第四話 『歴史は慣習によって作られる』
歴史はいつも指摘する。宗教は、およそ残酷な軍隊を整備した。
「中古のボディを使うなんてのは、みじめさを感じさせるもんだぜ。分かるかい?」
「サイボークの気持ちは、学んでいない」
「マルク・ヨハンセンがいるだろう? お前の師匠も、機械混じりだ」
「マルクは、機械じみていないから。参考には、なりそうにない」
「彼は全体的に機械ってわけじゃないのは確かだが……あ。そうだ。ヒトの服着てるカンジ?」
「それは、居心地が悪そうだ」
「理解してくれたらしい! 中古の手足がつけられているサイボークの悲しみは、そういうコトだ!」
傭兵としてフィックスドフラワー家と正式な雇用を結んだ後で、カートマンは中古品の安物機械を手足につけられていた。彼が愛用する特注の品は、二週間またなければ『シャル・リリィ』まで届かない。
「自分をデザインできる。それが、サイボークのアイデンティティなんだよ」
「自分らしさを、特注するのか」
「そうだ。仕事道具でもあるし、自分の肉体。お前にとっての、刀みたいなもの」
「刀に、愛着があるわけじゃない。勝てれば、何でもいいんだ」
「記憶がないっていうのは、こだわりを減らすのか?」
「かもしれない。元から、こうだったのかも」
「アイデンティティを確立しようと、もがく。若者らしくて、いいねえ」
「オレは、150才以上だけど?」
「ふん。冷凍睡眠は、カウントに含めてやらねえぞ。オレのが、絶対、年上だ!」
立場は下かもしれない。実力も下だろう。それでも、年齢だけは負けたくはない。長く大雪原を生き抜いたプライドもあるのだ。そのようなプライドに、シュエは気づけない。あまり深く考えないまま、端末のデータを冷静に見つめながら進んだ。
「……あ。ここだ」
蒸気が噴き出すパイプがあった。『雪籠り』の夜が明ければ、お決まりの行事がある。
「凍てついた機関都市のあちこちを、修理する。そいつが、楽しい『雪籠り』の後始末だよ」
「配管も、氷結で割れたのか」
「外気温との、強烈な温度差も影響しているが……まあ、勉強はマルク・ヨハンセンにでも教わればいい。補修工事を、始めるとしよう。そこのバルブを……」
「閉じる。圧抜きの調整レバーを、こっちに引き落として」
「……やれるじゃないか。大雪原暮らしなら、誰でも知っているが」
「記憶はない。だが、知識は残っているみたいなんだ。あとは、感情も」
「不便そうだぜ」
「どうかな。比べるための記憶もない。思い出せなくて、もどかしくなりはするが……キティもマルクも、焦らずに学べばいいと。この、もどかしさへの対処も」
「いいアドバイスだ。さて、交換を始めるぞ。よく見てろー。サイボークらしく、機械いじりは得意だってトコロを見せてやる」
手際は良かった。代用品の両腕も、しっかりと使いこなしている。亀裂の入っていたパイプは、真新しいパイプに交換された。たったの三十秒で。熟練の職人と、ほとんど差がない早さだ。シュエは、拍手してやる。
「いい腕前だ」
「この程度で、褒められてもな。次は、お前がやってみろ。四十秒で交換できたら、昼メシをおごってやろう」
「キティと食べるから、別にいらない」
「……おじさん、ひがんじゃいそうだ」
底辺労働者の絆よりも、主従の関係。いや、美しい少女に男が抱くべきは、もっと違う感情であるべきか。カートマンの三十路独身者の視線が、シュエを見る。若い。顔もいい。強さもあるし、忠誠心は『狼』だ。
ベアトリーチェの説明を思い出せる。「シュエくんは、キティお嬢さまの『騎士』さまなのよ」、なるほど。昼食は、他の労働者を探すとしよう。こいつは『特別枠』なのだ。
「検査計によれば、あっちのほうだぞ、カートマン」
「ついて来たまえ、少年。出世して、この『シャル・リリィ』を所有した時、思い出せ。カートマンという傭兵がお前に対して、常に親切であった事実をな」
「『シャル・リリィ』は、キティのモノだぞ?」
「そのお嬢さまだって、誰かのモノになるかもしれねえだろうが」
記憶がない少年との会話には、ズレを覚えた。年齢差によるジェネレーション・ギャップではないと信じたい。三十路の男としては。
「キティは、オレが守るよ。誰かに、この街を支配させたりはしない」
「へいへい。それで、いいよ」
新雪のように無垢でまっ白な心もある。まぶしい。大雪原を耐えるように生き抜く機械混じりの傭兵には、純粋さは自分がどれだけ薄汚れてしまったのかを、見せつけてくる鏡のようだ。「押し倒せ、などというアドバイスをしたら、殺すからね」。メイドの注意も、ビジネス優先の男は忘れない。
二人は、無益ではあるが友好的な無駄話をしつつ、機関都市の外層装甲の内側を根のように走るパイプの補修を続ける。ここは整備用の通路であり、装甲の強さを優先しているため、通路は細くて薄暗い。だが、寒くはなかった。
「このパイプの中を走っている高圧高音の蒸気が、機械を凍てつきから守る。『シャル・リリィ』の内を温めるだけじゃない。武装も、こいつが守っているんだ」
「戦闘用か……」
「お。そういうハナシに、反応するとは、男の子だぜ、シュエ」
「平和主義では、いたい。必要なら、戦うだけだ」
「傭兵も、実はそうなんだぜー。あくまでも、戦いはビジネスだ」
「覚えておく」
記憶する。それはシュエには、中身を問わずに新鮮さが通った行いだ。記憶を、心の何処に配置するべきか、それには人それぞれあるかもしれない。シュエにとって、記憶は心の中心だ。胸の奥。心臓そのもの。その周りに、大きな空白があった。そこは大雪原の風のように冷え込む。何かを詰め込んで、満たしたいという衝動が湧くのだ。
どんな体験でもいい。
欲していたし、試したがってもいた。
パイプを交換する。さび色の汗をかいたパイプに、清潔さは乏しい。まともに浴びれば火傷してしまう蒸気が、裂け目から噴き出している。近づくだけでも、熱気にくらくらした。『騎士』さまがやるべき行いとは言い難いが―――。
「―――それでも、大雪原を生きる男は、これらの作業の全てを、一人前に行えないとな。親父がいれば、ガキの頃に叩き込まれる。いなければ、代わりの誰かに。そういう文化だったよ、うちの機関都市はね」
「親父、か」
「記憶にいなくても、遺伝子ってのは両親が存在した事実の証明だ。お前にも、いたんだぜ」
「……だろうな」
「オレの予想じゃ、マジメなヤツだ。そういうのは、遺伝するというのがオレの持論」
「科学じゃないなら、それほど確かじゃなさそうだけど」
「だが、当たっていないとも、限らねえ。オレのギャンブル運は、それなりにいい! だから、傭兵稼業を三十路まで生き抜ける。同郷の連中で、まだ生きている傭兵は片手で数えられるんだよ」
「それだけ、生き抜くのは難しいのか」
「運もいる。お前は、おそらく持っているから安心しておけ」
「……ああ。作業に、戻る」
柄の長いスパナに体重をかけて、パイプを留める太いボルトを外していく。『鉄腕』の怪力を使えば、工具も必要なかったかもしれないが……一般人らしく、工具に頼ってみたくなっていた。
大雪原らしい動きを、覚えたいと感じている。父親に教わった事実があるのか、それとも、ないのかは永遠に思い出せない。それでも、伝統に触れる行いには救いがあった。心の空白が、ほんのわずか埋まる。
修理にひた走り、二時間が過ぎた。割り振られていた仕事を全てこなす。カートマンは昼飯をおごりたい気持ちになっていたが、先約はあるのだ。屋敷に戻ると、腰に紐をつけられたチュンメイ・アインホルンがいる。メイドとして、彼女も雇われていた。
「……どうして、縛られているんだ?」
「私が、知るものか。ベアトリーチェに聞けよ」
「こいつが逃げないようにしているの」
「おいおい、チュンメイくん。外は地獄。積雪てんこ盛りモードだ。脱走したって、損するぞ?」
「この鬼畜メイドは、私を酷使するんだ。姉上の二倍はヒドイ!!」
「あんなセクハラ剣士の二倍もヒドイとか、あるはずないわね」
「もっと自覚しろ。姉上は、普段は、もう少しは……マシ……マシだぞ?」
自信のない答えに、カートマンはヘラヘラと笑った。
「変わっちゃいたぜ。とんでもない凄腕だがな」
「『蓬莱』としては、凄腕なだけで十分なんだ。性格よりも、実力。我々は、そういうクールでドライな……おい、シュエ。あのセクハラが、『蓬莱』の一般的な態度ではないコトは、覚えておくといい」
「唇に噛みつくのは、変わっているな」
「噛みつくどころか、そのまま…………いや、いい! 考えたくはない!」
「はいはい。考えたくないなら、モップ掛けの続きよ。鏡のように、光らせなさい!」
「悪魔……っ。お前がやればいいんだ。メイド業務は……」
「メイドも戦士もする。それが、我々よ、チュンメイ。ほら、働け! 働かざる者は食うべからず!! 損害賠償請求されたくなかったら、従順になりなさい!!」
金の話題はチュンメイには効いた。姉が、自分を『買い戻すための金額』が増えたら?
「姉上に、見捨てられるかもしれない……っ。すごく、ケチなんだぞ、姉上はっ!?」
「なら、働け!! ゴー!! モップで床に、鏡を作れ!!」
「ちくしょう!!」
腰に付けたヒモを風になびかせながら、チュンメイは見事な脚力で駆け抜ける。
「悲しいぜ。貧乏ってのは」
「あの子は、キティお嬢さまを誘拐しようとしたのよ? 少しは、思い知ってもらうわ」
「イジメすぎるのは、良くないんだぜ?」
「ただの指導よ。しつけは最初が肝心ですから。長居しそうなら、とくにね」
「なるほど。イージュン・アインホルンからは、連絡がないってわけかい」
「妹をスパイにでもするつもりなのかもね。シュエくんに、その、並々ならぬ興味があったし……って。それは、ともかく! ほら、シュエくん、こっちに来なさい!! お風呂に入って、服を着替える!!」
「並々ならぬ興味を持っているのは、アンタもかい?」
「ち、違うわ。主に忠実なメイドを、何だと考えているのか!?」
「お嬢さまとの昼食のためだろ? 油まみれの作業着で食うメシよりも……おしゃれな服の方が似合うメシだってある。知ってるよ、オレ、おじさんだもん」
「そういうコト! さ、さあ、来なさい!!」
「ああ。カートマン、お疲れさま」
「おう。メシは今度なー。お前に、作業を共にこなした男たちが食うメシの美味さも教えてやるよ」
「それも、楽しみだ」
「おう。まあ、今日は……チュンメイくんでも誘うとしようかねえ」
「そうよ。ちゃんと、見張りなさい」
……カートマンにも仕事は多い。イージュン・アインホルンの情報を、収集しておくことも給料の内に含まれている。シュエを狙っている、からでもあるが……ベアトリーチェが恐れるのは、『ハイジ殿』とのつながりだ。
「何を、企んでいるのか……いや、そう。それは、聞かなくても分かるわ」
暗雲を引き連れた吹雪が去り、白い雲と、その遥か上空に君臨する『空を裂く虹色の牙』の下で、あの金色の獣じみた眼を思い出す。
「復讐か―――」
時を同じくして、『シャル・リリィ』から遥か北の雪原。隠れることを拒む真紅のカラーリングに塗られた列車がいた。
「―――薔薇ってね、私のために作られたの。知っていたかしら?」
列なる車両の最も後ろ。そこは、アーデルハイト・エステルハルドのための『浴室』であった。屋根は分厚いガラスでおおわれていて、今では『空を裂く虹色の牙』の七色の光を見上げられる。解放感があって、好みだ。暖房を利かせ、温かな湯につかる。薔薇の花弁を浮かせた、湯の中で、長く白い脚が組み直された。
「知らなかったけどねー。無知に落ち込むより、一つ賢くなれた事実を喜ぼうかしら」
イージュン・アインホルンも、そこにいた。『真の雇い主』へ報告するために合流を果たしている。組み直された脚を見つめながら、舌なめずりをしていた。エステルハルドの赤い獣は、美しい嘲笑のために唇を歪ませる。
「アンタとの百合なんて、ゴメンよ。しつこそうだもん。両刀使いなんて」
「そー? 私は、あっさりしているつもりだけどね―――」
黒い剣聖が、緊張感を強める。アーデルハイトの伸びた腕が、花弁の浮かぶバスタブのとなりに置かれた小さなテーブルの上に向かう。そこで静かに、しかし威圧的に寝かされた拳銃を掴んだ。
「それ、効かないけどー」
「アンタにはね」
引き金を絞り、乾いた銃声が響いた。うめき声を上げて、バスタオルを抱えていた従者の一人が倒れる。頭部から触手を生やした、イワン・シリーズの一体だ。問題はない。従者たちは、この部屋の隅に、直立不動で立ち並んでいる。
いくらでも替えはいた。
拳銃が、何度も何度も銃弾を吐き出して、三体のイワン・シリーズを血祭りにする。
「捨てなさい」
「しゅるるうっ!!」
イワン・シリーズが、瀕死となったイワン・シリーズたちを、開いた窓から大雪原に捨てていく。イージュン・アインホルンは、変わり者のくせに、至極、一般的な疑問を口にした。
「何をしてるのー?」
「部下を撃っているの」
「……えー。そうじゃ、なくてー」
「明瞭でしょう。部下を、拳銃で、撃っている」
それは再び実践される。大雪原に死体を捨てていたイワン・シリーズも、撃たれてしまう。納得するほかない部分があった。確かに、言葉の通りの現象が目の前にある。
「そーね。たしかに、そーだわ……」
「『無抵抗な者を、一日、三人は撃つようにしている』のよ。これは、日課ね」
拳銃の上部をスライドし、排莢を行う。弾頭を放ち、役目を終えた薬莢が、花弁の浮かぶ湯のなかへと落下した。
「よく言うでしょう? 『高められるのは習慣だけ』。昨日よりも今日、今日よりも明日。よりエステルハルドらしくあるために、残酷じゃないといけないのよ。これが進化のコツ」
「……変わってるわー」
「真なる気高さは、下々には理解できないものだからね」
「じゃーあ。理解し合うためにも、いっしょに風呂でも入ろうかー?」
バスタブの中にいる赤い獣に、イージュンは手を伸ばすが……拳銃を突きつけられたので、クライアントとの過度なスキンシップは控えておくことを選ぶ。
「いいかしら。アンタの性癖なんて、興味ないわ。興味あるのは、命令違反の方。私は、『鉄腕』を八つ裂きにしろと命じたんだけど?」
「見ていたなら、察したはず。あれとー、繁殖する」
「ド変態め……」
「それでー、『蓬莱』の刀術は完成。私は、母になるんだ!」
「……はあ。ムカつくドヤ顔。金、払う気が失せるわ」
「それはー、じ・つ・に、困るかも。色々と、買いたいものがあるの」
「次の仕事で、私に報いると誓いなさいな」
「誓う誓うー。これでもー、プロだから。他の仕事は、こなしているでしょ?」
「……ええ。ちゃんと、『触手』を植え込んでくれた。おかげで、盗聴できたわ」
「……そうなの。正直、薬あたりでー、駆除されると予想していたんだけど?」
「『私の細胞』はね。普通のエステルハルド細胞なら、無理だった。でも、知っての通り、大雪原では何事にも、『例外』がある」
「で。何が、聞き出せたのー?」
「最近、『ゴーティ』でもあちらの手下どもがコソコソしていたからね、見当はついていた。あの継母殿は、『四都市同盟』を復活させたがっている。甘ちゃんの、フィックスドフラワーらしいわ」
「でー。どうするの?」
「もちろん。私が、ぐちゃぐちゃにしてやるのよ」
「傭兵の、出番はどーかしら?」
「ええ。もちろん、ある。ちゃんと、しっかり、働きなさいな。生殖活動なんて、体の一部分でも切り落として持ってきなさい。エステルハルドの技術が、人工授精でも何でもしてやるから」
「より自然な方が、『正しい』とー、思う」
「なら、拉致でもすればいい。『羊飼い』を使って、アンタの性奴隷にでも変えてあげるわ」
「……いいねー。それ。あきるまでは、楽しめそう」
「継母殿に、見せつけてやる……ってのは、まずまずの復讐になるか」
「あ。子作りしたら、クライアントの好きなように殺してもいいわよー」
バスタブから立ち上がり、イワン・シリーズたちにバスタオルでその美貌を拭かれていく。彼女が満足そうなのは、自分の発言に対してだろうとイージュンは予想していた。それは、正解である。もちろん、このエステルハルドの赤い獣は、シュエにも死を与えたい。
「列車を、出しなさい。歯車どものところに、向かうわよ」
「しゅるるううう!!」
イワン・シリーズの一体が、女主の命令に従う。力強い腕の角度に、大きく床を鳴らす足。何とも勇ましい敬礼をして、そのまま駆け足で浴室を出て行った。
「いいイワンだ。後で、殺しながら抱いてやろう」
「変な性癖を、持っているよねー、クライアント殿も」
「男は消耗品。イワン・シリーズは、必死に懇願しながら、私に尽くす。あれは、あれで。笑えて面白いの。父上のセンスは、本当に最高」
赤い列車が蒸気を空に吐いた。けたたましい汽笛を響かせながら。何とも、大きな態度だ。隠れるなど、一切しない。まるで紫煙を吐く、ゾルハ・エステルハルドのように。列車が雪を貫きながら、移動を始める。赤い獣の習慣の犠牲となった者たちを置き去りにして。
努力している。
お嬢さまとは、それに相応しい努力が必要なものだ。アーデルハイトも、もちろん、キティも。その方向性は、真逆なほどに違っていたとしても。この星の霊長を決める、進化の競争。その力学と、一族の哲学を背負った者の義務は、乙女たちに努力をさせる。
その下につき、支える者たちも。
与えられた記憶のまま、『奴隷』として機能するだけの肉塊、イワン・シリーズ。
記憶を焼き尽くされて奪われた、『騎士』であり執事である少年、シュエ。
全く異なりながらも、どこかで何かがつながっている。それが、大雪原に生きる過酷な運命の人々の共通点だ。
「―――『高められるのは習慣だけ』。この言葉を、しっかりと心に刻みなさい」
「杖をつかなくても、良くなったんだな」
「おかげさまで。ですが、杖で叩いてやりたい気持ちですな。上司の話を、ちゃんと聞いているのか?」
「叩かなくてもいい。聞いていた。覚えたよ。『高められるのは習慣だけ』」
「常日頃から、自分に言い聞かせなさい。洗練された能力を得るための唯一無二の方法は、この言葉の実践のみ。いつでも、常に、より良いフィックスドフラワー家の執事となる。その心構えを一瞬たりとも、崩さぬこと」
「了解だ」
「よろしい。これも鍛錬である。成し遂げるように」
執事服ではない。ダンス・パーティー用のスーツを着せられている。
「昼食ではありますが、これはディナーのつもりで。夜は、より完璧にこなしてもらう」
「似合っているか?」
「それは、私にではなくキティさまに聞きなさい……はあ、だが、まあ。馬子にも衣裳。十分な見た目ではある」
「これは、ベアトリーチェさん以外のメイドさんたちや職人たちに、感謝だな」
「その通り」
ベアトリーチェにこの方面の能力は乏しい。戦闘特化の使用人である。
「お前には、任務がある。洗練された立ち居振る舞いを身に着け、『鉄腕』の所有者として尊敬を獲得することだ。少なくとも、キティさまに恥をかかすことがあってはならない」
「オレが、ダメなヤツだと思われると……『ギアレイ』の連中に舐められる?」
「そう。無用な衝突や、抵抗が生まれるかもしれない。野蛮で未成熟な者が、『鉄腕』の使用者だと思われたなら、それを理由に同盟を拒むかもしれない」
「そんなことで?」
「当然、あり得る。あちらは、難癖のつけどころを探しているのだ。『鉄腕』は、恐るべき力。それを使う者が、フィックスドフラワー家に属する以上、紳士でなければならない。野蛮人が、爆弾を持っていたとすれば? 誰もが、危険だ、取り上げろ! と言うだろう」
「……紳士なら、言われないと」
「言われにくくはなる。万全を期すには、何事にも可能な限りを尽くすのです」
「……難しそうだ」
「その通り。礼法とは、一生をかけて完成させるもの」
「一生……か」
「スーツもシャツも靴も、本来ならば何十年もかけて学んでいくもの。それを、短期間で、一応はこなせるようにしてもらう。キティさまのため、努力を惜しむな」
「了解だ。キティに、協力したい。『四都市同盟』が、彼女の夢なら」
「その通り。では、行くぞ」
「ああ」
戦闘に行くときよりも、はるかに緊張はする。服装も歩き方も。作法と歴史に彩られたおいしく鮮やかな料理たちも。何だって、全てが。未知の行いばかりだった。山賊の息子であった少年は、記憶がなくても気づく。150年前でも、おそらくしたことがない。
疑問も浮かぶ。
料理を食べるだけでも幸せなはずなのに、どうして楽器まで演奏しているのだろうか。香りも、音も、調度品たちも。美しさや完成度を追い求めている。ひたすら、ひたむきに。キティみたいだ。
記憶のない少年には、疑問も多い。『ルール』も教わっている。厳格な教師のように、マルクは課題を与えていた。姿勢も、表情も。声の使い方も。エスコートの仕方もだ。どう歩けばいいのか。いつどんなタイミングで、キティのために、椅子を引くべきなのか。
これらの『ルール』にも、いくつかの例外があった。覚えることも、実践すべきことも、いくらでもある。
つまり、これは。『難度のある、授業』であった。
達成しなくてならない条件が、あまりにも多い。
だが、集中力は維持されている。『学ぶ』。その行い自体は、シュエにとって新鮮であり、楽しみを帯びた行為に他ならない。心の中心にある、巨大な空白に、一筆ずつ、記憶が新たに書き込まれていく。それは『歌喰い』の被害者にとって、大きな充足感を伴った。
まるで、生き返って行くような感覚がある。
もしも、この星に生きる者たちが本当の春を知っていたら。雪を割った花たちが、風に遊ぶ春を目の当たりにしたことがあったなら。その季節に、シュエの抱いた感覚を、たとえたかもしれない。無限の冬に、囚われた者たちは、その季節を知りはしないのだが……。
一つ、一つ。
何かを覚えて、成長していく。それは、シュエには喜びであった。もちろん、すべては習慣になってからこそ、高められる。まだまだ、あらゆる動きがぎこちない。必死さでは、補い切れない未熟さがあった。
失敗しては、いけない。そのルールが持つプレッシャーの重さを、身をもって学び取っていく。その必死さが、キティには可愛らしく見えた。いつもは頼りになるシュエが、今はまるでちいさな子供のように、ぎこちない。
「シュエさま、こちらに」
「あ、ああ」
適応は、早くもある。記憶がないだけに、そこに多くが吸い込まれていくようだ。形だけでも、じょじょに成り立っていく。
教師マルクから、小声で入る命令も、その頻度を減らしていく。ああ、今は、また間違えたが。「肘を張るな。肩を下げろ。背筋を、伸ばせ」。命令に対して、軍人のような表情と姿勢を作った。「もっと柔和に」、さじ加減とは難しいものだ。
「無様は、さらしたくない」
「ウフフ。そんなに、緊張しなくても、カッコいいですよ」
「キティお嬢さまも、美しくて、可愛いよ」
「……は、はいっ」
ドレスを着たキティは、妖精のように可憐であった。生まれた時よりしつけられた完璧な所作、着こなし、態度……フィックスドフラワー家の完璧な令嬢として、精密な努力で磨き上げられている。しかし、それがシュエの言葉一つに、揺らいでしまった。
「で、では。あ、あらためまして。な、ナイフとフォークの、つ、使い方を……そ、その。私に、続いてくださいっ」
「頼む。キティお嬢さまを、しっかりと見て、真似してみるよ」
「はいっ。で、では…………」
「…………綺麗な切り方だ。キティは、すごく、努力をしているんだな。偉いよ」
「い、いえ。そ、その。あ、あの……っ」
「生まれてから、ずっと……がんばっているのか」
「い、い、い、いえっ。そ、そんな、あの、これくらいのコト……あ、当たり前で」
「すごいよ」
「そ、そんなに、まっすぐ見つめながら、褒めないで下さいいいっ!!」
ああ。これでは、むしろ。
キティがシュエに動揺しないための鍛錬のようになっている。周りの使用人たちから、そう思われてしまった。「お嬢さま、かわいい……っ」。「何だか、懐かしい」。「ああ、そう言えば。いつの間にか、あれほど感情を表に出されなくなっておられたなあ」。「それは。だって。周囲の期待に、応えようとなさっていたから……」。
そう。
まだ、若い。若すぎる。たったの16才だ。それなのに、フィックスドフラワー家の当主であり、その役目を全うしようとしている。立派な行いだ。誰もが、彼女を褒めるだろう。亡き父親アレンのように、周囲の人々を幸せにしようと、ひたむきに努力している。
四つの都市の同盟を主導するなんて大仕事、16才にはいくら何でも早すぎるのに。
使用人たちの誰もが、その努力を褒めた。
誰もが、褒めながらも。
思うことはあるのだ。
この不自然さに。
そうだとしても、義務がある。使命がある。強く優秀でなければ、大雪原の領主でも、『牙』の当主でもないのだから。
厳しい道を、『牙』の当主は孤高に進まなければならない。そして、それを支えるのが、使用人たちの役割だ。亡きアレンに対しての忠義であり、自分たちの成し遂げるべき道なのだ。誰もが、それを分かっている。彼女も、周りも。全員が。
長年、フィックスドフラワー家に仕えた者たちには、口にできない言葉がある。
義務を背負うためにしている、彼女の必死な『背伸び』が崩れてしまわないように。意志の魔法は、ヒトに力を与える。だが、その魔法には、限界があった。
いつだって、プツリと切れてしまう危険がある。細い細い、魔法の糸だ。それを使って、16才の少女は『聡明で立派なフィックスドフラワー家の継承者』としての自分を、引っぱり上げるように支えている。たとえ、不自然であったとしても。彼女にも、周りにも、この覚悟が必要だから。本当の自分よりも、ずっと大きな力を使うためには。どうしても。
……だからこそ、言えないのだ。
これは彼女の努力の日々が作った、大いなる習慣の成果物。それを見守ってきた者たちは、その重みが分かってしまうから、言えないのだ。16年の人生の全てを使い、無理やりしている『背伸び』を。
時間は、時間によってのみ推し量られる。
16年を知っている者に、その時間を共に歩んだ者にだけ、真の重みは伝わるのだ。「ピアノの練習を、増やすの」、「勉強も、運動も、一番でなければ。なれなくても、それを常に目指さないと」、「強くなるんだ!」、「いつでも、笑顔で」、「努力を、たやさず」、「私は、フィックスドフラワー家の娘です」。言えるはずがない。この重みが持つ厳粛さに、忠臣たちも押し黙る。
ゾルハの『殺戮卿』を討伐する。そんな勇気を16才の少女が獲得するには、どれだけ膨大な努力が必要なのか……。
「……キティお嬢さま……いや、キティ」
「は、はい。何でしょうか、シュエさま?」
「がんばり過ぎるな」
使用人たちの誰もがそれを言えなかったが、記憶に囚われない少年は違った。それはキティの16年間の努力を、見守り続けていないからこその言葉だ。大雪原の領主という、重たい運命には、『そもそも、がんばり過ぎなければ立ち向かえない』のだから。
だからこそ。
これは、新参者の特権だった。
「……シュエさま。ご心配、ありがとうございます」
「…………たぶん、間違った言葉だったんだろう。キティの笑顔が、引きつっている」
「いえ。そんなことは」
「それでも、伝えておきたい。無理するな―――」
「……っ! 無理しなければ、成せないことも……っ!」
「―――お前だけで、無理をするな。これからは、オレも一緒に無理をする」
知り過ぎていれば、言えない言葉だっただろうか?
キティに忠誠を誓った使用人たちでさえ、本当の意味では口にできない言葉だ。『牙』の当主の『背伸び』に対して、ひるむことなく一緒に無理をするなんて。その意味は、厳粛な重みがある。世界の一端を、背負うような重みが。命懸けであっても、背負い切れない重さである。
たしかに、記憶がないからかもしれない。
まだ、世界の構造を、完全には把握していないからかもしれない。
だが。シュエは言った。まっすぐに、本心から。それが、運命だ。
「……しゅ、シュエさま……っ」
「キティ? どうして、泣いているんだ? オレは……何かの不作法で、傷つけて、しまったのか?」
「ち、ちがいますっ。これは、そういう涙じゃ、な、ないんですうっ。ず、ずるいですよ。鈍感ですよ。それ、ずる……う。う。う、うう……っ」
「き、キティ……その、このハンカチを……!」
マルクの施した礼法は、たしかに根付きつつあった。あわてて困ってしまっているシュエにも、ハンカチを差し出させたのだから。キティは、それを受け取った。『空を裂く虹色の牙』の浮かぶ、晴れた日の空みたいな青い瞳が、涙できらきらとかがやく。子供みたいな、素直な笑顔と一緒に。
「お、お母さまが……亡くなられたんです。私の、い、命と引き換えに。う、産んで下さったときに……亡くなられて……」
「ああ」
「だからっ。だから、私は、とっても、がんばらないといけないんです」
「うん」
「お母さまの、命の……分まで、立派に。お父さまも、わ、私をとても可愛がってくれたんです。私は、二人の娘で、フィックスドフラワー家の、娘だからっ。マルクや、ベアトリーチェや……みんなを、この『シャル・リリィ』の人たちをっ。守り切れるほど、強く立派に……ならなくちゃ」
「そうだな」
「はいっ。と、とても、無理しないと、不可能なんですっ。だって。大切で、大きすぎて……っ。私は、私には、もうお父さまも、いないんです……っ。だから、もっと、むりをしないと」
「分かってる。オレも、一緒に無理してやる。約束だ」
「う、ううっ。ず、ずるいですよおっ。こ、こんなの……泣いちゃい……ますっ。メイクが、涙で……無様な顔に……っ」
「君は、いつでも綺麗だよ」
涙でとけたメイクの向こうで、16才の少女が笑顔になった。
「い、いっしょに、むり、してくださいね……っ。約束です、これは、約束なんですからね、シュエさまっ」
「ああ。もちろんだ」
抱き着いてもいいはずだ。「チャンスです、お嬢さま」。目撃者ベアトリーチェは、それを望んだ。
キスでもすればいいのにと。目撃者チュンメイは考える、姉よりはマトモな少女だ。
これでいいのだと。マルクはうなずいた。新たな習慣が始まる。従者として支えるのではなく、並び立って、共に。それをしていい権利が、始まったのだ。少年は、フィックスドフラワー家の時間を受け取っている。歴史というものだ。
ちいさな小指を差し出した少女に応え、少年も同じ指を使う。
約束の誓いだ。
右手の小指を絡めあって、笑顔で泣いて、真摯に見つめ。
このとてつもなく過酷な世界に、一緒に無理して挑むのだ。
若く幼く、未熟な願い。
それでも、純粋さにかがやく願い。
歴史の叙述は、いつでも不完全である。それでも、この約束は漆黒の指環に刻まれた。忘れ去られることは、二度となかった、大きな絶対の約束である。
これは、『空を裂く虹色の牙と、鉄腕の雪』の物語。
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