第90話
ザァザァと、音を立てて雨が降っていた。
コントロールされた環境であるウィルダージェスト魔法学校の敷地内にも、定期的に雨は降る。
それは恐らく、周囲を取り囲む森の木々や、魔法生物達を潤す為に、敢えて降らせているのだろう。
だが今日の雨は、何だか激しくて、量が多い。
この雨を降らせている誰かが、量を間違えてしまったのだろうか。
それとも夏になって気温が少し上がったから、水の量をサービスしてるのだろうか。
いずれにしても、こうも強く雨に降られると、部屋から出る気が失せてしまう。
幸いというか、不幸にもというか、今日はシールロット先輩との研究も休みの日だし。
決まった用事があれば、意を決して出掛けるのだけれど、何もなければ動かなくてもいいやって気分に負ける。
ただ、ちゃんと食事は取りにいかずにゴロゴロしてると、シャムに叱られてしまうから、そこだけは忘れちゃいけないけれども。
まぁ今日は、部屋の中でも可能な作業をしながら、のんびりと過ごす事にしようと思う。
もちろん、研究室でもない自室で、できる事なんて限られているというか、ごくごく僅かだ。
教科書を読んで自習したりとか、ナイフで木を削って細工物をしたりとか、それくらいが精々である。
だけど僕には、こんな気分の日に進めるのにぴったりの作業があった。
僕が床に広げたそれを見て、シャムが一つ溜息を吐く。
何故ならそれは、僕がこの寮に住み始めてからずっと集め続けてるシャムの抜け毛と、糸を紡ぐ道具だったから。
シャムの抜け毛は短いから、互いに絡み易くなるように、素材を調整する為の魔法薬に浸してから乾かした物を使う。
そう、今から僕がしようとしてる作業は、シャムの抜け毛を使った糸紡ぎだ。
自分の毛を糸にされる感覚は、人間である僕にはわからないけれど、シャムの反応を見る限り、決して楽しい事ではないのだろう。
ただ、うん、それでも僕は糸作りをやめないんだけれども。
というのも、ケット・シーであるシャムの毛は、かなり貴重な素材になると思われるから。
僕だって、シャムが本気で拒絶するなら、無理にそうしようとは思わないが、少し嫌な顔をされるくらいなら、……ギリギリ許容範囲であった。
まずは抜け毛を、カーディングしていく。
これは毛の方向を揃える作業だ。
カーダーと呼ばれるブラシのような物を二つ使って、クシャクシャだった毛の向きを、一つに揃える。
細かな毛が沢山舞うから、吸い込まないようにマスクを着けて、丁寧に、根気よく、毛を梳いて整えていく。
塊だった時は、量が多く思えた毛も、カーディングをして整えると、少し減ったように感じてしまう。
次の作業は、スピンドルを使った糸紡ぎ。
スピンドルとは……、ちょっと表現が難しいんだけれど、前世の記憶にある玩具、独楽に似た道具だ。
この道具を独楽のようにクルクルと回し、その重みと回転を利用して、毛を紡いで糸に変える。
割と地道な作業なんだけれど、毛が糸に変わる様子を見るのは楽しいし、糸の量が増えて行くのは、達成感もあって嬉しい。
クルクル、クルクル、地道に、ひたすらに、シャムの毛を糸に変えていく。
やってる僕としてはさっきも述べた通り、楽しいし嬉しいんだけれど、この作業を見守る方は退屈だろう。
ふと気付けば、シャムは離れた場所で丸くなって眠ってた。
それでも僕は、手を止めずに、クルクル、クルクル。
沢山の糸が紡げたら、それを一部だけ切り取って、残りは大切に箱に仕舞う。
糸紡ぎは終わったけれど、まだ時間は余ってるから、もう少しだけ作業をしたい。
次は、切った糸に油を塗る。
シャムの毛で紡いだ糸は既に十分に頑丈だけれど、今から作ろうとしてる物は装身具だから、より強固なものとしたかった。
もちろん塗る油も魔法生物から採取した特別なものだ。
ウィルダージェスト魔法学校を囲む森の中でも、火に関する物が多い一画に、その油を分泌する魔法生物も棲む。
その名前は、
実は、黒鎧牛の名の由来である黒い鎧の正体が、僕が今、シャムの毛から紡いだ糸に塗っている油だ。
強い熱を感じると、黒鎧牛は身体から特殊な油を分泌する。
そしてその油は決して燃えず、むしろ火に触れると金属のように硬化する、不思議な特性を備えていた。
名の由来にもなっている黒い鎧は、長年かけて分泌された油が、硬化してできた物なのだ。
黒鎧牛は自らが纏う鎧を育てる為に、敢えて火の傍に棲むという。
ちなみに黒鎧牛の肉は、分泌する油とは真逆に、良く焼いても硬くならず柔らかいままで、味も絶品なんだとか。
乳も硬化したりはしないので、飲用にも、チーズ等の乳製品を作るにも適すらしい。
まぁ、乳まで硬化してしまうようなら、子供を産み育てる事もできないから、それも当然か。
糸に油が馴染んだら、ミサンガを編んでから軽く蝋燭の火で焙る。
油を硬化させてしまうと、そのままの形で固まって、ミサンガを巻く事ができなくなるかと思いきや、実はこれが巻けるのだ。
流石に、多少の抵抗感は出てしまうが、黒鎧牛の分泌する油は、硬化した後も自在に曲げ伸ばしが可能だった。
というか、そうでなければ黒鎧牛自身が、分泌した油に固められて動けなくなってしまうし。
最後に、僕は完成したミサンガを握って目を閉じ、そこに精神を集中させていく。
ミサンガに、魂の力の通り道ができるようにと念じながら。
素材同士の相性は良かった。
またシャムの毛なんだから、当然ながら僕との相性もいい。
恐らく、いや、間違いなく、これならいける筈。
「火よ、灯れ」
僕は、杖も、常に身に付けてる指輪も使わずに、完成したばかりのミサンガを使って、その魔法を使う。
ボッ、と音を立て、宙に火の花が咲いた。
イメージした通りに、杖や、指輪を使った時と、何ら変わりなく。
つまりは、これでシャムの毛を使った、ミサンガ型の装飾品の、魔法の発動体の完成である。
できるって確信はあったけれど、実際にできると、心底嬉しい。
ただ、発動体を完成させたからだろうか、かなりの疲労感も感じてた。
「キリク、それ、どうするの?」
何時の間に起きたのか、不意にシャムがそう言う。
少しびっくりしたけれど、別に何か悪さをしてた訳でもないから、慌てる必要は特にない。
「あぁ、うん。パトラにあげようかなって思ってるよ。彼女なら、もうシャムの事も知ってるし、きっとこれとの相性もいいだろうしね」
僕はシャムにそう答えて、周りを見回す。
カーディングの時に辺りに舞った細かな毛が、一杯落ちてる。
後で掃除をしなきゃならないし、そもそも僕にもこの毛は付いてるだろうから、お風呂に入った方がいいだろう。
まぁ、毛を集める事自体は、魔法でサッとできるけれど、散らかした物は片付けなきゃならない。
お風呂は、大浴場に行くのもいいかもしれない。
何となく、そんな気分だ。
「パトラにだけ?」
シャムがそう問うてくるから、僕は頷く。
他にも、シャムの正体を知ってるクラスメイトは、クレイとミラクとシーラがいて、彼らもシャムとの契約があるから、相性は悪くはないのかもしれないけれど……。
クレイに渡すと、アレイシアの目にも触れるだろうから、それはちょっと避けたいし、ミラクとシーラの場合は、魔法の発動体を贈る程に絆が深まってる訳じゃない。
ミラクとシーラに対して、好きとか嫌いとかの話以前に、向こうとしても、装飾品の魔法の発動体を贈られたら、恐縮してしまうだろうから。
今のところは、パトラの分しか、発動体となるミサンガを作る心算はなかった。
物を作る事はともかく、魔法の発動体とする仕上げが、思ったよりも疲れたし。
糸は多めに紡いだから、その気になれば何時でもまた作れるだろう。
「そう、パトラ、喜ぶと良いね」
シャムはそう言って、何だか少し照れ臭そうに、そっぽを向く。
きっとパトラなら、喜んでくれると思う。
何しろ、シャムの毛を使って作った魔法の発動体なのだから、喜ばない筈がない。
僕は一つ大きく伸びをしてから、作業で散らかした部屋を片付け始める。
心地好い達成感に、満足しながら。
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