2.感謝巡り
感謝は巡り巡って世界に響く。
感謝はこの社会の血液であり、栄養である。体の細胞が赤血球から酸素を供給されるように、言葉が感謝を私たちに供給してくれる。そうして社会は生きる。
いつからこの世界に感謝の波紋が広がったのだろうか。静かな水面に落ちた、ひらりひらりと舞い降りた。一枚の青々とした落ち葉。その鮮やかな心。
それがやがて大きな波を作り、私たちを繫栄に連れ流した。
そんな、当たり前に流れゆく『ありがとう』の大切さを知ったのはとある迷信、世界が終るという何年かに一度話題に出る都市伝説的なトレンドが人々の目に留まったとある秋のお話だ。
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十二時間以上寝たことはあるか? さすがにもう寝れないと無理やり体が覚醒する感覚。まだ寝たーいが湧き起こらない健やかな朝を迎えられる。まぁ、僕が起きるのは真昼間だけれど。
その日は十三時三十分ごろに目覚めた。いや、起こされた。
それはめったに来ない、それどころか実家に戻ってから初めての経験。
一人の時間に来客が来た。僕を起こしたのはインターホンの簡素で阿保らしいぽーんという響き。
目をこすりながら、カメラを確認すると、同級生くらいの女性が立っていた。この家を訪ねる同級生といえば中学の頃の誰か、なんて思いだしていると、その顔と重なるある人物が思い浮かんだ。
「小野寺さんじゃん! 待ってて。今起きたから、ちょっと顔だけ洗わせて!」
そう伝えてカミカゼの如く顔を洗い服を着替えて、玄関を開けた。こうして目で見たらすぐにわかる。中学二年の初めに僕らのクラス転校してきたあの小野寺さんだった。
「どうしたの急に?」
彼女が僕に家に来ることなんてあの頃でもなかった。
でも一度だけ、そう、あれは卒業まで間近といったみんなのんびりとしていた時。彼女はクラスの人たちの住所を聞いて回っていた。年賀状でもくれるのだろうか、なんて思いながら教えたっきり何もなかった。
で、なんで今? あれからもう七年も経ってるんだけど。
「今日はね。篠部くんに、ありがとうを伝えに来たんだよ」
そう笑った彼女に、僕は頭が真っ白になった。
「今……『ありがとう』って言った? えっ? 小野寺さんだよね?」
「うん、そうだよ。中学で同じクラスだった小野寺ハルカだよ。覚えている?」
「そりゃあ、もう。当然」
多分クラスどころか、あの頃の生徒、先生全員が覚えているんじゃないだろうか。彼女は伝説を残したんだから。
小野寺ハルカは感謝をしない。
ありがとうを言わない。
そんな、濃い人物を記憶から消せるわけがない。
「とりあえず、入ってよ。部屋着だからちょっと寒いし」
そうやって招き入れようとすると彼女はメモ帳を取り出して何かを書き込もうとした。付箋が大量に張られてパンパンに膨れ上がった古そうなメモ帳だった。
しかし、彼女の手は止まって。開いたメモ帳を閉じた。
そして僕を見据えてまた言ったのだ。彼女の口から絶対に聞けなかったあの言葉を。
「ありがとう。お邪魔するね」
一体全体どういうことなんだよ?
明日は雪が降るのか? 世界が終わるのか?
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「……えっ? 来週世界が……終わる?」
「うん、そういうことになってるの」
なんだ、明日じゃなくて来週だったか。
なんて、軽々と受け入れられることでもない。
「こういうことなんだけど……」
そう言って彼女が見せてきたのは、とある宗教のホームページだった。僕から見たらすべてがうっさん臭く見えて、『救い』だの『幸福』だの反吐が出そうな戯言のように映る。
しかし、一番うっさん臭いのが。『感謝の一切を禁止する』という信条だ。神、またはその写し鏡となる教祖のような徳の高い人物に対してのみ、感謝を行う。そうして、徳の高いものから感謝を返される。そうした、神と人との感謝の循環によって人としての苦しみから離れていくという内容だ。
「じゃ、じゃあ。小野寺さんが『ありがとう』を言わなかったのって宗教上の理由だったの?」
「うん、そういうことなんだ。それでね、ここも読んでほしいの」
ホームページの最新のトピック。題名が『世界滅亡にあたり感謝巡りを全信者に許す』とう内容。世界滅亡? 感謝巡り?
どうやらこの宗教は三千年前から存在し、その誕生とともに世界が三千年後に滅亡するという予言がされていたという。それが来週の火曜日だそうだ。そして、感謝巡りっていうのは、許可された人が今まで言えなかった感謝を出会った人々を廻って伝えていくというものらしい。
世界が滅亡するにあたって感謝巡り、つまりは『ありがとう』をいうことが信者全員に許されることになったわけだ。
「なんかさ。面白いなーって思うけど。現に小野寺さんは、『ありがとう』をずっと言わなかったわけだし、今日来たのも感謝巡りなわけでしょ? なんて言ったらいいのかわからないけど。えっと、小野寺さんはこれでよかったの?」
純粋な疑問だ。こんな重い制約を今まで貫くことは並みのことではないし、普通に生きるよりも苦しく辛いことのはずだ。小野寺さんは本当にこれで幸せだったのだろうか、幸福だったのだろうか。そして、そんな辛い生活の先で世界が終わるなんて言われてどう思っているのだろうか。
遠くのお話なら笑える。
でも、その物語が。その人生が今目の前にある。
「言いたいことはわかるよ。私だっておかしいって思っていたし。でも、仕方ないだよね」
そう、力なく言った彼女は先ほどのメモ帳を広げた。
「じゃあ、言うね」
こうして、彼女と僕の二年間。その中に詰まった無数の感謝が今一斉に解放されていった。
「落ちた消しゴムを拾ってくれてありがとう。教科書を見せてくれてありがとう。お気に入りのペンを褒めてくれてありがとう」
ゆったりと流れるように読み上げる小野寺さん。そのありがとう一つ一つに噛み締めるようにちょっとだけ力が入っていた。
時計の秒針が聞こえる。
平日午後のリビングの雰囲気は異質だ。本来は誰もいるはずのない時間。ここにある物の数々の所有者は僕ではなく両親であり、こんなにあふれているのに死んでいるように冷たい。
そんな中で、また中学の同級生がいるという異質感。さらに、延々と語られる感謝。
緊張感や、最近乾燥してきたこともあって変にのどが渇く。小野寺さんの喉も大丈夫だろうか?
そんな僕の心配も気にすることなく。彼女はありがとうを言い続けている。
この時間、やりたいことがないことはない。まだスマホゲームのデイリーミッションを終わらせていない。毎朝のルーティーンにしているせいで、この時間にやっておかないとやり逃してしまうことが多い。
観たいアニメがある。ずっと観たいと思っていて、今日こそは観ようと思っていた。昨日も思っていた。プレイ途中のゲームもそろそろやらないとストーリーを忘れてしまいそうだ。
それに、来年のために体作りもしないといけない。ようやく社会にでる目途が立ったんだ。体力のいる仕事だから、今の僕じゃ全然使い物にならないだろう。こんな生活じゃだめだ。
彼女の話を聞きながらボーッとしていると、そんなやりたいことに押しつぶされそうになる。でも、結局は何もせずに終わるんだ。
来週、世界が終わるか。
それが本当なら。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ嬉しい。そんな僕が、嫌いだ。
僕は、小野寺さんに感謝されるような、あの頃のような僕じゃないのに。
「隠された私の靴を探してきてくれてありがとう」
いまさらそんな言葉を聞けたって、この自他楽な底辺人間を肯定しているようじゃないか。
「三沢さんたちに絡まれていた時に助けに入ってくれてありがとう」
いっそ、世界なんて滅んだほうがいいのかもしれない。
「好きって言ってくれて――ありがとう」
その声は少しだけ詰まっていて震えていた。
いつの間にか僕はうつむいてテーブルを睨みつけていた。
もし、あの日々の中で君の『ありがとう』を聞けていたら、先生を含めた誰もが聞けなかった言葉を僕だけが聞くことができていたら。きっと、今のようなみじめな生活ではなく、もっと特別な人間になれたんじゃないだろうか。
感謝巡りは二時間程度で終わった。時間で見たら二時間もありがとうを言われ続けたのだから恐ろしいもの。でも、終わってみるとあったというまだった。
「じゃあね」
「うん、今日ごめんね。急に来て」
「いいよ。久々に会えてうれしかったし」
小野寺さんが帰ろうとしている。
一瞬だけ、僕は特別な時間にいた気がした。世界の終わり、不思議な宗教、初恋の人との再会。まるで夢を見ていたかのような時間だった。でも、また僕はいつもの世界に戻るのか。
「ね、ねぇ。小野寺さん」
ドアを開けて半身を外に出した彼女が振り返る。
「ありがとう」
結局何も考えてなかったからそんな普遍的な言葉が出た。もう一度君に行為できる僕でもないし、君の世界は来週終わるらしいし。気の利いた言葉も出なかった。
ただ、もう一回だけ。言葉を交わしておきたかった。
「うん」
小野寺さんは薄く微笑んでそのまま外に出た。そして、ゆっくりと扉が閉まる。ガチャンと重苦しい音が鳴ると同時に、僕は君の世界から遠くの現実に取り残された。
それでも、少しだけ。少しだけ夢のかけらは残っていた。
世界の終わりを僕は望む。
僕も君の信じているものを、都合がよすぎるかもしれないけど。
ちょっとだけ、信じてもいいだろうか。
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この一週間、僕は何回『ありがとう』を言っただろうか。
小野寺さんとの再会の後、僕は感謝巡りモドキを始めた。僕は今まで感謝の気持ちがあればその場で伝えていたわけだから巡る相手はいない。あえて言うなら両親に日ごろの感謝を伝えるくらいだ。
それで、始めたのが感謝巡りモドキ。まぁ、簡単に言えばありがとうをいう場面では必ずありがとうをいうだけだ。コンビニで店員から商品をもらう瞬間。すれ違う時に道を譲ってくれた人。
家での何でもない瞬間。
ありがとうを言いたいがために、外に出ることも増えた。
ひとえにこれは、ただただ終末気分を味わいたいだけに過ぎないのかもしれない。でも、いっそ世界が終わるんだと思えば感謝なんていくらでもできた。
そして、終末の時が来た。
「やっぱり、世界は終わらなかったか……」
あきらめたように呟くと、なんだかちょっとだけホッとしてちょっとだけ残念な気持ちになる。
ただただこの一週間は局地的に感謝が大量に巡っただけだった。
でも、たったそれだけのことなのに。
「いい朝だな……」
終わらなかった世界で目覚めたのは、午前9時。
世界は少しだけ変わった気がする。
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