第三話 『自由なる者、囚われたる者』




「連絡をつけなければなりませんな。敵と」


 意地悪をする絶好の機会でもある。救助費用と、襲撃によって受けた被害の賠償金を、いくらでも膨らませてやれそうだが……フィックスドフラワーの当主の気高さに相応しい態度を、この家に長く仕えた執事は優先する。金のことは、『今』は口にしない。


「わ、分かった。私に、任せろ……拘束を外してくれたら、雇い主と連絡を取る」


「取れるのかしら? 雇い主から、そんな権利を与えられているの?」


「ある! 私は、何を隠そう、『誘拐チーム』のリーダーだからな」


「キティお嬢さまを連れ出すために、連絡を取るわけね。思った通り」


「うぐっ。お前、私に口を割らせるために……っ」


「ベテランのメイドは、『不作法な来客』さえも、上手く扱うものですからー」


「情報漏洩など、『蓬莱』の恥っ」


「はい。所属組織の名前も判明」


「……っ!?」


「黙らない。さっさと、話しなさいな。『蓬莱』が、『傭兵集団』なのは知ってる。つまり、『主犯』じゃない。ただの手先ね」


「び、ビジネスだ……っ」


「小娘、『蓬莱』の仲間を救いたいなら、さっさと情報を吐くといい。我々を相手にするには、お前はまだまだ未熟。さっさと助けを乞うといい」


「そ、その通りなのに。なんか、ムカつく……」


「シュエさま。その子の手錠を」


「ああ」


 手錠を『鉄腕』で掴むと、シュエはそのまま『引き裂いた』。自由になった途端、ウサギのように少女は跳ねて距離を取る。だが、逃げようとはしない。四方を、自分よりもはるかに力量が上の強者に囲まれていては、そんな気も起きないし……救助は必要だ。


 キティを見つめる。落ち着き払った、フィックスドフラワー家の当主がいた。頼りたくなる。その晴れた空のように青い眼差しは、雪原の下を旅する者たちに温かく寄り添う気配を帯びていた。晴れの日は、好きだった。


「……連絡を、雇い主に入れる。あちらは、もっと大変だろうから」


「はい」


 襲撃者は戦術服/コンバット・スーツの左手首にある、ちいさな通信機へと話しかけた。


「こちら、チュンメイ・アインホルン。クライアント、応答しろ。何があった?」


 通信機は、すぐさま反応する。


『裏切り者めッ!! 許さんぞ、『蓬莱』ども!!』


「……は、はあっ!? 私たちが、何をしたと言うんだ!?」


『弾薬庫を、爆破しただろう!? せっかく、重用してやったのに、裏切るとは!?』


「あ、姉上が裏切るとすれば、お金だろう。それ以外の問題で、姉上が、そんな悪さをするはずもない」


『十分に、払っていただろ!?』


「じゃあ。それ以上の、払い主がいたのかもしれん。すまん、ガリエラ伯爵」


「ガリエラ伯爵。なるほど、貴方でしたか」


『そ、その麗しい声は……っ。キティ・フィックスドフラワー!? チュンメイ、彼女を見事に確保したのか!? 連れてきたまえ!! そうすれば、イージュン・アインホルンの裏切りは許してやろう!!』


「確保した、わけではないぞ」


『は?』


「わ、我々が襲撃に失敗して、その、捕らわれている」


『な、何をやっているんだ、君ら姉妹は!?』


「―――ガリエラ伯爵、キティ・フィックスドフラワーです。専用の通信チャンネルを、構築しませんか? 諸々、お尋ねしたいこともございますし。そちらも、お困りのご様子」


『……ッ』


「猛吹雪です。こちらには、救援に向かう意志もあります。貴方だけでなく、従者や雇った傭兵たちの命も、かかっています。『85番機関都市ロッソール』の長として、選び取る道を見て下さい」


 自分よりはるかに年下の16才の新米当主ではあるが、ガリエラ伯爵はその声に従う。窮地であったから、という理由が大きいが。キティの言葉には強い包容力があった。


『……アレン殿に、そっくりだよ』


 通信は直ちに構築される。『修練室』の空中に立体映像が映し出された。赤いヒゲが特徴的な、『ロッソール』の領主、ダリオ・ガリエラ。領主らしく威厳高く振る舞っている。


『チェスならば、勝っていたと思うのだよ。私は知っての通り、チェスで負けた相手は、君のお父上だけだ。それでも、95勝1敗だ。たった一度の敗北しか知らない』


「駒に裏切られれば、チェスの名手も敗北するんだな」


『……ああ。そうだよ。『鉄腕』くん』


「シュエだ。よろしくな、敵」


『敵……まあ、その……関係性というものは、時の流れで変わる。そういう概念は、移ろいやすい。とくに大雪原では……』


「何が言いたい?」


『……うっ。しょうがないね。この状況だ。周りの従者たちも、必死な顔になっている。私も、死にたくはないし、死なせたいわけじゃない。最小限の被害で、キティ殿をさらいたいだけで……だが、その野心も、終わった。許して、くれ』


「その列車にいる人々のために、許します。二度と、こんな行いをしないのであれば」


『ハハハ。ありがとう、キティ殿。約束する。ああ……欲しかったよ、気高い君を』


「ガリエラ伯爵には、奥様がいるではありませんか」


『ん。そんな軽蔑するような目はしないでくれたまえ。私の、妻に、というわけじゃないよ。息子の、妻にね。まだ、5才だから。君だって嫌悪感は抱かないだろう?』


「子供は好きですが、結婚相手として考える対象と思ったコトはありません」


『婚約は早くてもいいさ。機関都市の長一族の婚姻とは、政治的な側面で―――』


「―――救助部隊が欲しいなら、さっさと、そう言え」


『……そうだね。『鉄腕』殿。私も、恋多き謀略家として半生を過ごした男。乙女の視線を読むのは得意だ。まったく。『殺戮卿』が消えて、チャンスだと信じ込んだが。とんだピエロになってしまったね。さて……救難信号を出す。負傷者は多い。大型のスノービークルを、用意してもらえると、非常に助かる』


「分かりました。そのように、手はずを」


「ムダな争いを、仕掛けないように。よろしくお願いいたしますぞ、ガリエラ伯爵」


『……当然だ。助けてもらうのはこちらだからね。ただし、問題は一つ。『蓬莱』だ』


「この子の、『姉』ですねー」


 少女のほほに、ベアトリーチェが人差し指を押し付けた。


「つ、つつくな。寝業師っ」


『『蓬莱』きっての刀術の達人、イージュン・アインホルンが、裏切った理由を私は把握していない。つまりアンコントローラブル……制御不能さ。この火災にまみれた、我が私掠列車のように』


「問題ない。刀の使い手は、オレが倒す」


「……姉上は、お前ごときに負けないぞ。私の三倍は強い」


「なら余裕だ」


「よ、四倍は強いんだ!!」


「楽しめそうだな」


 キティはシュエの表情を見ながら、彼が『好きなもの』をまた一つコレクションしていた。戦いが、好きだ。騎士らしくて、良い。危険な行いはして欲しくはないが……強さが必要なのが大雪原である。


 立体映像のコミュニケーション・カメラ越しに、ダリオ・ガリエラは自分の政治的謀略がどれほどのピエロぶりだったのかを再認識した。ガリエラ家の名誉と、政治権力。それに、『レリック/鉄腕』の獲得を目的とした誘拐作戦であったが……。


『どうやら、君の心には、先約がいる―――』


 襲撃犯ではあるが、極悪人とも言えない。大雪原では、むしろ善人の部類に入るかもしれなかった。ダリオ・ガリエラは、この失敗を悔やまないことに決める。心からの謝罪と感謝を捧げるために、襟と背筋を正したが。


 運命は、やはり。


 いつも唐突に襲い掛かる。


 赤く不吉な花が暴れた。立体映像は、その飛沫さえも律儀に再現する。オートクチュール/特注スーツの生地を貫く、白銀の先端。刀だった。シュエの目が見開かれる。『狼』の本能が、疼いた……なつかしさだ。チュンメイのそれは、兆し程度。これは、確かに四倍以上。


 記憶の果て、失われた過去にも訴え響く。


 あの山賊たちが使っていた刀術の系譜を、天才は感じ取った。天衣無縫。自然なる獣の刀。好きなように死を押し付けられる。本能と融け合った、強者の動き……。


 キティの悲痛で短い叫びのおかげで、その思索は消え去っていたが。


「ガリエラ伯爵っ!?」


『う……く……おのれ……っ。女性に、刺されて、死ぬ日が来るとは……思っていたが。まさか、傭兵に……君には、指一本、触れてないのに…………』


『はいはーい。人質なんだから、黙っておきなさいな。動くと、本当に死んじゃうよー』


「その声、姉上!?」


『チュンメイ? ああ、捕まったのね。そのうち、買い戻してあげるから待ってなさい』


 銀色の閃きが走り、立体映像が切断される。向こう側のカメラが、斬られたのだ。映像越しにも、伝わる。『蓬莱』の最強剣士、イージュン・アインホルンの力量が。


「あの斬撃の、速さ……っ。これは、シュエくんじゃないと、ちょっと厄介そうだわ。あいつ、屋外でドンパチとか挑んでこないでしょうから」


「列車内に立てこもる。救助者がいれば、『鉄腕』の破壊力も限定されるでしょうし、接近戦しかやれなくなる。デザインされた行動ですな」


「あれと、至近距離でやれるのは……シュエくんだけね」


「若さがあれば、私にも」


「強がらないでくださいよ、マルクさん」


 冷静な職業的戦士たちの会話を、呆然としながら聞いていたキティ。だが、そのショック状態からもようやく解放された。


「ど、どうしましょう!? ガリエラ伯爵が、な、亡くなられて……っ」


「安心しろ、キティ」


「シュエさま!?」


「あの剣は、動けなくしただけだ。動かなければ、しばらくは死なない」


 急所のあいだを、縫うように。上手く斬った。同じ系譜に属する力だ。シュエにはイージュンの動きが把握できた。


「ならば、急いで救助を」


「スノービークルの護衛には、シュエ。そして」


「私ですね。行きますよ。『シャル・リリィ』から離れるのは、不満ですが」


「私も、この救助に同行したいのですが!」


「キティお嬢さま、それは推奨しかねます。何やら、陰謀くさいので」


「罠だと、言うのですね……?」


「はい。ダリオ・ガリエラ自身の演技だって、ありえます。この映像が高度に加工された映像であれば、真贋を確かめるために、時間はかかるので」


「そんな……きっと、ガリエラ伯爵は騙そうとは……」


「確かに、その線は疑い過ぎているトコもあります。でも、どちみち、イージュン・アインホルンの行動は、さらにきな臭いですから。あいつは、雇用主を変えたようです」


「……別の、主犯がいる」


「そうです。そいつが、ダリオ・ガリエラこそを『エサ』にして、私たちをおびき寄せたがっている。おそらく……『鉄腕』を求めて。私掠列車の中で、決闘でもさせたいみたい」


「姉上には、剣では勝てんからな」


「シュエさまを、狙っているというのなら、私も!!」


「大丈夫だ。勝つから、問題はない」


「シュエさま……っ」


「信じろ」


 その言葉には、首を横には振れなかった。信じているからだ。マロレトコワの乙女の定めは、キティも背負っている。うなずき、送り出す。命じる言葉で。


「フィックスドフラワー家の名誉にかけて。伯爵の救助を、頼みました」


「任せておけ。オレは、『お前』の剣だ」


 騎士とメイドが旅立った。爆発で裂かれた壁の穴から、猛吹雪の中に。キティは、追いかけはしなかったが、その穴に近づき、見送るのだ。二人の動きは素早く、すぐに見えなくなるが……胸の前で、指を組み合わせ、『空を裂く虹色の牙』に祈る。


「どうか、ご無事で」


 チュンメイ・アインホルンは、その様子に依頼主の言葉の意味を悟る。


「そうか、こいつ、あいつのことを……痛っ!? じいさんっ。なんで、いきなり手錠をっ!?」


「捕虜ですからな。人質にも、使えそうだ」


「姉上は、ビジネスのあいだはクールでドライだ。私の命が危険だからといって、手加減なんてしやしない」


「家族を、大切にしない方はいません」


「……はあ。アタマの中が、チョコレート並みに甘々だっつーの。未熟な、お嬢さまらしいよ。一人前の大雪原の領主らしくは、ない……」


 ないのだが。


 自分の同胞たちを助けようとしてくれていた。罠と分かっていても、好きな男を派遣する。リスクばかりじゃないか? 本当に、非合理的である。不安もあるはずなのに、怖くもあるはずなのに。それを、背負う。


 何で。そんなことがやれるのか?


 チュンメイの記憶の中で、姉が告げた。「『覚悟』が違うのよ。アンタと私じゃ。そこがね。そこが、成せたなら。もっと強くなれるよー。今の三倍くらいに」。


 この大雪原に生きる者たちは、覚悟が足りていないような気がした。一部の、本当に、理解できないほど気高い者たち以外に……。


「自由でいられる者は、本当に稀だ……」


 稀なくせに、目の前にいる。大雪原のルールに逆らってまで、自分の願いを信じられる者が一人。依頼主である伯爵も言った。「亡きアレンのためにも、彼女を傷つけないように」。略奪者のくせに、死んだ者に敬意を払う。いや、死者が『払わせている』。


 甘い考えかもしれない。他人を救う。だが、それをやり遂げて積み重ねた者には、真の敬意が集まった。苦しかったはずだ。楽な生き方ではない。だが、それだけの覚悟が、アレンにもあった。


 この父娘は、何も恐れていないかのように、やはり自由だ。願いの全てを叶えられなかったとしても、自由に選べている。


 本当に強くなるためには、その境地に至る必要があるのか。そう考えると、三倍強くなれる日は、まだ遠い気がしてしまう。


 猛吹雪の中を、スノービークルの隊列が進んでいく。先頭のビークルを操縦しているのは、ベアトリーチェだ。となりにシュエもいる。すでに刀を出して、備えていた。


「……勝てそう?」


「勝ちます」


「意気込みをナシにして、正直に」


「刀術の力量は、互角」


「……そっか。『鉄腕』を、本気で使えないシチュエーションじゃ、難しい」


「残酷だけど、いい腕だった。でも、勝ちます」


「……うん。あと、一つ。注意です」


「何でしょうか?」


「さっき、キティお嬢さまを見つめていなかったわ」


「……そう、でしたか?」


「見ては、いた。見ながら、『お前』の剣だと言った。でも、あれは……」


 見ていなかった。あの瞬間だけ、わずかに。古い感情が呼び覚まされていたせいか、『彼女』を探していた。


「……目は、とても多くを語るの。誰かと話すときは、その人だけを見つめなさい。あれは、ときにヒトを苦しめる呪いとなります」


「は、はい。分かりました。心がけます」


「よろしい。とにかく。ほんと。ああ……せっかくの、『雪籠り』の夜にっ!!」


 アクセルを踏み抜き、加速を強いた。おかげで、暴れ馬のごとくスノービークルは揺れたが、おかげで早くに到着する。爆発して炎上し続ける、ダリオ・ガリエラ伯爵の私掠列車に。


「大炎上してるわ。武器庫に放火なんて、するものじゃない」


「雇われとはいえ、仲間に対して、あれほどの仕打ちをするのか」


「理解できない悪もいる。分かり合えない相手だから、ここは……殺す気で行きなさい」


「……了解」


「それで、互角以上になってくれたら。御の字よ」


 燃える私掠列車の前方に、ベアトリーチェはスノービークルを走らせた。無線のスピーカーマイクを天井から引きずり下ろし、イライラをぶつけるように怒鳴りつける。


「こちらはフィックスドフラワー家の者である!! ガリエラ家との合意に基づいて、救助に来た!! ガリエラ家に仕える者と、雇われた者たち、よく聞け!! 我々は、裏切り者、『蓬莱』のイージュン・アインホルン以外と、交戦する気はない!! 刃向かわず状況解決に協力しろ!!」


 列車の周りにいた兵士たちも、うなずいた。拠点が爆発してしまえば、凍える猛吹雪の最中に戦い続けるなどという無謀はしないものだ。普通であれば。


「……普通じゃないヤツと、戦うのは、ホント厄介だわ」


 読めない部分が多くある。『誰に雇われた』のか。


「ガリエラ家の連中、装備がいい。金払いが悪くないはずの、ガリエラ家を裏切らせるような大金……はあ、それを出せる、モチベーションが怖いわ」


 恨み。怒り。あるいは、羨望から生えた嫉妬。どれも怖いが、三番目はとくに恐ろしい。そういう敵は、こちらに詳しい。観察して、洞察している―――。


「くっ!!」


 ハンドルを荒々しく切った。燃える私掠列車の背中に備え付けられた、機銃が動く。弾丸の乱射を回避しながら、私掠列車の側面に、突撃するように乗り付けた。機銃がじれったく藻掻きながら、射撃でビークルを狙うが、ここまで接近すれば命中はしない。


「あれは、感情が見えた。オートじゃない。手動だ。イージュン・アインホルンが、列車の中で、操作していた。遊んでやがるわ!」


「突入します!!」


「ええ。カバーするから、勝ちなさい! 死んだら、キティお嬢さまが泣く!!」


「泣かせは、しません!!」


 今のは、キティだけを見ていた。だから、許せる。少年が飛び出し、ベアトリーチェがそのあとに続いた。拳銃だ。小さい銃は、本当に嫌いだ。頼り甲斐がない。だが、しょうがない。私掠列車の中は、せまい。せいぜい、そこそこの屋敷と同じ程度しかない。接近戦では、デカい銃は使えない。


「お祭りの、日なんだぞっ。『雪籠り』の夜は!」


 煙があふれ出る入口に、二人は続けざまに飛び込む。指示を出す。


「左に!! この手の車両は、そこが司令部!!」


「了解!!」


 獣じみた速さで、負傷者たちが並ぶ列車内を走った。多くの者が混乱している。刀で斬られた者も、爆発や火災で火傷した者も。ほとんどの者が、何が起きているのか理解できていない顔を向けてくる。聞きたいことさえ、まだ把握していない顔ばかり。


 状況を、大声で浴びせられていて良かった。当主を守ろうと、大ケガでも動くマルク的従者はたまにいる。でも、動かない。混乱しつつも、動かない。説得には、成功した。


 ……ああ。そうだ。あの機銃が『遊んでいた』ように感じ取れたのは、こいつらに事情説明をさせてやりたくないという、意地悪な性格ゆえだ。からかっている。戦場で遊ぶのは、『強者の余裕』だ。それも、ベアトリーチェは見抜く。


「イージュン・アインホルンは、性悪女。大雪原の女傭兵は、まったくもう!! シュエくん! そこのドアの向こうに、伯爵がいる!!」


「斬って、開ける!!」


 刀で? そんな疑問を訊き返す間もなく、シュエの放った斬撃は仕事を完遂した。内外の爆発に備えて、圧力による破損を封じるため……車内のドアは四隅に丸みが帯びて作られている。とてつもなく頑強な作りであるが、それが、ただの一瞬で刀に裂かれる。


 逆さまになった三角の形にドアは切断された。シュエの蹴りが、その孤立した三角形にぶち込まれて、侵入経路は完成する。『狼』は、矢になった。沈み込み、身を低く、小さくしながら、ありえないほどの速さで飛び込む―――。


「―――来たかー。『鉄腕』!!」


 歓喜に歪む大きな笑顔だ。長くボリュームのある黒髪を躍らせる、剣の獣が一匹。美しいが、目つきは狂気にも、狂喜にも、どちらにも判断してしまえるような感情があふれていた。長い刀を振る。


 チュンメイの計算は間違っていた。


 4倍ではない。5倍は、強い。いや、それ以上だ。神速の斬撃が二つ、二匹の獣が互いに喰らいつくように衝突し合った。火花が歌い、鋼が躍る。交通事故の現場に立ち会ってしまったかのような音を、メイドは聞いた。とんでもない、剣聖たちめ!!


 全盛期のマルクが、二匹いるようなものだ!!


 牙を、剥く。


「ほう、いい笑顔だよー。『鉄腕』!! しびれるぜー……い!!」


 打ち合いとなった。嵐のように、不規則な乱打。速く、ベアトリーチェには見えもしない斬撃の軌道。互いの背を、取り合うようにも動く。この大して広くもない空間で、踊るように。壁も蹴った。天井さえも、足場にする。天衣無縫。獣、獣、縦横無尽の剣の獣ども。


「え、援護もクソもあるか、こんなものーっ!?」


 無能さを味わうのは、嫌いだ。家事ならともかく、戦場では……だからこそ、探す。この戦いに介入する余地がないのなら、見つけるのだ。血の跡を、見つけ。見当をつけた。


 競り合う刀どもの狂想曲のあいだを、身を屈めながらすり抜けて、血まみれの床に横たわる伯爵のもとへとたどり着いた。治療が、必要そうだ。それを、しなければ、死ぬ。そうなるように、新しく傷もつけられていた。


「ほんと、女傭兵とか、絶対、友達にしちゃいけない性悪だ!!」


 斬られた服を引きはがし、止血剤の入ったパッドを貼り付けていく。ホッチキスも使う。刀傷には有効だ。痛いから、伯爵にはにらまれるが。


「も、もう少し……ソフトに頼むよ……っ」


「死ぬよりは、マシだと思っててくださいねーっ。こっちも、いつ性悪の刃が飛んで来るかもしれないかって、内心、ビビっているんですからっ」


「……大丈夫だろ。あの二人……揚げたてのポテトみたいに熱々だよ……ほんと……」


 楽しんでいる。そう、戦いには、それがある。血が熱く燃えて、心が躍る。職業戦士の悪癖でもあるが、強敵との衝突は喜びでもあった。人生と命の全てをかけて、戦いの方法を熟成する。それらの全てを、試せる相手……。


 記憶がなくとも、喜んだ。


 性悪女でさえも、無垢な子供のように喜びに沈める。


 神速でぶつかり合う鋼の応酬は、じゃれ合っているようにさえ見えた。一秒間に、十五回以上もぶつかり合う速さで行われていたとしても。二人だけは、楽しそうだ。


「いい、技だぞー。『鉄腕』よー。感じる。感じられる。古さだ。冷凍睡眠は、『蓬莱』が受け止め切れなかった、古い技巧も、保存してくれていた!!」


「オレから、奪っているな!!」


「そうだよー。『見てる』。『感じてる』。お前を、『楽しんでいる』んだ。最高だなー。この感覚ってば!!」


 イージュン・アインホルンは、大天才だ。ほとんど本能的に、自分たちの流派の剣を理解してしまう。昔から、『足りていない部分』を知っていた。『おそらく、こんな形であろうが、確かめられない程度には、忘却されてしまっている部分』。


「それがー。『鉄腕』、お前からなら!! 吸収できている!! 待ってた!! これを、この穴を埋めてくれるヤツをなー!!」


 強くなっていく。刀と刀を打ち込み合う瞬間に、イージュン・アインホルンは『完成』していくのだ。『蓬莱』の刀術が、目指すべき究極の形へと。


「ああ。面白いー。私と同じレベルの剣才が、ようやく見つかった!! 生まれていたんだな。ずっと、大昔に!! お前は、本当に……待たせ過ぎだぞ、『鉄腕』!!」


「同じ、レベルだと……」


「ああ。そうだ。そうだよ。同じだ。一切が。分かるんだ。同じ……同じ。だから、これは誤差ではなくー……たんに、経験値の差だよ。私の方が、お姉さんだっただけ!!」


 斬られる。


 成長していくイージュンに、シュエはついて行けなくなった。斬撃が、わずかながらに命中し始めていく。薄い、無視していい傷ではあるが……じょじょに増えて、じょじょに深くもなっていく。


 才能は、全く同じ。だが、イージュンの方が、人生をより長く過ごした。縦横無尽にぶつかり合いながら、余裕を大きくしていく彼女は、必死さの深みに陥っていく少年に、年上の女らしく教えてやる。


「経験だけは、どうにも補えなかったー。それとー、お前はな、『鉄腕』。もう一つある。その刀術は……あれなんだねー。『二人で戦うための動きなんだよねー』」


「……っ!!」


「しっくり、来ただろう。そりゃあ、そうさ。当たっているのだからねー。分かるよ。それはー……『不自由だ』。『一人で最強を目指してる私には、絶対に勝てない不純で淫らなスタイル』だよ!!」


 強打に、負ける。刀が真っ二つにされて……右の手首に、峰打ちが打ち込まれた。刀を落としてしまう。当然だ。才能に差はないが、経験の差がある。それに、スタイルの差もだ。


「足りないね。それは、欠けている。お前が、私からー、多くを学んでも。成長しようと藻掻いても、差が広がり……こうなったのは……才能の差じゃない。運命の差ってところさー」


 体術に、持ち込んだ。持ち込んだはずだが、負ける。膝蹴りはかわされ、顔面に肘打ちをもらってしまった。脳が揺れる。直後に、腹に膝を入れられた。動けない。そのまま、組み倒されて……喉元に、刀を押し付けられた。


 皮膚が、刃に触れただけで、融けるように裂ける。恐ろしい切れ味であり、熱を持っていた。ぶつかり合いが与えた衝突エネルギーが、灼熱の高温を変化したのだ。


 黒い双眸が、見つめている。近づいてくる。動けば、喉を裂かれる。動けないし、その目は、動くなと命じていた。敵意が、何故かない。それは、分かった。


 近づき、そのまま―――唇に、噛みつかれる。吸われて、舐められもした。


「……っ」


「な、な、な……ッ!? シュエくんに、何て事をしてるのよっ!?」


「……気が合ったのかね……?」


 唇を解放し、それでも馬乗りになったまま、剣の獣が一匹、問いかけに応じる。


「ククク。そうじゃないよー、伯爵。これはねえ、運命さ。『鉄腕』は、私を満たす。この世で、唯一の才能だー……欲しいんじゃない。欲望なんて、ものじゃあない。遺伝子が、定めているんだよ。こいつこそ、私の『つがい』になるべきだと」


「は、ハレンチなことぬかすなっ!? この傭兵女っ!? シュエくんには、先約がいるんだからね!?」


「んー。お前か?」


「わ、私が、お嬢さまから男を寝取るようなメイドに見えるとでも言うのかっ!?」


「そうか。まあ、どうでもいいんだよ。そんなのは、過去だしー。そもそも。いつでも一緒にいたいわけじゃない。ただ、お前との子を作る。それで、『蓬莱』は完成するなーって、だけだ」


「させるか!」


 拳銃を構えるが、次の瞬間。ダリオ・ガリエラに、腕を掴まれていた。


「はあ!? ちょ、何を、するのよ、伯爵……ッ!?」


「ぐげ、ぐぐが、がぐう……っ!?」


 触手がいた。伯爵の口から肉の枝が生えて、右に左に揺れている。はしゃぐような、この悪意には見覚えがある。あの金色の眼が、心に蘇ってしまった。


「エステルハルド……ッ!!」


「『依頼主』がなあ、くれていたんだよ。趣味じゃないが、便利である」


「アーデルハイト……あいつかっ。伯爵、離せっ。こら、絡みつくな触手うう!?」


「正解だよー。賢いねえ。それじゃあ、お待たせ、『鉄腕』。子作りの時間だぞ」


 馬乗りになるイージュンを振り落とそうと動くが、イージュンは許さない。拳をシュエの顔面に叩き込む。脳が、また揺らされた。


「動くなよ。私はカマキリみたいにー、交尾相手の首を切り落としたいわけじゃないんだ。ほうら。あそこ、見ろよ」


 揺れる視界の中で、イージュンが指を差していた。蜘蛛のように長い脚を持つ機械がいる。


「カメラ付きの偵察用兵器だぞー。ほら、ニッコリと笑えよ。パパになる喜びを表現しろ」


「か、カメラって、アンタ!? 何を、考えてるのよ!?」


「録画するしー、中継してやるんだよ」


「な……」


「お嬢さまとやらは、キティ・フィックスドフラワーだろ? 見せつけてやるよ」


 ガリエラ伯爵が開設していた通信チャンネルは、数分前に復活を果たしている。氷よりも冷静なマルクは、久しぶりに困惑していた。「あの女は、何を言っているのか?」。姉の言動に顔が引きつる『蓬莱』の妹もいて、そのとなりに青い双眸を見開く少女がいた。


「本当はなあ。『鉄腕』を倒して、切り裂く映像を見せつけてやれって、言われていたんだが。予定が変わったよ。まあ、いいだろ? お前は、私に身を委ねていればいいだけだ。ただしばらく、気持ちいい時間がある。お前に、何にも損はないぞ」


 好色な舌なめずりを見る。抵抗しようとして、また殴られた。


「暴れるなよ。伯爵が、あそこの女をぶっ殺すぞ」


「……ッ!?」


「しゅ、シュエくん……」


 ベアトリーチェは死にたくない。ガリエラ伯爵も、助けられるならば助けたい。


「ちょっと、気持ちいいだけだ。それで、私は退いてやってもいいぞー。いい取引じゃないか?」


 ベアトリーチェは、沈黙してしまう。キティの心以外は、傷つかない。それで、この状況が解決するのであれば―――。


「次世代の、『王』が生まれる。ああ。母に……なるって、いいよなー」


 愛ではない。恋でもない。それは、ただの本能由来の繁殖だ。『空を裂く虹色の牙』の下で、脈々と続いている『地球からの移民』の完成。それを、イージュンも成し遂げようとしている。遺伝子に刻まれた、一つの法則に過ぎない衝動であり、もしも、この行為に愛があるとすれば……。


「愛すべき『蓬莱』剣術を、完璧にする。私はなー、最高の剣士の母になるんだよ」


 剣の獣が、コンバット・スーツを脱ぎ始めた時。少年は、その肌から目を逸らす。見たのは、カメラ。偵察用のカメラだ。あきらめたように脱力する。そのとき、声は出さないが、唇は動いた。


 キティは、理解する。


 東洋の言葉を、シュエが知りたがっていたので、テキストも渡していた。戦いに必要そうないくつかの単語も、教えている。「暗号に使えそうだから」、と。じつにシュエらしい要求だった。多くを学び取りたがっている。空っぽにされてしまった自分を、知るために。


 この『シャル・リリィ』への帰還の最中、お茶会をしながら、教えた。正しい発音を教えるために、あの唇を、じっと見つめながら授業をしたのだ。今は、唇の動きが、キティに教えてくれる。


 うなずく。


 マルクに命令を出した。彼は驚くが、即座に指示を実現する。それを目の当たりにしたチュンメイ・アインホルンは、「正気か!? ヒスを起こすなよ!?」と慌てていた。


 だが。これはヒステリックではない。感情でもない。知性が成した戦術である。


「楽しめ、『鉄腕』―――」


 好色な剣鬼が、シュエをまさぐろうと手を伸ばした瞬間。『シャル・リリィ』からの砲撃が、私掠列車のすぐそばに着弾していた。当然ながら、物理的現象が起きる。爆風を浴びた私掠列車は、はげしく揺さぶられた。中身もだ。


 予測していれば。


 対処が出来た。


 あきらめたように脱力していたのも、力と、動くためのスペースを確保するため。「裏に、砲撃、要請」。はるか大昔に滅び去った地球の言語も、学んでおくと役に立つ。


「しま……」


 体術で、勝る。一瞬だけ。揺れに合わせて動き、刀を押し付ける右腕に、脚と腕で絡みついた。身を捻る。メイドが見せた、床の上を転がりながらのテクニックだ。刀を強引に奪い取ってしまう。互いに起き上がり、形勢は逆転した。


「こいつは……しくじったな」


「二人で、戦う。それは、不自由なものじゃない。オレたちは、自由なんだ」


「刀ナシじゃ、さすがに私でも無理ゲーだな……ああ、潮時か。まあ、いいさ。お前の『種』は、また別の機会に奪ってやろう。私の妹に、意地悪なコトをするなよー」


 獣は、逃げた。黒い疾風となり、列車内を駆け抜けていく。追いかけるよりも、優先すべきがあった。


「ベアトリーチェさん!!」


「た、助けて……っ」


「触手だけ、斬ります」


 長い刀だ。問題なく、降り抜けた。『蓬莱』の刀と、自分の相性の良さをシュエは発見する。複雑な感情が湧いたが、より強くなれた気もするから、良しとしよう。


「ふ、ふう。助かった。さーて、伯爵。がんばってください。すぐに、医療班が来ますからね」


 スノービークルには、十分な医薬品とスタッフが乗っている。エステルハルド対策の、触手下しも当然だ。ベアトリーチェの心配が、それの優先配備を実現させていた。『シャル・リリィ』へ戻る前に、ダリオ・ガリエラの体内で、触手は死滅する。輸血も、始まった。


「はあ、はあ……助かったよ。エステルハルドの触手が、あれほど痛み、苦しく、屈辱的なものだとは……いくつになっても、学びは尽きない」


「ありがたがってくださいね。損害は請求しますから」


「……う、うむ。命の恩人には逆らえない。ちゃんと、払おう。敗北者の、責務だ」


「シュエくんも、手当を。あちこち、傷だらけだわ……」


「問題ない」


「ある。どんな、毒を盛られているかも、分からな―――」


 私掠列車が、爆発していた。避難は完了していたが、物資は大雪原に散る。


「……このタイミング。意図的ね。あいつ、取り逃がしちゃったわ。どうせ、脱出用のスノービークルは確保しているでしょう」


「……強い相手だ。無理に、戦う必要はない」


「ええ。でも、有言実行はお見事。勝てたわね」


「キティのおかげで」


「その言葉は、後でしっかり伝えておくこと!」


「了解」


 襲撃があり、シュエにとって初めての『雪籠り』は、かなりハードな思い出となった。アーデルハイトの動きも気になる。しかし、それでも、勝利とは偉大なものだ。


「お帰りなさい。シュエさま、ベアトリーチェ」


 キティ・フィックスドフラワーは、笑顔で二人を迎えられる。押し倒されて、唇まで奪われたシュエを見せられはしたが……あの暗号の作戦で、勝てたのだから。ニコニコと、笑えていた。


 後半にかけての『雪籠り』は、穏やかなものとなる。少しばかり、キティの独占欲は発揮されたが。シュエの傷の手当は、彼女がすると言い張った。ベッドに寝転ばされたまま、包帯を巻かれたり、体を拭かれたりする。


 何も、問題はない。


 老執事も、許すだろう。ただのいたわりなのだから。少女は、まだ。強引な愛の表現さえ知らない。少しばかり、心にいくつかの芽生えがあっただけ。健やかな寝息を立てるシュエを見つめながら、その唇に……触れない距離で指を伸ばした。


 誰にも聞こえない。ちいさな声を使った。「誰にも、渡したくありません」。日々は変わるのだ。歴史は、夜の深みでも休むことはなく進み続ける。


 自警団の牢屋、向かい合わせの檻の中にいる傭兵たちにも、交流があった。


「……そんなコトがあったわけかい。こりゃ、賭けの勝者は誰もいねえな」


「私の姉上で、賭博などするんじゃない」


「いいじゃねえか。捕虜として、牢屋に入っているあいだは、そういう遊びが必要なんだ。周囲と仲良くなる。オトナになるまで傭兵業で生き残るためには、根回しってものが、実力以上に大事だって、早めに気づいておくのがコツだ」


「はあ。カートマンはダメな大人だと思うぞ。姉上も……傭兵として、悪名がついた。『蓬莱』の本山から、お叱りを受ける」


「下手すりゃ、破門だな。自由な姉ちゃんだったが、ここまで自由とは」


「……カートマンは、どうするんだ?」


「ここに雇ってもらいたいねえ。そっちは?」


「……姉上が、『買い戻してくれる』まで、ここにいようかなと」


「じゃあ。また、同僚か」


「雇って、くれるとは思わんがな。私は、とくに」


「さてね。『野放しにはしたくない』って理由も、フィックスドフラワー家にはあるだろう。お前は、ガキだしな。保護したいと、人道的な集団は考えもする。ここは、徳深い領主のおられる『シャル・リリィ』だ」


「……ガキだから、助けられる? 情けない」


「いいプライドの高さだ。がんばって、おじさんが惚れるぐらいの美女に育て。どうにか、たくましく生き抜こうぜ」


 そうだ。この大雪原では、生き抜くために全身全霊を駆動させる。それだけが、正しい。勝利しなければ、獲られない。動き続けなければ、生きるための熱はすみやかに奪われてしまう。


 動く。歴史の歯車は、まったく休まない。


 翌昼、いまだに猛吹雪に閉ざされた病室で、キティは点滴につながれたままのダリオ・ガリエラ伯爵と会談を行っていた。シュエとマルクが、そのかたわらには護衛として立っている。伯爵は、素直だった。賠償請求の金額は、思ったよりは少なく済みそうだから機嫌はいい。


 ただし。金の代わりに、政治力を支払うことにはなる。それもまた、大雪原の摂理だ。


「―――つまり、『四都市同盟』を復活させたいと? かつてのように」


「はい。『ゴーティ』は、私の領地となっています。伯爵の『ロッソール』も加わってくれれば……」


「この『シャル・リリィ』を含めて、すでに三つの都市同盟」


「ええ。『ギアレイ』の説得も、達成しやすいと考えています」


「あそこは、手ごわいよ。独力で、大雪原を生き抜きたいと言い出した。その結果、『四都市同盟』は破綻したわけだからね」


「お父さまの、夢でもありました。是非、ご協力をお願いします」


「……ああ。もったいぶる気もない。アレンが死に、フィックスドフラワー家がどう変わるかと、心配はしていたが……『鉄腕』を得ても、なお。アレンの理想が、ここに生きている。大雪原には、あまりにも不釣り合いなほど、やさしいが……この気高さには、自由があるよ」


「では……」


 伯爵は、色男という自負がある顔に笑みを浮かべる。


「協力しよう。『ロッソール』の安全保障上のメリットも、十分に得られるだろうからね」


「伯爵の助力があれば、『ギアレイ』の方々とも、有意義な会談が可能となるはず」


「それでも、難易度は高い。しかし、チャレンジするのも良いだろう。『歯車仕掛け聖騎士教会』の連中も、かつての勢いはないのだかららね」


 歴史の叙述は不完全だ。


 全ての物語が、記述されることはない。


 強大な『レリック』、『歌喰い』が関与している場合は格別に。シュエは、気付けなかった。かつての怨敵である、『歯車仕掛け騎士団』と関連深いその組織の名を聞いたとしても。


 悲しいこととも言える。恨みも憎しみも、怒りさえも。記憶に基づく正当な感情の一切が、シュエからは奪われている。愛しい者の姿も、その名前さえ。多くを、奪われてしまった少年の心は、いまだに空っぽだ。


 あるいは。


 この忘却は救いでもあるのか。150年、取返しのつかない時間は、あまりにも長くて重すぎる。キティ・フィックスドフラワーが、眠れる少年の唇にさわれなかった最大の理由は、寝言だ。


 失われた記憶。失われた対象者。それでも、彼は夢の中で呼び続けた。「守る」。それが、自分だけへの感情ではないことが、少女には悔しかった。誰かを羨望する。大雪原の中で飛び交う悪意の中でも、最も深く、最も恐ろしい感情でもあった。


 一番になりたい。


 他を押しのけて。


 キティ・『リトル』・マロレトコワの遺した物語よりも、現実の愛情は生々しく、多様な面を持っていた。騎士が守るべき姫は、一人だけだったのに。今では、その構図は破綻している。


 記憶がないのは、悲劇か、救いか。


 自由なのか、囚われなのか。


 ……どちらにせよ、運命は再び軌道に乗る。


 これは、『空を裂く虹色の牙』と、『鉄腕の雪』の物語。



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