そういう訳には参りません」

 エリアスは立ち上がらず顔だけを上げた。


「ボーハイツ家には、受けた恩は必ず返さなければならないという家訓がございます」

 ヴェロニカを見つめてエリアスは言った。

「私と弟は、ヴェロニカ様に命を救われました。ですからこの御恩は私の命をかけて報いたいと思います」

「え? そ、それは……重すぎるのでは」

「いえ。これは家長である父の命でもあります」

 エリアスは再び深く頭を下げた。

「私エリアス・ボーハイツは、ヴェロニカ・フォッケル様を主人として忠誠を尽くし、一生お仕えいたします」

 頭を下げたままエリアスはそう告げた。

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