4.ロータスの花言葉

 重い泥の中に心は沈んでいくのです。生臭い泥の悪臭がこの身から吹き出しそうなほど、私は人生の泥沼に落ち込み、この両手両足はミリも動かせない。


 福岡の方で働いているユメコが一週間も休みをもらって帰ってきてくれました。私のことでユメコの心も泥に沈んでいくのではと思うと怖く。何度も「私は大丈夫ですから」「せっかくのお休みなんだし、向こうのお友達と遊びに行って来なさいな」と言いますが、よっぽど私の顔色が悪いのでしょう。まるで病人を看病するように、私につきっきりで離れようとしません。


 もしかしたら、ユメコも怖いのかもしれません。なんせ、祖父母どちらも未だ他界しておらず、元気に暮らしているのですから、彼女にとって父親が初めての別離となるわけです。長年共に暮らしてきた父親ともう会えないという現実が彼女を飲み込んでいる。


 私の夫、ケンジさんはもうこの世に居ません。


 そんな現実を受け止めながらも受け止め切れない。触れられそうなのに触れられない。この家にどこからでも彼の声が聞こえてきそうなのに、もうあの声が聴けられない。


 低く優しい声でした。


 夫婦長い間に愛は離れ行くものだと言います。確かに私たちの心は何時しか向き合うことを忘れていた時期がありました。ユメコのことで必死で、彼は会社の世界。私は家事の世界に閉じこもっていたのです。


 そして、ユメコが大学に行き家に再び二人っきりになってからはまた、ゆっくりと向き合っておりました。そして、もう一度私はあの人に惚れたのです。


 これからずっと彼と人生を歩めることが嬉しく、その過程の中で様々な壁があることに胸を躍らせていました。年を取り、彼が定年になった後は二人で「あんなこともあった」と腕を組んで薔薇園を回るはずでした。


 あぁ、それらすべてが、理想から妄想に変わってしまったこと。どうすればいいのでしょうか。


 そうした浮ついた妄想達がドロドロに腐り果てて今の私に降り注いできたのです。ふと、当たり前のようにそんな将来に思いを馳せてしまった瞬間、彼がもういないことをハッと悟った瞬間。嫌に薫る泥臭さ。


 未だ、泥中に愛はあるのです。愛は動けないのです。


「外に出ましょう。お母さん。ここままじゃ、私もう一週間お休みを頂かないといけないわ。それはいけないの、私後輩のミケちゃんにお仕事預けてきちゃったのよ。ミケちゃんはいい子なんだけど、事情があって借りをあまり作りたくないの。それに、担当先の吉塚さんとのお食事もお断りしたんだけど来週にずらしてくださったわ。私にはやることがたくさんあるの。だから、あまり心配をかけないで」


 早朝そうゆっくりと話すユメコもどこか上の空のようでした。やっぱり、私は貴方の方が心配。


「いいわ。日の光を浴びましょう。公園の蓮が見たいわ。そろそろ咲く時期だって、あの人がいっていたから」


 「お父さん」という呼び方が「あの人」に定着してしまったことに驚きました。


「お母さん。無理はよくないわ。今は、お父さんのことをあまり思い出さない場所に行きましょう。空しくなってお体を壊されたら、私どうしようもないわ。車を出しますからどこか遠くへ」


「いえ、いいのよ。私は大丈夫なの。あの人がもういないことはちゃんとわかっております。こういうのはね、後になればなるほど辛いのよ。だから、今蓮をみないと、時期を逃してしまいそうなの」


「そう……」といって、ユメコは呆れたように言葉を零しました。彼女はここにいても仕事の事ばかり心配しております。それは、早く仕事漬けの日々に戻ってこの思いをいったん忘れてしまいたいものなのだと思います。


 この子のためにも、強き母を見せる必要があるのでしょう。私自身、気乗りはしませんが、外に出ることにいたしました。あまり遠くに行く気もなく、近所の公園を選びました。


 あんな汚い小池に咲く花なんて綺麗だとは思いませんが、その薄汚いものを今は見たい気分だったのです。

 

 公園についてすぐにユメコが「飲み物でも飲みましょう」と言って池の横に立つ小さなカフェに入りました。


 ユメコが先導して店に入り、その後ろに隠れるように私も続きました。


 最近できたかと思いましたが、店内に「愛されて三年間」という文字と共に、数々のお客の写真が張り付けられているのを見て、もうそんなにたつものかと驚かされました。


「お母さんは何を飲むの?」


「そうね、アイスコーヒーを貰おうかしら」


 ユメコはコーラを頼み、二人テラス席に座りました。初夏の風はうっとおしい熱を払ってくれて心地が良いものです。ですが、蓮の花は満開と言った様子ではございませんでした。もう少し、蒸し暑くなり外に出るのも億劫になり始めた時期に、池を花畑に変えてしまうのでしょう。


 しかし、今の私にとっては、泥色に汚れた水面がのぞける今の曖昧な開花状態が心休まる物でした。


 一羽のサギが降り立って、葉の上にとまりました。そしてゆっくりと、水の上を歩くように葉の上を進んでいく。その様子を私はじっと見つめていますと、ユメコは心配そうに「今日は暑いわね」とコーラに口をつけました。


「……そうね」


「私が向こうに戻ってもちゃんとご飯を食べて、運動して、水分補給も怠らないでね。それだけしていれば、私何の心配をしなくて済むから。まだいい話の一つもないけど、私ちゃんと結婚願望はあるのよ。今は寂しいかもだけれど、いつかちゃんと孫の顔を見せるから。丈夫でいてね」


「えぇ、それはとっても楽しみだわ。あの人にもちゃんと見せてあげましょうね。あの人、ことあるごとに孫が楽しみだって言ってたもの」


「そうだったね」


 辛そうにユメコは頷く。あの人は、何事も話が早かった。ユメコが社会人になって一年目という大変な時期でも、仕事の事より「早く結婚した方がいい」「こういう男がいたら、すぐに家に連れてきなさい」そんなことを言ってたまに帰ってくるユメコを不機嫌にして帰らせていました。


 もしかしたら、どこかで死期が近いことを悟っていたのかもしれません。ユメコが今になってこんな話をしだすのも、何かに責められている思いがあるからでしょうか。私は責めるつもりなどないのですけど。


「……ユメコ。貴方がしたいようにしたらいいの。こういうときですから貴方に甘えてしまっていますけど。私は、本当は貴方にもう迷惑はかけたくないの。今後ずっと私が貴方の枷になってしまうことが怖いわ」


 そう言いますとユメコは小さく首を振った後「大丈夫、大丈夫」と言ってそっぽを向いてゆっくりとコーラを飲み進めました。


 私も、そろそろアイスコーヒーに口をつけないとユメコを待たせてしまいそうでしたので飲み始めました。その冷たさが心地よく、「あぁ、今日は暑いなぁ」としみじみ感じだのでした。

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 ユメコはもともとマサヨという名前でした。彼女の母親の家からの圧力で、祖母の名前を付けることとなったと聞いております。マサヨ、私がこの名前を聞いた時今時ではないなと、悪気もなく思いました。可哀そうだとすら思ったものです。


 ケンジさんも、これには不満も募らせておりました。結局深い話は聞けずじまいといいますか、私自身が避けていたのもございますが、分かっておりません。


 ただ、親権がケンジさんの方にあることからある程度の察しがついておりました。


 そして、私達が晴れて結婚する際に、連れ子の名前をユメコに変えたのです。ユメコは、文句ひとつも言いませんでした。そもそもまだものごころついているか怪しい時期だったので、ユメコがマサヨであった時期を覚えていない可能性もあるのです。


 ユメコは私の子ではないのです。ずっと共にいた父親を失った彼女に私は寄り添いたいと心より思いますが、役不足のように感じてならないのです。


 私はただ、彼女の枷になりたくはないのです。

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「お母さん、私。今回はもう後回しにしちゃおうかなって思っていたんだけれども。やっぱり、そうもいかないかなって思うの。そう、お父さんの部屋の片づけのことなんだれども。私、よくよく考えたら向こうに戻ったら当分こっちに帰れそうにないのよ。その間、お母さんがずっとあの部屋と一緒に過ごすんだろうなってもうと。なんだか、悲しくなっちゃって。私がここにいる間で最後にやるべきことはこれだと思うの」


 ユメコは一週間休みをもらったと言っておりましたが、いつ帰るのかは聞いておりませんでした。そんな彼女が朝急に「明日帰るわ」と言い出したのです。


 いきなり言われたものですから寂しい思いが膨らみ、もしかしたら表情に出たのかもしれません。私の表情をじっと見ながら夢は『部屋の掃除』のことを言い出したのです。


「そんなに急ぐことでもないわ。やっと、いろいろ落ち着いたところじゃない。貴方はこういった経験がないから不安に思うこともあるでしょうけど。そんなに、慌てなくていいの。忘れようとしなくていいの」


「でも、……いや、やっぱりしておくべきよ。なんていうのかしら、遺品の整理っていうとなんか嫌なんだけれども。全部捨てるわけじゃなくても。整理はしておくべきだわ。確かに、やることはやったけど。家の中はまだ何も変わっていないじゃない。私、ここにいる間ずっとおとうさんがいるように感じていたの。それで昨日外に出ていった時も、なんだかお父さんがついてきているように感じていたわ。そんな生活をお母さんがこれから続けていくと思うと。とても気が気じゃないのよ」


 ユメコの言葉にはうなづけることがありました。私のことについては心配しすぎかもしれませんが、彼女の言うようにさせてあげて、残したものを整理するべきでしょう。


 これは私一人でするべきことではない。むしろ、ユメコに全部やらせてもいいことなのです。


 ユメコにとって今回のことはとても深い傷になっているはずなのです。でも、この子はその受け入れ方がわからない。だから、私を心配するそぶりをしながら向き合い方を探しているのだと思います。彼女がやりたいのは、父の面影を消すことではなく、忘れることではなく。ただただ、心を整理したいだけなのかもしれません。


「……わかりました。少しだけ、覗いてみましょうか」


「えぇ、そうよ。それがいいわ」


 ケンジさんの部屋は二回の西側、その奥にあります。ユメコの言うように、まるであの人がこの家にいるように感じました。


あの部屋から今にも出てきそうに思えます。


「貴方が先に入りなさいな」


 一歩下がってそういいますと、ユメコは何かを気遣うように優しく笑い。小さく頷きました。でも、彼女の中にも緊張や不安が見られます。


 ユメコが扉に手をかけた瞬間。思わず目を瞑ってしまいました。まぶしかったわけではありません。見ることに少しだけ罪悪の思いがこみ上げたのです。


「……お父さんの匂いだ」


 ユメコはほぼ無意識にそんな言葉を言ったのでしょう。自分で放ったその声にすら気づかないほど呆けております。


 そして、続いた私もその匂いを嗅いで。思わず、心に思いがあふれるのを抑えきれませんでした。


 最愛の人が『死んでしまった』ことなんて、よくわからないことです。ずっと実感がないことなのです。


 でも、その瞬間。最愛の人が『生きていた』という事実が痛いほど襲ってきたのです。


 生きていた。その届きそうでどこまでも届かない。切なさ。


 私の泥中に浮いた蓮の葉。逆向いた傘に、雫が溜まる。


 重心が幾度も動き回り、立っていられない。


 愛があふれる。愛が泥中に沈む。


 ――枯れたと思っていた瞳に溢れてしまう。


「お母さん、もういいわ。時間が解決すると信じましょう。私がバカだったわ。私は私の事ばかり。全然親孝行もできていない。後悔してばかり。また、同じ過ちをしてしまったわ。ごめんなさい。こんなつもりじゃなかったの。私は母さんを責めるつもりなんかないの。本当に、お母さんはお母さんなんだから」


 結局ユメコはもう三日だけお休みをもらって私のそばにいてくれました。最後の最後で涙を見せてしまった私が悪いのです。


 あの部屋にはもう入りませんでした。匂いだけではありません。あの部屋に入ると、あの人の姿がありありと目に浮かぶのです。でも、それがただの想像であることを感じる一瞬すら耐えられないのです。


 ユメコに白旗を上げます。私は弱い母親です。私は、貴方に心配ばかりかけてしまう。


 結局、その夏は満開の蓮の花を見るまでに及びませんでした。

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 それから一年。


 ユメコは以前より一層忙しくなったようで、今年になって半年、いまだ帰ってきません。しかし、よく連絡をよこしてきます。


 お付き合いしているショウマさんのことを聞くと、思わず若々しくて私まで元気がもらえるものです。


 その日、私は外に出ました。


 去年ユメコと行った公園のカフェ。今年は、若者向けの変わった飲み物なんかも取り入れて、まだまだ活気があるようです。愛されて四年目。やっぱり、私にとってはまだできたばかりに思います。


 そして、小池には蓮の花。淡いピンクの花が静かにたたずんでおります。泥中に生きる花というのに、その純なる姿のなんと高潔なことでしょうか。どこにも泥の汚れがなく、見えない部分を冷たい泥に沈めながら、咲き誇る花弁はどこまでも可憐。


 そろそろ、部屋の整理をするべきでしょうと。急に思い始めました。


 この一年間。あの部屋のことをすっかり忘れておりました。もともと、あの人の部屋に入ることはおろか近づくこともあまりなかったものですから、気にしないとすればどこまでも気にならないものなのです。


 もう一年経ったことももありますが、あの泥中に咲く蓮の花を見ていると、なんだか今ならあの部屋に向かってもいいように思えました。


 沈んだはずの思いがどこか軽いのも。


 あの人の部屋に向かう気に起きたのも。


 ユメコがそこまで恋しく思わなくなってきたのも。


 あぁ。恐ろしく、悲しいことです。


 悟ってしまったのでしょう。


 ――私の心の泥に。蓮の花が開いてしまったのでしょう。

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