第181話


 上空の風が谷に吹き込むと、低い音が辺りに響く。

 それはまるで封印された悪竜の鳴き声のようだった。

 

 魔法生物と戦って、侵入者除けの仕掛けを幾つか見つけて、僕らはごく普通に、この邪竜の谷という場所の厳しさを体感する。

 そう、恐らくこれが普通なのだ。

 戦いには苦戦して、仕掛けを見つけるのには時間が掛かって、もう間もなく、これ以上進むのは、今の僕らには厳しいと判断するしかなくなるだろう。


 だけど僕は、それを心のどこかでもどかしく感じてた。

 同行者がツキヨとシャムだったなら、或いは僕が今の同行者に歩調を合わせていなければ、もっとスムーズに進む事ができるのにって、心のどこかでどうしても考えてしまうから。

 でもそれは、僕の単なる傲慢な我儘に過ぎないというのも、頭ではちゃんと理解をしてる。


 いや、普通と称したけれど、それもあまり正しくないか。

 高等部の一年生で邪竜の谷を訪れてる時点で、僕らは、ガナムラもシズゥも、普通以上だ。

 それを物足りなく思うなんて、僕の感覚が狂ってる。 

 人間の中で生きる事を望むなら、この狂った感覚は正さなきゃいけない。


「キリク、疲れたか?」

 僕の口数が少なくなったからか、ガナムラが案ずるようにそう問うた。

 しかしどちらかと言えば、僕よりも彼の方が、顔に疲労の色は濃い。

 今は戦いに心が高揚しているから良いが、それが切れると、一気に疲労がガナムラを襲うだろう。


「そうだね。思ったよりも敵が手強いからね」

 この言葉に、嘘はない。

 実際、僕が想定していたよりも、邪竜の谷の魔法生物は手強かった。

 ただ僕にとって問題となる程じゃないってだけで。


 五人で組んだ二年生や、幾つかのグループに分かれた三年生は、もっと先に進んでるんだろうか?

 

「そうね、二人には申し訳ないけれど、私はそろそろ戦いは限界よ」

 シズゥも疲れた顔をしてる。

 彼女は、敵に狙われて防御に徹する事が多いから、体力よりも、むしろ精神を擦り減らしてる様子。


「あぁ、十分に戦ったし、そろそろ切り上げようか。これ以上仕掛けを探すとなると、日が暮れそうだ。流石に俺も、この谷で夜を明かすのは嫌だな」

 ガナムラも、引き上げる事に同意した。

 だけど、なるほど。

 そりゃあこの谷で夜を明かす事は、普通だったら想定しないか。


 今回、マダム・グローゼルは、この邪竜の谷で過ごす時間を特に指定していない。

 故に僕は、当然のように数日は現地で過ごせるだけの物資を、魔法の鞄に詰め込んで持ってきてる。

 三年生も、一部はそうした荷を持ってるのが見えた。


 しかしガナムラもシズゥも、恐らく二年生達も、危険な邪竜の谷で夜を過ごすなんて、最初から選択肢には入れてなかったんだろう。

 ジェスタ大森林で僕らが夜を過ごせたのは、支給された守りの札という魔法の道具のお陰だった。

 あの手の道具がない以上、危険な場所で夜を過ごすなんて考えないのが、やっぱり普通なのだ。


「見つけた仕掛けの魔法陣って、役立ちそう?」

 僕はシズゥに問うてみる。

 魔法陣を専攻してない僕は、隠された魔方陣を感覚的に探し出したり、その効果をすり抜ける事は出来ても、見つけた魔方陣の意味を正しく理解するだけの知識が足りない。

 選択式の授業は受けてるから、ある程度の魔法陣なら読めるんだけれど、見つけ出したそれ、ハーダス先生が設置したのだろう魔法陣は高度過ぎて、僕にはさっぱりわからなかったから。


「もちろんよ。よくある遺跡を守護する魔法陣なんかよりも、とっても繊細な構成だったわ。写しは取ったから、戻ったらしばらくこれの解析と研究ね。でも、写すのに時間を掛けちゃってごめんなさい」

 シズゥはその顔に喜色を浮かながら早口でそう言いかけて、けれども突然申し訳なさそうに、言葉の勢いが萎む。

 そんな彼女の様子に、僕は思わず笑ってしまう。


 あぁ、確かにシズゥが魔法陣を写す間は進めなかったし、僕とガナムラは意識が完全にそちらに行ってる彼女の代わりに、周囲の警戒をしなくちゃならなかった。

 でも彼女に成果があったなら、まぁ、それもいいかと思えた。

 ガナムラだって、それなりに戦えて満足してる様子だったし。


 多分、僕は急ぎ過ぎなんだろう。

 急がなきゃいけない理由、在学中にジェシーさんを修復するって目的はあるけれど、……それに関係のないところでも、常に大きな成果を得ようと気が急いていた。

 それが悪いって訳じゃないけれど、きっと健全でもない。


 何だか笑うと、少しばかり気が抜ける。

 悪い意味でじゃなくて、肩の力が抜けたって意味で。


「じゃあそろそろ切り上げて、マダム・グローゼルを呼ぼうか」

 僕の心は、漸く何のわだかまりもなく、引き上げる事を受け入れられた。


 成果がなかった訳じゃない。

 幾匹もの魔法生物と戦って、良さげな素材は採取してる。

 間違いなく、少しは前に進んだのだ。

 今日はそれで良いじゃないか。


 そう考えると、今日という日を振り返ってみると、……久しぶりにガナムラやシズゥと多く過ごせて、楽しかったようにも思う。

 僕の肩で、シャムが呆れたように一つ鳴く。

 シャムなら僕の内心なんて殆ど察してる筈だから、漸く自分が急いてた事に気付いたのかって、そう呆れてるんだろう。

 もっと前に進むのが正解だと思っていたなら、シャムは自分からガナムラに正体を明かし、その上で戦いや探索に協力する事だって、できたのだから。


 紐を切るとすぐに現れたマダム・グローゼルは、僕らの顔を見て満足そうな笑みを浮かべて、

「お疲れ様でした。無事に誰も欠ける事なく、皆が歩調を合わせて前に進めましたね。それはとても素晴らしい事です。今日の経験を大事にしてくださいね」

 そう言って僕らを、ウィルダージェスト魔法学校に戻してくれた。

 旅の扉の魔法で、一息に。


 邪竜の谷や、悪竜の正体、ハーダス先生との関係は、何もわからなかったけれど。

 でも確かに、今日の経験は、人間である僕にとっては、きっと大事なものだった。


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