第五話 『虹を背負うは白き花』




 大雪原に、汽笛が響く。鋼の箱舟、機関都市が凍てついた眠りから覚めるのだ。シュエも私室で目を覚ます。早朝、5時12分……防音効果のある分厚い特殊ガラスは、眠りを妨げない程度に汽笛の歌声を弱めてくれていたものの、『狼』の聴覚は鋭さがあった。


「……定刻通りか」


 やわらかな毛布のなかで、猫のように伸びる。体の手入れだ。いつでも戦えるように、体を目覚めさせておきたい。毛布の中でのストレッチを終えると、シュエは身を起こす。


 カーテンを開いた。早朝の闇が残る窓の外、『空を裂く虹色の牙』の光を浴びて……あの蒸気塔が見えた。


 キティの気遣いである。自分の部屋の、となりのとなり。すぐ近くの部屋を、シュエに与えたのは、縁深い蒸気塔を見やすくするためである。


 他意はない。ベアトリーチェのような考えを、キティは出来ないのだ。「お嬢さま、夜這いという伝統がありまして」。その入れ知恵が伝わるよりも先に、山猫の眼をした執事に罰を与えられていた。


 一人では持て余す広さの部屋だが、せまいよりはいい。シュエは、朝の鍛錬を始める。漆黒の指環を撫でて、刀を呼び出した。


 振る。


 剣舞を踊るのだ。


 調度品には、届かない。広さは、こういう時に役立った。


 戦いの型だ。攻めの型、守りの型。流れるようにスイッチしていく。


 記憶はない。だが、全身に染みつくほどには刀を振り抜いている。記憶はないのに、勝手に動いてくれるのだ。『蓬莱』の刀術に、似ている。アインホルン姉妹との戦いで、その事実は確定した。


 チュンメイ・アインホルンからの指導も、役に立っている。『蓬莱』刀術の基礎の練習方法を、教えてもらってもいた。


 起源を同じくする刀術だ。「『蓬莱』の練習をすれば、磨かれるハズだぞ!」、その予想は当たっているように思う。


 本能に刻み付けられていた動きから、『蓬莱』の基礎剣舞につなげた。違和感が、ない。ペースもリズムも、似ている。


「……二度と、唇に噛みつかれるわけにはいかないからな」


 イージュン・アインホルン対策である。彼女が、アーデルハイト・エステルハルドに雇われているのなら、『蓬莱』対策をしておく。『蓬莱』の動きを、より知っておけば。対応しやすくなるはずだった。


 負けられない。


 キティと一緒に、無理をすると決めたのだから。


 朝の15分の鍛錬を終えた後……シュエの労働は始まる。執事の修行もしなければならないが、ワードローブから取り出したのは作業着だ。


 機関都市での一般的な暮らし方も、学ぶ必要がある。『シャル・リリィ』とは、一体どういう機関都市なのかを知らねば、そこを治めるフィックスドフラワー家の使命も見えてこないからだ。


 私室から出る。廊下は冷えていない。屋敷のより内側にあるから、廊下も温められている。絨毯もあるから、足音も響かない。それでも、執事修行も行う。足音は、立てない。キティの部屋は近いからだ。安眠を妨げてはならない。


「……ゆっくりと、休んでくれ。キティ」


 当主としての仕事をこなす大変さを、おそらくシュエは理解し切ることは不可能だ。だからこそ、やさしくいたわればいい。キティについては、いくつか学んでいる。努力家だ。無理して、がんばり過ぎる。


 身体能力も、高い。


 シュエが汽笛に気づけるように、キティも同じだ。目を覚ましている。『牙』の一族の感覚の鋭さは、シュエが起きて足音を殺して歩いたことにも気づいた。見送りたい、が。寝癖がついているかもしれない。


「……ちゃんとしているときの姿だけを。見てもらいたいです。一昨日は、泣き顔を見られちゃいましたし」


 泣き虫なところは、見せたくはない。だが、それとは真逆の感情もある。毛布の中で、指切りをした右の小指を、自分で握った。顔が熱くなる。心臓の鼓動も、早くなった。


「……シュエさま…………こっそり、会いに来てくださっても…………」


 マクラに顔を埋める。誰かの感触を、想像するかのように。頭をぐりぐりと動かした。起床時間まで、少しある。愛おしい思い出にひたりながら、ニヤニヤしておいても許されるはずだ。そんな朝があってもいい。当主の仕事は、ハードワークなのだから。


 一方、シュエは朝食づくりを始めているコックたちとすれ違っていた。


「よう。シュエ、朝からがんばってるな」


「ああ。そっちも」


「まーねー。でも、なれてるよー。コックは、地獄」


「地獄……か。手伝えそうなら、言ってくれ。仲間の力にはなりたい」


「ハハハ。マジメ過ぎ。なれてるから、平気だよ。君は、自分のコトをしてね」


「分かった」


 連帯感も育ちつつある。共に働く。それは人と人のあいだにある絆を、より深めてくれた。群れとなる。使用人全員の結束の強さこそ、フィックスドフラワー家の力でもあった。


「ほら、もってけ」


「シュエくんの好物の、飴玉だよーん。キティお嬢さまには、秘密ね」


 餌付けの機会を奪われたと、嫉妬されるのは嫌ではあるが……子供のように飴を喜ぶ表情は、コックたちにも人気があった。


「ありがとう。子供たちにも、配ってみるよ。きっと、喜ぶ」


「そだねー。だと、こっちも嬉しいわ」


「じゃあ。窯に火を入れるぞ!」


 コックたちの作業も始まる。朝のパンは焼き立てがいいに決まっているからだ。赤レンガで作られた窯に火がともる。大量の小麦粉を、熟練の腕がこねていく。


 甘いイースト発酵の香りに包まれて、野菜や肉を切る音も混じった。使用人全員の食事を作るのは、なかなかの大仕事であるし、困窮世帯用の炊き出しの準備も同時並行で行われる。


 戦いの多い時代だ。


 戦死者も多い。残された遺族のためにも、統治者は施策を取る必要に迫られる。さまざまな方法があるが、フィックスドフラワー家ではアレンの代から直接的な炊き出しを行っていた。「良いリーダーってね、困窮者を見捨てない者を言うのよ」。歴史学者の妻は、地球時代からも伝わる名言の数々を授けてくれた。


 街並みをアレンは歩く。『四都市同盟』を再結成するために、『シャル・リリィ』は『ギアレイ』とのランデブーポイント/接触地点に向けて進んでいる。通信だけでは、不十分だ。トップ同士の直接会談こそが、政治的な重みを作る。


 信頼の証だ。


 暗殺を仕掛けられる距離に、互いが近づくことは。それこそが、どの時代でも政治的絆を作ってくれる。原始的なまでに、本能へ響く行いなのだ。


 大雪原を走り始めた『シャル・リリィ』の早朝で、シュエは仕事の現場に到着する。駅だ。機関都市そのものが、巨大な機関車であるが……広大な機関都市内部にも、交通機関が用意されている。都市内部を駆け抜ける列車は、最も効率がいい。


「遅れずに来たな、新米執事」


「当然だ。これも仕事で、修行だ」


「マジメなところは評価してやろう。ベテランのオレの仕事の邪魔をするんだ。しっかりと、今日も学んでくれよ」


「トニーは、ベテランなのか?」


「……三年働いてる。ベテランだろ?」


「オレと同じ年だ」


「150年も生きてねえよ」


「それを引くと、17か、18らしい」


「オレは18。三年、『シャル・リリィ鉄道』で働いてるんだ。大先輩だな」


「了解した。大先輩、仕事を教えろ」


「おう。列車の点検だ。夜風は冷えるし、機関都市が走り始めると、あちこち揺れちまうからな」


「それで、壊れる時がある」


「そういうコト。ほら、見て回るぞ。ライトで照らして、怪しげなトコロはハンマーで打つ。音でも、しっかりと確かめられる。慣れが、必要だけど」


「習慣だけが、高みを作る」


「はあ?」


「こっちの課題だ。気にするな」


「執事修行も小難しそうだよなあ。キティお嬢さまのお傍にいられるだけでも、嫉妬モンだけど」


「うらやましいか?」


「うわ。真顔で、そんなコト聞くの……敵を作るからやめとけよ。二度とやるなっ!」


「覚えておく。オレは、平和主義でいたい」


 列車の点検が始まった。凍えた早朝の風は、走り始めた『シャル・リリィ』の速度によって、さらに冷たくなっている。吐く息の白さが強まり、ほほはチクチクとした。それでも、仕事はシュエに楽しみを与える。


 車体の裏に潜り込み、つららをハンマーで小突いて割った。


「そこ、叩くんだ。バカ力は使うなよ?」


「『鉄腕』は使わない。使えば、列車が吹き飛ぶかもしれないから」


「う、おっ。マジか……れ、『レリック』だもんなあ。とにかく、壊さない力で、軽く叩け」


 トニーは音を聴いた。うなずく。それだけで、列車の『健康状態』が分かるらしい。シュエには、まだ音の違いが分からない。


「熟練が必要なんだよ」


 全ての列車の点検を終えて、『シャル・リリィ鉄道』の始発列車が動き出す中、車掌室の暖炉の前でトニーは先輩風を吹かしていた。椅子に座り、冷えた足首をくるくると回しながら。コーヒーは、もちろんブラックだ。シュエの前では、強がりたかった。いつもの甘ったるいカフェオレは、この時間では封印されている。


「テンポ、リズム。そいつが、全てさ」


「斬撃の打ち合いと、似ているな。あれも、音で色々と分かる」


「んー。オレからすれば、音楽だと言って欲しい」


「なるほど。音楽も、武器になりそうだ」


「はあ。お前、戦闘ばかりかよ……たまには、音楽も聴け。『シャル・リリィ放送局』の、ジャズ・チャンネルは絶対に聞け。カッコいいんだぞ、ジャズ」


「今度、聞いてみるよ」


「おお。ジャズは、記憶に効くかもしれねえぜ。なんせ、5000年以上の歴史がある。星間旅行のあいだは、あっちも氷漬けだった」


「オレの仲間だな」


「そういうコト」


 仕事の終わりの会話は、楽しいものだ。トニーには、さらなる仕事があるが……シュエは執事修行に戻る。トニーは、うらやましいと一瞬、思った。キティには、多くの『シャル・リリィ』の少年たちが初恋を奪われていたからだ。


 かつてから、とてつもない高嶺の花。今では、さらに領主である。憧れは、遠ざかり過ぎて、何が何やらトニーにも説明できない距離感だ。もはや女神や天使と、同列に近い。


「じゃーな。キティお嬢さまに、迷惑かけるんじゃねーぞ」


「努力は、惜しまない。キティが、そうするように」


 覚悟が要る領域だ。戦場に向かって帰らなかった兄たちよりも、今のシュエの顔は落ち着いているが、何処か遠くを見つめているように見えた。そう。空だ。『空を裂く虹色の牙』を背負うのが、『牙』の一族。


 見上げたそこに君臨する虹色は、あまりに遠く、大きかった。こんなもの、背負えって?


「……キティさまは、『四都市同盟』で、平和を作ろうとしているわけで……それって、とんでもなく、デケーことだよ……はあ、鉄道屋で、良かったかも」


 憧れの職場は、色々な意味で天国に近い。


「執事だー」


「ひつじだー」


「執事だ。見習いだけどね」


 列車の『寝床』の近くに孤児院はあった。『シャル・リリィ鉄道』が経営する戦災孤児院だ。屋敷のコックたちがミニバンで朝食を届けに来ているが、まだ食事の時間まで時間があった。


 早起きの理由は、二つ。一つは……。


「ガキども。『蓬莱』刀術の稽古だぞー。大雪原で、いちばん!」


「つよくなーる!」


「つよくなーる!」


 布教活動であった。もとい、武術指導。チュンメイ・アインホルンの業務の一つだ。メイド服のままだが、見事な刀さばきを披露している。振り回しているのは、竹刀であるが。


 強さがいる時代だ。それに、運動は心身の健康を組み上げてくれる。戦う力は、恐怖との付き合い方を悟らせてもくれた。それに、ちいさな男の子は棒や剣を振るうのが本能的に好きだった。


「ほうら、五対一でもいいぞ。チュンメイお姉さんに、一太刀でも当てれば、クロオビ認定だー」


「やっちまえー」


「いっせいに、かかれー」


 子供たちは『蓬莱』刀術の強さを思い知る。まったくもって、当たらない。孤児院のスタッフたちからは、『大人気ない』という評価もあるものの、「手加減して得られる成長など、どれほどのものか。一秒でも早く強くならねば、死ぬかもしれんだろー」。


 姉の言葉を借りてもいるが、チュンメイの本心そのものでもあった。真実でもある。子供たちにも、弱さが許されるとは限らない。いつ目の前に悪意と武器をもった敵が現れるか。


 ……シュエも、大人気なく、当たってやらないことにした。竹刀の雨あられを軽やかにかわしながら、子供たちに剣術を教えていく……すぐに、皆が疲れ果ててしまうが。だが、日に日に参加者は増えている。


 今日は、シュエに食らいついて竹刀を最後まで振り続けたのは、9才の女の子だ。


「はあ、はあっ。つよく、なる……っ」


「もうやめておこう。君は、初日だからね」


「そうだぞ。無理は、良くないのだ」


「……でもっ。『ギアレイ』に……いくんだよね」


「うむ」


「……お父さんと、お母さんを、殺したんだ。あいつら……っ」


 機関都市同士である。争いも多い。フィックスドフラワー家にリスペクトを持っていたガリエラ伯爵の『ロッソール』さえ、猛吹雪に乗じて攻撃を仕掛けるような間柄だ。『ギアレイ』と戦い合った歴史もある。


「そ、そうか。まあ、そういうコトも、多々あるが……」


「どうして、あんなやつらと、仲良くしようとするのっ!?」


「そちらの方がな、あれだ。つまり、生き残りやすくなる」


「平和になるからだよ」


「……あいつら、ぜったい、うらぎるよ」


「そ、それも、まあ、あるあるではあるがっ」


「シュエお兄ちゃんは、『レリック』を、もっているんだから……かして、ほしい」


「『鉄腕』は、誰かに貸せる力じゃないんだ」


「それが、あれば……」


「……もしも、『ギアレイ』が裏切ったら。オレが、倒すよ」


「……っ!!」


「もしもの時だ。恨みばかりを、考えなくていい。ほら、飴をあげる。コックたちが、作ってくれた飴だ」


「……うん。これ、すごくあまいから、好き……中に、すごく、とろとろの、チョコも、入ってるもん……」


 コックたちの中には、腕のいいパティシエもいる。高級食材を使った『まかない』の飴でもあった。真に良い味は、ちゃんと本能にも届く。そして、甘いものは人の口を閉ざさせるものだ。笑顔になってくれた。それで、いい。飴に閉じ込められたチョコレートと触れた舌先は、幸せになるべきだ。


「うま……あまっ。これ……ほんと、レベチのおいしさ……っ!」


 漆黒の指環が朝陽を反射する左手で、シュエは少女の頭を撫でてやった。


 記憶はない。だが、この少女の記憶はわずかながら、シュエの胸の中心にある空白に響く。思い出せない記憶の中で、『リトル』との交流は再現されていた。


 時代が変わろうとも、本能は変わらない。『狼』の本能は、日に日に目覚めていく。守るべきは、群れの仲間だ。キティ、屋敷の仲間たち、そして『シャル・リリィ』の市民の全員。多く、大きな、責任ではあるが……背負いたくなる。


 キティとの約束のためにも。


 シュエ自身の本能のためにも。


 飴を楽しむ笑顔で、悲しい記憶をほんの少し忘れられた少女に手を振られ、刀術指南役たちは屋敷へと戻る。


「なあなあ。その飴玉って、コックの連中の自腹切ってるらしいぞ」


「ああ。知ってる」


「耳が早いな。フィックスドフラワー家のコックも、ここ出身のヤツがいるんだ」


「それは初耳だった」


「クソ高い食材で作ってる。将来有望なお前への『わいろ』的な餌付けでもあるだろうが、ガキどもに良いモン食わせたいんだろうな」


「いいヤツらだ」


「……ん。そうだな。それは、認めてやろう。ちょっと……姉上も思い出す」


「イージュン・アインホルン?」


「とんでもない守銭奴だし、痴女でもある。しかし、ガキにはやさしい。『蓬莱』の孤児に、飯をおごってやった日もあるんだ。意外だろ? 実の妹には、身代金も払わないというのになあ……っ」


「チュンメイがいてくれると、助かる」


「うおっ。美形めっ。さみしい心に響くから、やーめーろっ! お前に妙な感情を抱くと、不器用メイドにしめられそうだっ。くわしいんだぞ、私は、年上女の横暴にはなっ!?」


「よく分からんが、ベアトリーチェさんは良い人だぞ」


「相手にもよるんだよ。お前は、媚びるにはいい相手だ。フィックスドフラワー家の連中からすればな……」


 マルクは嫌がるだろうが、と前提をつけながらチュンメイは考える。どうせ、コイツはキティ・フィックスドフラワーと…………。


 少女の視線が、指環に移る。喪章のような漆黒に。機嫌の良さそうなシュエは、それを親指で撫でていた。愛しさを込めて。『リトル』の遺した本を、彼女も読んだ。騎士に託された、指環。150年前のお姫さまの……。


 朝陽を浴びてかがやく街路を歩きつつ、腕を組んだ。彼女も思春期の少女の一人である。恋愛について考えたくもなる年齢だ。それに、『蓬莱』の傭兵、恋多き守銭奴イージュンの妹だ。実体験には乏しいものの、実姉の蛮行を目撃してきた。


 あの部屋の配置、それに、あれだけ露骨なキティの愛情。あれでも、どうして、この男は……金と美貌と、さらには性格まで兼ねそろえている少女を襲わないのだろうか?


 率直に、謎だと感じる。「据え膳食わぬは男の恥だしー」、姉上の声が少女の頭に響いた。男とは、彼女の姉上のように貪欲な獣なのだ。なのに……。


 それは、つまり。


 ……150年前のお姫さまに、何かしらの未練があるのか。記憶がないくせに。


 あるいは、こいつは……ゲイなのかもしれない。その考えに至った時、チュンメイは何故か顔が赤くなった。癖は、それぞれにある。


「どうかしたのか?」


「い、いえ。何でもないぞっ。ほんとだぞー」


「そうか。あ。最後の飴玉、チュンメイにやろう」


「うむ……やさしいヤツだな。それが、罪作りなのだろうか……もぐもぐ……うわっ。あまっ。太りそうだ」


「成長期だから、いいんじゃないか」


「お前もだろうに……」


 屋敷に戻れば、朝食となる。長距離移動となるのだ。不測の事態に備えて、しっかりと食事を取っておけとマルクが全員に命じていた。


「食事の最中に、仕掛けて来る性悪な敵も、いくらでも大雪原にはいる。『ゴーティ』からの税収のおかげで、『シャル・リリィ』の走力は改善されてはいるが……速駆けは機関都市にダメージを与えるものだ。24時間、常に、警戒を怠るな!! 消化時間も計算に入れて警戒を強めろ!!」


 食事前の教訓としては、あまりにも厳格である。食欲が失せる軍人的な言葉ではあったが、困ったことに真実しか含まれていなかった。


「メシの最中ぐらいは、のんびりしときたいもんだねえ」


「……カートマンは、電気や燃料食じゃないんだ?」


「チュンメイくーん。おじさん、こう見えてグルメなんだよ。胃腸まで、ロボにはしないぜ。食事は最高の楽しみの一つだ」


「燃料食か……」


「シュエは、知らねえのか。あれは、酷いもんだ」


「マズそうなのは、想像がつく」


「激烈にね。オイルと砂鉄を混ぜて、バッテリー液を振りかけたような……」


「うえええ。絶対に、マズいやつだぞ、それえ……っ」


「『聖騎士教会』の連中は、戒律のせいで、アレばっかり食ってるらしい」


「……『歯車仕掛け聖騎士教会』は、サイボーグだけなのか?」


「ほとんどな。サイボーグが大半だ。だが、もっと……機械化してるヤツもいる」


「サイボーグより、機械化なんて……どうするんだ?」


「『ギア・エルフ/電子妖精』になるんだよ。150年前には、そうか。まだいなかったな」


「どういう存在なんだろう?」


「細胞一つ残さず機械化する。もうサイボーグじゃないな。機械に置換したカラダじゃない。機械そのものだ」


「つまり、もう、ロボットなのか?」


「そうだな。しかし、その発言は、人権問題、あるいは宗教問題となるから注意するように」


「元々は、ヒトだしなー」


「チュンメイくん、そういうモノ言いもアウトだ。『ギア・エルフ』は、今もってヒトだよ。細胞全部を機械に変えながらも、精神は高度に電子化されて、新たな義体に収納された。肉体が機械なだけで、魂は、ちゃんとヒトなのさ」


「……機械なら、コピー出来ちまいそうだぞ?」


「それも、アウトな。コピー? ヒトをか? 何て発想なんだよ。どこの『殺戮卿』だ。『蓬莱』ってのは、機械差別主義者の集まりか?」


「そうでもないがな。刀術の神髄は、機械では再現できないから……あまりサイボーグは好まれんトコは、あるかもな!」


「笑顔で、言うな。おじさんは、れっきとしたサイボーグなんだからね?」


「カートマン、『ギア・エルフ』について教えてくれ。戦うかもしれないから、知っておきたい」


「『ギア・エルフ』は、『歯車仕掛け聖騎士教会』の極致だ。電子化された魂を宿した、この星で最高級の機械義体者たち。まあ、ちょっと語弊もあるが、『究極のサイボーグ』ってトコロだよ」


「ふーん。じゃ、カートマンより、『高級品』なんだ?」


「そうだな。ある意味で……だが、彼女たちと、戦うとすれば……最新鋭の性能が問題じゃねえ。その圧倒的な経験値にこそ、苦しめられるだろう」


「戦闘経験が、豊富なのか?」


「事実上の不老不死だ。彼女たちは、この大雪原という戦場で、誰よりも長く戦い抜いたバケモノと言える。究極の最適解で、襲い掛かり続ける。間違えを犯す可能性を、期待できねえ」


「不老不死か……ちょっと良さそうだけど。全部、機械になるのは、私は嫌だ」


「オレもだ。だが、そういう発言は、あちらさんのアイデンティティを傷つける、とても失礼な発言だとは認識しておけよ、チュンメイくん。それに、シュエもだ」


「了解。無用な衝突は、避けるようにしたい。だが……」


「……ああ。必要なら、戦え。特別に……タダで、貴重な『ギア・エルフ』との交戦データを提供してやるよ」


「あ。それ、もう、お嬢さまに支払い済みなんだろ? 傭兵あるあるだ」


「おいおい、バラすのはナシだろ、傭兵仲間ちゃーん。恩は高く売ってこそだよ?」


「食後の予定は、決まったな」


「マジメだな。だが、それが、正解。大雪原で、生き残るための一番大きなコツだぜ」


 マルクも満足する結束が、生まれつつある。傭兵たちは、勤勉だ。カートマンは金に見合った仕事を果たす。チュンメイ・アインホルンとも、あらためて傭兵の契約を結ぶことになった。本人も、嫌ではないようだ。『蓬莱』からの命令も届いている。「賠償請求されないために、フィックスドフラワー家に仕えろ」、とのことだ。


 ……たとえ、『姉と戦う状況となっても退くな』とも。


「う、うむっ。これも、傭兵の道っ」


「チュンメイさん。もしも、お辛いなら……」


 執務室に呼ばれたチュンメイは、キティの前で首を横に振った。


「いいんだ。お嬢さま。姉上も、私を殺すまではしない。私も、殺せない。それは、お嬢さまの方針にも合っているだろ?」


「ええ。撤退してくれるなら、問題はありませ―――」


 記憶が、蘇っていた。シュエにまたがり、その唇を奪ったイージュンの姿を。傭兵は、お嬢さまの眼に怒りの炎が青く燃えるのを感じ取った。『牙』の異能が、暴発でもしたのか、分厚い窓ガラスがピシっと鳴るのも。


「ぜ、絶対に撃退しますっ。少なくとも、時間稼ぎはするのでっ。あとは戦術とかでどうにか対処してくださいっ」


「は、はい。マルクや、ベアトリーチェがどうにか指揮を執ってくれるでしょう。強敵ですが、シュエさまが『鉄腕』を使える場所で戦えれば、勝利は間違いありません」


「う、うむ。だろうな。姉上は、そこは注意すると思うが……と、とにかく! 今後とも、よろしくお願いいたしまーすっ!!」


「はい。こちらこそ、よろしくお願いいたします。イージュンさん。『シャル・リリィ』に、ようこそ!」


「……おお。お嬢さま、いいヤツだな」


「そ、そうですか?」


「うん。あのな。応援、してやるから。がんばれ!」


「はい。『四都市同盟』の復活、必ずや、成し遂げてみせますね!」


 応援してやるつもりなのは、そこではなかったのだが。やる気に水を差すのは、雇われ兵士の仕事でもない。スマイルと共に、うなずいておく道を選んだ。


 そう。そもそも、恋路よりもはるかに厳しいかもしれない。


 この大雪原で、四つの機関都市が同盟を結ぶなど……。


 歴史が証明し続ける残酷なヒトの本質が一つある。それは、他人を信じるよりも、疑う方が容易い。言葉で分かり合うよりも、力で支配を押し付ける方をヒトは好む。


 それでも。


 歴史に抗うかのように、目の前にいる少女は同盟樹立を目指す。マルクが用意してくれた分厚い書類にサインを記し、政治交渉用の資料を熟読していく。朝食の場に現れなかったのは、仕事をしながら食事を済ませたからだ。


 無理をしている。


 健気なものだ。


 ……『蓬莱』のベテランの中には、『蓬莱』を去った達人たちも多くいる。彼ら彼女らは、『風』に巡り合ったのだと、自分たちの選択を表現した。何処からか、心の中に吹く、さみしさを帯びた風に。


 それに巡り合うと、傭兵は本物の忠義に目覚める。『騎士』のように、揺るがぬ主への忠誠の体現者へとなるのだ。その結末の多くが、戦場での死であったとしても。傭兵にとって、最良の道だと、イージュンは語った。「満足できる戦場で、死にたいでしょーよ」。


 戦力たちは、それぞれに。惹かれ合う星のように集まり始めていた。


 だが、どんな運命に恵まれたところで、準備は完全とまではいかない。


 大雪原での交渉事に、それはあり得ない。


 協力的である『ロッソール』のガリエラ伯爵はともかく、『ギアレイ』側は、覇権を握りたいと考えているのだから。大雪原の生き方には、群れるよりも独占すべきという方向性が支持される。


 少なからずの機関都市が、過剰な融和のせいで破滅していた。難民を多く受け入れ過ぎたせいで、食糧不足や、機関都市の内部経済の崩壊も招く。機関都市の内側は、あまりにもせまいものだ。引きずる車両を増やし、生活スペースを拡大し続けるのにも無理がある。


 巨大な機関都市ほど、猛吹雪で強く風に揺さぶられてしまうのだから。コストが上がってしまうし、他の機関都市との衝突のリスクも高まる。巨大な機関都市は、戦力も強く、それだけで警戒され、攻撃される理由にもなるからだ。


 闘争と競争の激しい大雪原で、編み出された黄金律。


 それは……。


『我々は、他を排し、独占を目指す。それが、この大雪原での理。不滅の歯車の教えだ。私たち『ギアレイ』が、この星に適応した、新たな人類の霊長となればいい』


 その発言をした『ギア・エルフ』こそ、クアン・クーラン使徒長だ。夕日が大雪原を赤く染めるころ、『シャル・リリィ』は『ギアレイ』とのランデブーポイントまで、あと300キロに迫っていた。


 通信が入り、執務室のキティは、『ギアレイ』のリーダーと通信会談をする他なくなった。ただ一人で、巨大な政敵と戦う。正直なところ、キティはパニックになりそうであったが、覚悟を決めた。猶予とされた、197秒のうちに。


 これは、戦術だ。


 出鼻を挫いて、状況を制するための。


 高圧的な態度も、挑発も、唐突さも、『ただの脅しに過ぎない』……キティは理性でそう判断している。政治というものは、主導権の取り合いの綱引きだ。抜き打ちの首脳会談をさせられることになって、こちらがあわてるのをクアン・クーランは狙っているだけ。


 必要なのは。


 作戦よりも、揺るがぬ勇気だ。


 だから、その勇気をもらっている。


「一緒に無理をするって、約束ですからね」


 60秒でシュエを呼び出して、120秒ほど、手を握ってもらったのだ。15回ほど、「がんばれ」と、言い聞かせてもらながら。その後で……「お父さまに代わり、ハグを……」。


 抱きしめてもらった。


 あくまで父親代わりに、と。


 嘘を使う。


 嘘を使って、真実も得る。「がんばれ、キティ」。その声に、アレン・フィックスドフラワーを感じ取れた。記憶の無い少年は、必死に演じてくれたのだ。もしも、アレンであれば、どんな感情をこの抱擁に込めるのか。


 シュエはアレンと会ったことはない。だが、この機関都市を学び始めた少年には、心の中でアレンに対するイメージが生まれつつある。使用人も、市民も。守るべき者たちがあまりにも多くいる、この機関都市。出会った者たちの顔が浮かんだ。その全てを背負うのは、重た過ぎる。だが、それでも背負わなければならない。「背負わさなければならない」。


 意志を与えるような短い声で、励ました。


 重たさが押し付ける苦しみや戦いに傷つくことを、心配しながらも。


 それでも、信じるのだ。


 ちいさくて震える肩を抱きしめて、つやのある黒髪にキスするように。冷たい雨から守ってあげるような姿勢だ。その身を、傘にしてやるようにして……。


 かつて、アレンが使った言葉が再現される。偶然ではない。この『シャル・リリィ』とフィックスドフラワー家。それらを司る者に対して、与えるべき『相応しい言葉』は決まっているのだから。運命を決めるのは、この世界を走る軌道の在り方である。


「『君なら、やれる』」


「……はい。成し遂げます」


 キティも忘れてはいない。父親から受け継いだ、果たすべき意志を。ただ今は、それがより明確になっただけのこと―――。


「―――クアン・クーラン使徒長。この大雪原では、過去500年間、誰もが完全な覇権を獲得することは出来ませんでした。それは、不可能だからです」


『ほう、不可能だと?』


「ヒトの本能が、支配されることを許せない。短期間、暴力が作り出した勝者が生まれたとしても……支配の抑圧は、自由を渇望させた。それは死をも恐れぬ勇気と革命の闘争を生み、やがて破滅をもたらす」


『その繰り返しではあるが、我々は、そうやって進化を果たしてもいる―――』


「いいえ。もはや、進化と成長で蓄えた技術は、十分です」


『足りているとは、思えぬが。『レリック』の完全再現さえ、やれていない』


「過度な競争の時代は、もう終わるべきです。協力し合うことでのみ、私たちは共通の未来にたどり着ける」


『……『牙』の異能を使うそなたが口にする言葉だろうか? 我々も『レリック』を持つが、そなたには『牙』まである。管理者としての血筋。いわば、王の候補だろうに』


「もはや、500年の闘争で『牙』たちも、折れてしまった。種族を率いる闘争は、時代遅れになっています。多くの人種が、各機関都市に流れ込んでいる。この『シャル・リリィ』にも、多様な人種がいます」


『……エステルハルドどもも、群れに招き入れたと?』


「『ゴーティ』の人々は、おだやかに過ごしています。『殺戮卿』亡き今で、かつてほどの領土的野心も、彼らは持っていません。共存は、可能です」


『……どうだかな。そなたの一人勝ちに、なるのではないだろうか? 我々をも、吸収するつもりかもしれない』


「私は支配的な『王』になど、なりませんよ。誰もが、生きていてもいい大雪原が、欲しいだけです。手を取り合って、進む道を模索しませんか? きっと、生産的な道を、お互いに見つけられる」


『論拠はあるのか?』


「もちろん。ご満足していただけるデータと、こちらからの提案は用意しています」


『政治家が、人前に現れる時、信頼して欲しいのであれば『明確な手土産』が必要なのだ。それを、そなたは用意しているのか? データなど数字のまやかしでも作れる。提案など、夢の世界の空言にも等しい』


「すでに、手土産はお渡ししています」


『何も届けられては、いないが?』


「ゾルハ・エステルハルドを、倒しました。『殺戮卿』とは、犬猿の仲だったはず。私が、もしも彼と結婚していたら。『シャル・リリィ』と『ゴーティ』の戦力で、『ギアレイ』は襲撃されていた。そのリスクを、私が除去しました。それは、十分な手土産でしょう」


『可能性の話に過ぎん』


「いいえ。『殺戮卿』は、必ず『ギアレイ』に挑んだ。彼は、この星を支配しようとしていたのですから。ゾルハの娘、アーデルハイトは、『ロッソール』にイージュン・アインホルンを送り込んでいました。つまり、ゾルハは『ロッソール』も前々から狙っていたのです」


 真実である。そうでなければ、ガリエラ伯爵がエステルハルドとつながり深いイージュンを、『つかまされる』ことはなかった。この大雪原に、偶然の悪意はない。悪意のすべては、デザインされている。


「三つの機関都市を制した直後に、狙うのは当然、四つ目。私は、『ギアレイ』をすでに守っていますよ。三対一では、いくら使徒長さまでも、勝ち目はありませんでしたから」


『……花の令嬢よ。聞いていた印象とは、やや異なる魂を持っているようだ』


「亡き父に代わり、意志と覚悟を継承したのです」


『それだけとも、思わん。そなたは、『何か』に、化けつつあるのかもしれない』


「私の変身を、気に入っていただけたでしょうか?」


『……ああ。会談を、受け入れてやる。『この間合い』での、鞘当てだけでは、そなたの全てを読めそうにないからな』


「ありがとうございます。使徒長さま。直接、お会いするのを楽しみにしております」


 大雪原の女領主が二人、政治的な微笑みの仮面を使い……どちらからともなく通信チャンネルを閉じた。


 閉じた瞬間、キティはその場にしゃがみ込んだ。「は、はふうううっ」と、大きくて長い溜息を吐く。そこにいるのは外交用の仮面を脱ぎ捨てた、本当の彼女。チキンなハートの持ち主だ。心臓は暴れ、全身からは脂汗、泣いてもいる。ストレスで、お腹も痛かった。『ギアレイ』の領主を、脅すなんて。


「……お疲れ、キティ」


「は、はいっ。あ、ありがとうございますっ。本当に、はあ、生きた心地が、しませんでしたっ」


「さすがは、キティさまです」


「ど、どうにか、仕事を果たしましたっ。でも、恩着せがましく、ゾルハの死を使ってしまいました。あれは、私ではなく、シュエさまがいてこその結果なのに」


「キティがいなければ、『船首像の女神』は呼べなかった。二人で、勝ったんだよ」


「は、はいっ。そうですね。たしかに、あれは、二人での勝利です! 今も、そうです……っ。うふふ。あはは。ああ……緊張から、解放されたら、お腹が空いちゃいそうです」


「では、お茶の準備でもいたしましょう」


「オレが、持ってこようか」


「いいえ。私の仕事ですな。シュエは、ここでキティさまの護衛に」


「分かった。キティを……キティお嬢さまを、守っておく」


「守られておきますー」


 ソファーに座るキティには、しばしの休息が必要だった。仕事量も多く、その質も高度だ。疲れ果ててはいるが、まだ『本番』でもない。


「『四都市同盟』を、再結成させる。それが、叶ったら……皆が、より死なずにすみます」


「いいことだ」


「はい。途方もない、夢でしたが。幸運に恵まれて……」


「幸運じゃないよ。キティの意志が、成し遂げた」


「ウフフ。そう、ですね。私は、ちょっと成長したんです。お父さまのようには、まだまだ行きませんが」


「アレン・フィックスドフラワーに、追いつけるように。オレも一緒に無理をするよ」


「……はい。さっきは、本当に。お父さまのようでした。シュエさまは、何処か、お父さまと似ているのかもしれませんね」


「150才だから、大人びて見えるのかも?」


「あはは。150才には、見えません。それ、シュエさまのジョークですね」


「周りを笑顔にするための方法が、一つぐらいはオレにも欲しい」


「……笑顔に、出来てますよ。いつも、私を、喜ばせてくれますから」


「なら、すごく嬉しいよ」


 そこに見つめ合う笑顔がいた。それを、こっそりと見つめるメイドたちもいた。


「……ッ」


「眉間にしわ寄せながら、何をやってるんだ、ベアトリーチェ……」


「メイドの先輩として、技術を伝授しておきましょう。『お嬢さまコントロール』です」


「……はあ?」


 くるくると怪しげに両手を回す先輩メイドの発言に、チュンメイは首をかしげるのみだ。


「『今こそ、キスをしろ』、そういうメッセージを、お嬢さまの脳内に送信しようとしている」


「……お節介が過ぎるというか。そもそも、送れてないぞ。あいつら、ニコニコしてるだけだ」


「ならば、アンタも参加なさい。一人のメイドでは足りなくとも、メイドが二人になれば、あら不思議」


「……いやだよ。なんか、気持ち悪いもん」


「これも、メイドとしての基本的な業務に他なりません。お嬢さまに、女の先輩として、男性を虜にするためのテクニックを伝授したり、こうして、作戦を伝授したりしようとしている。すべて、キティお嬢さまの幸せのため」


「そうかもしれんが……今のお前、姉上の良くない面を連想させるんだが」


「あんな痴女とは、あまりにも違うわ。これは、純度ある、行い」


「純度、とは……」


「くっ。これほどの念が、届かないとは。メイドとしての修行が足りていないっ」


「足りていないのは、モラルとかじゃないのか?」


「こうなったら、シュエくんの教育を進めるべきね」


「いらんコト、企むなよ。見守っていればいいって」


「……『蓬莱』のサキュバスとして名高い、アンタの姉が愛読していそうな本ない?」


「『蓬莱』最強の刀術使いに、なんてあだ名つけてくれる」


「あの女の成分が、少しばかり欲しい。そう、シュエくんに『据え膳食わぬは男の恥』とか、そういう概念を伝えられる名著。あの女、執筆とかしてないかしらね?」


「ないわ、そんなもん」


 実際に口走りはしていていたが……。


「もどかしいっ。抱き着けっ、抱けっ。押し倒せ。心は、体の延長物だ。肉体からつながれば、心もつながる。いや、心なんてつながらなくても肉体はああ―――」


「―――何を、している?」


 山猫の目つきとなった老執事が、紅茶と共に戻ったことにより、メイドたちはこの場から退去する流れとなった。廊下を鏡のように磨く時間が、再び訪れる。


 赤い夕の色彩が深まる大雪原を、『シャル・リリィ』は止まらず駆け抜けた。順調な旅路であるが、向かう北の空に、灰色の雲を蒸気塔の観測チームが発見する。気象データとの照らし合わせが行われた。予想される走行ルートに、悪影響がないかの見当が始まる。


 分厚い雲だ。


 困ったことに、風速も強まりつつある。人々をもてあそぶのが好きな大雪原の気圧が、その性悪さを発揮し始めていた。


「こいつは、嵐とぶつかるかもしれんぞ」


「参ったな。『ギアレイ』とのランデブーに、遅れが出るかもしれない。多少、機関都市に無理をさせて加速し、突っ切るべきか……それとも……遅れを取るか……」


「この判断は、キティお嬢さまにしてもらうべきだ」


「ああ。判断を仰ごう」


「それに……『ロッソール』にも連絡しておいてやろう」


「うむ。あちらも影響が出るだろうからな」


「嵐を背負って、襲い掛かる山賊どももいやがる。オレの故郷は……それで、やられた」


「山賊だけでなく、『ギアレイ』の得意な戦い方でもあるな」


「滅多なことは、口にするなよ」


「あいつらは、嫌いだ。機械は……冷たい目で、殺しやがるから」


「……黙って職務を果たせ。嵐の近くで、感情的になれば、雪に呑まれる」


「……おう。仕事を―――!?」


 灰色の雲の『聴診』を試みていた男が、その表情を鋭くした。ノイズが混じっている。空が揺れる音だ。嵐の読解不可能な乱雑さではなく、人為的な鋭さが、そのノイズからは感じられる。機械が自動的な照合を、完了するよりも早くに、ベテランは状況を悟っていた。


「―――戦闘だ。砲撃をしているぞ。嵐の近くで……誰かが、襲われている」


「救難信号が、出されていないかを探れ! 妨害電波に、押しつぶされている可能性もある!! すみやかに、関係各支所に通達!! 全力を、尽くせ!!」


 やれやれ。


 この星は相変わらずの忙しさだ。


 フィックスドフラワー家の当主へ、パティシエたちが心を込めたちいさく甘いケーキたちが届けられるよりも前に、新たな問題が舞い込んだ。


 山賊がいる。大雪原には、凶悪な略奪者が。150年前も、今も。生きるために、誰かから奪う道を選ぶ者は、後を絶たない。大仕事を前にしても、『牙』の当主には成し遂げるべき正義があり、『鉄腕の雪』は、彼女と一緒に無理をする。


 いつものようにだ。


 これは、『空を裂く虹色の牙と、鉄腕の雪』の物語。



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