第4話

 それから二時間後、東京都奥多摩の山林に建つ小さなログハウス。調度品が少なく、生活に必要な家具しか置かれていないリビングは、素朴であるが質素だ。そこに、チュニックタイプの部屋着姿で、胸の辺りまであるロングヘアをナチュラルブラウンに染めた女が、長いソファに仰向けに寝そべり、雑誌を読んでいる。先ほど刑事部の幹部陣が議題にしていた写真の女、警視庁刑事部捜査一課の警部、緋波千里であった。このログハウスは千里の所有ではない。中学生時代の恩師から一時的に無償で借り受けた家屋だ。千里の頭上にある木製のサイドテーブルには、固定電話の子機が置かれている。それが呼び出し音を鳴らした。千里は雑誌を閉じて、仰向けの状態でその子機を充電台から取ると、表示されている電話番号を見た。途端に千里は子機を受電台に戻した。嫌いな相手の番号だったからだ。いずれむだろうと無視を決め込み、雑誌を開いて読み直す。しかし、呼び出し音はいつまでも鳴り続ける。

「チッ」

千里は不快な表情で舌打ちし、雑誌を放り投げた。いっそのこと電話線を抜いてしまおうかとも考えたが、相手がそれで諦めるとは思えない。千里は仕方なく子機を取り、通話ボタンを押して受話口を耳に当てた。すると、千里にとって聞きたくない声が鼓膜に入ってきた。

―綿矢だ。遅ればせながら、退院おめでとう。

「なんで番号知ってんの?」

天海あまみ先生から訊いた。

千里がかつての事件を契機に精神科病院に入院していた頃、治療を担当していたのが、臨床心理士の天海麗子れいこである。千里が退院後も主治医となり、定期的にカウンセリングを行っている。

「教えるなって言ったのに・・・」

押し殺した声で千里は呟いた。

―きみに捜査を頼みたい。

単刀直入に綿矢は言った。やはりそうかと千里は思った。綿矢がそれ以外で自分に連絡してくることは今までなかったからだ。

「嫌だ。切るわよ」

千里は即座に断った。存在自体が不愉快な綿矢の申し出など聞きたくない。

―まあ、そう言わずに聞いてくれ。

綿矢は語を継ぎ、簡潔に述べる。

―七節町で殺人事件が起こっている。予告殺人だ。犯人は七節署に対し、クイズに答えるよう要求してきた。

「は?」

千里には話が見えてこない。綿矢は続けた。

―要求を無視した場合や、解答を間違えたり、問題に答えられない場合は人を殺すと予告しているのだよ。現にそうなっている。すでに三名殺害された。

「もしかして、私にそれをやれって言いたいの?」

―話が早くて助かる。そしてこの事件の犯人を突き止めてほしい。

くだらない。そんなことで殺された被害者は気の毒だと、千里はため息を吐いた。

「べつに私じゃなくてもいいでしょ。そのクイズだって、どっかの得意な奴にでも頼めばいいじゃない」

―解答者は警察官と限定されている。

皮肉を込めて千里が返す。

「だったら、あんたの優秀な部下にやらせれば。何十人もいるんだから」

―もうやった。しかし無理だった。

「わかんなかったの?」

―いや、答えることはできる。だが、制限時間が設けられていてね。その時間内に答えられなかったんだよ。

それが負け惜しみのように聞こえた千里は、つい失笑してしまった。

―こちらは手を尽くしているが、現状、捜査は難航している。

笑みを消した千里は、再度拒否する旨を報せる。

「とにかく私は嫌だから。別の誰かに頼んで」

千里が電話を切ろうとすると、綿矢の声が響いてきた。

―今度は幼児を殺すと言っている。

綿矢の言葉が気になった千里は、改めて受話口に耳を当てる。

―犯人は次に、小さな子どもを狙うと予告してきた。きみは見殺しにするつもりかね?

千里は眉間に皺を寄せ、しばし黙って熟考したあと、綿矢に訊ねた。

「なんで私なの?」

―きみが聡明だからだ。

「私、そんなに頭良くないわよ」

―謙遜しなくてもいい。

千里は上体を起こし、立て膝座りになると制約を設けた。

「条件がある」

―なんだ?

「どんな結果になっても、この事件が終わったら二度と私にこんな電話してこないで。命令もしないで。もう私はあんたの部下じゃない」

―わかった。約束しよう。

綿矢は沈着した声で承諾した。

「で、私はこれからどうすればいいの?」

―きみのところに部下を向かわせている。あと一時間弱で到着するだろう。事件や捜査の詳細は彼から聞いてくれ。

「え?私がいる場所知ってんの?」

―それも天海先生から訊いた。

千里がぼやく。

「あの女・・・」

そして、やや苛立ちを覚えた。綿矢は最初から千里が捜査に参加するのを前提の上で行動していた。その目論見を当の千里が察したのだ。やはり断るべきだろうか。しかし、返答を二転三転させるのは好まない。千里はやむなく、嫌々ながらも準備に入った。


 一時間後、曇り空の下。千里は玄関のテラスにいた。チャコールグレーでスリムラインのハイネックセーターの上に、黒革のテーラードジャケットを羽織り、黒いスキニータイプのデニムパンツ、同じく黒で革製のショートブーツを身に着けている。足元には、衣類や日用品などが入った黒のボストンバッグが置かれていた。千里はうつむいたまま、右手を腰に、左手を柵の親柱に置き、足首を交差させて立っている。迎えを待っているのだ。そこへ、舗装された道を一台の乗用車がこちらに向かって走ってきた。千里はその音に気づいて顔を上げた。目の前に車が横付けに停まり、奥の運転席からスーツ姿の若い男が降りてきた。諸星だった。

「緋波警部」

諸星は深々と礼をした。

「やっぱ諸星か」

千里の予想は的中したようだ。ボストンバッグを持ち、ウッドデッキの階段を下りた千里は、手前の後部座席のドアを開き、そのボストンバッグを置いて閉めたあと、さっさと助手席に乗り込んだ。諸星も運転席に座り、エンジンをかけた。


 ハンドルを握る諸星が言った。

「警察手帳と装備品、あとバッジは・・・」

諸星が言わんとすることを千里が継ぐ。

「ダッシュボードの中、でしょ」

「は、はい・・。それとタブレットがあるので見てください。事件のデータが入っています」


 最初の被害者、桑原俊克は大手デパートのひとつ、<鐘ヶ宮百貨店>の本社の営業部に勤める会社員であった。第二の被害者は足立邦子あだちくにこという女で、人材派遣会社<フォアズワーク>の七節町支店に務める事務員。現場は自宅マンション近くの路上で、夜間に殺害されていた。そして第三の被害者である竹林敦たけばやしあつしはフリーライターの男で、テレビにも度々出演していた。現場は七節町の雑居ビルに入っている本人の事務所。日中、そこの玄関前で遺体となって発見された。被害者はいずれも、背部を刃物で複数回刺されたことによる失血死。調べでは帰宅しようとしていたところを襲われたらしい。目撃者はなく、今のところ、被害者との共通点も怨恨の線も浮かんではいない。現場付近に防犯カメラはあったが、ケーブルが切られていたり、レンズをダクトテープで貼られていたりされていたため、犯行の様子や犯人の姿を映した映像は存在していなかった。おそらく犯人が行ったものと捜査側は見ており、第二、第三の現場には最初の現場同様、犯人と思しき人物が打ち込んだメッセージカードが残されていたため、同一犯による犯行とされた。そして今朝、犯人から四度目の予告メールが届いた。当日の午後六時、配信によるクイズを始めるので答えろ。さもなければ、七節町で再び人を殺すといった旨の文章であった。


 中央自動車道を走るなか、諸星からひととおり説明を受けた千里は、タブレットの画面を見ながら言った。

「それで、犯人は次に子どもを殺そうとしてんだ」

前を向いていた諸星は首を傾げた。

「え?そうなんですか?」

千里は諸星に視線を遣る。

「違うの?」

「メールには人を殺すとはありましたけど、具体的に誰を殺すかといった記述はありませんでした」

綿矢に騙されたことを知り、目をつり上げた千里は顔を車窓に向けた。

「チッ、綿矢のクズ・・・」

千里は小さく舌打ちして悪態をついた。


 出発してから二時間後、車は七節警察署に到着した。警察手帳を上着の内ポケットにしまい、捜査一課の赤バッジをえりに付け、装備品を身に着けた千里は、バッグ片手に署内のロビーを通り、諸星の案内で捜査本部のある会議室に向かう。その途中、滝石と再会した。

「緋波さん」

滝石は一礼すると、優しい笑みを浮かべた。相変わらず人当たりがいい顔をしていると千里は思った。

「先、行ってますね。向こうですから」

積もる話もあるだろう。気を利かせた諸星は会議室を指差すと、足早にそこへと歩いて行った。滝石は諸星と会釈を交わしたあと、置き去りにされた千里に歩み寄った。

「一年ぶりですね。その後、いかがですか?」

滝石が左手を差し出してやんわり訊ねると、千里は取り澄ますような表情で答えた。

「べつに。自由になったくらいかな」

そこでふと、千里は気づいた。

「滝石さん、それ・・・」

千里が滝石の左手を指差す。

「ああ、これですか」

滝石は左手の甲を見せた。というより、薬指にはめられた指輪を示した。

「実は自分、先月結婚しまして」

破顔一笑はがんいっしょうといった表情の滝石は照れくさそうにしていたが、すぐに手を下げて恐縮し、申し訳なさそうに語を継いだ。

「あっ、すみません・・。なんか、自分だけ・・・」

「なんで謝んの?もしかして滝石さん、私のこと心配してる?」

滝石は慮って千里に気を遣っていたようだ。

「そんなのいいから。そう。おめでと」

千里が微笑む。滝石が幸せならそれでいい。その祝福の言葉が伝わったのだろう。滝石の表情が和らいだ。

「ありがとうございます」

ひと言謝辞を述べた滝石は、話題を変じて千里に告げる。

「係長から、緋波さんと組むようにと指示を受けました。管理官が電話でそう言ってたそうで」

千里の顔が瞬時に険しくなる。

「綿矢?」

滝石はうなずいた。

「はい」

そう言うと滝石は訊いた。

「捜査本部行くんですよね。自分も戻るんで一緒に。さあ」

滝石に促されるまま、千里は会議室へ向かうのだった。


 千里が捜査本部の置かれた会議室に入ると、人の数はまばらだった。ほとんどの捜査員は外に出ているようだ。しかし一番前の進行席では、諸星を含めたスーツ姿の男たちが集まり、なにやら話しているが、数人の男が壁となっており、千里からは誰と話しているのかわからない。滝石がそこへと歩みを進める。千里はその後ろをついて行った。そして滝石は、進行席に着くと気を付けの姿勢を取り、報告をした。

「緋波警部が到着しました」

滝石の背後から千里が覗くと、その誰かがわかった。こちらを見て立っている捜査員たちの中でひとりだけ、高円寺が大股を開き、腕を組んだまま、不遜な態度で椅子に座っている。

「管理官から聞いてます。警部がクイズに答えるんですってね。今、その話をしてました」

続けて高円寺が言った。

「もう警察辞めたと思ってたよ」

高円寺にとっては冗談のつもりであったが、それでも千里には嫌味に聞こえ、不快に感じた。バッグを傍らの机にドスンと起き、滝石や捜査員らを押しのけて高円寺に近づいた千里は、怖い目つきで高円寺のネクタイを摑んで引っ張り、顔を引き寄せた。その直後、恫喝するような口調で捲し立てた。

「こっちは急に呼び出されてイライラしてんの。これ以上イラつかせたらぶっ殺すぞ」

千里の殺気だった形相に、高円寺は内心怯えた。過去に似たようなことを言ったがために、千里にひどく痛めつけられたからだ。強面を繕っているものの、かすかに震えてなにも返せない高円寺を千里は黙って突き放した。それから千里は、進行席に置かれたデスクトップパソコンとスタンドマイクに目を遣り、その前に立つと、誰彼構わずに訊いた。

「これでやんの?」

諸星が代表して答える。

「そうです」

犯人からのクイズが始まるまであと約一時間。スリープ状態にある黒いパソコン画面を千里は見つめた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る