【短編集】ひと世の戯れ Vol.4

岩咲ゼゼ

1.星屑の女神

 ジュンヤはチェーン店スーパーの従業員として一生を終えるような男では決してない。


 小学生の頃から、歌うことが好きで地元ののど自慢で三冠さんかんをとり、中学生の頃は地域の社会人合唱団に混ざり、高校時代はネットにれて『歌ってみた』の動画を友人と共に作成して投稿していた音楽に青春をささげた男だ。


 再生数が伸びず、彼はさらに実力をつけるべく音大を受験して合格した。名のある大学ではなかったが、いきおいだけは他大学に引けを取らず、特にジュンヤが入部した声楽部はまるで囚人生活のようにきびしい毎日が待ってた。


 そんな生活だったため、『歌ってみた動画』の作成なんてできるわけもなく、モクモクと実力をつけていく日々であった。遊びも知らず、ただただ声を張る日々。


 いったい何の手違いだったのだろうか。ジュンヤの未来は多岐たきにわたり、満員御礼の大ステージで歌声をひびかせる未来もあれば、動画投稿サイトで百万再生を連発する大スターになってもおかしくはない。


 それなのに、ジュンヤは三年もスーパーで働いている。動画を作るために借金をして部屋に防音室まで作ったが、未だに再生数が伸びずに段々物置になりかけている。


 一応地域の合唱団に入ってはいるが、練習は週に二回、二時間程度で講演も月に一回あるかどうか。


 それでも、ジュンヤは自分の歌をあきらめていなかった。


 彼が流れるままに辿たどり着いた先は、シャッター街となった商店街の地下バーだった。地下にしては広く、ダーツやビリヤードをたしなむことができる、お酒を飲む場所言うより大人の遊び場という雰囲気があった。


 そんなバーの中には小規模なステージがあり、そこでは毎夜毎夜、平均年齢五十五歳のジャズバンドであったり、商店街の楽器屋の店長のピアノ演奏だったり、バイオリン教室のマドンナ清水先生のリサイタルだったり。音楽がきることが無いのだ。


 日中、この街は何処かさびしくうつる。スーパーで働くジュンヤはそれを痛感するのだかが、このバーに来ると毎夜それを忘れてしまう。


 そして、終末。金曜の二十二時。ジュンヤはこのステージで歌唱を披露ひろうする。そんなかしこまったものではない。ご当地演歌歌手のようなものだ。そんなものがいるのかは分からないが、その言葉にぴったりな現状がジュンヤにはもうけられている。


 いつの間にか、そこがジュンヤの居場所になっていた。幼き日に勝ち得たのど自慢三冠の先がこんな暗い地下バーに続いていると知っていたら、ジュンヤはどうしていただろうか。そして、この先の道はどうなるのだろうか。


 彼は未だに答えを出せずにいた。

__________________________


 そんなジュンヤは最近一人の女性をひろった。


 金もないのに、地下バーで意識が朦朧もうろうとするまで飲んでいた彼女と目があったのが悪かったのだ。


 ボブカットの髪に、耳にはこれでもかとピアスをしている、見るからにあのバーには似つかない風貌ふうぼうであったため周囲の客も彼女に寄り付かなかった。


 困り果てていたマスターの肩をジュンヤはそっと叩いた。


「僕が支払しはらいますよ」


 マスターには恩義おんぎを感じていたこともありそう名乗り出て、彼女を抱え店を出た。警察にでも突き出そうとしたが、顔を真っ青にした彼女をみて気の毒になってしまった。そして、結局家まで運んでしまったのだ。


 そんな彼女、エマは今現在ジュンヤの防音室の中で絵をえがいている。


「私の話を聞いてくれる?」


 連れ帰った朝にジュンヤはすぐに出ていくようにエマに伝えたが、エマは帰る様子はなく、そんなことを言い出したのだ。


「私今、死に場所を探す旅をしているの」


 その言葉を聞いてジュンヤは上げていた腰を下ろした。ここまでの話で分かるともおもわれるがジュンヤはお人よしだった。そんなことを言われれば、一応話を聞くだけでも……となる男だ。


「……それはどういう意味だ? 死に場所っていうのは、一生を過ごす第二の故郷こきょうを探しているってことかい? それとも、自殺する場所を探しているのかい?」


「自殺する場所の方だよ」


 エマはそう言って平然と笑って見せた。


 一瞬だけ、ジュンヤは目を細めて彼女を異質な存在としてとらえたが、どうせ今日限りの関係だと力を抜いた。


「だとしたら、すぐにこの部屋から出ていくべきだ。こんな古臭い街で君の死に似合う場所なんてないよ」


「えぇ、でも。その前に絵を書かせてほしいの。水彩画。ほんの数日でできるから。一週間もかからないわ」


「絵?」


「うん。多分、あの店に道具を置き忘れてしまったの。あとで、謝りに行くついでに取ってくるわ。でも、道具があっても書く場所がない。だからお願い」


「いや、でも。絵を書けるような場所ここには……」


 エマが防音室を指さした瞬間。ジュンヤの心に諦めの思いが出た。確かに、あの部屋であれば提供できるし、物置にするよりも幾分いくぶん有効活用。


 彼女を同情する想いよりも、あの部屋への申し訳なさが強かった。


 ジュンヤはエマの滞在たいざいを許可してしまった。


「んで、なんで自殺の旅なんて?」


 ジュンヤはそっち話は信じてはいなかった。絵を書きたいっていうのは本気な気がしていたが自殺をしようとしている者がそんな行為にでるか? という疑念ぎねんがあった。


 絵がかきたいのなら、まだやりたいことがあるのなら。死にたいと思うことは無いのでは考えている。


 彼も音大時代に、厳しい生活の中にいたし、何度も死にたいと思ったが、やることがたくさんありすぎたし、夢があった。だから、いっそ死んでしまいたいと刹那せつな的に思うことはあっても、そんなことを口にしたり行動に出したこともない。


 現在のみじめな日常の中に居てもだ。


「私は、絵がうまいです。とってもうまいです」


 エマは、ぼうとした声で演説をするかのように語り始めた。


「コンクールで賞をたくさんもらいました」


 「小学生」「中学生」「高校生」「大学生」そういいながら、指を何本も折っていく。


「でも、一度も大賞や金賞をもらったことがありません。絵を目指す人はたくさんいて。絵を楽しむ人は少ないです。そんな中で、大きな賞の一つも持っていない私は必要もされません」


 自虐じぎゃく気味に笑いながら彼女は続ける。


「『ハッキリ言って才能がない』。それが私の人生、二十年間の答えで、じゃあ死のうかと思って旅に出ました。でも、最後に。死ぬ前に、何か書いてから死のうと思いました。――完!」


 言い終わるや否、エマは自分で「わー」と言いながら拍手はくしゅをした。


「……それって、結局死ぬ気はないけど、死ぬ気分で絵を書きたいってだけなんじゃないか?」


 そう言ったジュンヤのすねするどりが入った。


 こうして、エマはジュンヤの防音室に引き込もり絵を書き始めたのだった。つる恩返おんがえしのように、「絶対にのぞかないでください」と笑いながら言って。


 結局ジュンヤがエマを追い出せなかった理由は、自殺しようとしているとか、何かしらの同情の感情があるわけでもなかった。


 ただ、自分と重なって見えたのだ。昔は、認めてもらえていたのに、オトナになったとたんに見捨てられた。結局あの日々は何だったのだろうか?


 ジュンヤは未だに夢を見ている。本気をだして『歌ってみた』を作れば再生を得られるだろう。そして、人気になってゆくゆくは大きなステージの上で、声を張り上げて歌うのだと。


 そう言った妄想。それは彼女にとっては、死にゆくものとして人生最後の傑作けっさくを書くというストーリーであったのだろうと。


 そんな身勝手な共感でジュンヤは彼女を受け入れた。

_______________________________


 家に、拾ってきた女性がいる。そんな異質な現状ではあるが、ジュンヤの日常に変化なんてなかった。職場に行って仕事をして、帰ってきて食事をしてシャワーをびて寝る。


 エマは金を持っていないかと思っていたが、ただあの日は引き下ろしていなかっただけのようで、食事は自分で買ってきていた。


 会うことはほぼ無かった。エマは本当に、防音室の中に引きこもり続けていた。だんだんとジュンヤの中にある嫌な考えが浮かび始めだしていた。


(もしかして、あの部屋の中で自殺してないよな?)


 絵を書くのにそこまで大きな音は出ない。ただでさえ防音の部屋。外側だと中に人がいるかは判別がつかない。


 彼女がやってきてから四日後のある日。夕暮れ時にジュンヤが家に帰ってから就寝時間まで一切彼女が防音室から出てないことに気づいた。


 思わず、そっとその扉を開けようとした。


 しかし、そのあともう少しと言ったときに。玄関の扉が開いた。


「ただいまーー!!!」


 顔を真っ赤にしたエマが、酒臭い体でジュンヤに押しかかってきた。どうやら、あの地下バーにずっといたらしい。


「おじ様に合えるかなーっておもって。ちゃんと会えたしお話もできたのー。ほら~。サインもらちゃった」


 にへらにへらと笑うエマからその怪しいサインを受け取って、ジュンヤは深くため息をついた。


 そこには達筆な一本書きのローマ字がシルクハットをかぶっているようなサインが書かれている。


(おじ様ってこいつのことか)


「でっ……この人がどうかしたのか?」


 ジュンヤがそう聞くと、まるでエマは恋しているかのように頬に手を置いてニヤニヤと話し始めた。


「私、最後に書く題材を探してたんだよね~。実際、死ぬ場所なんてどこでもいいし。最後にこれだって思えるものに出会って絵を書こうって。そうして、おじ様に出会っちゃったんだー」


 彼女が言うおじ様。それは、あの地下バーの大スター『藤川ふじかわマーベランス』とかいう、うっさんくさい男のことだった。


 白髪に髭も白くマジシャンのように常にスーツとシルクハットの姿で現れる。髪の色に似合わず、年は五十前半らしく、背筋をぴしっと正して、動きもまだまだキレがある。


 そして何より、歌が上手い。


 ジュンヤがあの場所で受け入れられているのは、藤川マーベランスが道を築き上げていたからに他ならなかった。


 ジュンヤは、この生活を続けていたら将来あのおっさんのようになるんじゃないかと恐ろしく、それ故に、藤川マーベランスのことを嫌っていたのだ。


「で、その絵を書きたいのとあのおっさんに何の関係があるんだ?」


「それはー。おじさまの歌を聞いて、書きたい絵が浮かんだからなの。おじ様の歌は優しーのに、すっごく鋭くて無理やり歌の世界観を頭に流し込まれているようでー、どんどん色んな情景がパッパッって頭の中で切り替わっていくの。その中に、絶対に書きたいっていう絵があったってことー」


 上機嫌にそう語ったエマ。ジュンヤは拳に力を入れて感情を抑えるので一杯一杯だった。


 藤川マーベランスの実力は誰よりもジュンヤが理解していた。故に、許せなかったのだ。あれほどの人物がふざけった格好や名前で、あんな場所でみじめに笑って歌っている姿を。そして、そんな惨めな人物が、彼女の心に影響を与える歌を歌うことに。


「今日は、それをもう一度聞きに行ったんだー。リクエストしたら歌ってくれたし、お酒も一杯おごってもらっちゃたー」


「そうか……。じゃあ。絵はマーベランスに渡すのか?」


「おじ様に? なんで?」


「なんでって……。あぁ、そうか。誰かにあげるために書いてるわけじゃないのか。ごめん」


「ううん。君にあげるよ」


「えっ?」


「君にあげるために書いてるんだよ? 泊めてくれたお礼だから」


 急にそんなことを言われてジュンヤの頭は真っ白になった。


(彼女は、死ぬ前に良い絵がかきたくて旅をして。藤川マーベランスの歌に感動してそれを絵にした。それを、僕にくれるのか?)


 若干混乱してきたジュンヤは、鼻につくエマの酒臭さにすぐに、馬鹿馬鹿しくなった。酔って、よくわからなくなっているだけだろうと。


「まぁ、いいよ。だったら、気が済むまで書けばいい。僕にくれるなら、より良いものが欲しいから」


(そうじゃないと、嫌になって破いてしまいそうだから)


「まかせて。完成までのお楽しみだから、絶対にのぞかないでねー」


 そう言って、エマは防音室の中に入っていった。


 再び静かになった部屋の中。ジュンヤは立ち上がると、外に出て地下バーに向かった。

_________________________________


 藤川マーベランスは二回公演する。人々が多くにぎわう時間帯に優しいうたを歌いリクエストにも応える一回目、閉店ギリギリに悲しい詩をゆっくりと歌う二回目。


 まるで、その場所に自分しかいないように目をつむって孤独に、されど鋭く歌う。そういったところもジュンヤは嫌っていた。


 入店するや否、ジュンヤの耳に入ってきたのは心が熱くなるくらい暖かくて優しい声だった。まるで、病室のベッド上のご老体が、あとわずかで死ぬという瞬間。囲む親族一人一人に言葉をつむぐ。そんな、どうしようもない「ありがとう」の情景じょうけい


 店の中もどこかしんみりとしていた。閉店ギリギリのため、普段は藤川マーベランスが歌いだすとオーダーストップになるが、マスターはジュンヤに飲み物を聞いた。


 この歌はアルコールがないと全てを持っていかれる。


 ジュンヤはカウンターで辛口の透明なカクテルを飲みながらその声にいしれた。


(僕が一番苦手だったのは、感情的に歌うってことだったなぁ。上手く歌うことだけは上手いなんて皮肉ひにくをよく言われたっけ)


 いつの間にか、自分の声楽人生を思い返していた。小さい頃は歌うのが好きで楽しかった。皆から上手って言われて、自信をもって大きな声で歌えていた。そう、ジュンヤが三冠を手にしたのは、のど自慢なのだ、元気に、楽しそうに、大きな声で歌う少年に皆が元気をもらっていただけなのかもしれない。


 そこには超絶な技術や、れする美声も何もなかったのかも。つまりは、才能の片鱗へんりんすらなかったのかもしれない。


 ただ、少年が歌うとみんなが笑顔になった。


(あれは、子供だからできる歌い方……。そうなると、今の僕には何もないのだろうか?)


 一人しんみりと酒を飲むジュンヤの横に誰かが腰を下ろした。気づけば、歌声は止み。店内はBGMも流れず静かであった。


「今夜は月がきれいだとは思いませんか?」


「……えぇ。ここに来る途中。思わず、立ち止まりましたよ。大きな月でした」


「でしょう。私も、そんな日は孤独ではないように思えるのです。お月様が見守ってくれている、どこか暖かい夜」


「だから、今日の歌はこれほど優しかったんですね」


「あぁ、そうさ」


 藤川マーベランスが注文すると、マスターは文句ひとつ言わずにカクテルを作って出した。しかし、片づけの手は止めない。電気も、カウンター以外の席は消されて暗い影があたりに侵食しんしょくしている。


 いつの間に、客は下がったのだろうか。酒が、強すぎるせいで、少しぼーっとしすぎたかもしれない。


「大丈夫さ。マスターと私は親友だからな。少しは許してくれる」


 マスターはちらっと片目で藤川マーベランスを見たが。手を休めずに、作業を淡々たんたんと続けてる。


「私はくずだ」


 カクテルに口をつけた藤川はそっと呟いた。


「クズ野郎という意味ではないよ。星屑スターダストという意味さ。私達は一つの星だった。昔の話だがね。そこには、森があり、海があり、生命があった。自由でもあり、不自由でもある。なんでも、自由自在」


 いったい何を言っているのかジュンヤには分からなかったが、じっと男の言葉に耳を傾け続けた。


「プロの歌手とはそういうものだ。しかし、私はその星から欠けて、取り残されて星屑となった。そこには冷たいばかりで何もない」


 おい。っと藤川が声をかけると、マスターが奥から古いCDを持ってきた。そこには『藤川マーベランス』の文字と共に、さわやかな男がシルクハットをかぶっていた。


「……貴方は、プロの歌手だったんですか?」


 目を見開いてジュンヤがきくと、藤川は重く頷く。


「一瞬の輝きさ。今でも、このころを引きずっている」


 シルクハットをそっととる藤川。髪はまだふさふさに生えわたっているが、その白さがどこか疲れているようでもあった。


「何もなくなった私でも。歌が好きなんだ。今はただ、自分勝手で、自己満足にうたを歌うのだ。誰かのためではない。それでも、聞いてくれる人がいるなら、心から感謝しなくてはいけない」


 その言葉に、ジュンヤは静かにひとみらしていた。今まで、この男を嫌悪していた自分が馬鹿馬鹿しくてならなかった。自分もずっと前から欠けてしまっていたことに気づいたのだ。


「星屑でも私は月になれるのさ。誰かを温めることが出来なくても。暗い世界でうことはできる」


 ジュンヤは顔を上げることができなかった。涙は頬を伝うことなく、瞳からそのまま雨のように膝に落ちた。


(今分かった。エマがこの男の歌に惚れた理由が。最後の絵の題材に選んだ理由が。彼女は本当に死ぬ気なんだ。だから、寄り添うこの人の歌が響いた)


「そんな月が人に寄り添うには、光り輝くためには。ある存在が必要だ」


 急に、藤川はジュンヤの肩に手を置いた。目をらしてジュンヤは顔を上げ、上目づかいで男を見つめる。


「私は、ずっと歌から逃げていた。歌うのが怖かった。だが、ある日。たまたま立ち寄った祭りでみたのど自慢企画で一人の少年の歌を聞いたんだ。何にも縛られずに、自由で自分勝手で、聞いてるこっちが温まるハツラツとした歌声。その楽しそうなこと。思わず、飛び入り参加で歌ってしまおうかと思ったくらいさ」


 ジュンヤの涙が止まる。


「それって」


 呆けた声に、藤川は力強く頷いた。


「君は、私の太陽さ。君は決して私のような星屑ではない。輝き続けることができるはずさ」

__________________________________


 次の日、遅刻しているのを自覚しながらジュンヤは目覚めた。あの後、藤川マーベランスと結構飲んだ気がしているが、よく覚えていない。二人でステージの上で肩を組んで歌ったような気がするのは夢であってほしいと願った。


 ひどい頭痛。飲み過ぎたのは事実だろう。


 喉もガラガラに焼けていて店長に電話すると、ひどく心配されて休みをもらえた。


 廊下に出ると、防音室のドアが開けっぱなしになっていた。何の抵抗もなくそこを覗くと、水彩絵画が一枚寝かされているだけで、エマの痕跡は跡形もなく消えていた。


 昨日、ジュンヤがここを開けようとした際には完成していたのか。はたまた、今朝起きて完成させてから彼女は出て行ったのだろうか。どちらにしろ、その作品は、数日で書いたものにしては、出来が良く。むしろ、信じられないほどであった。


 彼女に才能がないなんて。そんなわけがない。


 何処かエマに似ている白いワンピースの少女が柵の上に腰かけて、歌を口ずさんでいた。彼女がいる田舎町は、まさしく藤原マーベランスが歌っていた詩に出てくる異国の情景。


――そして、夜だった。


 静かな夜。真っ白な少女が大きな満月、満天の星空の下で夜光を浴びて楽しそうに歌っているのだ。


 ジュンヤはしばらくその絵に見とれていた。


 そして、気合を入れるように頬を叩き、額縁と質のいいスーツを買いに外に出たのであった。

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 あんな別れだったからだろうか。それとも、あの絵の女性がエマに似通っていたからだろうか。ジュンヤは閉じきった防音室を見ると、まだあの中でエマが絵を書いているような錯覚さっかくおちいる。


 彼女は何処にいるのだろうか。この世界にいるのだろうか。絵の世界に行ってしまったのだろうか。どちらにせよらさなければならない。今この世界では、歌声は何処どこまでも届くのだ。それはまさしく太陽の光のように。


 ジュンヤが投稿した歌の動画は嘘のように拡散かくさんしていった。十本、ニ十本と彼は歌を届けた。その動画は彼の家にある防音室でとられており、画面に映る部分に不思議な絵画がかざられていた。彼は後にその絵画について聞かれた際に、こう答えた。


「うちには『月の女神』がいるのさ」


 誰もがその絵画のタイトルだと感違った。


 ただ今はその少女の天井に朝日が昇る日をジュンヤは待ち続けて歌うのだった。

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