第二話 『雪籠りの夜に』
歴史は変化を強いるものだ。
66番機関都市『シャル・リリィ』での日常は、それまでとは大きく変わっている。フィックスドフラワー家の当主としての生活は、あわただしい。まだ16才であるがゆえ、学生生活も送らなければならない上に、政治もしなければならないとは。
マルク・ヨハンセンを始め、優秀なスタッフたちがサポートしてくれているのは心強かった。父親であるアレンの政策を、キティは受け継ぐという保守的な選択も楽ではある。しかし、それでも、書類仕事に法律の勉強、他の機関都市との外交までこなす日々は、キティにとって不慣れな挑戦の連続となった。
「……ふう。書類に目を通すという作業も、なかなか、疲れてしまいます」
マラソンした方が楽だと、キティは感じる。マジメな性格ゆえに、手を抜く方法を覚えるまでに時間がかかってしまうのだ。市民からの要請の一文字一文字を、熱心に読み解こうとしても、疲れ果ててしまうというのに。
そのマジメさは、健気であり愛おしくもなるが、心配も呼んだ。
「お疲れ様です。お嬢さま。ココアを入れてまいりましたよ」
「はい。ありがとう、ベアトリーチェ……ふわああ。甘さが、染みわたりますっ」
「あまりご無理はなさらないでくださいね?」
「皆に助けてもらっていますから、大丈夫です。ちょっとだけ、睡眠不足ですが。それで、その……今日は、シュエさまは……」
「『執事』になるための、訓練を行っていますよ。マルクさん直々に」
「そう、ですか」
「やっぱり。私よりも、シュエくんがそばにいた方が、嬉しい、ですよね?」
「…………い、いえ!? ベアトリーチェがそばにいてくれるのも、とても嬉しいです!」
「沈黙は、雄弁ですね。キティお嬢さま、恋愛成就のコツをいくつか―――」
「れ、恋愛なんて!? そ、そんな余裕は、ありませんし……っ」
「はあ。マジメですねえ。人生には、勉強や仕事だけでなく、遊びや恋愛という楽しみが必要なのですよ!」
「それは、そうかもしれませんが。まだまだ、学生ですし、未熟な当主ですし」
根っからのマジメな乙女であった。ベアトリーチェは、『もったいない』と率直な感想を抱く。全てキャンセルしているが、『婚約者』ゾルハ・エステルハルドの死以後、キティにはあちこちの機関都市に住む支配者たちから求婚の手紙が届いた。
フィックスドフラワー家の権力や財産、それも求婚の理由ではるが、そもそも美しいのだ。たった一度きりの人生であれば、美しい妻と共に過ごしたいと願うのは、男としてはごく当たり前の願望ではある。
星屑の光をきらめかせる青い瞳に、愛らしい唇。雪のように白い肌に、麗しさに流れる黒髪。同性であるベアトリーチェでさえ、キティには見惚れてしまうほどだ。しかも、胸まで大きい。ベアトリーチェは自らの細い胴体に、少なからずの劣等感がある。
「恋愛成就のためには、女子の方から積極的なアピールをするのも有効なのです!」
「……あの。胸を見ながら、力説しないで下さい」
「いやいや。お嬢さまのそれは、武器ですよ?」
「武器って……そういうの、はしたないと思うんです。だって。恋愛って、もっと心から通じ合うのが先じゃないですか?」
ある意味で、模範的な答えであった。だからこそ、ベアトリーチェは考え込んでしまう。『落伍する方法』を教えられなかったのは、この仔犬のような正しさを、周りの大人たちが大切にし過ぎたせいではないだろうか、などと。
遊び方を学ぶのも、人生には必要だとベアトリーチェは信じている。楽しさがあるからこそ、過酷な任務もこなせるのだ。メイド仕事は好きだから楽しいが、戦闘もこなさなければならない。そのためにも、楽しい時間は、やはり必要となる。
「『楽しい思い出』があるからこそ、力を出せるのですよ。だから、遊びはエネルギーの源です。もう16才なのですから、恋を楽しむための、心理的かつ肉体的なテクニックもですね―――」
執務机に置かれたアンティーク電話が鳴り、ベアトリーチェからキティは解放される。受話器を取ると、機関係からの連絡だ。点検を依頼しており、その結果報告である。手練れの事務員のように、キティは適切なやり取りと共にメモ書きを走らせた。
マジメである。
これでは人生を楽しみにくくなるような気がしてならない。メイドとして、一人の『女の先輩』として、恋愛による息抜きを教えてやるのは、もはや義務のような気がした。
そうでもないと。
あの少年の心を、本当の愛で射止めるのは難しい気がしている。キティの悲しい恋を見たくないのだ。『リトル』の遺した物語は、ベアトリーチェもお気に入りである。
それゆえに決めていた。
多少、ウザがられようとも、キティのために恋愛のテクニックを伝えるべきだと。彼女も一種のマジメな職業人ではあるのだ。恋愛には、理想と下劣さが混合している。誰かがその真実を伝えなければならないのなら、それは自分以外にいない気がするのだ。
「―――では、その通りにお願いいたします」
「お嬢さま、お仕事の区切りがつきましたなら。私の実体験を含めた、恋愛の授業をしつつティータイムと参りましょう!」
「いえ。新しい課題が見つかりました。マルクと……シュエさまに、お願いしなければなりません。ベアトリーチェ、二人を呼んできてくれませんか?」
「りょ、了解です……っ」
働き過ぎは、良くない。そう考えながらも、キティのマジメな瞳には逆らえない。純粋無垢な少女に、こうして周りの穢れた大人たちは、『人生を楽しむ遊びの方法』を教えきれないまま、今日を向けてしまったのである。
「―――キティさまは、誠実で勤勉なのだ。私たち、使用人も、その態度を見習わなければならない。それには、言葉遣いも、含まれる」
「分かった。オレは、そういう礼儀作法みたいなものには疎い、ようだからな」
「少しばかり、物言いに洗練が足りませんな。戦うべき敵に対して使うには、丁度良いでしょうが。キティさまや、屋敷にお招きするゲストの方々に対しては、不適切な点も生じてきます」
「気をつけるようにする」
誠実ではある。忠誠心も感じられる。だが、どこか……。
「戦士的な振る舞いを、抜くのに手間がかかりそうだ」
「戦士では、ありたい気がする。キティや、アンタたちも守りたい」
「有事には、それでいいのですがね。普段は、そうではいけません」
「だろうな。今は、周りに敵がいない。でも……見張ってしまう。これも癖か」
「本能に刻み付けてこそ、有効なのが技術と知識。戦士としては、良いものですが……まあ、時間をかけて、慣れていただくとしよう」
シュエはうなずいた。記憶がない者は、日常を取り戻すまで苦労するものだ。自分を確かめる術がない。何が好きで、何が嫌いなのか。自分について何も分からないのだ。
「戦闘のような非日常であれば、すべきことが分かるんだが」
「……趣味を、探すのもいいでしょうがね」
「探してみるよ。でも、今は……仕事の時間だ。お願いする、マルク。鍛えてくれ」
「ええ。礼儀作法の諸々を、叩き込んで差し上げましょう」
シュエを執事の一人として、鍛え上げる。それが、マルクの考えであった。主従の関係を持たせれば、ただれた恋愛関係に至らなくても、キティは交流を得られる。アレンがいれば、それを望むであろうという判断であり、自分の願いでもあった。
恋愛に悩むべき日々でもない。
……それに、実際のところ。この記憶のない少年に、不満もあった。強く、性格も嫌いではない。だが、やはり……フィックスドフラワー家に仕える者として、多くが足りないと感じている。
「上流階級の方々は、ステイタスを気にするもの。身に着けている品から、指先、目線、脊柱の二十四個の骨の使い方に至るまで。『見た目』は知性、品格、格調、そして序列を示す。お前には、最低限、フィックスドフラワー家の執事として相応しい動きを覚えてもらうぞ」
「ああ」
礼儀作法のレッスンだ。杖をついた状態でも、マルクには教えられる。これまでも、多くの使用人たちを育て上げてきた。良い教師であると彼自身は思っていないが、礼儀知らずの野良犬のような者たちを、一人前程度の常識人には育てることには成功している。
ベアトリーチェについては、いささか失敗した感もあるが……アレは、兵士としての実力で採用した枠でもあるから許される。
だが。シュエの教育に、失敗は許されない。状況次第ではある。状況次第であり、ただの可能性の問題でしかないが―――キティお嬢さまの伴侶となるかもしれないなら、超一流の紳士でなければ、ならんのだ―――。
「わ、私は、何を考えて……う、ううむっ」
「おい。大丈夫か、マルク? まだ病み上がりなんだから、無理はしないでくれ」
「大丈夫だ。今のは、一種の貧血に過ぎん。機械混じりの、持病だ」
「今日は、もう休んでおくといい。アンタに何かがあると、キティが悲しむ」
ああ。良いヤツだ。育て甲斐がある。とりあえず、上司のことをアンタと呼んでしまう悪癖は改めさせておくべきか―――。
「―――マルクさーん! シュエくーん!!」
「ドアは、ノックして開けないか、ベアトリーチェ」
「急用ですので」
「何か、起きたのか? 敵か?」
「いえいえ。そういうのじゃ、ないから安心してくださいね、シュエくん」
「そうか。ケガ人がいないなら、良かった」
「ウフフ。良い子……お姉さん、君みたいにやさしくて、年下の顔がいい少年、大好きよ」
「ベアトリーチェ」
山猫のにらみには、日常を楽しみたいメイドも、生真面目な敬礼で返した。
「キティお嬢さまから、お二人を呼んで来いと命令されました! 機関部周りで、何かしら問題があるようです!」
「機関部で……老朽化は、著しいですからな。では、参りましょうか、シュエ」
「ああ」
「それと、ベアトリーチェ。『キティさま』です」
「は、はい。当主さまですからね。いやあ、分かっているんですが、ずっとキティお嬢さまとお呼びしていたので……」
「慣れるように。状況は、変わったのです。これからは、『周り』も方針を変えるかもしれない。野心家は、エステルハルドだけではないのだから」
結束がいる。
忠誠に編まれた、強い組織力が。浮かれていては、足もとをすくわれかねない。この大雪原の摂理は、いつでも氷点下の冷酷さで回っている。
「よく来てくれました、二人とも」
「キティ、トラブルの内容は?」
「今夜の嵐に備え、蒸気塔の点検が必要なのですが。人員が足りないようです」
「『ゴーティ』に職人たちを派遣しておりますからな、その影響でしょう」
「ここは専門外の作業員で対処するしかありません。マルク、彼らの指揮を頼みます。まだ体調は完全ではないでしょうが」
「問題はありません。助手として、シュエも連れて行きますので」
「任せてくれ。言われたら、何でもする。そう言うしか、出来ないのが……歯がゆいが。オレは、何が出来て、何が出来ないのかも、覚えていない」
「大丈夫です。試してみればいいんですから! たくさんの経験を積むことで、きっと、記憶への手がかりも得られるはずです。自分を、一つずつ見つけて行ってください」
「……ありがとう。そうしてみるよ、キティ」
ベアトリーチェは、少年の視線をチェックしていた。目だけを見つめている。そのまっすぐな視線で見つめられるのは、うらやましくもあった。この少年は、キティには強い敬意を払っている。
「それでは、行って参ります、キティさま。ほら、シュエ。行くぞ」
「ああ。仲間を、助けてやろう」
働くのも、好きそうだ。良い物件である。退室していく背中を、満足気な微笑みで見送るキティは愛らしくもあった。お似合いなマジメさなのだろうが……やはり。「恋愛講義は、しておかなければ」、ぼそりとつぶやいた瞬間、山猫ににらまれる。
「ベアトリーチェよ、お前は床でも磨いておくように。鏡のように光らせろ」
「イエス・サー!!」
傭兵として半生を送ったせいか。兵士としての振る舞いが、骨の髄まで、このメイドには残存していた。この時代は、戦いが多い。
「我々にも、それぞれの過去がある。乱世では、私のような機械混じりや、ベアトリーチェのような戦術巧者は重宝される。むろん、『鉄腕』の使い手であるお前もだ」
「戦いは、任せろ」
「任せてやるが、それだけでは生きていけない。大雪原は、厳しい。生産的な働きもしなければならないものだ」
「そうらしい。キティも、あんなに忙しく働いている」
「……見習いなさい。職人たちに混じって、66番機関都市の暮らしを知るのも、お前の成長の助けとなるでしょう」
「おそらく、汗を流すのは好きだ」
「期待しておこう。蒸気塔の上は、相当に寒さが厳しい。汗も凍り付くだろうが、過酷な仕事は、若いお前の出番となる」
「若い、か。オレは、何才なんだろうな」
「肉体年齢では17才か18才、だそうだ。医者の診立てに過ぎないが、大きく間違ってはいないだろう。健康体でもある、働きなさい」
「ああ。指示を出して、ゆっくりしていてくれ、マルク」
もちろん、杖を突いた状態で肉体労働をするつもりもない。マルクは、事実上、この66番機関都市『シャル・リリィ』のナンバー2でもある。序列の高い者は、日常的な労働で汗を流すことは稀であった。
それは、正しい価値観だ。だが、アレンは……労働者に混じって働いたものだ。より多くの現実的な苦しみに、自ら歩み寄るために。「一緒に働けば、多くを学び取れるんだよ。視野も広がってくれる」。その笑顔の価値を、マルクは信じた。
シュエは蒸気塔によじ上る係となる。点検と補修のために、機材と検査装置を背負ってロープを使い、よじ登る。体を使うのは、やはり好きだった。少なくとも、老執事によるスパルタな礼法講義よりも、気楽である。
無心でロープをよじ登った。その速度は、恐ろしく速い。地上からそれを見届けているマルクは、その動作に慣れを見つけた。通信機で、シュエに教えてやる。
「その蒸気塔が、何処から持ち込まれた物か知っているか?」
「知ってる。アンタが入院しているあいだに、キティと一度、ここに来た」
そんなことがあったとは初耳であった。ベアトリーチェはその出来事を、あえて上司には伝えていない。給料を下げてやる口実を見つけたと、山猫は考える。
「そうだ。その蒸気塔は、お前と共に150年前の忘れられた都市から発掘された。お前は、それに上った事実があるのかもしれない。手慣れて見えるぞ」
「……だとすれば、オレは、そういう仕事をしていたのだろうか?」
「戦士であり、職人だったのかもしれない。礼法を教えている時より、体が生き生きしているのは確かだ」
「なるほど。うん。楽しいよ。この高さの風は、冷たくて……気持ちがいい。『空を裂く虹色の牙』も、よく見える」
「よそ見はしないこと。素早く、作業をこなせ。気象情報によれば、あと30分もすれば辛辣な西風に叩きつけられるようになるぞ。『鉄腕』はともかく、生身にはあまりに過酷」
「ああ。オレが一番乗りで、頂上だ。何処から、手をつければいい?」
指示を出してやる。その通りに、シュエは動いた。身体能力ゆえではなく、慣れがある。それをシュエ自身も自覚する。過去の記憶はないが、それが蘇りはしないが。その蒸気塔と共に過ごす時間には、楽しみがあった。
作業は終わる。
マルクの指示はいつものように的確であり、蒸気塔の損傷の程度も、今夜の嵐に対して特別の処置をしなくても良さそうだ。空が嵐を予見させる灰色のうねり雲に隠されるよりも前に、作業員たちは全員が無事に戻った。最後に降りたのは、シュエだ。
見張っていた。『狼』の本能が、周囲の大雪原を調べさせていたのだ。
「良い報告が出来るのは、ありがたいな。今夜は、かなりの風になるだろうが―――」
「―――あの山の影に、『シャル・リリィ』を入れる」
「そうだ。シュエ、いい風読みをする」
「150年前は、予報士だったのかもしれない」
「可能性は、いくらでもある。今度、気象図の読解技能の高さを、調べてみよう。風が読めれば、大雪原で生きていく上では、有利だ」
厳しい環境が、この大雪原を往く機関都市には牙を剥く。レールを伝い移動するのは、主に凶悪な大吹雪から逃れるためだ。各地の降雪量は、気まぐれな生き物のように、素早く状況を変えてしまう。雪を逃れるために動き続けるのが、一つの答えだ。
「雪と風に対して、その瞬間に生存しやすい場所に、『陣取る』。それが、古来の掟。お前の生まれた150年前でも、変わらんのだろう」
「おそらくな。レールを走り回る『取り合い』、は、続いているわけだ」
「悲しいが、それもまたしょうがない。吹雪に当たり続ければ、機関都市の消耗は進む」
生きるのに適した場所を、機関都市は移動しながら『奪い合う』。物資や金で、その場所を取引して入手する時もあれば、武力で、奪い取ることも少なくない。
「悪夢のような猛吹雪に、長く閉じ込められれば、『空を裂く虹色の牙』から送られてくる電力も遮断される。蒸気塔が氷に詰まれば、機関都市は激烈な寒さに見舞われ、凍死者も出るのだ。奪い合いもまた、生存権の行使に他ならん」
「そういう悲しい現実は、時代や世代が解決してくれるものでは、なかったのか」
「違うらしい。ゾルハは、気に食わんが。ヤツの言い分には、一定の正しさもある。この闘争の日々を終わらせる圧倒的な秩序でも現れぬ限りは、全人類の協力も難しい。奪い合う方が、相手を信じるよりは、容易いのだから」
「正しいのだろうが、悲しいな」
「うむ。その認識を、大切にしておけ。フィックスドフラワー家の理想は、争いではない。より多くの者を、信じ、より多くの者を、幸せに導く。そのために、生きて……時には、戦え」
「任せろ。キティに、血の罪は負わせない。殺さなければならない時は、オレが斬る」
理想を高く持つ老執事にとっても、うなずかせてくれる答えであった。
「それと……自分が、やれるコトを増やしたい。塔の上で、もっと、何かやれた気がするんだ。オレが一番、動けたんだ。生産的に、もっと何かするべきだったのに……」
「十分な、働きであったさ」
良い執事になれそうだ。果たすべき仕事を探そうとする質は、この職業には必要な才覚である。だからこそ、礼法を学ばせたくなるし、それだけでなく……多くの知識を与えてやりたくなる。記憶がないゆえだろう、まっすぐな瞳は追いかけるように知識を求めていた。
その瞳には、覚えがある。
ずっと昔に。戦いばかりの日々に、嫌気が差し始めていたとき。自分が本当に欲しい人生は、より知的な振る舞いが利いたものであったと気づいた。だから、息子には勉強を教えようとした。彼も、学ぶのが好きだった。まっすぐで、懐っこい犬のような目だ。
「もっと、役に立ちたい」
あの子のために貯めた学費は。他の使い道を見つけられないまま、手つかずだ。
「『ゆっくりでいい。お前は、焦ることなく、己を磨き続けるように。私も、少なからず協力しよう』」
この言葉を、いつか口にした気もする。似たような会話も、した気がする。離婚なんて、しなければ良かったと老いた男は思った。もちろん、そんな感傷を、顔に出しはしない。フィックスドフラワー家の執事は、主の分まで厳格であるべきだ。
「さて、そろそろ戻るとしよう。吹雪の夜は、暗くて寒い。皆、早く家族のもとへ戻ってやりなさい!」
作業員たちは解散し、風の吹く中を家路についた。少年を引き連れるようにして、老執事も屋敷へと向かう。冷たい風は、命を奪いもするが、心に強さを与えもした。
屋敷に戻ると、戸締りが始まる。
シュエも駆り出されたが、そう長くかかるものではない。使用人たちの誰しもが、この作業には慣れている。吹雪と戦うために鎧窓が閉じられて、広い屋敷の内側をただよう空気も、ギュッと押し込まれて小さくなったように感じた。
「いやあ。不謹慎な発言ってのは分かっているけど、『雪籠り』の夜って、子供の頃からワクワクしちゃうんだよねえ」
ベアトリーチェはそう言いながら、野菜の入ったカゴを持ち上げた。
「ベアトリーチェさん、オレが持ちます」
「あら、紳士的なんだね。お姉さん、そういう態度、好きです。はい、どうぞ」
見た目以上に重い。いや、ベアトリーチェの筋力が、おそらく見た目以上に強いのだろうと、シュエは学んだ。厨房へと向かう道すがら、メイドは情報収集を怠らない。
「シュエくんは、こういう本格的な『雪籠り』は初めて、になるのかな?」
「そう、ですね。そうなります」
「30時間は、動けないからね。『雪籠り』の時間は、皆で集まって食べて、寝て、遊んで……まあ、私とシュエくんには、『見張り』の任務もあるけどね」
「動けない獲物は、襲いやすい」
「そういうコトです。『鉄腕』の見せ場が、なければいいわね」
「平和主義でいたい」
「うんうん。それが、我らがフィックスドフラワー家だもん。いいトコだよ、ここの。一生、いたくなる」
「ベアトリーチェさんは、どんなところから、ここに?」
「あら。いい洞察ね。私が、ここの出身者じゃないって、見抜けるなんて」
「空気が、違うんです」
「そうね。傭兵だから。『シャル・リリィ』の人たちより、ちょっと意地悪なの」
「そうは思いません。良い人ですよ、クッキーくれましたし」
「あははは! うん。そうだね。ほんと、最近の私は良い人だ」
厨房に着くと、調理は始まっていた。
「野菜が来たな! どんどん切ってくれよ!」
「ベアトリーチェさんは、手伝わなくていいですからね。料理の時だけ、刃物使いが下手になるんですからー」
「シュエは、じゃがいもの皮をむけ。お前は、そこそこ上手だ」
「うわ。チーム乙女の一員として、その扱いには納得いかない。男子に料理で負ける女子なんて、いないんだぞー」
「コックなんて、だいだい男だぜ? 料理は力仕事だしな」
「うるさい。このベアトリーチェさんのメイド的女子力を見せてやるぞ。ほーれ、包丁研いでやる。ピカピカのキレキレに!」
「それ、女子力の現れなんすかねー?」
普段よりも気合いが入っているように感じた。『雪籠り』は、大きなイベントでもある。過酷な環境との戦いである一方、どこか祭りめいた喜びも秘められていた。
やがて、大吹雪が訪れる。
大雪原に停止した66番機関都市『シャル・リリィ』は、地上に鉄杭を突き立てて固定を行う。雪の下を走るレールから脱線しないように、『錨』とそれからつながった長く太い鎖でも大地にしがみつくのだ。
巨大な機関都市ほどに、猛吹雪の影響は受けやすい。大きいほど風が強く当たるし、空は雲で遮られ、『空を裂く虹色の牙』からのエネルギー供給が消失する。バッテリーの使用許可を求める連絡がキティに入り、執務室のキティは許可を出した。
これから30時間の猛吹雪、極寒の白濁の地獄で、貯蓄されたエネルギーに頼ったサバイバルが始まる。
うす暗く閉鎖された『シャル・リリィ』が、ギシギシと軋んだ音を立てながら揺れ始めていた。機関都市の上層にある都市群だけでなく、それは機関都市内部の農業施設や工業施設にも大きな騒音を立てる。
外部よりも、内部の方がやかましく感じられるほどだ。それゆえに、猛吹雪と空爆の危険を顧みずに、多くの人々が機関都市の上層に住みたがる。戦闘中の避難防空壕は、もちろん内部にはあるが……やはり、ヒトの本能は太陽と、虹の光を求めた。
節電モードの薄暗さと、伝統的なロウソクは似合う。
「ロウソクの灯は、どこか幻想的ですよね」
おだやかなオレンジの光の向こうにいるキティは、妖精のように美しい。
「そうだね。見惚れそうだ」
「そ、それは、ロウソクのこと……でしょうか。それとも―――」
「―――では、皆様!! 『雪籠り』の夜に備えて、料理をたっぷりと食べましょー!!」
フィックスドフラワー家に仕える者たちの大半が、集まった屋敷の大食堂で、見習いコックが大声で音頭を取った。「乾杯!」、「しっかり飯食うぞ!」、「おい、酒持ってこい!」、使用人たちの活力にあふれる声が響いて、宴会めいた夕食が始まった。
シュエへの質問が、その喧噪にかき消されてしまったのは、キティには残念であったものの、使用人たちの元気な姿を見られるのは、嫌ではない。アレンの死で沈んでいた時間も多かったのだから。
それに。ロウソクの向こう側に見えるシュエの横顔は、微笑んでいた。
「シュエさま、嬉しそうですね」
「うん。こういうのも、たまにはいいな」
「はい。『雪籠り』のパーティーは、私も好きです。『シャル・リリィ』の『雪籠り』では、子供たちのためにピエロを呼んだりする時もあるんですよ」
「ピエロか」
「興味ありますか?」
「少しね。オレは、子供っぽいのかも」
「飴玉も、お好きですしね」
「甘いのが好きだ。マルクに、男らしい味覚にしろと注意されたが……」
「お父さまもマルクも、チーズにはちみつをかけたものでお酒を楽しみますのに?」
「なら、オレが飴を好きでも問題なさそうだ」
「はい。まったく、問題ありません!」
飴玉を持ち歩き、シュエに『餌付け』する楽しみを奪われたくはないからか、ピンと伸ばした人差し指を立てて、二人の会話が出した結論に権威を与えた。
「ハハハ! マルクさんの現場復帰を祝って、酒飲みましょう、酒!」
「やれやれ。私をダシにして酒に溺れるかね。コニャックは、あるのか?」
「も・ち・ろ・ん!」
ベテラン使用人たちは、すでに酒を開けている。アルコールの香りが、大食堂の空気に溶けた。キティは、目を少し細める。
「ふう。飲むなとは言いませんが。皆、お酒を飲み過ぎなければ、いいんですけどね」
酔っぱらったベアトリーチェが下着姿になって抱き着いてくる可能性はあった。まあ、いい。自分に抱き着いてくるのなら。しかし、『シュエに抱き着くのは』、許さない。『牙』の当主の釘を刺すための視線が届き、ベアトリーチェはビクリと体を揺らしていた。
傭兵暮らしの長いメイドの乙女は、女主の思考を読んで、うなずく。その察知能力の高さが、彼女を今日まで生き残らせた、という面は少なからずあった。
「そうだ。オレ、見習い執事だから。キティ……さまに―――」
「キティさまという呼び方は、いやです」
言い切った後で、自分に驚いていた。立場上、その呼び方は正しいのに。当主がそれを拒めば、執事は困るに決まっているのに……それでも、曲げない。わがままを、貫く。『雪籠り』の薄暗い夜は、誰の心も少しだけ素直にしてしまう。
距離が、遠くなるのは嫌だった。
「そうか。じゃあ、『キティお嬢さま』なら、どうかな?」
メイドの入れ知恵であった。『キティさま』呼びに含有されかねない『距離』に、女主が嫌がる素振りを見せたなら、迷わず使えと。女子力はあったのだ。たとえ、包丁を殺人刃物のような鋭さに磨けてしまったとしても。
「そ、それなら。慣れているので、いいかも、しれません」
「オレも執事の練習をしたいんだ。だから、キティお嬢さまに、飲み物を注ぐよ」
「はい。あ。でも、ワインは……私、16才なので……」
「それっぽい瓶に入った、ブドウのジュースを用意してるよ。ベアトリーチェさんが渡してくれたんだ」
「さすがは、ベアトリーチェです」
気が利く。女主は満足の笑顔をメイドに送った。メイドは、安心し、瓶ビールをラッパ飲みし始める。執事服を着たシュエに、接待してもらえる―――それは、キティに未知の喜びを与えていた。執事には慣れているはずなのだが、シュエは、別枠らしい。
計算の通りだ。メイドはビールで喉を鳴らしてミッション達成の快感を祝う。
「では、キティお嬢さま」
「は、はいっ」
ロウソクの光に照らされて、ワイングラスの豊かな曲がりに、ゆっくりとブドウのジュースが注がれていく。どこか、大人びた行為だと、純情な彼女は考えてしまう。シュエの動きも、洗練されていた。
戦いでの荒々しい動きも、好ましいが……このやさしさも、キティの心を掴む。ブドウの味が甘酸っぱく舌に広がっていった。アルコールなど一滴も入っていないというのに、酔っぱらってしまいそうだ。見守るような視線が、訊いてくれる。
「美味しいですか?」
「……は、はい。とっても……っ」
「よかった」
薄暗い『雪籠り』の夜で、良かったとキティは考える。恥ずかしいほど、顔が赤くなっているような気がした。闇とロウソクのおだやかな灯りに、どうにか隠せそうだ。
「フフフ。やはり私は、いいメイドであり、乙女チームのリーダーだわ」
ぐびぐびと、少年少女を肴にして飲むビールは最高ののど越しだったという。
66番機関都市の食事の伝統は、アレンのおかげでずいぶんと柔和になっていた。楽しむことが最優先だと掲げていたからだろう。周りの人々の笑顔が好きな男が更新した食文化は、彼の娘にも幸せを与えていた。
もしも、孤高な貴族のように、高貴な血縁以外の者を排除した食事などを強いていたら、キティは一人静かに『雪籠り』の夜の食事を取っていただろう。洗練され過ぎて、距離を保つ使用人たちが作った、沈黙の鳥かごの中で。死んだ後でも、良い父親であった。
夜が更けていく。
猛吹雪に揺らされながら、暴れる白に呑まれた時間は、ゆっくりと間延びしながら進んだ。手品で笑いと驚きを取ろうとする者もいれば、楽器の腕前を披露する者もいるし、カード・ゲームも人気で、遅番に備えて大食堂のはしに雑魚寝している者たちもいた。
良い時間である。
しかし……この大雪原には、悪意も隠れやすいものだ。
キティがうとうとし始めた時、シュエを呼びに酒気を帯びたメイドが姿を現した。
「キティお嬢さま。シュエくんを、お借りしますね」
「……あ。は、はい。見回りに、行くんですね?」
「ええ。猛吹雪に入ってから、5時間。吹雪に闇も混じり、最も暗い時間帯となりました。敵が『シャル・リリィ』に攻撃を仕掛けるとすれば―――はい、シュエくん!」
「複数回に渡り、攻める。長期戦を仕掛けて、こちらのスタミナと集中力を奪いたいだろう。30時間全体を作戦時間とするなら、初手を仕掛けてくるには、いいタイミングだ」
「そういうコト。さすがは、騎士さまだね。戦いに詳しいよ」
「……シュエさま。ベアトリーチェ、気を付けてくださいね。エステルハルドの娘は、まだ行方が掴めておりませんし」
「う。シュエくん、あいつ来たら、頼むねっ」
「任せておけ。すぐに追い払ってやる」
「いや。ここは……」
いっそ、不殺を目指さずにサクっと始末して欲しい、などとはフィックスドフラワー家の当主の前では言い難かった。アーデルハイトが、エステルハルド的気質を改めるなど、ありえない気がする。有言実行。恨みや屈辱を忘れて生きられるような女ではない。豚のエサにはなりたくないのだが……。
「と、とにかく。出かけて参ります!」
シュエと組ませてもらえるのは、幸運……というよりも、マルクの配慮であった。『ハイジ殿』との交戦がある彼は、この敵の性質をよく知っている。
「あれは、躾けのなっていない猛犬のように、何処までも追いかけてくるでしょうからな」
薄暗く、暴風に当てられて軋みながら揺らぐ通路を、シュエとベアトリーチェは進む。ナイトビジョンに赤外線ゴーグル……どちらも使うが、己の感覚こそが頼りだ。大雪原を生き抜く者たちは、誰もが改造されて強化された遺伝子の末裔である。
「エステルハルド・レベルとは言わないけれど、私も身体能力と感覚は優れているのよね」
「頼りになります」
「いやいや。君の方が、かなり桁違いに強いんだからね?」
「『鉄腕』は、強すぎるところがありますから」
「まあ、それはある。敵ごと、建物を破壊するなんて悲劇は、避けなくちゃ」
「もし敵と遭遇したら、オレは盾になる方がいいかと」
「うん。敵の動きを止めてくれたら、私がトドメを刺す……こういう会話を、君みたいな年齢の男子とやれるなんてね」
「意外なことなんでしょうか?」
「そうだよ。君は……記憶を失う前は、相当の戦士だった。というか、記憶を失っても、桁外れの戦士なのは変わらない」
「戦いは、シンプルですから」
「……フフフ。そうだね。その領域に至れるのは、ベテランの知覚のみ」
「オレは、『肉食獣』らしいですから。戦いばかりの」
「でも、君は、適応しようと必死だ」
「適応、ですか?」
「相手に対して、話し方がそれぞれに違う」
「女性には、やさしくと。マルクからの業務命令ですから。それに……そうすべき、だと。自分でも感じるんですよ」
左の親指が、薬指にはめられた漆黒の指環を撫でる。愛しい者へ、捧げるような指遣いであるようにベアトリーチェには見えた。キティは、まだそれを見ても嫉妬はしないだろう。本物の嫉妬を理解できるほどに情緒や、恋愛観が育った時が、少し怖い。
「やさしいのも、罪深い」
「そう、でしょうか?」
「え。ああ。ごめん。独り言。乙女の独り言は、聞き流すよーに」
「了解」
「ふっふっふ。ほんと、良い子だ」
見回りは屋敷から始まり、屋敷のある66番機関都市の『先頭車両部』の全体に及ぶ。もちろん、『外』にも出た。街並みを雪と氷の白い地獄を、埋め尽くしつつあるが、そこをブルドーザーでノロノロと進む。雪を無理やりにかき分けながら。
運転は、最初はベアトリーチェが行い、途中からはシュエだった。
「何でも経験だからね。お姉さんが、サボっているわけじゃないよ」
「楽しいですよ、コレ」
「男の子ってそうよね。重機に愛を感じられる。私は、ムリだなー。作業しか感じない」
「男女の好みって、色々と違いがあるんですね」
「そうよ。だから、君が『いい』と思っていても、女の子は『そうじゃない』って、思うコトもあってー……同意って、大切なの」
「ですね」
伝わっていない。こっちにも恋と愛の授業が必要なのかもしれないが……下手に授業をしたことがキティに伝われば、嫌われかねない気がする。このガクガク揺れる巨大な重機に二人で乗っていたことを話しても、笑顔が固まるかもしれない。
愛は怖い。
恋は盲目。
弟分として扱っていたとしても、誤解を生むかもしれない。こちらとしては、ただ、シュエとキティの幸せを願っているだけなのだが……近づき過ぎていると、キティに勘違いされてはいけない。良い少年だ、好みの範囲には当てはまっている。しかし、この純粋で無垢な横顔に想うのは、恋愛感情よりも母性じみた感覚が大きいのだ。
記憶のない少年は、どこかずるい。
鏡やたき火のように、見つめる者の想像力を吸い込んでしまう。雪のせいかもしれない。この少年の名前も、雪/シュエだが……吹雪のことだ。吹雪の視界の遮断と、暴れる風の音は感覚を研ぎ澄ませてもくれる環境だから。
シュエを見ていると、生き別れになった弟を思い出せるのだ。叔母の家に養子に出されてから、そのままだ。
こっちは8才で、あっちは5才だった。列車に乗って、こちらに手を振る姿は、どう考えても状況を正しく認識していない様子だった。ピクニックにでも出かけるように、嬉しそうであり、気楽な態度だったから。
あれは、何とも空気を読まない別れである。あれから、会えていない。大雪原は、あまりにも広く、過酷だ。ベアトリーチェの故郷も、戦いで雪に沈んだ。
覚えているのは、遊んでいる姿。ストーブと子供部屋のあいだに、積み木を散らかしていた。何度、とがった積み木を踏んづけて涙目になったことか分からない。あの配置には、何か特別な意味があったらしいが、舌ったらずの説明なんて聞いちゃいられなかった。
あれも、今は紳士になれているだろうか?
あるいは、もう……。
「楽しいな、これ。オレ、150年前は、ブルドーザー乗りだったのかも」
「……かもねー。さて、そろそろ……戻りましょうか―――」
大雪原の掟がある。平和の時は貴重であり、それは、いつもいきなり破られる。この若い戦士たちの考えは、当たっていた。『シャル・リリィ』を攻め込むなら、今このタイミングが初手として、最適なのだ。
爆発が起きる。
猛吹雪に揺さぶられる空間は、その音を弱くしてしまうが……シュエとベアトリーチェは、優れた戦いの感覚の持ち主である。遺伝的な才能があり、鍛錬と経験が機能を磨いた。鋭さにぎらつく視線が、あの蒸気塔に集まる。
「ブルドーザーを降りて、直行するわよ!!」
「了解!!」
乗り捨てる。猛吹雪の白い地獄に、飛び出した。激烈に寒いが、気にしてはいられない。『鉄腕』を使う。『シャル・リリィ』で日々を過ごしながら、その使い方をいくつか発見していた。斥力の障壁だ。積もった雪を、吹き飛ばしながら……吹雪の中を突っ切れる。
「本当に、使いこなせれば最高ね。室内でやれば、何もかも吹き飛ぶけど」
「敵の虚を突ける。敵も、この速度で、蒸気塔に増援が来るとは思わない」
「ええ。蒸気塔の守り人たちが、気にかかる。急いで」
シュエに命令を出しながら、耳にはめ込んだ通信機を起動させている。センサーに、暗号的な撫でを行った。戦闘時のコミュニケーションは、少なく、短く、正確でいい。混沌とした状況の中では、正しさ以外は不要だ。
伝えたのは、明白な事実のみ。『敵襲、蒸気塔で爆発、警戒しろ、こちらは援護に出る』。それだけで十分だ。もう、『鉄腕』の力のおかげで、蒸気塔のふもとまでやって来れた。
「こっちのブルドーザーを見て、反応したのかもね。だとすれば、好機」
「突発的に動いたのなら、作戦の完成度が緩む」
「そういうコト!」
「蒸気塔の、中腹に……敵影!」
「シュエくん! 止まって、肩、借りるわよ!」
「了解だ! やれ!」
コンビネーションも、いくつか練習している。メイドとしての能力は、疑問を持たれたとしても、戦闘技能で疑問視されるのはプライドが許さない。シュエがその場に片膝を立てて座ると、その左肩にベアトリーチェが大型ライフルを置いて台座にした。
狙い、呼吸を整え、撃つ。
猛吹雪を貫いて、弾丸が敵影に命中していた。麻酔弾が、その敵を即座に深い夢へと突き落とす。蒸気塔の側面に設置されていた見張り台は、当然ながら極寒だ。
「当てた」
「当然よ。回収は、後回し。生身っぽいけど。あいつが凍死しても、私は悪くない」
「ああ。悪いのは、敵だ。蒸気塔が故障すれば、市民が困る」
「トップ同士の決闘なんて、旧い気高さを選べるヤツばかりじゃないのよね」
市民を巻き込んだ方が、戦いはしやすい。市民の命は、政治的に利用しやすいからだ。盾にもなれば、剣にもなる。古代から、その悪しき有効性は変わらない。人類は、あまりよろしくない進化の過程を進んでいるのかもしれないが……今は、歴史を使った研究よりも、進行形の戦いを制する時だ。
蒸気塔での戦闘、その狙いは明白である。蒸気塔をコントロールする制御室、そこを乗っ取り、蒸気塔に負荷を与える。それが王道であり、『シャル・リリィ』には致命的なダメージとなる攻略法だ。
この敵どもも、それを仕掛けている。
巨大な蒸気塔の守り手たちは、その半数が負傷。敵影は……。
「14。動きがいい。音も……ほとんどが、機械混じりだ」
「サイボーグ。エステルハルドのサド女が来たんじゃないのは、助かったような。でも、マルクさんの同類たちが相手と思うと、気が退けちゃうわ」
雪に飛び込んで腹ばいとなる。そのまま、ライフルを寝かせて、引き金を絞る。絞る。絞る。素晴らしい早撃ちであり、精度も高く、全ての弾丸がサイボーグに当たる。実弾だった。
どの弾丸にも、ナノマシンの毒が詰められている。サイボーグの電線神経を即座に麻痺と混乱が侵して行った。一人は、生身である。腹を撃たれて、悲鳴を上げて横たわった。
キティとは違う。大雪原の傭兵上がりのメイドは、やさしくない。
「死にたくないなら、さっさと投降することだ!!」
返答は、分かりやすいものである。狙撃と、こちらへの突撃。敵が一致した挙動をする。
「私たちに、賞金でも懸けているのかもね。混成部隊だし、山賊……より、傭兵っぽい」
冷静な分析をする。指で、シュエに対してサインも。うなずき、『鉄腕』の力を発現させた。左腕全域が漆黒に包まれ、その機能は解放される。薙ぎ払うように、左腕を振った。
斥力の津波が巻き起こる。雪を撒き上げながら、白い防壁を生成した。弾丸は弾かれ、突撃していたサイボーグどもも、この襲い掛かる雪の奔流に視界が潰される。それに、つけ込んで、シュエが突撃した。
「上手いわ。雪を、煙幕代わりに身を隠した」
刀を、呼ぶ。『鉄腕』におおわれた手のひらから、引き抜くようにして。突撃していたサイボーグに近づくと、斬撃を放つ。サイボーグどもは、腕を斬られ、脚を斬られる。踊るように、刃は自在な攻めとなった。走りながらの剣舞など、そうやれるものではない。
「達人ってことね」
「『鉄腕』、発見!」
サイボーグの一体が、ニヤリと唇を歪めると、サーベルを抜いた。剣術で競うつもりらしいが、余裕が維持できたのは、わずか二秒。『鉄腕』を使われる間もなく、刀の攻めだけで、シュエは追い詰めた。
「な、生身だろ!? どうして、そ、そんなに速いッ!?」
「強いだけだ」
シンプルな答えだ。身体能力が高く、技術も高い。サイボーグに強化されたこの男よりも。サーベルが折られて、次の瞬間には両腕の先も断たれた。だが、それも狙いだったらしい。
「大振りなど―――」
―――するからだ。そうでも言いたかったに違いない。刀を構え直す余裕を与えずに、頭突きをしようと考えた。悪くない発想であったが、シュエは刀の構えを作るのではなく、雑に、しかし、それだけに早さと速さを発揮した動きを選ぶ。柄だ。柄でサイボーグをぶん殴った。
鋼に補強されたあごが砕かれる。揺れる、脳が、揺さぶられるが、まだ動こうとした。しかし、肘打ちと、膝。格闘のコンビネーションがサイボーグを襲う。どちらも、骨身に染みて、強く揺さぶる重みがあった。
倒れそうになり、足払いも合わされる。雪原に倒れ、刀の先を目の前に突きつけられた。
「……くっ」
「動けば、斬る」
「そーよ。降参した方がいいわ。こっちの勝ちだもん」
ライフルでの狙撃も同時並行で行われていた。チームが半壊したと知った敵どもは、すでに逃げ腰である。シュエが倒した者は、少なくともこのチームでは最強だった。それが手玉に取られて、慈悲をかけられている。圧倒的な実力差があった。
「あ、あれが……ウワサの『鉄腕』かよっ」
「くそ!! オレは、抜けるぞ!!」
全滅するまで戦う者はいない。とくに雇われて戦う者は。戦闘に政治的な感情を傭兵は持たない。ただのビジネスだからだ。死に値する金額など、ありえない。誰かが逃げ始めれば、戦いのための陣形も維持できない。崩れて孤立すれば、撃破されるのみ。
「……逃がすか? それとも」
「逃がすわ。情報収集用に必要なヤツは、捕まえているものね」
「そうだな」
黒い『狼』の双眸が、サイボーグを見下ろしている。鋼に補強されたとしても、化学物質で勇気を上乗せしたとしても、恐怖は残る。『殺戮卿』を倒した、『鉄腕』が相手と思えば、誰しも冥府の川を近くに感じられた。
「降参する。オレは、死んでまで戦う理由を、持っちゃいない」
「傭兵ね」
「ああ。雇われた。誰かは、言えないんじゃない」
「知らないのか」
「はあ。正体不明のヤツに雇われて、『鉄腕』にケンカ売るとか。アホなの?」
「ヘヘヘ……金額は、魅力的だったのさ。賢くはないが、良く深い計算だよ。『鉄腕』に、賞金がかかっていた。豪邸が三つは買える。生き残るだけでも、追加報酬ありだった」
「じゃあ。どこかの機関都市の偉いヤツでしょうね。あるいは、『レリック』蒐集の命知らずな趣味がある大富豪」
「分からねえ。だが、まあ……みんな、撤退しちまったコトだ。どこか、温かいところでハナシをしようじゃないか。応急処置もしてくれ。オレのオイルは高級品。ムダに垂れ流し続けるのは、もったいなくてな」
「はいはい。とりあえず、近くの自警団の牢屋にぶち込んでやるわ」
「金を払えば、早く出してもらえるかい?」
「情報の方が、欲しいわね」
吹雪の中で、敵を捕らえた。こちらの応援も駆けつけて、負傷者の手当が始まる。メイドによる尋問も。椅子に座らせた捕虜の背中に、料理の時とはまったく異なる器用さで、工具をブスリと突き刺した。
「いっちょ、上がりー」
「……エルニード社の第七世代製品だぞ? そんな高級脊髄の電線神経を、原始的な道具で、これほど手際よく壊すとはね」
「暴れてもらっちゃ困るからよ。まずは、名前ね。私は、ベアトリーチェ。仕事は、鉄砲を撃つことと、メイド」
「ああ。有名だ。そっちの黒髪は……」
「シュエだ。こんばんは、敵」
「コミュニケーションの基本ね。名乗りなさい」
「カートマン。傭兵。サイボーグ化された32才のイケメンだ。一応は、この襲撃部隊の指揮を任されていた。雇い主については、吐けん。さっきも言ったが、そもそも知らないからだ!」
「で。『次』は、いつ仕掛けるつもり?」
「オレみたいな口の軽くて、追い詰められたら素直になる傭兵ごときに、君だったら、計画の詳細を話すのかい?」
「分かりやすい説明だわ。でも、大雪原の傭兵をやってる中年男は、クソ馬鹿か、少しは狡い知恵を持っている。高級オイルを使う男は、後者でしょ」
「まあ、ね。ビジネスには、知恵っているもんねー」
「話題の『鉄腕』に、ケンカ売るのなら、保険も用意する。捕まることだって、考えていたでしょう。『生きて解放してやりたくなる情報』を、お守り代わりに持ってるんじゃない?」
「……ああ。さすがは、有名なベアトリーチェ。『本名』は、何というんだい?」
シュエがその言葉に、反応する。社会勉強として、メイドは教えた。
「女子には秘密がつきものなの。シュエくん、男は包容力よ。そういう秘密も丸ごと、抱きしめて、何も聞かずに女子を甘やかしてあげられるのが、素敵な美少年執事の条件だわ」
「……覚えとく」
「ハハハ。あんまり、女に乗せられすぎると、痛い目に遭うぜ」
「カートマン。さっさと、情報を寄こしなさい。この端末、つないであげるから」
「うわ。何だ、それ。旧式だねえ。そんなものとつながるの、屈辱なんだが」
「古くて低機能な方が、やれるコトが少なくていいのよ。一番のハッキング対策になる」
「そういうの、けち臭いし、時代遅れだぜ」
「男なんかに騙されたくないの。騙すのは、いつだって女の子の方なんだから」
「こういう女が、大雪原の女傭兵だ。『鉄腕』よ。強いのは認めるが、こういう女には気を付けることだな……って、ハイハイ。にらむな、メイドさん。教えるよ」
カートマンが自分の小脳に増設した機械から、地図情報を端末に送った。シュエの目が鋭くなる。
「……ところどころ、間違っているが。これは、屋敷の見取り図だぞ」
「ええ。何となく、こいつの依頼人が見えたわ。客として、招いたことがある。で、そいつはこちらの許可なく、屋敷内を探っていた。計測したのね。それで、マルクさんの設置していた、情報トラップにハマって、違う地図データを掴まされた」
「賢いね。マルク・ヨハンセン。まだ現役か」
「……マルクも傭兵だったのか?」
「いいえ。マルクは『シャル・リリィ』生まれよ。堅物な自警団員から、執事になった。誠実で、頼りになる」
「嘘かもしれねえぞ、このメイドのな」
「……過去を追求する権利は、オレにはない。今、感じ取れるものが全てだ。マルクも、ベアトリーチェさんも、信頼できる仲間だ」
「嬉しいわね。そういう態度、すごく好ましい。じゃあ、戻るわよ」
「屋敷にだな?」
「そう。狙いは、『鉄腕』じゃなくて……」
「キティか」
目の鋭さが強くなる。それが、うらやましいほどに、愛らしい。記憶がないからだろうか。『純度』が、高い。数十年の忠誠でもあるかのように。あるいは、まるで、永い時で確かめられた愛のようだ。
「さて、行くわよ。じゃあね、カートマン、あんたは他の情報も洗いざらい、引継ぐ自警団員に話しなさい。意地悪されたくないでしょ?」
「差し入れに、酒くれたらね。ああ、あと。『鉄腕』。お前と、似た剣を使う傭兵がいるぞ。知り合いか?」
「……知らん。記憶がないんだ」
「ああ。そうか。複雑な人生がここにもいた。じゃあ、まあ、死ぬなよ。どんどん勝て。『鉄腕』と戦い、生き残った。それだけで仕事が来るほどには、有名になってくれー」
「どうでもいい。キティの敵は、オレが斬るだけだ」
「健気な忠犬だ。いや、あの剣さばきから感じたのは、もっと狂暴な獣……」
「きっと、犬じゃなくて『狼』よね」
傭兵カートマンはうなずいた。鋭く容赦がなく、群れのために必死な様子は……その動物の特徴を全て射抜いている。ベアトリーチェの洞察力を、機械混じりの男は褒めた。メイドは通信機を口に当てると、マルクに状況報告だ。適切な動きを、素早くしている。
練度があった。満足できる。こいつらになら、あの即席部隊で負けて当然。自分は、無能ではない。二人が去った後で、白い息をゆっくりと吐いた。
「なあ。暖房もうちょっと上げてくれよ。そしたら、何でも話すよ。ここ、気に入りそう。いい部下が集まってくる幸運の持ち主に、オレちゃんも雇われたくなってるんでね」
66番機関都市『シャル・リリィ』は、魅力的に見えた。大雪原をさ迷う傭兵にとって、『強い群れ』の一員になることは、自分を磨くよりもはるかに大きなビジネス・チャンスだ。
「『勝てる群れ』に、いたい。オレってば、現代的な合理主義者なんでね」
守り抜くだろう。『鉄腕』は、強かった。そして、主に忠実らしい。暖房の温度を上げてくれる自警団員も好ましかった。ライフルを突きつけたままだが、そこもまた気に入る。
「君らとは、良い仕事ができそう。『雪籠り』の夜は、フレンドリーでいたいよねえ」
楽しみができた。『鉄腕』は、あの刀を使う傭兵を、どう倒すのだろうか。同門対決は、実力差が消える。『鉄腕』は、刀で倒すのか、あるいは『鉄腕』に頼るのか。
「ギャンブルとか、何かある? オレね、一つ思いついてるんだけど。みんなでさ、賭けない?」
傭兵は悪びれない。
戦いをビジネスで行う者は、戦闘が終われば、一分前まで撃ち合いをしていた相手でも酒を飲み交わす。その気軽さも、大雪原の冷たい価値観を生き抜くための処世術の一つであった。
「急ぐわよ! シュエくん、こっち!」
「……地下の道を使うんだな」
「そう。屋敷と、自警団の施設には、連絡用の通路がある。直通じゃないけど、猛吹雪に逆らって地上を走るよりは、はるかに速い」
壁の一部を、ベアトリーチェの指が押し込んだ。古い赤レンガの積み重ねの一つが、ゆっくりと沈む。隠された扉が、歯車の回る音を響かせながら開いた。壁の奥に、灰色のせまい通路が、地下へと伸びている。
「ついて来て」
「ああ」
二十段ほど降りれば踊り場がある。そこの壁には、分厚い鋼で作られた密閉ドアだ。冷えた開閉ハンドルの輪を素早く見つけると、執事修行の途中にある少年が開き始める。
「そうよ。紳士よね。冷たくて硬いハンドルなんて、女子の手に悪いもの」
「ですね。開きます」
「うん。拳銃は、用意してる。カバーは、任せなさい」
密閉ドアが開かれた。敵はいない。それを確認して、ベアトリーチェは再び先行する。風の走る音が冷たく響く直線だ。シュエは、パイプの中を連想してしまう。ネズミになった気持ちになれた。長くて狭い通路を駆け抜ける。獣の速さで。時間は3分もかからない。
教育の時間には、ちょうど良かった。
「キティお嬢さまを敵が狙うのなら、敵にお嬢さま殺害の目的はない」
「誘拐したい。あるいは、人質に」
「そう。敵には厳しく対応するべきだけど、このルールは覚えておいて」
「敵を殺さないようにする……か」
「ええ。それが、キティお嬢さまの望まれる形でもある」
「……分かっては、いるつもりだが……キティが危険な時は」
「斬っていいわ。その状況判断は、シュエくんならやれる。ベテランだから」
信じている。大雪原を戦い抜いた傭兵の、率直な勘を。フィックスドフラワー家らしい戦い方を覚える。それも、使用人には必要な練習だ。
「到着。ここを登れば、庭に出られる。スイッチは、壁の……これ。覚えてね」
「了解」
赤レンガに偽装したボタンを押すと、二人の頭上でハッチが開いた。まばたきるすと、シュエは察する。無言のまま、ハシゴに飛びついた。先行するのは、盾となる自分の役目だと悟った。
「ほんと、良い子」
ベアトリーチェも素早くハシゴを登る。庭に出ると、猛吹雪を撃ち抜くように叫ぶ警報と出会った。屋敷に対しての攻撃は、もう始まっている。シュエの目が鋭くなった。『狼』の本能が、強まっている。
屋敷の中で、使用人たちは慌ただしく動き回り、マルクは冷静に問いかけた。
「キティさま、避難なされますか?」
「いいえ。少数ならば、私が迎え撃てばいいですから」
二丁の拳銃にマガジンを詰めながら、キティは断言した。
「戦うのも、『牙』の当主の役目です」
「私も、援護に」
「はい。頼みます」
望ましい答えであった。マルクにとって。杖を突いていようとも、やれることはある。執事を引き連れる形で、キティは屋敷の廊下を歩いた。『牙』の当主の感覚は、誰よりも鋭い。屋敷の外を走り回る敵の気配さえも、見切っている。
敵は、罠に引っ掛かった。
マルクの罠に。あのニセモノの見取り図を信じれば、『そこ』が破壊しやすく、しかも当主の寝室に近い壁であった。猛吹雪の中で、爆薬の生みだした赤い炎が暴れて、『修練室』と外部がつながる。
開いた穴から、敵影が四人、飛び込もうとするが―――キティの精密な射撃を、全員が浴びてしまった。
「ぐふうっ!?」
「こ、こちらの襲撃を……読まれて……ッ」
「ま、まず―――ぐはあっ!?」
マルクの投げた杖が当たる。麻酔弾のもたらす眠りよりも先に、頭に直撃したそれが深い気絶を与えた。気絶した直後に、体を麻酔が巡ったから、もしかすると痛みは少なかったかもしれない。
「やれやれ。こうも、容易く罠にハマるとは……質の低い敵ですな―――」
話術を使う。それも、古強者のテクニックの一つ。油断したかのように、振る舞った。その演技に引きずり込まれて、四人の敵を前衛に使っていた者が、爆破で開いた屋敷の傷口から侵入して来る。
マルクを狙って距離を詰め、斬撃を放つが……マルクはその素早い一刀を回避した。
「いい腕ですが、読まれていては当たりません」
「マルク!!」
キティの援護射撃が入り、刀を振るう敵はマルクから飛び退いた。逃げても、次の射撃が行われ、刀でその弾丸を弾くほかなくなる。どんどん追い詰められていった。
「ち、ちくしょうっ!?」
「その……動き!?」
似ていた。シュエの剣さばきと。しかも、黒髪で……だが、少女だ。
「射撃が止んだ!? チャンスだ……キティ・フィックスドフラワー! お前を、捕らえて、ボーナスゲットだ!!」
キティに少女が迫るが、キティは慌てない。慌てたのは、少女の方だった。目の前に、刀がぶん投げられたいたからだ。
「ひ、えっ!?」
急停止して、どうにか刀の投げつけを回避したが。次の瞬間、壁の大穴から飛び込んできたシュエと、その漆黒に染まった左腕を見てしまう。
「て、『鉄腕』……ッ」
もちろん、おびえた。『鉄腕』という『レリック』の破壊力も聞いている。『ゴーティ』の地下から上層部の屋敷までを粉砕するものだったと……だが、本当に怖かったのは、『鉄腕』よりも、シュエの殺気が込められた双眸の方だ。
「お、お師匠さま―――」
彼女が知る最も強い剣士、それを連想させられて、飛び退いた。間合いを作る。
「シュエさま!」
「キティ、無事だな」
「はい!」
「下がっていろ。こいつは……殺さず捕まえる」
「は!? 素手で、私に勝てるとか、思うなよ!?」
「問題ない。抵抗したければ、しろ」
「腹立つ!!」
飛び掛かった。キティには峰打ちしか使わないつもりだったが、護衛には刃も使う。いくら『レリック』の使い手であろうとも、この間合いで刀に攻め込めば制するのは難しくない。
甘かった。
斬りつけた刀が、止まる。右手の手首を掴まれていた。刀を左手が押し込む。『鉄腕』だから、どうやっても刃物で傷つけることは難しくはあるが……仮に素手でも、シュエは刃に上手く触れずに制しただろう。
記憶こそないが、刀の扱い方は達人―――いや、天才だ。本当に恐ろしいまでの才能というものは、周りを尽くさせる。同じ道を歩もうとする者たちを、みじめな敗北者であるかのように、出し抜いてしまうものだ。
「うそ……」
鍛え上げたはずの技術が、握りしめていたはずの自分の刀が、奪われる。『鉄腕』に押し込まれて、シュエの思うままにコントロールされた。峰打ちの強打が右の首筋に叩き込まれ、激痛にうめいた次の瞬間、腹に膝蹴りを打ち込まれる。
同じ流派としての鍛錬があったから、無様に失神することを少女は避けられたが、刀を奪い取られたまま、その場に崩れ落ちるしかやれない。生身だ。揺さぶられた横隔膜が、呼吸を崩して、体がまるで動き方を忘れ去ってしまったかのように指一本動いてくれない。
「そのまま、動くな。女には、手荒な真似をしたくない」
「……ッ」
自分の愛刀を首筋に押し付けられる。剣士としての屈辱と、死の恐怖。どちらもが歯をガチガチと鳴らし、黒い瞳から悔しさの涙を呼んだ。
文句を言いたくなった彼女は、何かを叫ぼうとするが……背後からベアトリーチェに首を取られて、そのまま床に引きずり倒される。暴れようとするが、全てはメイドの支配下だ。くるりくるりと床を二回転した後には、手錠を両手にはめられていた。
「寝技上手なのよ、フィックスドフラワー家のメイドはね。いつだって、当主さまのご期待に応えるの」
「品がない発言にも聞こえるので、今後はしないように。減給対象だぞ」
「りょ、了解です。でも、その。捕縛、完了です!」
敬礼するメイドが、勝利を告げた。マルクは満足そうにうなずくが、壁に空いた穴を横目でにらむと山猫の顔で不機嫌になる。
「やれやれ。この小娘の依頼主に、請求しなければなりませんな」
「そう、ですね。あの……侵入者さん。誰に雇われたのか、教えてくれませんか?」
「い、言うもんか。これでも、プロの傭兵なんだぞ、私たちは……っ。おい、『鉄腕』!」
「なんだ?」
「お前も、同門……なんだろ? 初めて見た顔だが、私の動きをあれだけ読めるのは、同じ流派だからに違いない! 同門なら、私を見逃せ!」
「……オレには、記憶がない」
「な!?」
「そもそも、オレは150年も冷凍睡眠していた。現代人のお前たちとは、直接のつながりはないだろう」
「……そ、そうか……」
「じゃあ。残酷な尋問を、メイドとして品を維持しながら行いますので」
「ひえ、お、お助け―――!?」
遠い爆音が響いた。この屋敷でも、『シャル・リリィ』でもない。猛吹雪の遥か果てから、その音は白く荒れ狂う空に放たれていたのだ。シュエとベアトリーチェは素早い。壁の穴から身を乗り出して、はるか東をにらみつける。
光が見えた。赤く踊る、炎だ。
「……山影の向こうに、列車を隠していたのか」
「それが、この敵の移動する拠点。でも、爆発しちゃったみたいね」
「な、なんて、残酷なことを!? 『シャル・リリィ』からの砲撃か!?」
「そのような砲撃、私は命じていません。ですが、必要ならば……」
少女の顔が引きつる。とどめを刺されると考えていた。
「ま、まて、あそこには、同門の―――」
「―――必要ならば、救助を行います」
「な、に……っ!?」
「猛吹雪の中で、孤立すれば凍死してしまいますから。遭難者に差し伸べる手を、フィックスドフラワー家は忘れません」
「て、敵を……」
「ええ。敵でも、助けます。遭難者ですから。あれほど、大きな爆発があったのならば、『シャル・リリィ』への攻撃どころでは、ないでしょう」
少女の口が、ポカンと開いた。大雪原の掟は、厳しい。残酷なものだった。だが、あらゆることに例外もある。
「え、えーと。その……これが、当主としての決定なのですが。何か、おかしいでしょうか!?」
マルクよりも、ベアトリーチェよりも。シュエが先に答えていた。
「それでいい。キティらしくて、正しい判断だ」
記憶はない。
比較したわけでも、確かめたわけでもない。
それでも、心に不思議な喜びが広がるのだ。胸の奥で何かが熱く、口の中で何かが甘く。
ずっと昔に、この少年は猛吹雪の夜に家族と仲間を全て失っている。激烈な寒さと飢え。運命を呪いながら、凍え死にながらも……痩せ細った山賊たちは、子供たちを助けようとした。全員は、助けられなかったが、たった一人だけ助かり、『空を裂く虹色の牙』の下、あの飴を噛んだ笑顔と出会うのだ。
マリア・マロレトコワの言葉を借りるのならば。
これもまた、運命である。
「助けてやろう。助けてやりたいんだ。オレも」
「はい! シュエさま、彼らの救助を今すぐ検討しましょう!」
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