5.冷たい銅像

 すみ小川おがわから水が流れる。本日は晴天であり、何も特別ではない少しいいだけの休日。


「せんせい、私。休日は美術館で美しきものに触れるようにしているのです」


 なぜ、あんなことを言ってしまったのかはわかりません。大好きな武光たけみつ先生に少しでも良く見られたい。美しき女性と思われたいがために、私はそんな嘘をついてしまいました。


 美術館だなんて私、中学の学外授業以来足を運んだことなんてないのです。私には絵が分かりませんし、画家についての知識もありません。


 そもそも、美術館に少しだけトラウマがあります。


 幼き頃、母に連れられて美術館に入ったことがございます。母は、美しきものをみると目の保養ほようになると言っておりました。現実を見ると目がかすみ、美しきものを見ることでもやが晴れる。


 そんな、母の言葉など幼子の私には分からず、私はつまらないものだと、楽しくないとすねねておりました。


 そんな時に、私は彼女に出会いました。


 それは、円柱状のフロアで、天井にはあまける天使たちの絵が描かれており、丁度電灯が祝福しゅくふくの光のように部屋に降りてくる構造になっておりました。


 そして、その部屋の中央には一つの彫刻作品が設置されているのです。


 自らの体を抱き、さびしそうな表情でうつむく女性の彫刻。黒く所々に青のさびがあったので、ブロンズ像だったのでしょう。その痛ましき姿が冷たさをただよわせておりました。


 さて、幼き日の私はその作品をみて、初めて『美しい』という感情を知ったのかもしれません。それゆえに思ったのでしょう。


『もっと、知りたい』


 私は、柵の中に入っていました。そして、その汚らしい手で像に触れようとしていたのです。


「なにしてるんだ!」


 その場に居合わせた男性が慌てて柵を飛び越えて私を抱きかかえて像から離しました。その後、職員の方から母は呼び出されて叱責しっせきを受け、顔を真っ赤にして私たちは追い出されたのです。


 帰ってから、母は私を叱ることをしませんでした。しかし、その日仕事から帰ってきた父に向って涙を流しておりました。


「あの頃は、母親としての自身がなかったの。ちゃんと、貴方を育てられているのか不安で。美術館に連れて行ったのもそんな良い教育のためだった。だから、あの日とても恥ずかしい思いをして。とっても、とっても辛かったの」


 あの日のことを母はそう語ります。


 しかし、そんな母の努力のおかげで私は立派な成人になれたのです。母の教育は正しかった。


 そして、あの日知った美しさを今も私は追い求めている。あの美しさに近づくことが私の人生の目標であり、生きる意味なのです。


 それなのにずっと美術館から、あのブロンズ像から敬遠けいえんしてきていた。あの彫刻作品が私の美しさの原点だというのに、いくつになっても怖いのです。あの像を目の前にして私は冷静でいられるのか。


 夢に見ることもあります。ブロンズ像に触れてしまい、周囲から罵声ばせいや怒声があふれかえる。それでも、私は幸福感に満たされて像に抱きついている。起きた後に、自分の異常性に気づいて一人鼓動こどうを早くして焦る朝を迎える。そんな日もあるのです。


 しかし今宵こよい。私、意を決してあの像に会いに行くのです。

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 静寂せいじゃくという言葉を使うにしては少しだけ温もりに溢れて似合わない。そんな静けさがこの空間を満たしています。窓から入る日の光、作品を見つめる人々の熱される感情。


 あぁ。今となればこんなに身近。


 理解はできない、技術を知らない、作者の人生を知らない。


 ――されど、こんなにも美しい。


『美しきものは目の保養になる』


 いいえ、母様。決して眼だけの保養ではないのです。これら美しきものは心の保養となるのです。その効力は見るものに対するあらゆるかすみを晴らしてくれるのです。


 まるで、現実ではないようです。


 作品のタイトル。説明の内容。行き交う人々の声をひそめた会話。


 そのすべて、普段私が生き抜いている現実のものではないような気がします。こんなにも綺麗な言葉を日常で使っていたら笑われます。こんなにも美しい解説を行えば馬鹿にされます。こんなにも、熱く言葉にするならば普通から離れて行ってしまう。


 でも、ここではそれが許されるのです。それゆえに、乾いた心が満たされる。


 不思議の国を冒険するように私は進みます。あのブロンズ像の設置されているスペースは把握しておりますが、あせりもなくゆっくりと作品達を味わいながら進んでゆくのです。不安と期待。されど、足取りは軽く。


 左手に縦に伸びた窓が等間隔に並ぶ廊下。この奥に彼女は立っています。既にその姿は確認できますが、私はできればだんだんと近づいていく感覚よりも、目前にぱっと現れる感覚を求めていましたので、できる限り部屋に入るまで彼女を見ないように視線を壁に向けていました。


 窓から入る日の光に私をかたどった影が生まれ、一歩進むごとに影は過ぎ去り消えていく。そしてまた次の窓の光で影が現れる。


 まるで、一秒一秒前の私を置いていき、進むごとに生まれ変わっているような気分。薄汚れた皮が一枚、また一枚とがれていき。あの幼き日のような純粋な心があらわとなり、あの『美しさ』と再び出会う。


 ひどく、廊下が長いように感じられました。こんなにも長かったかしら。いっそ前を向いてしまおうかと思い始めていたら、やっと部屋の中に辿たどり着きました。


 まずはしっかりと天井を見上げました。美しき天使たちが飛び交い、日の光が下りてきています。


 軽い風が髪を揺らしたことで、私は自分酔いから覚めました。


「……外?」


 いつの間にか屋外に出てております。しかも、ただの屋外ではない。なんせ空の上には天使がっているのですから。


「ねぇ、ジェシカ。薔薇ばらの持つ美しさに人がたどり着くことなんてできやしないのよ」


 繊細せんさいな声が箱庭にきました。


「あのね、メアリー。紙の上に色とりどりの線を重ねても、そこには何も宿やどることは無いのよ」


 彼女はこのセカイの中心にいました。とても、美しい。美しい女性でした。


「故に、アリス。客観的な美なんてこの世にありもしない幻想であって、それこそ絵画かいが的な物語のお話なのよ」


 その女性は天を見上げていたので、どうやら天使に話しかけているようでした。軽くいた思いに私は音を立てて一歩を踏み出しますと、静謐せいひつな動作で彼女は私をその目に写し、うっとりするほど保母ほぼ的な笑みを見せました。


「ようこそ、美しき人。どうかそのぬくもりで。この世界を心ゆくまでけがしてくださいな」

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 大学時代に、進藤しんどうという男がおりました。家業をぐことを義務付けられていた彼は、働くまでの時間稼ぎのためだけに大学に来ておりました。


 私が必死に勉強して、やっとの思いで入学できた大学の中に、そんな人物がいる。それだけで、私は彼を嫌っていました。


 文芸サークルがあり、その中で読書派と執筆派でイザコザが起こった末に分裂。進藤は読書サークルの代表者であり、私はそこに在籍ざいせきしていたのです。


 進藤はよく文芸サークルがひとまとまりだった頃のイザコザについて語ってきました。自分が如何いかに正しく、執筆派がわがままであったか。


 もはや、自分一人の功績こうせきで、サークルを分裂させることに成功させたというような口ぶりでした。


 そんな彼は、俗物ぞくぶつ的に言うイケメンであり、人当たりがよく多趣味な人間でした。両親は経営者で遊べる金を常に持ち歩き、自分の意見を曲げることなくどこまでも突っ張るわがままさも持ち合わせていました。


 そのような美点も欠点もわかりやすく持った人間でしたので、これはこれは女子にモテモテだったのです。


 そんな、「良い人」が私には嫌悪けんおの対象になるほどみにくく汚らしく思えました。こびびた美しさであるように思えたのです。彼と関係を持てば持つほど、その媚びた美が私に侵食しんしょくしてきそうなきがしていました。


 勘違い無きように言っておきますが。私は決して自分の求める美しさのために自己中心的になり、俗世ぞくせから離れた『変人おかしいひと』になるような者ではありませんでした。


 しっかりと社会に馴染なじ普遍ふへん的な日常を送りながらも、心内では美に対する追及をメラメラと燃やし続け、誰よりもマナーを重んじ、姿勢を正し、謙虚けんきょであろうと心がけてきました。


 その姿勢を誰よりもめたたえたのが進藤でした。サークル内での、食事会に参加した私に対して「箸の使い方は綺麗だ」なんてキザな言葉を言い放ったのが最初。


 私が心がけている姿勢一挙手一投足すべてに言葉で賞賛を入れてくる進藤がだんだんと恐ろしくなっていきました。


 そして、私の美は汚されたのです。


「貴方、進藤先輩にアピールするために必死過ぎない?」


 仲良くしていたサークルメンバーの子に半分笑われながらそう言われた瞬間。私が積み上げてきた全てが崩れ落ちるような感覚に視界が定まりませんでした。


 私はあんな男のために、美しくあろうとしてるわけじゃない。私の美はそんな、そんな醜いものなんかじゃない。


 サークルを離れても、進藤は私にからんできました。そして、ついに私は彼に対して謙虚さや美しさのかけらもない態度で突っぱね。多くの顰蹙ひんしゅくを買ってしまい、自分の美しさが分からなくなりながらも、大学での生活を過ごしていったのでした。

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 箱庭でほほ笑む彼女を見て、私は人間であることを後悔しておりました。今まで積み上げてきた全てが醜く思えております。


 今、私の心は穢れが取れ、幼きあの頃に戻っているようでした。故に、離れていった人生の重なりが汚らしく映る。


 刹那せつなでありたかった。または永遠とわでいたかった。


 まさしく目の前の彼女はそういった存在でした。


「こっちに来なさいな」


 とおる声に、誘われるがままに足を進めます。


 至近距離で見れば見るほど、恐ろしい。触れただけで壊れそう。ここまで近づいても、存在してることを疑ってしまう。


 差し出された手に触れるのをためらいましたが、そっと彼女の手に指を乗せました。瞬間、指先の温もりが急速に失われてゆきます。


――あぁ、なんて冷たい。


 手を引いて彼女は私を抱き留めました。全身が急速に熱くなっていき、触れている部分の冷たさが心地よい。


 彼女の胸に、顔を押し当てます。冷たい、冷たいその身体の奥には、何の鼓動もありません。


「ずっと、こうしていたかったの」


 彼女の声に私はすべてを預けてしまいそうになります。貴方が望むなら私はずっと離れない。私も、貴方の一部になりたい。


 そのなんと傲慢ごうまんなことか。


 顔を上げると、彼女が私を見下ろしておりました。そっと、私は彼女の顔に触れます。


「なんて、なんて美しいお顔……」


 ほほに触れた手を滑らせた瞬間、まるでメッキが剥がれるように、真っ白な肌にあざのようなものが浮かびあがりました。


 全身が急速に冷えて、手をひっこめると同時に彼女から離れてしまいました。


「私は、私はなんてことを――」


「いいのよ。ワタシが望んだこのだから。それに見て、私を」


「あぁ、ああ」


 さっきまで触れていた部分。てのひらにも痣が浮かび、綺麗きれいなドレスは薄く汚れて台無しになっている。


「どう? 美しいでしょ?」


 しかし、しかしそれでも。


 ――あぁ。涙があふれてしまう。


「美しいです。とても。とっても」


「だったらね。ほら、来て。もっと、私を温めて頂戴ちょうだいな。私はずっと、待ってたんだから」


 美とは、美しさとは何なんでしょうか。こんなに汚れても美しいなんて。まるで、持って生まれたものに宿り続けるものみたいじゃない。醜いアヒルの子は、最後まで白鳥になれなのが現実なのでしょうか?


 それなら、私は。私は。

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 進藤によりめちゃくちゃになった大学生活。


 そんな中で、出会ったのが武光たけみつ先生でした。


 駅前の花屋を営むかたわら、花道教室を開かれている三十代後半の無口な男の先生。


 花道教室のチラシに書いてあった「ココロを美しく」という文字が私に突き刺さり、すぐに入会いたしました。辺りはお年寄りの方ばかりでしたが、誰も私の姿勢に文句を言わず、それよりも優しく褒めてくれました。


 武光先生は基本無口はお方でしたが、花道の指導中はゆっくりと優しく話され、時に生徒と談笑だんしょうを楽しむのです。それは、生徒がどんな思いで花道に向かうかを指導者として知るためなのでしょう。


 そうして、私は溶ける氷塊ひょうかいの如く、ゆっくりとじっくりと求める美しさを語ってゆきました。私自身が確かなものを持っているわけではないので、その都度言ってることが違っていたりしましたが、武光先生は頷きながらしっかりと聞いてくれました。


 私は、自分の美を武光先生に打ち上げましたが、仕上げた作品はことごとく美しさから離れていったものでした。私は、武光先生を慕っていたのです。故に、彼に評価して欲しくて媚びるようなものを作ってしまったのです。


 そして、媚びは自分の美しさを貫くよりも、より良い作品の完成に繋がったのです。


 私は、もう。大学での汚れと、花道教室での恋慕によって美しさを求める姿勢を捨てようとしていたのです。もういっそ、自分を殺してこの人のための女性になろうではないかと。


 もし、この恋が無下に終われば。その時は何も残らないのですから、いさぎよく消えてしまおうとさえ思うほどに。


 そんなある日、武光先生は珍しく私のプライベートの話について聞いてきたのです。


「休日はどう過ごしていますか?」


 つい嬉しくて、私は自分を偽ってしまったのです。


「せんせい、私。休日は美術館で美しきものに触れるようにしているのです」


 先生はその言葉に大変興味を持たれて、画家や作品について語られましたが、私はてんで分からないので知っているふりをするのでやっとでした。


 なんであんなことを言ったのだろうかと後悔して自らを恥じました。しかし、取り返しのつかないこと。ならば潔く受け入れようと、次の休日に美術館に行くことにしたのです。


 ずっと、求めていながらも避け続けてきた私の美の原点。避けていた本当の理由は、今の私が全然美しくないということを認識させられるんじゃないかという恐怖でした。


 何度も見てきたあの像に触れる夢。


 あの夢の意味は、未だブロンズ像を見て美しいと思えるかという不安感なんだ思います。夢の中での満ち足りた幸福感は、まだ美しいと思える安堵あんど感なのでしょう。


 私は決意しました。


 せっかく美術館に行くなら、あのブロンズ像を再び見に行こうと。

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 痣まみれになった彼女。


 痣は次第に、青に染まり黒に塗りつぶされていく。


「もっと、もっと頂戴な。ワタシを汚して……。冷たいの。ワタシとても寒いの」


 触れるたびに彼女は汚れ、次第にこのセカイのあらゆるものが穢れていきました。しかし、彼女は私を求め続けます。


 こんな状態になりましても、彼女の美しさだけは色褪いろあせることはございません。それならば、彼女が求めるかぎり、もう一度。もう一度。もう一度。私はこの身を彼女にささげるのです。


 触れても触れても。穢れても穢れても彼女は冷たい。そして美しい。


「あぁ。もう、もう終わっちゃうのね」


 気が付けば彼女は真っ黒に染まっていました。あの日みたブロンズ像のような真っ黒なお姿。どうりで、ずっと美しいわけです。彼女は美しい姿から、美しい姿に戻っただけ。


 そして、このセカイのすべてが銅で作られたように真っ黒に染まっております。唯一天井だけは、綺麗なままで暗くさびれた世界に日の光が下りている。


「ねぇ、貴方。貴方はワタシをどう思いましたか?」


 無論、「美しい」と私は答えました。「美しかった」ではない。「美しい」。


「穢れるまでに温もりを求めて、こんな姿になってしまった私が美しいと?」


「えぇ。とても美しいわ。どんなに穢れようが、いやしく温もりを求めようが、貴方は貴方だから。美しい貴方だから」


「そう、だったら。大丈夫ね」


 ほほんだ口元にヒビが入った。彼女はゆっくりと、あの飾られていた時の、自分を抱きしめる姿勢を取り始める。


 動くにつれて、彼女のメッキががれ落ちて綺麗な肌が内側からあらわになっていく。


 あぁ。そうか。温もりが欲しかったんだ。

 だから、そんな。恰好を。

 だから、あの時私は貴方を。


 彼女のメッキが剥がれてゆきセカイの崩壊が始まりだしました。


 メッキが完全に剥がれた彼女は。

 あの美しき姿の内側にいたのは。


 ――紛れもない。私自身でした。


 最後に私は私に触れました。幼子のような小さな手で私に触れました。それは、とっても暖かくて、私はとっても満たされた思いに包まれました。


「あぁ。なんて、なんて美しい」

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 ――はっと。気が付くと目の前にブロンズ像がそびえ立っています。真っ黒で、ところどころに青い錆が浮かんでいる。私とは似つかない、美しい女性を模った彫刻作品。


『作品名:冷たいあの人』


 それがたまらなく面白くて。一通り笑った後私はその像を後にしたのでした。


 あぁ、なんて冷たい私。

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【短編集】ひと世の戯れ Vol.3 岩咲ゼゼ @sinsibou-r

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