3.逃避行
あの日逃げ出した君の
ブラウンカラーのコートを
そして、その中には不思議な足跡もあった。
現実じゃない神秘的にキラキラと輝く様々な足跡、中には
私はそれらの光る足跡を無視して真っすぐ進み始めた。
ホワイトクリスマス。今年は、この日を
大学のサークルの仲間たちがそのことを
それが意味するのは、今私がとてつもなく『逃げ出したい』という感情に囚われているということだった。
この足跡は、私だけが見える『逃げ切った人たち』の足跡なのだから。そして、いつも私はこの足跡から探してしまうのだ。センター試験の会場に行く電車。降りるべき駅に降りず行方を
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峡谷カスミを一言で表す丁度いい言葉がある。『優等生』だ。丸く可愛らしいショートの髪に触角のようについた長い両サイドのおさげ。背が低く、
まるで、当然のように成績もよく。クラスの中では、彼女に関わってはいけない。彼女の邪魔をしてはいけない。触れてはいけない。そう言った雰囲気が出来上がっていたほどだ。
多くに応える故に、多くに守られている。それがカスミという女の子だ。
決して逃げ出すような奴じゃなかった。
私は彼女と多くの時間を共にした。高校時代は彼女が塾通いで私は部活があり、段々と距離が離れていたが、お互いに調子があった時は二人で下校し、現状報告を行っていた。
カスミに不安は見られなかった。彼女はいつも私を心配していた。彼女がいい意味で守られているように、私は悪い意味で守られているのだ。逃げたいと思ったときに、足跡が見える不思議な能力に。
そうして、高校時代は逃げに逃げて、友人の一人もできなかった。友達になるのには『第一歩』が必要なのだ。
逃げで入った部活にも居場所はない。そこから逃げ出すための足跡はあったけど、さすがにその先は行ってはいけない気がした。危険な逃げの足跡もあるからだ。
カスミにはその能力については話してはいなかった。そして、彼女に対しては逃げないと私は決めていた。逃げることなど知らない
そんな彼女は急にいなくなった。センター試験の当日に。その前の日、彼女は『今日はゆっくりと寝なさい』と言われており、一日休みで会うことができた。
その時も、なんも気になることを言っていなかった。遠くを見る感じがあった。でも、それはいつもの彼女だった。
なのに彼女は消えた。手掛かりはあった。警察の捜査によって、彼女が下りた駅が分かった。当初降りる駅よりかなり離れた無人駅。雪が積もりに積もったド田舎で、彼女は行方を眩ませた。
私の方に警察がやってきた。
その時に見せられた一枚の写真。
「分からないと思うけど、これ峡谷カスミさんの足跡だと思う?」
雪道についた足跡。制服姿の女の子を見たという目撃情報があった場所についていたらしい。木の下で、ここだけしか足跡は残っていなかった。その先は雪で隠された。
「そうです。カスミの靴」
その即答に、警察の人は苦笑いしていた。でも、私にとって足跡は大切なものだ。知らず知らずにどこかで彼女の足跡を見ていた。
彼女は逃げ出した。何から逃げ出したのかは分からない。でも、逃げ出したんだ。
それはつまり、いつか見えるかもしれないことでもあった。いつか彼女の足跡が見えるかもしれない。その足跡の先にカスミはいるのではいだろうか。
そう思って、今でも足跡はしっかり確認してしまう。君の足跡が私を呼んでくれているんじゃないかと思って。
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そうしてもう三年が経とうとしている。こうして、雪についた足跡を見るたびに、胸が
だが、今の私には。昔では考えられないくらい、良い環境が出来上がっていた。逃げ道が見えるということは、挑むべき道もわかるのだ。
そうして、私はだんだんと昔とは逆の道を歩み始めた。逃げ道からの逃げ道。わざと、苦しく険しい道に進んでいく。そうすることで、得られるものがあることを知ってしまった。
しかし、進んでいく中で私にはいくつもの落とし穴が待ち受けていた。逃げられない場面に何度も出会った。逃げることはできるが、多くを失ってしまう場面にも。
そうした中で、私はドンドンと生き苦しくなっていった。気づけば、好きでもない女性と付き合って、何度かデートにも行った。手を繋いで笑いあったし、キスもした。ある意味、その行為も逃げだったのかもしれない。足跡は見えなかったが。
受け入れても良かった。でも、心の中でカスミがいるから、そのせいで私は苦しくなってしまうのだ。道を進むためには、捨てないといけないものが多い。特に逃げ道には。
カスミという
駅についても。足跡は依然そこら中に歩みを進めていた。今日私は好きでもない人と一夜を過ごし、
いや、もしかしたら。この先に進めば、もう戻れないのかもしれない。故に、こんなにも足跡は広がっている。
ホームに入ると、人が混雑していた。この雪のせいで電車が
そんな中で、またしても、逃げたいと思う私。そして、増える足跡。流石に、線路に飛び出そうとしている足跡にはため息が出た。
「そこまで、追い詰められてはないんだけどなぁ」
そうして、空を見上げると。ハラハラと雪が降り始めていた。
このまま降りが強くなったら電車が止まってしまうかもしれない。
彼女にメッセージを送ると、既に余裕をもって現地についているとのことだった。まぁ、彼女の場合、現地が家に近いからバスや最悪タクシーの選択肢もある。それでも、前もってちゃんと現地にいることの、なんと
目の前に広がる足跡たち。
深く、深くため息を吐いて。その白い息がゆっくりと消えていく。
本当に私は行きたくなかったんだと、その瞬間に
逃げ出したい。
しかし、無情にも電車がやってきた。三十分前に来るはずだった電車が遅れて丁度いいタイミングでやってきた。
これに乗らなかったら、もう間に合わないだろう。最悪、電車が止まれば今日は解散になる可能性も高い。
それゆえに、すし詰め状態の車両内に向かう足跡はほぼ無かった。でも、ひとつだけ。ひとつだけ真っすぐつき歩いていく足跡があった。
私は、その足跡をたどりながら電車内に入り込んだ。
身動きが取れない状態の中、ポケットの携帯が何度も震えた。彼女が何かメッセージを送ってくれているのかもしれない。サークルの奴らが、また茶化してきているのかもしれない。
車内に入ってから足跡を見ることができない。さっき見た足跡は幻覚だったのだろうか。この複雑な私の
駅に着くたびに多くの人が入ってくる。皆行く場所は同じだろう、あの駅周辺のイルミネーションはデートスポットだ。
彼女の顔が浮かんでくる。サークルに入ってきた一個下の後輩。人数が多いサークルで、後輩一人に対して二、三人の部員で対応する流れなのだが、その年は新入部員が多くて私は彼女の専属担当になった。
そのせいか、新入生歓迎会の飲み会でも、彼女は私の傍に陣取り離れようとはしなかった。
「先輩の横が安全な気がして」
遊びをそこまで知らない子で、どうやら飲み会で
しかし、そんなことをしなくとも彼女は酒に弱かった。すぐにヘロヘロになって、それでも断れない性格のようでその状態で二次会に行こうとしていた。
私もその時ばかりは帰りたかった。そして、彼女の足元から駅の方に続く足跡を見て、それに従った。彼女を
その行為のせいで、サークルの仲間たちは私が彼女に気があると思い込んで、彼女もまたそれを受け入れた。そして、ドンドンと逃げ場を埋められ、そして自ら
彼女は健気だ。小動物的な
それでも、何回デートに行っても。何回話をしても。私は彼女に対して、
しかし、それでも日が立てばまた
電車の扉が目の前で閉まった。
車両の中の人はごっそりと減って、もはや
揺れる電車の中。私はポツリと椅子に座って放心していた。
そして、その隣。私の靴の隣には足跡がある。まるで、私の隣に誰かが座っているみたいに。
携帯を見ると、彼女からのメッセージがたくさん来ていた。待っている暇な間に、いろんな景色を撮って送ってきていた。まるで、離れていてもデートは始まっているみたいに。
でも、私は返信を送らなかった。
そして、静かに彼女との全てを消した。
逃げるとはこういうことだ。もう、何も気にしなくていい。すべてを捨てていい、消していい。でも、何も残らないわけではない。私の心に、浅い後悔と。誰かの心に深い傷をつける。
私はそれを知っていたのに。
カスミが、行方不明になった後カスミの家は崩壊した。母親が何にも手が付けれなくなり。仕事を辞めた。妹はもともと優秀な姉と比較されて非行に走りかけていた。「お姉ちゃんに迷惑かけないで」という
そして、父親はそのストレスか。はたまた。事件より前からか。仕事先の女性と不倫関係にあったことが発覚した。大事にはせず離婚はしてないようだが、今もその女性との交流を続けているんじゃないかと近所では噂されている。
そんな話を私は親から全部聞いた。そして、疲れたような声で母親は言うのだ。
「あんたは、いなくならないでね」
この、足跡を選んでから新たに足跡が出てこない。それは、この足跡をたどることに対して『逃げたい』という感情が湧かないからだろう。
私はすべてを捨てる覚悟が出来ている。
――例えこの足跡の先が
この足跡は、峡谷カスミのものなのだから。
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足跡に
降りたその駅は決して大きくはないが無人ではない、しっかりとした所だった。改札を通ると、誘うように足跡は数歩先を進んでいく。
今までにない足跡だった。いつもはナビのように目的地まで迷いなく足跡が続いていた。カスミの足跡はまる私についてこいと言わんばかりに先導している。
バス停でとまり、丁度止まったバスに乗り込む。
既に日が落ちて本格的に雪が降り始めていた。乗り換えた電車が止まらなくてよかった。
どこか
そして、真っ白な道の中。ポツリと看板が立ってる何もないバス停で降りた。
なおも足跡は進んでいく。
そして、最終的に一つの古民家に辿り着いた。
「……
表札にはそう書いてある。峡谷ではない。つまり。
いや。まだわからない。もしかしたら違う人の足跡を追ってきていたのかもしれない。
でも、それは絶対に違う気がした。
私は、雪をザクザクと
「はーい?」
女性の声が聞こえた。彼女の声かどうかは分からなかった。そういわれればそうかもといった、
しかし、扉を開けて顔をのぞかせた人物を見た瞬間。私は思わず彼女を抱きしめていた。峡谷カスミを。
いや。
「ママ~?」
小さな男の子が彼女の後ろからヨチヨチと歩いてくる。
私は小野寺カスミを強く抱きしめた。
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カスミは私を家に
「去年は一緒にクリスマスパーティーしたけど今年は無理だったみたい」
そうカスミは何でもないように言って、息子のハルト君を
「どういうことか、全部説明できるか?」
そう聞くと、彼女は静かに頷いた。
しかし、その話はなぜ彼女が逃げ出したのか。あの日、カスミはどこに向かったのかという部分は飛ばされたところから始まった。
「私は、記憶消失になったの」
気が付けば病院の中で、何もわからない。制服から身元は特定されて両親たちが集まってきたが何もわからない。
「両親に合っていたのか?」
「うん、でも。その日。私は病院から逃げ出したの。衰弱していたからすぐに捕まったんだけど。これ以上混乱させれないって感じで面会はできなくなった」
今考えれば、彼女がずっと行方不明のままだということのおかしさに気づける。彼女は制服のまま行方をくらましたし、バックの中には学生所とか身分が分かる物がある。
たとえ、どこかで死を選んでいたとしても、そういったものが見つかっていたはずだ。
そういう情報が来なかったのは、早い段階で捜査の意味がなくなって家族の間で事が完結していたからなのだろう。
そして、カスミの家庭が荒れ果てたのも、そういった彼女の記憶消失が原因だったのだ。
「そこで、私はコウイチさんに出会った」
夫のコウイチさんもそこで入院していた患者であり、年が近いこともあってよく話し相手になってもらっていたという。先に退院したコウイチさんは、その後、何度もカスミの様子を見に来た。
だんだんと、その存在をカスミのご両親にも認知してもらい、コウイチさんはその
故にカスミの母はコウイチさんに泣きついたという。
「ウチの子をどうかお願いします。もうこの際、私達の事なんて忘れたままでいいです。だから、あの子だけは幸せにしてあげてください」
実の母が言ったであろうその言葉を、何の
しかし、カスミは結婚してすぐに記憶を取り戻したという。
「思い出したことは、病院の先生とコウイチさんにしか言ってないの。両親に言っても、もうどうしようもないし。向こうが私に顔向けできないように、私も顔向けできないことをしちゃったから」
そう言い終えて彼女は一息吐き出す。
「だから。もう、このままでいいんだと。このまま、なんだろうなって思っていた。ハルトも生まれたしね」
「アー?」
「……ちょっと待っててね。この子を寝かしつけてくるから」
そう言って、カスミはハルト君を抱き上げて、部屋を出て行った。
丁度そのタイミングで、携帯に着信が鳴り響いた。見ても、知らない番号だったが、出た瞬間に誰だかわかった。
『先輩ッ! 先輩ッ!』
あの子の声だった。この冷たい雪の降る聖夜に一人、来ない待ち人に
その、涙が混じったような必死な叫び声。それは決して私を
『
そういうことかと思いながら、彼女が何に謝っているのかイマイチ分からない。
このまま切ることもできただろう。でも、この声は聴くべきだった。それだけのことをした。逃げてはいけない。
『私、ずっと怖かったんです。先輩って常に遠くを見てるっていうか、私といる時も私がいない方向を見ていたし、皆でいる時もそうでした』
だから、ついに私が遠くに行ってしまったと思ったらしい。まぁ、それは言葉としては正解なんだろうが、意味としては自殺しようとしたということだろうから間違っている。
だんだんと、彼女は感情を吐き出すにつれて怒りが沸き上がっているようだった。涙を流しながら暴言を吐き散らす。
それはもう、受け入れたと同然だった。もう、諦めたと。
いくら叫んでも、この人には届かないと悟ったような。
「ごめん」
そう短く言って電話を切った。
ごめんなんか思っていない。何も思っていない。
「……あっ、見てた?」
いつの間にかカスミが部屋に戻っていた。
「ずっと待っていたの……」
カスミは私の前に座った。身を乗り出せば触れられる距離。
「私は、君が好きだった。離れたくなかった。私がもし大学に行ったら君は、私から逃げていた」
答えられない。しかし、それは事実だ。彼女が遠くの国公立に行くと聞いた時。もう、届かないほど遠くに行くなら。その時は諦めようと思った。
「長い付き合いだからかな。君が、私から一度でも逃げ出したら私は一生君を捕まえられない気がしたんだ」
あぁ、そうだ。私は絶対に逃げれる。私はあらゆる足跡を追ってもう一生君に合わない道を選ぶだろう。
「だから、逆に私が逃げようと思ったの。そうしたら、君は追いかけてくれるだろうって」
そうして、カスミは逃げ出した。
しかし、彼女は言う。逃げた先で
「は? 誘拐!?」
「うん。……ハルトはね。その時に」
思わず絶句してしまった。そういうことか。
ボロボロとカスミは大粒の涙を流し始めている。
「ねぇ、来るのが遅かったんじゃないかって思ってる? いいんだよ。ちゃんと来てくれたもん。私は、ずっと待ってたもん」
頭の中で今までの話が繋がっていく。
「私は、自分を
「もしかして、カスミは」
「私は信じてたよ。私は、君の事だけは覚えていた。だから、親が来たときにまた逃げ出した。嫌でも、この日のために結婚した」
彼女が私に
「一緒に逃げよ。君にはそれができるんだよね?」
あぁ。無論。私は彼女の手を取った。雪が降る聖夜。大丈夫、私達の足跡は雪がかき消してくれるだろう。
捨ててはいけない多くを捨てる。それが逃げること。
そんな残酷な瞬間。私たちはその瞬間を待ち続けていた。
足跡を辿る
雲間を切って
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