第一話 『天の川の下で』




 ……運命は、唐突に襲い掛かるものだ。ある日いきなり現れて、決断と行動を強いてくる。そのようなものに対して、万全な準備で立ち向かうことが許されるのは稀である。

 それは、悲劇に見舞われたフィックスドフラワー家の父娘にとってもだが、悪人ゾルハ・エステルハルドにも同じであった。いつかアレンを殺すつもりであったものの、あらゆる面で最適なタイミングが成立するとは。

 アレンがあの機関都市に現れなければ、ゾルハが自由に動けたあの時間帯でなければ、機関都市の病院長がアレンと旧知の仲であり、『ゾルハにとって幸いなことに』、この二人が古い親交を確かめ合うためにレストランを予約しなければ。

 起きえなかった。

 そのため、ゾルハも最高のシナリオを選べてはいない。もう少し、完璧に近い形で、事を成そうと夢見ていたのだ。キティに自殺でもされれば、厄介だから。力尽くで、すぐに抱けるような近さがあれば完璧であったものの……。

「少しばかり、予定とは異なる。戦いの場では、つきものの誤差ではあるがね」

 ……戦場近くとはいえ、安全が保障されているはずの機関都市。そこで起きた『牙』の当主の死が、ゾルハに多くの疑念を注ぐ結果となっている。

 疑念という言い方は、そもそも証明のための論拠がないからこその方便に過ぎない。

 善良な大人物の死に、この悪人が関わっているのは周知の事実なのだ。おかげで、敵の多いこの悪人は少しばかり忙しくなる。ゾルハのことを政治的に失脚させようと無数のライバルが群がってはいた。

 悪名高い『殺戮卿』に、『些細な疑い』を晴らすつもりなどない。

 アレン・フィックスドフラワーに直接手を下したのは、他でもない彼自身なのだから。戦いばかりの人生においても、『牙』の当主を倒す機会はなかった。彼らは強く、何より慎重だ。この悪人は、『牙』の当主を狩った事実が、名誉の側面を持つことを知っており、誇ってさえいる。

 だが、弁明は必要だ。

 世の中では、多くの利益を勝ち取るための建前が要る。

 政治をしなければならない。

 各方面で、偽りに満ちたスピーチをした。

「全ては、私を陥れようとする者たちの、悪意から生まれた陰謀に過ぎない」

 権力を帯びた言葉は魔法であり、呪いだ。かの有名な『殺戮卿』が主張すれば、彼と利益の絆で結ばれた者たちは信じる振る舞いを選ぶだろう。『殺戮卿』の荒ぶる力の支持者たちは、彼に媚びるため自分の本音すら見なくなった。

「私は偉大な軍人であり、アレン・フィックスドフラワーは心から信頼し合うビジネス・パートナーで、何より、三人目の妻となる者の父親なのだよ。私が彼を殺すはずもないだろう。あれは、ただの悲劇的な事故に過ぎんよ。戦場では、悲しい流れ弾があるものだ」

 嘘だが、有力者の言葉は、客観的な事実にも科学の真実にも勝る。

 現代では、なおさら、その傾向が強い。多くの機関都市が連合を組み、覇権をめぐって戦い合う情勢下では、『善悪の追求』よりも『力』と『結果』が重んじられるものだ。

 悲劇に見舞われた旧き名家よりも、恐ろしき『殺戮卿』の軍事力は頼りとなる。

 真実と善意が、機能不全に陥りつつある時代だ。

 そして。過酷な暮らしは、端的な娯楽を求めさせもする。美しい令嬢がおぞましき欲望と野心に貪られたとしても、多くの者にとっては背徳を得られる娯楽じみたイベントに過ぎない。やさしいアレンは、負けて、殺されたのだ。

 彼の信じていた善意は、無力と成り果てつつある……。

 その現実の中心で、ゾルハ・エステルハルドは笑うのだ。愛情などではなく、欲望だけがある視線で……若く美しいキティ・フィックスドフラワーの写真を舐め回しながら。

「弱いということは、悲しいものだよ。アレン。棺の中にいる君は、最愛の娘さえも守れない。あんなに優秀で、多くの人々を幸せにした『牙』の名君だったというのにな」

 下卑た笑みで悪の効能を、楽しむ。邪悪さだけが味わえる快楽もあるのだ。

「君は、娘の純潔と一族の血を、私に差し出す生贄となったのだ。あわれむべき、義父殿よ。せめて、あの世で祈りたまえ。融け合い、新たに生まれる血が……この星の、真なる支配者となることを」

 もうすぐ、弁明の時間も終わる。そうなれば自らの支配する機関都市『ゴーティ』へ戻れるのだ。それが悪人には楽しみで仕方がない。

 若き妻の胎に、邪悪な種を植え込む……『牙』の一族の血と能力が、自分の遺伝子と混ざり合う瞬間がたまらなく待ち遠しかった。

「これも、人類のためさ。誰よりも強い生物に進化してこそ、この星の霊長が定まるのだからね。私の遺伝子こそが、新たな王を創る」

 ……人類には、課題があった。

 この新たな惑星への移住が開始されたとき、不完全なテラフォーミング/環境整備しか成し遂げられないと悟ったとき。雪におおわれた厳寒なる自然と戦う道しかないと、運命の軌道が定められたとき。

 地球人の遺伝子を、『無数の方向』に『枝分かれ』させることを解決策とした。

 つまり、『新たな人類の創生』を企画したのだ。いくつもの新種が科学的に生み出され、選抜のために競い合うことになる。『この惑星に最もふさわしい人類』の創造と決定こそが、滅び去った地球からの星間移住の『完成』なのだから。

 それら新種たちの統治者として、それぞれに王たる『牙』の一族が創られたのが500年前だ。『牙』たちは移住の完成を目指し、闘争を率いた。惑星の継承者が決めるその日まで、戦いは世界にあふれることになる。

「支配者を決めるのは、いつだって淘汰圧だよ。戦い、競い、殺し合い。力強い適者を、運命が選び抜く」

 新たな能力を与えられた人類たちが、この惑星に入植して以降、お互いが覇権を巡る争いは終わることなく続いている。遺伝子に刻まれた、霊長の座を目指す傾向のせいでもあるが、そうでなくとも見果てぬ大雪原におおわれた世界では、分け与えられるほどの余裕がない。

 独占を目指した。

 生き延びる最適解として。

「遺伝子に細工された傾向は、とっくの昔に越えているのだよ。かつての弱者が、強者を引きずり下ろす。エステルハルドが、『牙』にさえ届いた」

 当初は『牙』に率いられた人種ごとに分かれて争いは続いていたのが、ときには種族が混ざり合い、複数の種族を抱える集団が生まれていった。『雑種』を生み出すのも、ある種、遺伝子で行動する地球由来の動物の本能でもあった。

 正しくもある。混ざり合うことで、よりこの大雪原に適した遺伝子が生まれる可能性もある。『多様な遺伝子を用意すること』が、過酷な環境に対する一つの答えなのだから。

 旧い『牙』たちの権威も、かつてほどではなくなった。この大雪原を駆け巡る機関都市たちの交雑は進み、知性や人格はともかく、戦闘能力に関しては生物学的な強さは向上し続けている。管理の枠からこぼれ落ち、混迷を深めながらも、新たな霊長を巡る争いは常に継続していた。世紀を重ねるごとに、より強く。

「我が一族の夢を成し遂げようではないかね。最強の生物に至る。アレン。ああ、偉大なる義父殿。君の娘こそが、この長き夢を、結実させてくれるのだ」

 大きな軍隊を指揮している。

 財力も蓄えた。

 エステルハルドの一族に伝わる『異能』も、存分に機能しているのだ。政治的ライバルどもから離れた、軍事列車の私室で……ゾルハは葉巻に噛みつきながら、その身を震わせる。血のように赤い軍服の内側で、悪人の肉体はおぞましい波打ちを行った。

 赤黒い肉が、枝のように袖口から生える。

 枝先は、丸みを帯びてふくらんで、果実を実らせた。

 細めた瞳で、『殺戮卿』はその果実を見つめ、口に含んだ紫煙を大きく吹きかける。

 肉の果実は、うごめき。

 ゾルハとそっくりな顔を作った。笑っている。煙を味わっているのだ。趣向は同じはずだった。なぜならば、これは『分身』なのだから。

「私が一人では、ライバルどもへのあいさつ回りに、いささか骨が折れる。悪いが、君にも、働いてもらうよ」

「ああ。任せておきたまえ。話術で打ち負かすのも、得意だよ」

 同じ顔が、同じ声で答えた。

 ……無数の『新たな人類』が創設されたが、エステルハルドの一族もその一派である。

 ゾルハ・エステルハルドの領民と兵隊たちの全員が……『同じ遺伝子』を共有した、『生物学的に同一の細胞のカタマリ』であった。『肉のスライム』というのは差別的な侮蔑であるが、彼らの生態をよく表してもいる。

 肉体は細胞レベルで完全に一致しているが、心は、それぞれ別にありはする。しかし、この者たちの全員が、当主であるゾルハに対して本能からの忠誠を誓わされているのだ。

 彼らはまるで植物や単細胞生物のように、不死身に近しい細胞で構築された『群体』だ。

「『枝分かれ』することも、こうまで容易い」

「そんな私たちが、フィックスドフラワーの力も得る。空を裂く、虹色の牙の力を」

「たまらないねえ。新たな細胞への進化を果たすために、早く、花嫁を貪ろう」

 同じ遺伝子を持った、群れ。

 エステルハルドとその『眷属ども』は、肉のスライムに過ぎないが……現存する『人類』のなかでも、個体では最高のサバイバル能力を発揮していた。どんなに銃撃を浴びたとしても、うごめく細胞が直ちに体を修復してくれる。

 争いが多い時代においては、この生命力は一つの答えだ。死ななければ、最強に近い。




「―――ヤツめは、まともな方法では、狩れませんぞ。対策は、一つでしょう」

 老いた執事は、新たな当主と共に旅路を終えていた。

 エステルハルド家の巨大な屋敷に、キティ・フィックスドフラワーはたどり着いている。

 作戦の通りに。

 ゾルハの帰還よりも先に、この屋敷へと到着すると、従者たちに案内された。花嫁衣裳が飾られたこの部屋へと。ここで夫となるゾルハを待ち、処刑されるような気持ちで純白のドレスの準備をさせられるわけだ……。

 少女は、そんなドレスなど見る気もしない。怒りと、恐怖と、嫌悪しか湧かない。こんなものは、愛と結婚に対する底なしの冒涜だ。

 この旅路の意味は、明白である。戦い、父の仇を討ち取るのだ。そのために―――。

「―――探し出せばいいのです。この指環を受け取ってくれる、騎士さまを……」

「……騎士殿は、おられますかな?」

「はい。指環が、教えてくれています。彼は、ここに」

 左手の中指にはめられた漆黒の指環は、温かさで反応している。その温もりは、ヒトの心音のように、毎秒ごとの鼓動のリズムで強まりと弱まりを見せていた。明らかに、反応が強まっている。この屋敷に到着してから。

「やはりゾルハは、『鉄腕』の継承者を、手元に置き、確保しつづけていたと」

「警戒しているのでしょう。騎士さまを死なせれば、この指環は……私を選ぶから」

「……目標は、定まりましたな」

「はい。地下に、侵入すれば良さそうです。でも……」

「地下にはエステルハルドの、『兵士工場』もある。ヤツめは、各地からヒトを誘拐して集めているらしい。オリジナルの『レリック』とは、やはり恐ろしい力です。何とも『厄介な使い方』を、使用者に許しもする……」

「ええ。彼らが持つ『羊飼い』を用いれば、エステルハルド一族以外も、ゾルハは洗脳できる」

 かつては、それもフィックスドフラワー家の所有していた『レリック』であった。『羊飼い』は、120年前、エステルハルドたちが自らを『分化』して、個々の人格を獲得するのに苦労していた時代、貸し与えられたものだ。

「そういうことです。あの技術があればこそ、おぞましい肉スライムであるエステルハルドどもが個々の人格を得て、人並みの暮らしと街を作れたというのに。大いなる過去の叡智に、敬意でなく、悪用で応えるとは!」

「思いのままに人格を形成し……兵士に与える『レリック/失われた技術』。ゾルハは、きっと力に溺れた」

 キティは教えられている。やさしい父親から。力に溺れる者は、どこまでも傲慢になれるものだと。支配のために、いくらでも他者を犠牲にする悪にまで堕落していく……。

 力を持つ者には、倫理的な責任が伴った。もちろん、誰しもが善意と倫理がこの世に在るべき理由を信じているとは限らない。正義はいくつもあって、その正しさを決める哲学も、それぞれにある。

 どこまでも邪悪な支配者。大虐殺や粛清を犯した独裁者ども。人類はそれらについても『ちゃんと生み出してこれた』。それらの魔王どもは、いつだって正義の名において民衆の支持を集めていたのも事実に他ならない。正義が、悪をも大きくさせるのだ。

「おそらく、『兵士工場』の真の目的は『羊飼い』の技術の練達。『自分と同じ遺伝子を持っていない者たち』をも支配するためにこそ、研究しているのでしょう。ヤツの野心は、そこが終着点でしょうからな。この実験は、世界支配の手段を探すためのもの。つまり……」

「『多くの被験者』が要る」

「そうです。試行回数がモノを言うでしょうからな。となれば……多くの『素体』が、この屋敷には保管されているでしょう。いざとなれば、兵士として目覚めさせるかもしれない」

「……ええ。彼らの気配も、感じられます。敵は、やはり多い」

「ならば、行動を始めるとしましょう。必勝の肝は、先手でございます。ゾルハめが戻るよりも先に、騎士殿を起こし、『羊飼い』も確保すればいいのです。お嬢さま……いえ、キティさま」

 キティは、その肩を小さく揺らした。老執事の表情の意味を察知しながらも、確かめる義務があった。従者の決意を受け止めるのも、当主の使命なのだから。

「なんでしょうか、マルク」

「……幸運が、貴方にありますよう」

 彼女が生まれる前からフィックスドフラワー家に仕えてきた老人には、覚悟がある。キティのための『囮』となって、おぞましい『殺戮卿』の兵士がはびこる屋敷の中心で時間を稼ぎ、最終的には命懸けで暴れるのだ。その命が尽きる瞬間まで。

「……ごめん、なさい」

「それは、相応しくない言葉でございますな。欲しい言葉でも、表情でもありません」

「……はい。マルク、貴方には、教えられてばかりです。私は、もう、当主なのだから。どんなときでも、相応しい態度を取らねばなりませんね」

 記憶があふれそうになる。

 幼いころの日々を覚えていた。多忙な父が仕事で不在な夜、しわがれた声が歌ってくれた、いくつもの寝物語を。

「今日まで、一緒にいてくれて、ありがとう。貴方の献身を、このキティ・フィックスドフラワー、永遠に忘れません」

「ええ。それこそが、私の耳が欲しい言葉です。お仕え出来て、光栄でございました」

 静かな微笑みが、別れのあいさつとなる。

 少女の涙はあふれてしまっていたが、凛々しい表情だ。老人は満足する。人生の最後に見届けるのならば、最高の顔に違いない。大切な者のために死ぬことは、古く気高い心地良さがあった。

 一礼を残して、老執事は退室する。

 一人きりだからこそ、許される自由もあった。役割は、誰しもを縛る。

「…………祖父のように、思っています。マルク……貴方は、私のおじいちゃんでした。今まで、ありがとう」

 うつむいた青い目から、涙をこぼした。

 泣き崩れたい。あまりにも悲しい別れが続き、ここはおぞましい野心を隠さない敵の本拠地だ。少女の心が、悲しみと恐怖にどれだけ苛まれていることか。不安に決まっている。

 だが、弱さが許されるのは、これまでだ。勝利する必要がある。あらゆる臆病さも弱さも、心から追い出さなくてはならない。

「……えいっ」

 少女の白い手が、やわらかなほほを、ぱちんと叩いた。室内に置かれた鏡を青い双眸が見つめ、強い表情を作る。鏡の中で強がろうとしている者に、彼女は語りかけた。

「私は、フィックスドフラワーの当主。弱さとは、決別して、戦いに赴く」

 社交界のレディーのように背筋を伸ばした彼女は、熱い涙をぬぐい捨てた。始めよう。この大きくて豪奢だが、どこか鳥かごのような気配が漂う部屋からの脱出を決める。

 凍てついた窓を押して開いた。冷えた夜空とつながって、風が少女の若く美しい黒髪をやわらかに揺らす。これは、合図だった。

「……お願いします、みんな」

 雪が舞う灰色の街並みが見える。『羊飼い』で『異なる人格』を与えたとしても、同じ遺伝子を持つ隷属的な市民たちが作った営みには、あらゆる色彩が足りなくなるものだ。

 沈黙が支配してはいる……しかし、その水面下では、エステルハルドの武装した多くの兵士たちが乱れのない機械じみた隊列で巡回を行っていた。

 屋敷で騒ぎがあれば、この大勢の兵士が殺到することになる。敵地で、多勢に囲まれては勝ち目がない。それゆえに、作戦は用いられる。

 その灰色の街並みの夜に、フィックスドフラワー家に仕える者たちも隠れていた。

窓を開いた主の姿に、普段はメイドとして働く者が反応した。軍事用の高精度双眼鏡で主を確認しながら、通信機を口に近づける。

「……お嬢さまから、合図です。マルクさんが、陽動に向かった模様。私たちも、援護を開始します。駅を封鎖し、発電設備に負荷工作を。闇は、私たちを守ってくれる」

 通信に乗った言葉が、作戦の歯車を回し始めた。凍てつきそうな辛抱と待機の時間は終わり、名家に仕える戦士たちへと戻る。アレンとキティのために戦うことは、彼らにとっても心と体に跳ねまわるような熱をもたらした。

『了解。バカみたいに強い妨害電波を逆手に取って、こちらからの妨害電波も上乗せだ。作戦を徹底的に隠すぜ』

『さあ。働こう。国盗りだ!』

『キティお嬢さまの……いや、当主さまのために!』

『『白雪姫作戦/オペレーション・スノー・ホワイト』、開始ですねー。お姫さまに、眠れる騎士さまを起こしてもらいましょう』

「ええ。必ずや、勝利を。皆、出来る限り、死なないでね。キティさまが、流される涙を、減らすように。心掛けて」

 これは戦争だ。

 フィックスドフラワー家と、エステルハルドの『群れ』との生存競争だ。

「勝者のみが、生き残る。お父さま、お母さま。私たちを見守っていてください」

 戦争に明け暮れる時代に、これは相応しい作法の一つ。正義を力が保証するのならば、勝者のあらゆる罪は太陽に照らされた雪のように消えてなくなった。

 どちらも同じこと。

 正義を主張し合って、勝者だけが、淘汰されずに世界に残る。

 勝てば獲る。負ければ、奪われる。それだけだ。夜にもかがやく『空を裂く虹色の牙』の下で、それだけが歴史の真実である。

 ……亡き両親への祈りを捧げ、キティが窓から身を踊り出す。塔のような高さがあるが、問題はない。彼女こそ、『牙』の一族。フィックスドフラワーの当主だ。

 冷酷な風に髪を揺らされながらも、遠くて深い奈落の地面を見下ろせられる。窓枠を握り締める指たちが震えていようが、怖かろうが、ガマンだ。

「大丈夫。私の『牙』は、空をあやつるから」

 覚悟を自分に言い聞かせたあとで、少女は空へと身を投じる。重力に捕まり、その華奢な体は弱々しく夜空を落ちていく。どんどん速く……思わず、死を連想した。だが、彼女は自分を助けられる方法も知り尽くしている。しっかりと、練習もした。

 美しい歯並びから生える『牙』を、カチリと鳴らすと、空間がキティのために、『開く』。

 マリア・マロレトコワいわく、「まるで、花が咲いたときみたいね」。

 ……『牙』の力は数多いが、フィックスドフラワーの血に宿っているのは、『空間の再構成』だ。『世界の一部を、自分の望みのままに変えてしまう』、魔法のように偉大なる力。

 この力に変えられた空間は、その内側を進む光さえも曲げて、光を帯びたかがやく『花』に似た輪郭を浮かばせる。かつてアレンも使い、今はその娘も使う魔法だ……。

「受け止めて……っ」

 星明りを反射させて、静かにかがやく『透明な花弁』たちが、落下していくキティを包み込む。重力が弱まり、この高さからの飛び降りでも世界は彼女を傷つけられなくなった。

 このように、『牙』の一族たちが使える異能は、あまりにも強大だ。それゆえ、その血を欲する悪人も近づいてしまう。

 悪名高い『殺戮卿』も。

 その悪に挑む少女は、その身の震えを勇気で抑え込みながら……先祖の遺した物語に頼る。彼女に流れる血と、漆黒の指環が、教えてくれるのだ。心臓が、希望の鼓動を打つ。

「そこに、いるんですね。騎士さま」

 地下への道は、明白だ。警備の者たちが、厳重に守っている入口。庭の果てにあるそこを目指し、俊敏さを使う。通う学園では、陸上部の短距離走者だ。走るのが、好きだ。何も考えずに、体を動かせるから。

 ……フィックスドフラワー家の教育が与えた動きが、その走りに融け合う。腰の裏側に下げていた拳銃たちを抜いた。左手が握る赤い拳銃の名は、謙譲なる美徳『紅椿/レッド・カメリア』。右手が握る白い拳銃の名は、再び訪れる幸福『白鈴蘭/セント・レオナール』。

 二丁の拳銃を両手にし、キティが跳躍する。

 夜の闇を、『牙』の一族の当主に相応しく、切り裂くような速さで舞った。音を消した銃弾が、空中で速射される。弾丸たちは、運命に従うように迷いのない軌道を走り、警備の者たちの首へと精密に命中した。

「うぐっ」

「な……」

 いい腕前であった。『牙』の当主に相応しい。彼女が、その義務に応えるために、たゆまぬ道を進んだ結果だ。いつでも、彼女は……間違わなかったから。フィックスドフラワー家の背負う義務に応え、両親の遺した拳銃を見事に使いこなし……道を開ける。

 漆黒の指環は、鼓動した。『棺』までは、遠くない。戦いの緊張とは、別の感情が胸に咲く。マロレトコワの乙女たちは、その全員が……。

 しわがれた声が読んでくれた寝物語には、『リトル』の遺した物語も当然ながら含まれる。




「こちらは出し抜けますとも。無知な敵どもは、何も知らないでしょうからな。キティさまの、決意の強さと、勇敢さを。それに、この老いさらばえた私の剣さばきが、いかほどの切れ味を保っているのかさえも、知らない。だから、これほど軽んじてくれる」

 老いた執事マルクの最後の仕事が始まっていた。ゾルハ・エステルハルドの帰還と共に執り行われる予定の『結婚式』。その警備計画を確認するためという口実に、エステルハルドの使用人どもは呼び寄せられていた。

 この発言が出る瞬間まで、老紳士は模範的な執事の態度そのものであったが、今の彼の目は、獲物を値踏みする山猫のように鋭く細まって、見下すような曲がりを帯びている。

「マルク・ヨハンセン殿。どういうことでしょうかな?」

「敵、とは、はたして誰のことでしょう?」

「いかなる敵にせよ、我々に警備の全てを任せて下されば、問題ありませんぞ」

「ああ、そうでしょうな。ゾルハと同じ細胞を持つ諸君らは、それなりに腕が立つ。ですが、ゾルハとは決定的に違うところがあるでしょう」

「……ゾルハさまほどではなくとも、我々の戦闘力は十分――――」

 老いた執事である。だが、その肉体にはいくらかの機械が含まれていた。五百年も続いている機関都市同士の戦争のせいで、多くの者が戦う力を求めている。執事マルクも、その一人だった。弱ければ、愛する者たちを守れない。

 飾りのように腰から下げられていた古いサーベルと老いた腕であっても、機械混じりの体が振るえば威力は出せる。

 奇襲は、成功した。マルクの斬撃の連鎖は、使用人どもを次から次に切断する。

「なにを……ッ!?」

「暴挙が過ぎるぞ、執事!!」

「……暴挙などと。それは、貴様らの方だ。あのおやさしいアレンさまを殺し、お嬢さまから最後の血縁を奪ったのだから……かような外道、私に許せるはずも、なかろう!!」

 長くフィックスドフラワー家に仕えた。誰よりも、長く。それゆえに、マルクの怒りは収まらない。だからこそ、最も危険で、最も死ぬ確率の高い役目を選んだ。

 古い正義だった。

「アレンさま、お嬢さま。このマルク! 戦いぶりで、お二人に御恩を返しましょう!」

 古いからこそ、多くの記憶があるものだ。不死身に近い耐久性を誇る、エステルハルドの群れに、荒ぶる感情が乗せられた斬撃が次から次に降り注ぐ。拳銃の反撃を浴びながらも、一切、気にせず暴れるのみ。

「善良だった。おやさしい方だった。こんな戦いばかりの時代に、もったいないほどだ。だからこそ、お仕えする価値がある!!」

 奇襲ゆえに、一方的な先手を奪えた。老体を機動させる機械が、限界を強いられ火花と悲鳴を上げようとも、お構いなしだ。とにかく、この好機にしがみつかなければならない。敵を斬り捨てて回る。一匹でも、多くの敵を。

「が、ふう……ッ」

「強い……!?」

「だが……我々が、たかがこの程度の傷で―――」

 肉のスライム。そう蔑まれることもあるのが、エステルハルドの者たちだ。うごめく細胞の群れは、撃たれようが斬られようが、たやすく致命傷を負わないしぶとさがある。

「―――ただし。それは、当主のみが継承する『知識』と『記憶』があってこそ。単純下等なスライムごときでも、全身のあらゆる細胞を統制するのは難しい」

「な、何をした?」

「体が……も、戻らない……!?」

 普段ならば数秒もすれば塞がるはずの傷が、今はそうならない。察しの良いエステルハルドの一体が気づく。

「……その剣に、『毒』……ッ」

「そう。これは、見た目こそ古いサーベルではあるが……フィックスドフラワー家に伝わる、『レリック』の一つ。『薔薇の毒剣』だ」

 強い毒を用いれば、肉のスライムどもの細胞が持つ再生力も封じられた。機能不全に持ち込めば、『雑魚ども』ならば仕留められる。

「ゾルハは独占しているだろうからなあ。『本当の不死』については。その細胞を完璧に操る方法など、手下ごときに教えるはずもない。『殺戮卿』の『分身』が、力をつけ過ぎれば、反乱を企む。それを恐れ、『知識』も『記憶』も、与えなかった!」

「う、うるさい!」

「我々が、この程度で、遅れを取るとは思うなよ……ッ」

「見せつけてやろう! 私がお仕えしたフィックスドフラワー家との差を! お嬢さまは、私などに預けられたのだ! 惜しむことなく、信頼と共に、宝である『レリック』を!!」

 その信頼に報いるため、老いた剣士はかつてのように戦場の鬼神となった。

 強い。命を燃やし尽くす覚悟が乗った剣は、毒と斬撃により敵を破壊していく。

「か、体が、再生しないっ。し、死ぬ……死ぬだと……っ!?」

「いやだ……いやだ、死にたくねえ……こんな、痛いのは、嫌だあ」

「……そのおぞましい肉の力に頼り過ぎたな。痛みがあるからこそ、怒りがある。戦いとは、攻めに怒りを込めた者が強い。貴様らでは、それを成せんのだ。臆病者ども!!」

 老体の奥で機械は限界を迎えつつある。痛みがあり、耐えがたいほどの苦しみだ。熱を帯びた機械仕掛けの関節に、体を内側から焼かれているのだから。それでも、彼女の『おじいちゃん』は笑う。牙を剥いて、空を裂く一族と同じ気高さで―――。

「―――強いおじいちゃんって、興味深い『実験材料』になりそうだねえ」

「……ッ!?」

 背後を取られていた。経験と知識と覚悟だけでは、補い切れない圧倒的な身体能力の差によって。背後を振り向きながら、毒剣を放つが……予想していた通り、かすりもしない。

「その、『速さ』……ッ。ヤツの、娘か」

 刃のはるか彼方に、乙女がいた。豪奢な赤いドレスを身に着けた金髪の娘。

「アーデルハイト・エステルハルドよ。こうみえて―――」

「―――22歳には、見えませんな。小娘です。レディーと呼ぶには、洗練不足」

「あら。社交界では、男たちは私の虜なのにねえ。金銀財宝に愛の言葉、泳げそうなほどの花束の山だって、私にいくらでも捧げてくれるのよ!」

「最近の男は、目が開いていないまま戦場に赴くようだ」

「あそこを戦場と呼ぶの? まあ、そうかもね。社交界は生存戦略の現場だし……私に『喰われて』、コレクションにされた男もたくさんいる。美しい薔薇には、棘があるのよねえ」

「やれやれ。おしゃべりな薔薇は、魅力が乏しい―――」

「―――会話中に、斬りつけてきやがるジジイもなあ!!」

 新たな戦いが始まる。だが、勝負は見えていた。アーデルハイトの身体能力は、老執事を圧倒しているのだから。技量では勝ろうとも、速さが違い過ぎて剣が当たらない。そのうえ、彼女の爪は鉄をも裂いた。床も壁も、大きな傷がついていく。もちろん、マルクにもそれらは当たった。

 負けを悟るが、だからこそ、剣を振り続けるのみ。

「時間を稼げれば、問題はなし!!」

 フィックスドフラワー家の当主が、この大仕事を成し遂げることを誰よりも信じている。

 街のあちこちで『白雪姫作戦』を戦い抜く使用人一同、キティのひたむきな強さを知っていた。幼いころから、アレンの期待に応えようと努力を惜しまない。不器用なまでのマジメさが、少女に成長の道を歩ませ続けた。それを、全員が間近で目撃している。

 勉学も、戦いの技術も、気高い身分に相応しい振る舞いも。

 最愛の妻を失ったその日から、『周囲の人々を笑顔にするのが大好きな男』。その一人娘として相応しくなれるように。16年の時間を、努力に費やしていた。きっと、母親に対する愛情の分までも。命と心血は捧げられた。

「死ねよ、ジジイ!!」

「しつけの足りない、おてんばめ。お嬢さまと呼ぶには、あまりにも足りていない!!」

 覚えている。

 忘れられはしない。

 マルクにも子供がいた。年を取ってから生まれた一人息子。妻とは離婚して、息子は彼女に引き取られる。さみしくはあったが、息子のために仕送りをした。それこそ離れて暮らす自分に可能な、ただ一つの愛情表現だと信じながら。

 密かな期待を、息子にはしていた。マルクは高等教育を受けられなかったので、息子には良い学校に行って欲しいと願う。自分には与えられなかった時間を、与えたいと。行って欲しい大学があり、そのための学費は全て用意できていた。

「善き一人前に、幸福な人生を送る大人になるには、努力が要る」

「私は、生まれつきの大天才で支配者だから、そんなものは要らない!!」

 あの日。郵便配達として働く少年が、電報を持ってきた。電子化された通信と、それはあまりにも違う。昔ながらの重みがあった。

 庭木の世話で忙しいマルクのために、少年は気を利かせて読み上げてくれる。「親愛なるマルクへ。イーライが交通事故で亡くなりました。葬儀はすでに済ませています。今まで、たくさんの仕送りをありがとう。それじゃあ」。

 剪定脚立の上のマルクは、表情を変えなかった。郵便配達の少年に電報を届けてくれたお礼を言う。少年が気づけないほどには、悲しみを隠し切ったまま。同僚たちも気づかない。不器用さが優秀なマルクにもあって、孤独な面もある。問題はない。

 死は厳粛なものだ。

 誰もが押し黙る。それが、適切な態度でもある。

 キティは、気づいた。ちいさな子供だったからこそ、直感を使えたのかもしれない。まだ7才だったのに。『普段通り』を演じるマルクに問いかける。「かなしいコトがあったの?」。マルクは、しばらく悩んだが、息子が亡くなった事実を……やがて口にした。

 キティは泣き出した。大泣きして、マルクになだめられる。青い瞳は涙に揺れたまま、悲しい男をじっと見つめていた。「ごめんなさい、マルク。わたしは、なにかしてあげたいのに。どうしたらいいか、わからないっ。おとうさまだったら、すべきことが、わかるのにっ」。

 いつでも、父親を見習おうとしていた。それが、周りを幸せにすると信じているから。幼過ぎてマルクのためのアイデアを見つけられなかったキティは、ただマルクのそばにいて、7才なりにマルクの仕事を手伝った。

 知っている。『マルクは絶対に仕事を優先する』。その事実から、彼を解き放ってやるために、ちいさな手はひたむきだ。

 もちろん子供の手伝いは無力なもので、マルクの足を引っ張りかねない。それでも、彼女は全力だった。マルクは、人生で唯一、自分のための休日を取る。短い旅のために切符を買った。

「あの努力は、裏切らない―――」

「―――遺伝子が与えてくれた、才能の方が圧倒的なのよ、おいぼれ機械混じり!!」

 エステルハルドの血が力を与える乙女の腕が、老いた骨を貫いた。

「ああ。やっぱり。機械混じりのカラダなんて、つまんないわねえ。内側の感触が、ゴリゴリしてるわ」

「殺すが、いい……」

「そうねえ。こちらも、さんざんやられちゃったし……って、あれ。何よ、こいつら? まだ『生きてる』の?」

 うめき声を上げながら床に転がる者どもは、誰もが息をし続けている。

「ご不満かな、幼稚で残酷なハイジ殿……」

「私を愛称で呼ぶな。だけど、何のつもりよ?」

「……ハハハっ。理解は、できまいて。どうせ、お前などには……アレンさまの、願いは。それを継がれて背負われる、キティさまの、この気高さは!」

「まさか……手加減……ッ」

 プライドが傷つけられた。戦いに狂うエステルハルドの者からすれば、『殺さないように手加減された』などという事実は、その強さが積みあげた山より高いプライドが許さない。

 強者の自覚がある者ほど、弱者のように扱われるのは耐えがたいものだ。

「ただで、すむと思うなよ!! 楽には、死なせんからなあ、クソジジイ!! なめた真似してくれた、あの年下の継母クソガキもだあああああッッッ!!!」

 そう。

 手加減していた。これは、戦争ではあるが―――。

「―――被害は、最小限に。だから、だから……ッ。お願いです。邪魔を、しないで!!」

 消音麻酔弾。それを使わなくても、より残酷な毒を帯びた弾丸を用意する方が簡単である。それを、選ばない。そんな主の選択に従うように、老いた執事も、即死するような場所を狙っていない。しぶといエステルハルドの細胞なら、どうにか生き延びられる……。

 警備の者どもに、『紅椿』と『白鈴蘭』から放たれる不殺の弾丸を浴びせながら、せまく薬品のにおいが満ちた地下の道を少女は駆け抜ける。

 指環の鼓動は早くなり、彼女の期待も踊るのだ。

 助けて欲しい。

 そんな弱さが心から浮き上がりそうになるが、必死に首を振る。頼り切ってはいけない。共に、戦うために来た。この仇討ちに、『騎士』は本来、関係ない立場だ。

 だから。頼むために、ここまでやって来た。ゾルハを倒すために必要な力、『鉄腕』を使えるのは彼だけなのだから。

「騎士さま……ッ」

「て、敵襲だああああ!!」

「速いぞ、あの小娘っ!?」

「守れ、守れ―――うぐううっ!?」

 二丁拳銃が弾丸を放ち、警備の全てを眠りに落とす。戦いの疲労に暴れる呼吸を、落ち着かせるために歩いた。目指したのは、その『棺』……。

 冷凍睡眠用の医療ポッドだ。あのときから、150年。少年を凍える夢に捕らえている。

「16年ぶり、ですね。キティが、戻りました。騎士さま」

 中の少年を覆い隠すように守る鋼の『棺』。黒く焦げたような錆が、その鋼の表面にはこびりついていた。キティの手が、それをいたわるように撫でる。マリア・マロレトコワは、予想していた。これこそが……。

「騎士さまが、守りたかった方の……痕跡……」

 助けたくて、もがいたのだ。心臓を、四度止めようとも。死から蘇りながら、何度も何度も。その『医療情報/カルテ』は、聞いている。キティの青い瞳に、涙があふれた。星屑みたいにきらめきながら、黒い焦げに守られる棺に落ちていく。

 愛しい者を、必死に求める心の重みは、もちろん分かるのだ。父を亡くしたばかりの乙女には。

「……貴方が、助けたかった人は……もう、この世にはいません。でも、貴方を、必要とする私が、ここにいます。ごめんなさい。戦いに、巻き込んでしまう……でも、『鉄腕』の力が、どうしても必要なのです」

 漆黒の指環をつけた左手が、コンソール/制御装置を押した。電子的なロックが施されているが、『牙』を鳴らせば、その権威にこの星のあらゆる古い機械が従う。機械の封印は、解かれた。『冷凍睡眠者覚醒まで350秒』、そう表示され、カウントダウンが始まる。

「……っ。もうすぐ、騎士さまが、お目覚めになられるのですね……っ」

 戦いの最中ではあるが、どうしても心が踊る。マロレトコワの乙女たちの、運命であるかのように。戦いのための姿ではない服装で、出迎えたくもあった。

「と、当然です。彼は、とても長く苦しい戦いをして、凍てつく夢のなかに囚われていたのですから……っ。ちゃんとした。いたわりを……礼儀正しいドレスで……」

 330秒、329秒……。

「待たねばなりません。コールドスリープから目覚めた直後に、動き回れるはずもありませんもの。私が、しっかり、お守りせねば……」

 入口を見る。一か所、二か所……三か所もあった。そのどれから敵が雪崩れ込んで来てもおかしくない。キティは予備弾倉を確認しながら、鋭い視線で警戒を怠らなかった。

 万全な作戦ではない。それでも、彼女が望んだ『最小限の被害』のためには……これが最も適している。

「誰も、死なせたくありません。家の者たちも、敵も……ゾルハだけを討つ。お父さまのためにも、多くの血を流したくはない……っ。それは、お父さまも望みません」

 待つ方が、辛かった。行動していれば、多少は気がまぎれるというのに。想像力が不安を大きくさせていく。棺と、入口ども。視線の動きは、はげしいワルツのように動き回った。

 ……足音が、聞こえる。

「……っ。敵っ!?」

 二丁拳銃を構えた。銃口の果てにある階段から、血のように赤いドレスが現れる。

「初対面ですけど、私については知ってくれているでしょうねえ。『継母』さま」

「アーデルハイト・エステルハルド……」

「ええ、そうよ。新しいお母さま。こんな夜更けに暴れるなんて、何を考えておられるのかしらねえ」

「……お父さまの仇を、討たせてもらう。それだけです」

「でしょうね。まあ、想定内よ。ケンカ売られるのは、嫌いじゃない。納得もしている。こっちは、アンタの父親を殺したわけだしね」

「……認めるのですね」

「事実だし、政治的詭弁を使う相手ではないからねえ。アンタは、父上に孕まされるだけの家畜みたいなものですし」

「家畜、などと……ッ。無礼は、許しません―――」

「―――無礼なのは、そっちだ!! エステルハルドに、手加減などで挑むとは!!」

 赤い獣が飛んだ。ゾルハの『傑作』の一匹は、恐るべき速さでキティに襲い掛かる。銃弾で応戦するが、全ての銃弾が爪でかき消された。突進の速度を、弱めることさえ、やれない。

 だから。

 こちらからも突撃する。

「な!?」

 アーデルハイトは虚を突かれた。キティを、か弱い獲物だと誤認していたのだ。『牙』の一族が、どれだけ強力な身体能力を有しているかを知らない。間合いに入られ、至近距離に接近される。銃口を押し付けて、撃つつもりだ。ゼロ距離射撃なら逃げられない。

 必死になってアーデルハイトは逃げたが、銃弾を浴びる。麻酔が体に回り始めるが、爪を振り回してキティを襲った。マルク仕込みの、剣術のステップワークが、キティにその爪の襲撃を回避させ……父親直伝の拳銃術が弾丸を浴びせていく。

「バカな!? こんな、はずは。私を、翻弄する……ッ!? う、ぐうっ!!」

 麻酔で鈍った体を、キティの膝蹴りがかち上げた。胴体が、くの字に曲がる。『牙』の一族の身体能力が放つ威力だ。アーデルハイトがいくら強くても、その衝撃は全身の細胞を激震させて、大きなダメージを与えていた。

 意識が飛びかける。

 戦車砲でも撃ち込まれた気持ちになった。アーデルハイトは、父親が『牙』の一族の遺伝子にこだわる理由を、その身で悟る。『とてつもなく、強い』。

「―――これだけの力を、『ヒトの姿』で発揮できるなら……欲しくも、なるわ」

「眠っていてください。私の狙いは、ゾルハだけです」

 ふらつき後退するアーデルハイトに、『紅椿』と『白鈴蘭』の麻酔弾が撃ち込まれた。何発かは爪が叩き落とすが、その大半は命中する。ふらつき、壁にもたれかけるように彼女は倒れた。

「私の勝ちですね―――」

 ―――アーデルハイトの金色の目が、その中央にある瞳孔が。縦に裂けるように伸びる。エステルハルド一族は、『変身』するのだ。おぞましき、肉の怪物の姿へと。彼女のカラダが、うごめきながら膨らんでいく。

 高慢だが美しかった乙女のカタチは変わる。ドレスのスカートの下から、無数の触手が這い出していた。その先端には大きく裂けた口が並び、粘つく液体をまとった無数の歯が白くかがやく。

「う、うあ……ッ」

 おぞましい触手の群れが、キティを狙って襲い掛かった。生理的な嫌悪感が、キティを必死な回避へと追い込む。さすがに『牙』の一族の当主は速いが……恐怖感ゆえだろう。弾丸を撃ち込む余裕はなく、回避に徹してしまった。

「継母あっ。逃げろ、逃げろ。おびえて、踊れ! 食らいついたら、その体を引きちぎってやるからなあ!! 父上は、お前を孕ます子宮だけ残っていれば、満足するだろう!!」

「ぶ、無礼だと、言っているんです!!」

 怒りが勇気に化けてくれた。麻酔弾を撃つ。すべてが命中するが、活性化状態にあるエステルハルドの肉体は、麻酔をも中和していた。

「効かない。この戦いのための形態になった私には、そんなの全然効かないのよねえ!!」

 腕を振るう。アーデルハイトの右腕が、伸びながら分裂して……枝分かれした触手がキティをついに捕らえてしまった。

「きゃ、うっ!?」

「このまま、締め上げてやる。全身の骨、砕いてや―――」

 音が、響いた。

 150年、無音のままだった『棺』が、鈍く大きな音と共に揺れる。

「き、騎士さま……っ」

「……は、はあ!? まだ、解凍中なんじゃ……」

 アーデルハイトが『棺』に近づき、コンソールの表示を確認する。218秒、217秒、カウントダウンは続いているが、お構いなしだと言わんばかりに『棺』が揺れた。

「凍ったまま、内側から、ぶん殴っている……っていうの!? あんなに、強く!?」

「騎士さま……っ。だ、ダメです!! いきなり、動いちゃ、ダメ!! 死んでしまいます!!」

 出たがっていた。150年の凍結の終わりに際して、動き始めた感情がある。『歌喰い』は少年のあらゆる記憶を奪っていたが、感情だけは残っているのだ。

 凍てついたまぶたを力尽くに開き、そのせいでまぶたの周りが切れる。消え去った記憶の中で、『彼女』と初めて会ったときのように、血の涙が流れた。それを思い出すことは、もはや不可能だが。

 感情だけがある。

 誰も、何も、思い出せない。

 記憶は150年前に、『歌喰い』のせいで焼き払われている。何もない。だが、対象不明の大き過ぎる感情だけがあった。虚ろな空白が広がる心の中心に、誰に対しての想いなのかも分からないまま……必死さだけが残っている。

 また、『棺』が暴れた。

「ダメです!! 騎士さま!! 死んじゃいます!! まだ蘇生は途中なんです!!」

「キャハハ!! 面白い。こいつ、凍りかけのまま動いてやがる!! そんなコトしちゃえば、体中がバラバラになって、崩れちゃうっていうのに!!」

「い、いや……ッ。ダメです!!」

「動け、動け! 面白い。キティ・フィックスドフラワーが、半泣きだ!! 死ねよ。動いて、自滅しろ!! この泣き虫女が大切にしているヤツは、みんな死ぬんだ!! 父親も、お前も、あのジジイも!!」

「まさか、貴方、マルクを……ッ」

「怒れよ、小娘。その方が、お前の無力さが、よりかがやいて……私を興奮させる!!」

「ゆるさ―――きゃ、う、ううっ!?」

「ゆっくり、その首を絞めてやる」

 キティが、もがく。死の恐怖に負けてしまい、拳銃を手放していた。指を使って、自分の細首を絞める触手を、どうにか引きはがそうとするものの、触手に宿る力はあまりにも強い。

「うっ。く、う……っ」

「こうやって、何度も何度も、窒息させて、教えてやるんだ。お前が、ただの家畜だってコトをなあ。ああ。あとで、首輪もつけてやる」

「く、首輪……ッ!?」

「お前は、エステルハルド家の、所有物なんだよ、とっくの昔に!!」

「う……ぐっ。ち、違います……っ。私は、わた、し……は……っ。まもる……っ」

「はあ? 何を言ってるのかしらね。誰かを守れるのは、力持つ強者だけ!! お前は、甘っちょろい弱者だからこそ、『牙』の力も使いこなせない!! 誰も守れないんだ!!」

「ま……も……る…………ッ。あ、なた……だけ……でも…………にげ、て……」

 守る。

 その言葉は、あまりにも。空虚で白い心に響いた。理由など、分からない。それを確かめるための記憶は、とっくの昔に失われているのだから。

 それでも、なお。運命はつながっている。

「守る……のは、オレの、ほ、うだ」

 少年は、ためらうことはない。全身が壊れそうに痛くても、ここから出るために体を使った。より強く、殴りつけ、蹴りつけるために。姿勢を組み上げて―――。

「ま……も……る……ッ」

―――窒息しかけながらも、少女は『牙』を鳴らす。『フィックスドフラワー』の異能が、『棺』を封じる留め金を裂いた。

 蹴りつけられた扉が、蹴り飛ばされる。高く、空中に。圧倒的な優勢であるはずの、アーデルハイトは見つめてしまった。『牙』の一族に匹敵する筋力だと悟ったからだ。あるいは、それ以上。『棺』の中身は、彼女が想像していたよりも、もしかすると―――。

 一瞬だ。

 刹那の間に過ぎない。

 だが、少年が『棺』から飛び出すのには十分の余裕がある。アーデルハイトは、遅れを取ったのだ。『狼』とまで呼ばれた猛者たちの、最後の一匹に対して。『鉄腕』と共に、地獄の最前線で戦い続けた、『最強の片割れ』に対して。

 黒い影が、飛び出す。後追いする形となり、触手のいくつかが、弾丸の速さで放たれるが、追いつけない。あっさりと回避されてしまう。

 その目は、見つけていた。アーデルハイトなんて、まったく見てはいない。戦いの最中で無視されるなんて、彼女にとっては耐えがたい屈辱であった。

 150年、凍てついた夢の中で。『誰か』を守りたいと願っていた少年は、キティだけを見ている。似ているかもしれない。そんな考えが、一瞬だけ浮かぶ。『誰に?』と理性が問うが、答えなど分かるはずもない。何も覚えていない。誰も覚えていない。

 それでも、「必死に生きている者には、成すべきコトが分かる」ものだ。走った。全身が、痛むが、そんなものはどうでもいい。手を、伸ばしていた。少年と……それに応えるように、キティも。必死に、左腕を……漆黒の指環がある、左手を。

 起動する。

 この惑星ヘイルメアリーに君臨する、『レリック/最強の兵器』の一つ、『鉄腕』が。『彼女』の定めた『正当なる継承者』のために、力を使う。

「オレに……刀を、くれ!!」

 少年の伸ばした手に、長い刀身を持つ刀が現れた。『鉄腕』に収納されている、無尽蔵の兵器と武器の一つが出現したのだ。馴染む。当然だ。理解はできなくても、一切の問題はない。筋肉に、骨に、神経に、血に。熱く深く、刻み付けられている。

 150年前。『鉄腕』と共に戦い抜いた日々は、その刀を今日も正しく使わせた。銀色の閃光が走るのを、アーデルハイトは見る。あまりにも速く、美しいとさえ思わされてしまった。屈辱だ。こんなに、『痛い』というのに。

「あぐ、ああああ!? わ、私の、触手がああっ!?」

 斬撃の群れが、エステルハルドの強力な触手の群れを一瞬で断ち切る。その拘束から解き放たれて、崩れ落ちそうになる少女を、左腕が抱き寄せた。

「……っ。き、騎士……さま―――」

「―――守れた……ッ。守れ……た……のか……っ。オレは…………?」

 泣きそうな顔と、少女は出会った。言えない。悲しくて、必死さが過ぎる声に。何もかも忘れてしまったはずなのに、まだ守ろうとしている者に。150年も前に、『彼女』は死んだとは、キティには言えなかった。

 だが。

 青い双眸は、やさしく。悲しく。答えを物語った。キティの見つめている少年の表情が、よりさみしくなる。この大きな感情と結びつく答えは、望んでいたものとは違っていたのだ。

「そう、か……」

「……騎士さまっ」

「……君は、誰なんだ?」

「キティです。キティ・フィックスドフラワー」

「……そうか。キティ…………オレは……誰、なんだろうか―――」

「いちゃついてんじゃねえぞ、このガキどもおおおおおおおおッ!!」

 触手の群れを、アーデルハイトが放つ。だから、盾となった。前進しながら、襲い掛かる無数の触手を刀で打ち払う。その背に『彼女』を……いや、今はキティ・フィックスドフラワーを守りながら。

「こいつが、敵なのか!?」

「は、はい! ですが、ムリはなさらないで下さい!! 無理をすれば、貴方の傷が広がってしまいます!! あちこち、血だらけじゃないですか!?」

「オレの体なんて、どうだっていい!! 『君』を、ただ、守りたいだけだ!!」

「それは、私だって、同じなんです!! 貴方を、守りたいんです!!」

 守られるためだけの教育など、アレン・フィックスドフラワーは娘に授けていない。床に落ちていて拳銃たちを拾い上げると、キティは前進して……少年の前に踊り出た。

 ああ、これも運命だろう。

 共に戦うのが、『狼』の戦い方。『鉄腕』と片割れの、いつもの動きだ。スイッチする。前衛と、後衛が。あまりにも自然な流れで、反射的にそれらの動きが成される。何年も、ずっと一緒に練習でもしていたかのように。

 相性もいい。思考も実力も、共鳴しているが……もう一つ、要素があった。古い教えのおかげである。『リトル』は、演劇に遺していたのだから。『互いを庇い合って戦う、『狼』たちの舞い』。キティは観ている。舞台の上で、騎士と乙女が、互いを守り合うその動きを。

 なめらかで、よどみなく。それでいて、はげしく、舞うように。

 守り、守られ。やがて、牙剥く攻めへと変わるのだ。斬撃と銃撃が、融け合うように重なって、敵へと迫る。アーデルハイトは、あまりにも分が悪い。だから、策を頼った。

「わ、私に近寄るな!! 機械混じりのジジイをぶっ殺すぞ!!」

「……っ!?」

「人質か」

 攻めは止まる。アーデルハイトの、すぐ目の前で。冷や汗を垂らしながら、悪女は嗤う。

「そうだよ。ほうら、あそこを見ろ」

「……ま、マルク!!」

 皮の無い肉の歩兵が、アーデルハイトから分裂した『肉片』が、瀕死の老執事を引きずりながら、この地下空間へと現れる。マルクは、体内の機械を壊されていた。もう、一人で立っていることさえ難しい状態である。

「……お嬢さま……い、いえ。キティさま、私などに、構わないでください。勝利しなければ、領地も、領民も……守れませぬ……」

「あ、貴方を、見殺しになんて……ッ」

 本音が出てしまう。演じていた。父親が死んでから、ずっと。『牙』の一族の当主らしく、無理やり振る舞っていた。だが、今の言葉こそが本当の感情だ。

「出来ないわよねえ。フィックスドフラワーの甘ちゃんには!! ほら、寄越しなさい。その指環が『鉄腕』の本体なんでしょう? それさえ、なければ……お前らごとき」

「渡しては……なりませぬ……」

「ジジイを、殺されたいのかしら? アンタだけが、助けられるのよ?」

「……っ」

「渡して、助けてやれ」

「え!? 騎士、さま……?」

「あの老人を助けろ」

「騎士殿、だ、黙っていなさい!! 私などを、助けなくてもいい!!」

「義務で、『彼女』を縛るな」

「な……ッ」

「彼と交換しろ。大切なヤツなんだろ?」

「は、はい!」

「そのあとで、この敵を排除すればいいだけだ。そうすれば、どちらも取り戻せる」

「キャハハ! なめてるの? 『鉄腕』の力なしじゃ、アンタたちじゃ―――」

「―――勝てるさ。お前程度。お前は、オレたちに、おびえている」

 戦いに狂うエステルハルドの一人として、それはあまりにも屈辱的な言葉だ。だが、真実に他ならない。殺されかけて、ひるんだ。戦いにおいて、恐怖するのは弱者の証明。

 気に入らない。歯ぎしりをした。キティはともかく、この少年から逃げられる気がしていない。それは、正しい判断だ。『何もない』。『戦って守り抜きたい感情』以外に、何もない。そんな『狼』から、誰が逃げられるものか。

 ……だとすれば。アーデルハイト・エステルハルドの取るべき道は一つ。悪女の選択だ。

「そのジジイを、引き裂いてしまえ!!」

「や、やめてえええ!?」

 アーデルハイトの分身体が、マルクの首に手をかけて……止まる。

「どうした!? なぜ、止まる…………ッ!?」

「どうにか、間に合いましたね、キティお嬢さま!」

 メイドがいた。フィックスドフラワー家の頼れるメイドが。

「ベアトリーチェ!!」

「いやあ、ギリギリっ。どうにか、こうにか。私だけでも、カバーのために突入できて、幸いでしたよ」

 メイドの前で、分身体が痙攣しながら床に転がる。大量の麻酔を投与された結果だ。マルクは、ベアトリーチェに支えられつつも、どうにか立っている。キティを心配させたくないのだ。

「キティさま!! 私は、無事ですぞ!!」

 メイドは小声でささやいた。「無理して大声出さないでくださいね」。死にかけている重傷だという事実に釘を刺しておきたかった。死を覚悟して、実際に死んでいった男を、ベアトリーチェは何十人も知っている。戦いの時代だ。

 キティは、笑う。まるで子供のように純粋無垢に。マルクが死ななかった。それが、たまらなく嬉しい。その微笑みを横目で見ながら、少年も同じ表情になる。記憶はない。それでも、あの微笑みの価値は分かる。自分が好きなものを、一つ、彼は把握した。

「さあ! アーデルハイト、降伏してください。こちらの勝利です!」

「…………『私は』、負けたわね。でも、アンタが勝てるなんてのは、世迷いごと」

「つ、強がっても―――きゃ、きゃああ!?」

 激しく地下空間が揺れる。天井の一部が崩れた。少年は、キティを庇う。崩れた土砂が、砂塵をまとった暴風となり……地下を満たす。記憶には無いが、既視感がある。守ってやりたい。その感情が強くなるが、それを引き裂くように……ぞわつく敵意を背に浴びた。

「お、お嬢さまあああああああ!?」

 マルクの叫びが、砂埃の果てから聞こえる。キティは、少年に抱きしめられたまま、返事をした。

「だ、大丈夫です!! マルク、ベアトリーチェ、私は騎士さまに守ってもらっているので、無事です!!」

「―――それは、良かったよ。私の新妻を守ってくれて、ありがとう」

 キティが恐怖で凍てついた。砂塵の中心に、おぞましい悪夢のような力が立っている。視界が晴れたとき、娘を腕に抱く、悪鬼が見えた。咥えた葉巻を噛みちぎって、娘とよく似た嘲笑の歪みで唇を開いた。

「ああ。美しいだけでなく、アレンと同じように強い。いい子を産んでくれそうだよ」

「ぞ、ゾルハ・エステルハルド……ッ」

「さ、『殺戮卿』が、戻りおったか……っ」

「高速飛行艇という発明があってね。上空から、ここに、直接『降りた』のだよ」

「え、ええっ!? 地面をぶち抜いて、この地下に……ッ!?」

 ベアトリーチェは青ざめる。エステルハルドの当主の、『強靭さ』は常識など、はるかに超越していた。だからこそ、『鉄腕』の力に頼ることを決めたのだが。実際に、その力を見せつけられれば、顔が引きつり勇気の炎も凍てついた。『殺戮卿』と、戦う?……あまりにも命知らずな行いだと、あらためて理解する。伝説的な、軍人。正真正銘のバケモノだ。

「父上の細胞と、私の細胞は、通じ合っているのよ。互いに心が通じるの」

「キティお嬢さま、そこから離れてください!! 私とベアトリーチェで、時間を稼ぎます!!」

「マルク・ヨハンセン。彼女は運命から逃げられはしないよ。私の新妻は、勇敢なのだ。父親の頭を撃ち抜いて、死を与えた私に、復讐を実行せずにはいられない」

 戦いの達人だ。人心を操る術を、心得ている。キティはやさしさを封じた。実弾を、『紅椿』と『白鈴蘭』に装填する。ゾルハだけは、命を奪うと決めているのだから。

「……父親の仇か」

「はい。大切で、やさしい……お父さまの、仇。討たずに、逃げられません」

「なら。オレが、君の剣になる。だから、そんなに震えなくていい」

 不思議なほどに、心が楽になった。まるで、父親アレンがそばにいるときのように。

「私の妻と仲がいいか。嫉妬してしまうね。殺さずに、君を捕縛して……私とキティの初夜を見せつけてやるのも一興だな」

「下らん男だ。彼女には、相応しくない」

「ほう。この『殺戮卿』ほど、世に貢献できる男はいないのだがね。150年も、氷漬けになっていた男が、現代で何を成せると?」

「騎士さまは、私を守ってくださいます!!」

「キャハハ!! 夢見がちな、継母ちゃんはー……私が、相手してあげる!!」

「父と娘で、敵を嬲る。婚礼の前に、なかなか楽し気なエクササイズだ」

 エステルハルドどもが、動く。互いの敵へと見定めた相手に向けて、弾丸のような速さで襲い掛かる。キティは、実弾の銃撃でアーデルハイトを迎え撃ち、少年はゾルハの巨体と、それから繰り出される爪を刀でしのぐ。

 双方、互角であった。その結果に、ゾルハは冷静を保ちつつも驚いている。

「氷漬けから、蘇生したばかりで、この強さかね。痛むだろうに。あちこち傷がある」

「知ったことか」

「ククク! ああ、いかにも。古き戦士だよ。時代を越えて、ようこそ、黒髪の騎士殿。私が支配する現代に!!」

 斬撃の嵐に爪の連打。互いの威力を打ち消し合うように衝突しながらの、一進一退の攻防となる。だが、ゾルハは手加減していた。この狡猾な戦闘な達人は、少年の傷からの出血を待っている。

「君は、徐々に弱る。出血しているからね。そこにつけ込めば、楽に勝てる」

「消極的だな」

「花嫁との愛を紡ぐために、体力の消耗は最小限にしておきたいのだよ」

「そんな心配は、不要だ。オレが、お前を仕留める。あの世で、彼女の父親に詫びに行け」

「ああ。古風な戦士の言葉だね。嫌いじゃないよ。だが、殺す。敵対者には死を、それが我が家の鉄の掟だ」

 令嬢たちの闘争も、互角。であったが、ベアトリーチェは行動する。手榴弾を令嬢たちの戦闘に向けて放り込んだ。「この女ごと、巻き込む気!?」。アーデルハイトだけが、焦った。触手で、それを打ち払い、罠にハマる。

 真っ二つになった手榴弾から、無色透明のガスが放たれていた。そのガスは、ある条件下でのみ有害となる。そう、『麻酔弾の成分と反応すれば、強い麻痺を組み上げる』のだ。

「ぐ、うううっ!? 体が……ッ」

「やれやれ。古典的な策に囚われたか。ハイジ、撤退しなさい。あとは、私だけでやろう」

「……申し訳、ございませんっ。継母殿……この『お礼』は、必ず。あと、あのメイドもな。お前は、ミンチにして豚のエサにしてやるからなッ!!」

 ベアトリーチェは冷静さを保とうと無表情を固めるが、金色にかがやく眼は、一生涯のトラウマとなる。麻痺にやられた敵を、キティは逃がした。「逃がさなくてもいいのに」とメイドは正直な小声を漏らす。

「騎士さま、これで二対一!! 一気に、倒してしまいましょう!!」

「甘いぞ、我が新妻よ。私は、君が恐怖している以上に、恐ろしい存在なのだ」

 ゾルハの赤い軍服が裂けた。触手を、キティは予想する。

 だが、『そんなものではなかった』。それは、肉の爆発。肉の津波とでも呼ぶべき、赤く巨大な暴力だ。あらゆる臓器と骨がおぞましい法則性で融け合ったような、数十メートルの巨体がキティを目掛けて進む。あまりのグロテスクさだ。キティは、発狂しそうになるが……。

「キティ!! 下がれ!!」

「は、はいっ!!」

 少年の叫びに、脚は動いてくれた。だが、ゾルハは戦闘の達人なのだ。若い二人の行動パターンを、読解しつつある。この二人の攻略法は、容易い。キティを追いかけ、追い詰めればいい……そうすれば、必ず、この少年は剣でなく、盾となるのだ。このように。

「危ない!!」

「き、騎士さまあ……っ!?」

 当たり前だが、想像の通りとなった。狩猟とは、デザインだ。追い詰め方や、位置取り、距離の選択。洗練された戦術行動を使いこなせば、未熟で単純な獲物は、こうして容易く捕えられるものだ。刀を持つ右腕に、肉の一部が絡みつく。

「若者の戦術というものは、実に素直で単調だね。手に取るように分かってしまうぞ」

「そ、そんな……っ」

「さて。取り込んでやるぞ。このまま、皮膚を削ぎ、内臓をえぐる。キティ、見せてやろう。私に逆らう気がなくなる光景を。これも新妻教育だ」

「や、やめて!! き、騎士さまを、殺さないで!!」

 ゾルハは予想する。「逃げろ、キティ」。この少年が、そう叫ぶだろうと。それを『許してやる』つもりだ。あえて、退路となる道を用意してやっている。マルクたちのいる通路だ。そこに、いくらでも逃げればいい。少年の願いの通りに、キティの恐怖の通りに。

 それこそが、最適解であり、この状況において当然の流れだ。確実な勝利の布石となる。ゾルハは、キティを見ていた。知っているのだ、その左手の中指にあるものを。『それ』に対して、おびえてはいないが、警戒はしていた。まだ、あの指環は真の力を―――。

「―――キティ、『飛び込め』!!」

「は?」

 ベテランは、決断などしない。戦闘もビジネスも自然の法則も、『当たり前の流れ』が存在し、全ては傾向の通りとなる。

 だからこそ、それを把握するのみ。そこに選ぶ余地などありはしない。ベテランは考えずに、自信を込めて、素早く動くのみだ、ほぼ絶対的に正しい道を。

 それゆえに、合理的な作戦は、ときおり運命に打ち負かされた。

 まさか、この少年が、キティを『危険極まる場所に自ら呼ぶ』など。

 そして、まさか16才のおびえ切った少女でしかないキティが、この狂った巨肉の津波に呑まれつつある少年のところに、一切の迷いなく走り『飛び込む』なんて。

「この私を恐れず、飛び込む? いやいや、『ありえない』だろう―――」

 戦いを決する要素は、二つ。力と、運命だ。

 ゾルハは自らのテリトリーに、わざわざ飛び込んでしまったキティを見下ろす。このまま捕食したくなる。いや、そうすべきであった。『ゾルハが負ける唯一の可能性が、そこにあるのだから』。

 肉の巨体が動く。肉の壁に並び生えた無数の歯で、二人を包んで切り刻むつもりであった。

 だが。キティは『牙』を鳴らす。

 光の輪郭が現れていた。空間が歪み、その歪みが生み出す光の花弁たちが、二人を守るように包み込む。フィックスドフラワー家の『異能』が、障壁を作り、二人を守っていた。

「その程度のアイデアでは―――」

 この障壁を想定しないわけではない。『牙』の一族との戦いに、油断はあってはならない。アレンとの戦いでも、これを使われたが……力で圧倒した。壊せるのだ。そのために、この巨体を用意している。

 圧をかけた。アレンの力は、これで崩せたのだ。力量も経験も、アレン以下のキティの術が、これで壊せないはずがない。ないのだが、ビクともしない。

「―――『鉄腕』が、共鳴しているのか!!」

 ゾルハは悟る。戦闘のベテランらしく、その読みは正しかった。漆黒の指環が、その継承者のそばに戻ったことを、喜んでいる。まるで自我でもあるかのように、その『レリック』は力を使っていた。大昔に圧縮して取り込んだ、無数の兵器群。その一つ、斥力兵器……あらゆる攻撃を跳ね退ける障壁を。

 それが、キティの力と完全に一致して、強化していた。

「ならば、より力を込めるのみ!!」

 ゾルハは壊しにかかる。壊しにかかるが、キティは指環を外した。ゾルハが最も恐れていた行動である。

「そうだ。それがあれば、勝てる。なぜかは、分からないが……なにも、思い出せないが。その指環は、信じられるんだ」

 さみしさがあった。思い出してやれない苦しみもある。だが、疑えない。信じている。その指環が、勝利を与えてくれると。

「キティ、オレに力を」

「はい。騎士さま!」

 少年が伸ばしたのは、左腕。ゾルハに取り込まれていないからだが、これもまた運命でもある。キティは迷わなかった。軋みを上げて、限界が近づく自分の障壁に焦っていたせいではない。

 知っていた。『リトル/ちいさなキティ』が遺している。あの物語は、現実を超えている。彼女のシナリオでは、最後に指環は微笑みと共に届いたのだ。『彼女』の左の薬指に。

 150年ほど待たされて、漆黒の指環は『彼女』の願った場所へと届く。キティ・フィックスドフラワーの手によって、少年の左の薬指に、契約の証は融合した。死が分かつそのときまで、『鉄腕』は彼と共に生きる。

 漆黒が、指環から左腕の全域へと広がって行く。とんでもない激痛が走ったが、少年は耐えた。自分に与えられた、罰のような気さえしている。何かの償いかもしれない。死ぬほど痛いというのに……それなのに、喜びがあった。

「すまないな、思い出してやれなくて。だが、だが……『お前』は、信じられる」

「そうです。その『鉄腕』は、時を越えて、マロレトコワの世代を超えて、騎士さまへと託されたもの!! 『鉄腕』よ、騎士さまに力を!!」

「させるものか!! 圧し潰してやるッ!!」

 ゾルハは全力を使った。戦闘の達人ゆえに、理解してしまっている。『鉄腕』から感じ取れる、自分への強大な敵意を。千の兵士と一人で戦い、それを吞み込んだ夜よりも、今この時の方が受けるプレッシャーが大きいとは。

 何とも正しい分析力である。

 漆黒の左の拳が、ただ一撃。ゾルハの巨体のたった拳一つ分の面積を殴りつけただけ。その刹那、ゾルハは人生最大の痛みに襲われながら、弾けて、裂かれ、吹き飛ばされていた。

 一秒。

 気を失っていた。一秒で、意識は戻ったが。古の宇宙船たちのように、ワープ/瞬間移動でもしたかのような気持ちになる。遠くに二人の姿がいた。地下施設の壁面に、自らの肉スライムの巨体が、埋まり込んでいる。

 150メートル殴り飛ばされた。その衝撃で、全身が引きちぎられているし、内部の細胞の少なくない割合が完全に粉砕されてしまっている。ゾルハの口が、ゴホゴホとせき込み、大量の血液を吐き出した。血は、壊れてしまった全身のあちこちからも出ている。

「これほど、までか……ッ」

 ベテランらしく感心してやる。『鉄腕』を恐れていた自分が、正しかった。その事実を使い、自分をほめてもやりながら。おびえることは、ときに正しい。自分の遺伝子が組み上げた本能が、訴え予測していた結果だ。素直に、自らの有能さと感じればいいだけのこと。

 余力も、残している。

「仕留める!!」

「ああ、来たまえよ、若者……いや、150才以上の、大ベテランかね!!」

 ゾルハの巨体が、触手を使う。娘のそれの十数倍は大きく、長く、数までも多い。速さも、襲い掛かって来る角度にも、まったく隙がない。だが、それでも届かない。

 右腕が振るう刀も強い。斬撃で切断されてしまう。左の『鉄腕』の威力は、さらに桁違いだ。技術や切れ味とは無縁、ただの原始的な破壊力に、打撃された細胞の全てが粉砕されて爆発する。消し飛ばされるような威力に、鉄筋の数倍の強さを持つ触手も耐えられない。

「私も、援護します!!」

 銃弾も浴びせられた。威力は、ゾルハからすれば大したものではないが、少年に向かわせた触手の動きが、いくらか遅くはなる。動きが緩めば、『鉄腕』か刀の餌食となった。

「なんだね。その連携の、完成度は……君らは、十数分前に、出会ったばかりだろうに」

 疑問だ。賢い戦闘の達人でも、答えは見つからない。いや、一つだけある。この状況につけるのは、ゾルハは嫌で嫌でたまらないだろうが。

「『お父さまの口癖』に則れば、これは『運命』です!!」

 かつて、マリア・マロレトコワの口癖だったものは、夫の口癖となっていた。

「腹立たしいよ、それは、気軽に使うべき言葉じゃない。もっと、深刻な状況に陥ったときにこそ、私の敵なら、使いたまえ……たとえば、このような状況でだ!!」

 ゾルハの巨体がうごめいて、自らが叩きつけられていた壁を、より破壊した。戦闘の達人らしく、『殺戮卿』は切り札を用意している。地下には『兵士工場』があるのだ。

「各地から拉致した者や、金で家族から『正当』に買い取った者たちもいる。そいつらを、私の下僕と変えたのだ。新たなこの街の、『ゴーティ』の住民にしてやるつもりだったが、君らが悪いぞ。私を窮地に追い込めば、こいつらの肉で『補填』するに決まっている」

「ま、まさか!? やめなさい!! その人たちを、あなたの部品にするなんて!?」

「ククク! やめないよ、キティ・フィックスドフラワー。そうでなければ、君の騎士くんとやらに負けてしまうからね。いや、『鉄腕』にか。敗北とは、誰にとっても許されない罪だ。とくに、エステルハルドの長である私にはな!!」

 ゾルハの巨体から伸びた触手は、二人にだけではない。壁の奥を貫いて、『兵士工場』に並べられた無数の『保存器』に突き立てられていく。中に封じられ、『改造』の途中であった人々を、えぐって喰らっているのだ。

 悲鳴が聞こえた。

 だが、悲鳴を放つ口からも、新たなゾルハの肉の枝が伸びて、その枝も隣にある『保存器』を襲い、侵食は加速していく。

「やめて!! こんな悲鳴を、上げさせないで!! 貴方の、守るべき人たちでしょう!?」

「守られる者は、『王』に尽くさねばならんのだよ!! このように!! 私が負ければ、この者たちは、誰にも守ってはもらえないのだからな!!」

 地下にいた450人を、食らい尽くすのに70秒もかからなかった。ゾルハは、破壊された巨体をまたたく間に修復する。いや、さらに倍増させていくのだ。

「圧し潰してやろう。騎士くん、君も『鉄腕』を使いこなせていない。そもそも、出血が多すぎて、生身の体は動けなくなりつつあるだろう」

 追い詰められながらも、ゾルハはそれを狙っていた。指摘は正しいもので、少年は血を失い過ぎている。あまりに強すぎる『鉄腕』を使うことでの反動も、体には大きな負担となった。ゾルハは、やはり強者であり、戦闘の達人。『殺戮卿』なのだ。

「守るべき姫君、キティもいるのだ。地下を破壊し尽くすほどの力は、君には使えまい。どうかね? 絶望が見えただろう? それを知ると、どんな気持ちになるのか教えてくれ」

「話術で、時間稼ぎか」

「そうだとも! 賢いね。さっきも……そうか。君は、私の作戦を見抜き、その裏につけ込んだ。私の目が語り過ぎていたかね? 『歌喰い』の爆炎を生き延びたのは、狡猾さゆえかい?」

「知らん。何も覚えちゃいないんだ」

「なるほど。まっさらか。無ゆえに、体に染みついた戦闘のリズムが、私の戦術を読み解いた。君こそ、私の『同類』だ。多くの戦いをしている。生粋の『肉食獣』だよ。戦い、殺して、奪った。だからこそ、私をあの瞬間、出し抜けた」

 少年は、襲い掛かる触手を迎撃しながら、自らを考えようとする。だが、見つからない。思い出せないのだ、一切の記憶がないから。ゾルハが同類あつかいしてくるのが、あまりにも不愉快なのに、否定するための手がかりさえない。

 信じられるのは、『鉄腕』とキティのみ。だが、どうしてなのかを確かめられもしない。それがもどかしくて、苦しくもある。

「記憶がないのは、辛かろう。あわれだよ。この苦しい戦いの最中で、頼りたい記憶もないとは!」

 戦闘の達人は知っている。極限を強いられる闘争の中で、ヒトを最後まで支えてくれる力は記憶から供給される。思い出が心を支えた。本能だけでは、戦ってなどいられない。

「それでは、勝てんぞ。つまらん人形に過ぎん。何もない。そんなモノは、ヒトとは言えないよ。だから、せっかくの『鉄腕』にも、魂が込められん。そんな攻めでは、勝利は獲られん。軽いのだよ、お前のように何も持たない空虚な者は」

「……オレには―――」

「―――与えてやろうか?」

 戦闘とはコミュニケーションだ。ビジネスと同じ。相手が欲しい行いを、提供してやろうと見せびらかすのは有効な選択だ。もちろん、その逆もまた同じ。ゾルハは、少年を言葉で傷つけ、言葉で誘惑しようとしている。心を惑わし、勝利を確実にするために。

「『羊飼い』を私の技術で使えば、何もかもを忘れてしまい、『空っぽな』お前にも、一人前の記憶を与えてやれるよ。こいつらのように!」

「だ、ず、げ、で……ッ」

「がえりだ…………」

 うごめくゾルハの巨体に部品として取り囲まれた人々が、まだ形をわずかながら留めている腕を虚空に伸ばす。助けを求めているのだ。偽りの記憶にある、なつかしさを呼び起こしてくれる人々に。

「幻に過ぎんよ。だが、良い記憶を与えてやっている! 私は、やさしいからね! 自分を売った家族のことも!! 二度と会えない友人や恋人のことも!! この部品どもの記憶から奪って、『よくある標準的な人生』を与えてやった!! だからね、彼らはさみしくない。私がくれてやった記憶に、死へと至るこの瞬間も、しがみついていられる!!」

「なんて残酷なことをするの!? 『羊飼い』を、そんな風に使うなんて!? ゾルハ、あなたは、悪魔です!!」

「恵まれたお嬢さまには、分からんのだよ。はした金で親に売られてしまう、カスどもの悲しみなどね。悪夢しかない人生もある。アレンは、それを君に教えなかったのか?」

「お父さまは、より多くの方を幸せにしたかった!!」

「現実は厳しい。悲惨な者も多い。この星は未成熟で、多くの者に幸せを与えられない。だから、偽りを提供し、『植え付けた記憶で細胞を強化した』んだよ。こいつらは、いもしない愛する者のために、もがき、生きようとして、私にエネルギーを与えている!!」

 もがいている。ニセモノの記憶に支配され、それでも必死にしがみつく。愛する者が待つ家に戻りたいと、死にたくないと力を発揮した。それらの全てがゾルハの力を高めている。

「こいつらの名前は、全員、『イワン』くんだ。ありふれた名前だ。標準的で、一般的な。ありふれてはいるが、こいつらカスが与えられなかった、『並みの人生の記憶』を有する名前だよ。イワンと呼べば、全員が返事する。ほうら、イワン、がんばりたまえ。私のために!」

 うごめく悪の被害者たちが、あまりにも多すぎて。キティは、衝撃を受けてしまう。現実がいた。目指すべき理想ではなく、絶望に打ちのめされて横たわる現実が。悲痛なもがきまでも、ゾルハに吸い取られ奪われている。

「お前は、許さん」

「ほう。今のは、良い目だ。まるで記憶がある一人前の生き物らしい意志を感じたよ。しかし、おかしなことだ。私に恨みなど、ないだろう。君には、記憶がないのだから」

「ない。ないが、許さん。お前は、あまりにも邪悪だ。ここで、倒しておかなければ、キティを危険にする。そして、多くの人々を不幸にし、殺す!」

「殺すことが悪かね? 間違っているよ、その認識は。我々は、この星を受け継ぐべき王を作るための闘争をしているんだぞ!? 王が誕生した時こそ、平和が訪れる。この部品たちも、王座に向かう私の一部として、平和のために費やされている!! 喜ぶべきだ!!」

 傲慢さがある。だが、絶対の自信がその発言にはあった。

 この惑星への移住が完成する日まで、戦いが続く。それは確かな真実であり、犠牲者たちは力をゾルハに捧げている。この戦略は、『牙』の当主をも倒すほどに、ゾルハを強くしたのだ。

「君らも、正義と平和の未来のために!! 私へ、融けるがいい!!」

 無数の触手を、一斉に放つ。二人は、全力でしのぐが……追い詰められていく。少年も血を失い過ぎて、足がもつれそうになる。

 キティの援護射撃で、どうにか事なきを得るが。限界は近い。確実な勝利のために、ゾルハは、この好機にも攻め込み過ぎもしない。もっと嬲るように。時間をかけて、弱らせてやろうというのだ。

「騎士さま! ご無事ですか!?」

「……キティ、逃げろ。こうなったら、『鉄腕』で地下ごと破壊し尽くして、あいつを倒す!」

「そ、そんなことをすれば、騎士さまが、死んでしまいます!!」

「オレは、かまわない。何も、記憶がないんだ。誰も、オレを知りもしない。ここで死んだとしても、悲しんでくれるヤツも―――」

「私は、悲しいです!! 私は、貴方を知っています!!」

「キティ……」

「負けては、いけません!! 大おばあさまも、『歌喰い』に勝った!! 貴方を、見つけた!! 騎士さま、一緒に。勝ちましょう! きっと、道はあります!!」

「……たとえば? 威力が要る。だが、威力が高ければ、地下が崩壊するぞ」

「そ、その。じゃあ。崩さないように……いえ、いっそのこと。『崩れてくる全ても含めて、撃ち抜くような力』があれば……っ!?」

 抜け目のない狡猾な触手が鞭となって、キティを打ち据えようと動く。少年は、キティを抱きしめながら倒れ込み。どうにか、その攻めをかわした。触手はうねり追いかけてくるが、キティは銃弾を撃ち尽くしながらも撃退した。

「ああ。我が新妻に、抱き着き押し倒すとはね。さすがに嫉妬してしまうよ。そろそろ、ガマンも限界だ。決着を、つけてやろうじゃないか」

「……弾切れ、ですっ」

「力が、欲しいな……この刀を、呼べたときみたいに―――」

 記憶は空っぽだが。だからこそ、知覚は研ぎ澄まされる。少年は集中できていた。近づくゾルハにも恐れはない。ただ、ひたすらにキティのアイデアを想像していく。

 そもそも『鉄腕』は、『空を裂く虹色の牙』の『護衛艦隊』を圧縮して生み出されたものだ。あらゆる兵器が、そこには収納されている。それら無限の兵器群の中から、『特定の兵器を呼び出すためには二つの鍵がある』のだ。

 一つ目の鍵は、想像する。

 主の思考に基づき、呼び出すべき兵器を検索しているのだ。無数の兵器の中から、使いたい兵器を素早く選ぶには、当然の仕掛けである。想像の方法は具体的であればいい。たとえば、『崩れてくる全ても含めて、撃ち抜くような力』。

 ……無限の武器庫の奥底に、少年の想像力は届いている。『鉄腕』がかがやき、古びた文字がその表面に現れた。あまりにも古い文字であるため、少年には読めない。『牙』の一族に伝わる教養には読解できた。

「『呪文』を……そう、あります」

 二つ目の鍵は、『キーワード』だ。『レベル5/極大破壊兵器』の使用には、プロテクトがかけられている。核爆弾の発射スイッチと同じことだ。危なっかし過ぎる兵器を自由に扱い過ぎないために、管理に必要な『プロテクト/魔法の呪文』が用意されている。これもまた当然の安全策であった。

「ハハハハ!! 『レリック』を、自在に操ることなど!! たやすくはない!!」

「騎士さまっ!! 何か……言葉を……っ」

「オレは……ッ」

「言えないさ!! 彼には、記憶がないのだから!!」

「そ、それは……」

「大切なことを問われても、何も思い出せずに、右往左往するのみ!! 記憶さえも持たない放浪者は、いつも、いつも、みじめで笑えるよ!! あわれな仔羊のように、永遠の迷子だ!!」

 それこそが『歌喰い』の被害者の末路。どれだけ記憶を探して藻掻いたところで、愛する者の顔さえも、声さえも見つからない。少年も……『リトル』もそうだ。避難列車のたどり着いた土地で、何も思い出せない空っぽから、ふたたび人生を始めた。

「大切な言葉であるはずだ! お前が覚えていれば、それをすぐに口にできたはずなのに! 空っぽにされた記憶の倉庫には、何ひとつ転がってはいない!! お前など、夢の中で見る夢のようなものだ!! 儚いね!! リアリティの足りない、無価値な男よ!!」

 記憶に頼れない。思い出さえも探せない。どこまでも、空っぽ。ゾルハの言葉が、深々と心に突き刺さる。ヒトには必要な栄養素がいくつかあった。糖質、脂質、タンパク質、各種のミネラルに……承認欲求。

 故郷を奪われ、記憶まで焼かれた『歌喰い』の犠牲者たちは、その五番目に大切なもので心を充たすことが難しい。誰でもない者は、どうやって自信を見つければいいのか。

「空っぽすぎて、試すための語彙もない!! 『鉄腕』の継承者ならば、知っていたハズなのに!! 笑えるよ!! こんなみじめな空っぽに、人類最強の兵器の一つを託すなど!! そんなみじめな仔羊の末路は……強者の食す、肉となるのが相応しい!!」

 攻め込もうとするゾルハに対し、キティは『異能』を使う。かがやく花の障壁に守られるが、圧倒的な質量となったゾルハを受け止められない。

「ほうら、もうすぐ君らの守りも砕け散るぞ!! フィックスドフラワーの花を、再び倒そう!!」

 守りたい。その感情だけが空回りする。少年は無力だ。もはや失った血は多すぎて、刀で斬りかかる選択さえも取れないだろう。動けない、みじめな仔羊どころか、たしかに食われるだけの肉のようなもの。

 それでも、絶望することさえできない。「あたりまえでしょう」。

 当然だ。心の底から燃える炎がある。飢えた獣のように、本能じみて、原始的な、感情だけが燃え盛る。空っぽだからこそ、これは暴走するように燃えるのだ。

 生きているかぎり、感情からは願いが生まれた。『歌喰い』の被害者たちは、呆然としたまま立ちつくしているだけでは終わらない。やがて、死を拒む生命の本質のもとに、歩き始める。

 さ迷う仔羊そのもののみじめさだったとしても、負け犬ではない。『リトル』も、そうだった。長く、険しく、理不尽な旅が、いつまでも続く。「あきらめるもんか」。

 それが敗北者の旅路と決まったわけではない。世界を探し、『リトル』は見つけた。失われた記憶につながる、真実たちを。

 一つ一つ、また一つと。欠片を合わせて、組み直し……『リトル』はそれを物語へとつなぎ直す。

 彼女は、偉大な劇作家なのだ。生まれ故郷とその記憶を『歌喰い』で焼かれても、劇作家に引き取られた。あの150年前に、『歌喰い』で二度目の記憶の消去を受けても、当然のように劇作家の道を進む。

 稀にみる、二度の『歌喰い』に勝った女。『歌喰い』の申し子でもある。記憶がないからこそ、物語を頼る。誰かの記憶からあふれた想像力が描いたものが、物語だ。それに声と姿を与えたものが演劇だ。『歌喰い』の被害者だからこそ、『リトル』は劇作家となる。

 真実と記憶に誰よりも飢えた者ゆえに、大雪原の旅をしつづけられた。まるで、気高き『狼』のように。ひたすらに、勇ましく。心の『飢え』を充たしてくれるものを探し、牙をむき笑った。

 自信を持って、断言する。「記憶さえも焼き払われた。それでも、心に残った疼きが見つけてみせた言葉がある。これに意味がないはずがない。大切な価値あるもの。演劇は、それを見抜く」。

 伝えるのだ。あらゆる物語を、過去の人類が背負い、つなげてみせたように。すでに、遺しているのだ。はるかな子孫にも、それは―――。

「―――さあて、おびえたまえ!! 君らは、私の肉となる!!」

「あ、ああ、あ……っ。お、お父さま……お母さま……っ!」

「かわいそうに。泣いているね。だが、死者は答えてくれんよ。それが現実/リアルだ!!」

「……っ」

「ハハハハ!! 『天の川』にでも祈りたまえ!! 人類の歴史が用意した、無限の語彙の中から!! ただ一つの言葉を、教えてくれと!! そんな奇跡は、ありえない!! この星から見えるのは、願いを叶える『天の川』ではないよ!! 『空を裂く虹色の牙』だ!!」

 割れる。フィックスドフラワーの花が……守るための力が、砕けていく。

 150年前のあの日のように、少女は死を覚悟した。大切な言葉を、告げたくなる。

「―――もしも、ここで……死ぬことになったとしても。私は、貴方と、また出逢えた『運命』を、喜びます」

「……『運命』」

 忘れ去られた『牙』の一族がいる。『歌喰い』の炎に焼き払われて、大雪原へと消え去った者たちが。『鉄腕』を伝来の宝として、受け継ぎ戦いながら、守り続けた者たちだ。血筋は、命と共に物語も伝える。言葉も、伝える。

 覚えているかな?

 忘れ去られた記憶の中で、『彼女』が少年を雪の底から引きずり出したとき。一族に伝わる大切な言葉で、奇跡を表現した男がいた。『彼女』の父親だ。『空を裂く虹色の牙』の護衛艦隊は、宇宙を往く戦艦たち。その旗艦に付けられた名前も、当然ある。

 太陽系ごと滅びる定めの地球から旅立つ時に、その名前は選ばれた。絶望的にちいさな可能性と、数千年もかかる旅路に、人類が勝利するように。

 この無限の宇宙で、虚空の広がりの中で、非科学的なまでに低い確率に挑む、人類最後の大勝負に際しては、科学以外にさえも頼りたくだってなる。

 地球最後の指導者たちの誰もが、『彼女』の加護を求めた。「この旅に、大いなる運命の導きがありますように」。移民船団を守り抜く最強の軍艦の名は、『運命の女神』だ。

 赤いかがやきが戻る。

 探し抜く想像力の鍵と、力を許す魔法の呪文の鍵がそろったから。



 ……昔々の物語。

 娘のなげきに応えて、願いを叶えた『天の川』の王がいる。はるかな昔にも、今この星にも。歴史は伝統となり、それを記述した劇作家の物語となって、マロレトコワの女から夫に、夫から娘に。時代と世代を越えて受け継がれた。

 そうだ。ただ、それだけのこと。

 少女のやさしい手が、少年を雪のなかから引っぱり出して、その少女の願いを厳格なはずの父親が叶えて、言葉を遺し……それを少年と少女に守られた劇作家が描き、その子孫が伝え、子孫の夫と、その娘に届いただけ。

 ただそれだけだ。『空を裂く虹色の牙』の下で生まれた、たったの150年の結果である。ただの偶然と呼ぶのも、あるいは運命と名付けるのも、人それぞれだろう。

いずれにせよ、力は戻った。「ほうら、届いただろう?」。遠い昔、『リトル』は『天の川』を見上げながら、そう言ったのだ。



 横たわった少年とキティの周りに、赤く揺れるかがやきが、浮かび上がる。『運命の女神』号には、旧い意匠が込められていた。物理学的な効能こそありはしないが、それでも『彼女』への敬意を表すために。

 それは、女性の形をしている。長く赤い髪を、宇宙の闇で踊る炎のように揺らしながら、愛しい者へ幸運の抱擁を行うのだ。失われた地球を模した、青い瞳で見守って。

「……これ、は」

「せ、『船首像』……だと、思いますっ。『護衛艦隊』の、旗艦の……っ。『鉄腕』が、召喚したんです。『運命』……が、この女神を呼ぶための、呪文……っ」

 ゾルハは、絶句していた。経験上、戦闘においての読みが外れるのは、一つの戦闘で一度限り。二度目はない。なかった。この瞬間までは。『殺戮卿』は武運にも恵まれていたのだ。

 赤く燃える髪と、白いドレス。飾り立てるのは、情熱的な赤い薔薇。ゾルハほど巨大でないが、それでも十メートル近くある。美しくも勇ましい乙女の姿が、少年とキティを守るように顕現していた。

 困惑を打ち消すためにするべきは、戦場において一つだけ。行動あるのみ。触手を差し向けたが、『船首像』の生み出す斥力の守りに、捕らえられて阻まれる。

「お、の、れ!! 打ち勝つぞ―――!?」

 そうだ。これは守りのための力ではない。敵を破壊するため、『彼女』は戻ったのだ。赤い髪と薔薇が燃え、花嫁のドレスのようにやわらかく風に踊る純白のドレスが広がった。そこは、果てなき『鉄腕』の武器庫の底とのつながりもある。

 ドレスの向こうから、それらは召喚された。『群れ成す対空機関砲』、赤い薔薇と同じく棘もつガトリングの花畑。ゾルハを破壊するために、『船首像』はその武装を呼んだ。

 戦闘の達人の、対処は早い。

「イワンどもッ!! 死にたくなければ、全ての力を発揮しろッ!!」

 融合を強いられたイワン・シリーズたちが、恐怖に叫びながら生命の全てを捧げ、ゾルハの強化を深めていく……。

 少年は、体を起こそうとするが……ふらつく。キティが、支えて立たせてくれた。『鉄腕』を伸ばす。左腕を……敵に向けて。左の人差し指に、引っぱられるような感覚がある。

「この指で、『トリガー』を引けってことらしい」

「それをすれば、これだけの機関砲が……」

「ヤツを倒せる。イワン……たちも、死なせる」

「……ッ!!」

「すまないな。オレと同じような、連中なのに。だが、きっと。今の在り方は間違っている。解放してやろう……オレも、しょせんは、ヤツと同じ『肉食獣』か―――」

「―――違います! 貴方は、悲しんでいますから。だから、私も……これが、罪だというのなら。一緒に戦う私も、背負います」

 やさしい願いがあった。周囲の人たちを笑顔にするのが大好きな男と、その娘には。戦いばかりの大雪原で、せめて、少しでも人が笑顔でいられるように。せめて、少しでも人が死なないように。願い、行動するのだ。たとえ、願った全てが得られなかったとしても。

 キティ・フィックスドフラワーが、少年の胸に後ろ頭をつける。背後から抱かれるような形になって、少年と同じように左腕を伸ばした。一致させる。人を殺したことは、まだない。用意していた覚悟は、現実の重みに押しつぶされてしまいそうだ。

 それでも。重なり合う腕から、少年の胸から、勇気をもらえた。

「貴様らあっ!! ここは、社交界ではないぞ!! 何よりも、神聖な、戦いの場だ!!」

 デュエット/二人踊りのように、一致した姿勢だ。ゾルハは、腹が立つ。焦りがあった。戦闘の達人ゆえに、力の差を感じ取るのが上手いときている。

「……怖いです。罪に、穢れてしまうのが。それでも、私は、貴方と一緒に背負います」

 選び、決めた。少女の双眸は、まっすぐに罪と敵をにらみつける。彼女を見れば、アレンは言っただろう。妻の口癖を使ったあとで、娘の黒髪を撫でながら。

「君は、とても偉いよ。キティ」

「……はいっ。騎士さま……お父さま……っ」

 少年は、震える彼女の人差し指を、自分の人差し指で抱きしめる。トリガーは引かれ、『運命の女神』は刺々しい機関砲の花畑を起動させた。

 どんな敵をも打ち砕く。移民のための艦隊に迫る、あらゆる脅威に対して。鋼の弾丸を無尽蔵に撃ち出すのだ。流れ星さえ、消し飛ばす。原始的な破壊の重砲。秒間7000発の星砕く攻めが、イワン・シリーズと融合したゾルハ・エステルハルドに降り注いだ。

「ま、負けるか……ぁあああッ!!」

 耐える。

 イワンたちの命を使い尽くしながら、エステルハルド家の作り上げた『最強の生命力』を強化して。細胞を強く堅固に結合させる。示したい。これは、一族の尊厳そのものの危機だ。『殺戮卿』は負けてはならない。エステルハルドの夢は、果たさなければならない。

 細胞を強靭化させながら、再生能力をあらゆる細胞で起動させながら。耐久する、これに勝たねば、夢は遠ざかる―――。

 戦いは、力と運命が決めるのだ。

 エステルハルドの細胞が蹴散らされていく。弾丸に貫かれるのだ。無数の命が融け合った巨体は、細胞の一片さえも残らぬ勢いで破壊されていく。この攻撃に巻き込まれる地下施設のあらゆる物体が、そうなる運命だ。イワンたちの製造工場も、壁も、そして、崩落の恐れがあった天井も、その上にあったエステルハルドの屋敷さえも。

 全ては、弾丸の怒涛に破壊し尽くされた。

 穴だらけになった意識が、途切れるその瞬間。ゾルハ・エステルハルドは、復讐を誓う。

 弾丸を撃ち出す唸りが終わり。敵の姿はこの世から消えた。

「か、勝ちました……っ。勝ちましたよ、騎士さま!」

「……ああ。イワンたちも、きっと……解き放たれている」

「はい。きっと……本当の、記憶のもとに、戻れたんです」

 あとに残されたのは、砂のように小ささに壊された残骸と……空とつながる吹き抜ける広さ。星のまたたく夜空を、少年の黒い瞳は見上げるのだ。なつかしみながら、同類たちの魂が、そこに羽ばたいていくことを信じる。

 運命は、再び眠りについた。『船首像』は、夜風に融けるように、世界から去る。少年は、さみしさを覚えたが……その理由は分からない。赤い髪の『女神像』とは、何かのつながりがあるようだ。気のせいでは、ないと信じられる。

 たとえ記憶がなかったとしても。この少年は、『彼女』を笑顔にさせた。

「やりましたね! 騎士さま!」

 ……勝利は、歴史に刻まれる。

 ゾルハ・エステルハルドの敗北と、機関都市『ゴーティ』のフィックスドフラワー家による占領は同義であった。これもまた古き習わし。『牙』の一族が力尽くで、新たな領地を奪い取ったのだ。

 異議ある者は、歴史の慣習に従って、力でこれを否定しなければならない。

それが、この大雪原の掟なのだから。

 ……幸か不幸か、エステルハルドの細胞は統治されることに向く。『ゴーティ』の住民たちは、不満と怒りを持ってはいたが、新たなリーダーの指示には従った。服従すべき『王』の不在が、彼らの心をわずかばかり自由にさせてもいる。

 問題は、ほとんどない。

 少なくとも、表面上は、この国盗りは完璧に成功したのだ。

 メイドのベアトリーチェだけが、怖がっている。アーデルハイト・エステルハルドは逃亡していた。厄介なことに、『レリック』をいくつか持ち出して。その中には、『白雪姫作戦』の主要な目標であった、『羊飼い』も含まれていた。

 何より。

「私を細切れにして豚のエサにしたがっている、バケモノ級の戦闘能力を持つ女が、何処に潜んでいるか分からないなんて……恐ろしい経験過ぎるんですけど」

 66番機関都市『シャル・リリィ』へと向かう列車。医療車両のベッドの上のマルクは、うなずいてやる。

「『ハイジ殿』は、サディストだ。気位も高い。お嬢さま……いえ、キティさまよりも先に、お前を狙うかもしれない。ありがたいことだ」

「と、特別手当を、要求しちゃいますよ……っ。私、お嬢さまの『囮』役ですから?」

「まあ、いいでしょう。くだんのガトリング砲で壊れた場所を修繕するのに、多少の金がかかりはするが……少しばかり、お前の給与を上げておこう」

「た、助かりますっ!」

「命がけの忠誠とは、美しいものですなあ」

 重傷者ではあるものの、マルクは元気だ。勝利は嬉しい。代替わりを不安がる者たちの心配も、これで払しょくされるだろう。アレンに向けられる顔を得られたのは嬉しい。

 さらに言えば。

「……『鉄腕』と、騎士殿まで手に入った」

「このまま『お世継ぎ』まで、誕生しそうですよね」

「……は?」

「いいえ。キティお嬢さま、出会って十分で騎士さんの左の薬指に、ぷすっと指環をはめちゃいましたし」

「……そういうのでは、ないでしょうに」

「どうでしょう? マロレトコワの乙女の念願ですからねえ」

「ゆるしません」

「うわ。マジ顔で言うの、やめて下さいよ、マルクさん」

「仕事に戻れ。ベアトリーチェ、私が動けないあいだは、お前が諸々を見張るのだ!!」

「はあ。お嬢さまの恋路は、邪魔しませんよ。私だって、チーム乙女なんですからねえ」

「仕事に戻れ」

 山猫のような目つきになったので、ベアトリーチェは敬礼して、そのままいそいそと病室を後にした。もちろん。態度は使いこなすものだ。恐ろしい山猫の命令であっても、邪魔はしない。『おじいちゃん』の過ぎた心配などに、部下が付き合うつもりもないのだ。

 列車の廊下に出ると、視界の端を小走りでキティが駆け抜けていった。

「あの表情は……フフフ。春ですねえ、雪の日ですけど」

 少年は列車の最後尾にいた。『鉄腕』は、漆黒の指環に戻っている。もちろん、生きているあいだは外せないが。

 遠ざかっていく、『ゴーティ』をしばらく見張るように視線を使っていた。覚えていなくても、『狼』の習性は機能しているのだ。群れを守る。それこそが、彼の使命。

「騎士さま! ここにいたんですね!」

「……ああ。キティ、おはよう」

「お、おはようございますっ!」

「何か用かな? 敵が、出たとか?」

「い、いえ。そういうのじゃ、ありません。ちょっと、朝のあいさつに。それと、ここは寒いので……どうか列車の中にお戻りください。紅茶と、お、お菓子などを、ご用意しておりますので……っ」

「そうだな。もう、『ゴーティ』に敵はいなさそうだ」

「見張っていてくださったんですね」

「うん。それに、景色も見たかった。何か、思い出せる……ような気は、全然しないけど。大雪原は、何処までも白いだけだから。『空を裂く虹色の牙』のかがやきも、たぶん……150年前と、変わらないんだろう」

「風景は、あまり変わっていないと思います。だから、懐かしさを、見つけられるかもしれませんね!」

「ああ。そうだな…………あ」

「あら……予報の通りです。雪が、降り始めましたね。可愛くて、ちいさな雪です」

「……雪……か」

「騎士さま、雪がお好きなのですか?」

「かも、しれない。落ち着くような、気がする」

「なら、騎士さまは雪が好きなんですね。きっと、150年前もです。一つ、ご自身のことを見つけられちゃいましたね!」

「そう、だね。ありがとう。でも……」

「でも?」

「あまりにも、自分について思い出せない。オレは……これから、どうすればいいのか」

「騎士さまが、したいようにするべきです」

「オレの……したいこと?」

「はい」

「何も、分からないな」

「私には、一つ。騎士さまがなさりたいことが分かっていますよ」

「どんな、ことだろう?」

「助けたいんです」

「……うん。でも、『彼女』は……」

 キティの手が、少年の腕にやさしく触れる。そこには、たくさんの傷があった。治療はされているが、動けばまだ強い痛みもあるはずだ。

「とても痛いはずです。それなのに、貴方は、自分をかえりみることなく、助けようとした。それこそが、騎士さまの運命的な、本質なんです」

「オレの、本質……」

「きっと。150年前も、今も。変わりません。貴方は、『周りの人たち』を守ろうとします。なぜなら、その人たちの笑顔が、好きだからです」

 自信を持っていた。

 当然である。

 キティは知っているのだ。アレンという実の父親が、どれだけ周りの人々を守りたかったのか、彼らの笑顔を、どれほど尊び、愛していたのか。

 大雪原という過酷な場所で、『守る』という行いの意味と価値は、あまりにも大きい。自分を犠牲にすることをいとわないほど、尽くさなければ守れないのだ。その道を選べる者は、誰よりもやさしい者だけ。そばにいる者の笑顔を大切に思える者だけ。

「騎士さまは、きっと。そういう方なのです。おそばにいるだけで、キティを笑顔にさせてくれますから!」

「……じゃあ。オレは……周りの人たちを……守ってみるよ。キティたちを、敵から……危険から。だから、そばにいても、いいかな?」

「もちろんです! 騎士さまの居場所になれるのは、光栄なことですから!」

「ありがとう」

「こちらこそです。騎士さま!」

「…………しかし」

「しかし?」

「……やっぱり。騎士さまって、呼び方は、何だか、てれるんだけど」

「え、ええ!? いや、でも……騎士さまは、騎士さまですし……?」

「いつまでも、騎士さまって呼び方は……少し、窮屈かもしれない」

「そ、そうですか。でも、そう、かもしれませんよね」

「自分の名前も、思い出せないのが、歯がゆいけど……」

「……あの。それでは、騎士さま! 僭越ながら、私が『仮の名前』を、つけるというのはいかがでしょうか?」

「うん。それはありがたい。キティに名付けてもらえるのは、嬉しいよ」

「は、はい。では、その……『シュエ』というのは、どうでしょう?」

「シュエ……か」

「最近、勉強したのですが。人類が地球で暮らしていたとき。黒髪と黒目の方々が多く住む『東洋』という地域があったようです」

「キティは物知りだね」

「い、いえ。その。まだまだ不勉強な若輩者で……そ、それで、ですね。じつは、この名前には、騎士さまとのつながりが含まれているんです!」

「そうなのか? 教えてくれ」

「はい。『シュエ』というのは、その東洋という土地の言葉で、『雪』という意味があるんですよ!」

「……『雪』か。ありがとう。オレが、好きなものから、名付けてくれたんだ」

「はい! あの、その……お気に召されましたか……?」

「うん。すごく気に入ったよ」

 キティの顔が、明るく笑った。無邪気で、純粋で、まるで子供みたいだと少年は……シュエは思う。喜ばせてあげたくなるのは、自分に妹でもいたのか。あるいは、たんにキティの純粋さが魅力的だったからか……。

 真実は、まだ分からない。

「キティ、オレの名前は、シュエだ。これからも、よろしく」

「は、はいっ! こちらこそ、ふつつかな新米当主ですがっ! よろしく、おねがいいたします! シュエさま!」

 歴史の叙述は不完全なものだ。

 これは、一つの指環に刻まれた物語。

 正当な主のもとに継承された指環は、正当な『牙』の新しい当主を助けた。彼の名前は、これより、シュエ。フィックスドフラワー家の当主、キティに仕える身分となる。

 マロレトコワの運命に従って。

 キティの心は無邪気なまでの歓びで、シュエに惹かれ始めている。

恋愛というものは、幼さから始まるものだが、成長して変化もする。キティもすでに気づいているが、シュエが追いかけている乙女は、別にいたのだ。

 老執事は、それを気にして神経質な山猫の目になった。

 彼も苦すぎる悲恋の経験者である。

 死の厳粛さと、その絶対さも知っている。

 忘れられはしない。真の愛は、死でも断ち切れないものだ。

 ……どれほど追いかけても、完全には振り向いてもらえないかもしれない。150年も昔に、『彼女』は死んだ。記憶さえも失われてしまった。それでも感情は強くつながっている。漆黒の指環は、喪章のようにその指へとくくられた。祝福めいていて、愛の呪いのようにも見える。その堅く不変な感情に、若く無垢なキティが打ちひしがれる未来が訪れるのではないか……。

 老執事には、それが心配である。

 だが、しかし。

 それは歴史の叙述には残らない、些細な可能性の一つだ。肝心なのは、新たな名前が誕生したこと。『鉄腕の雪』。150年の時間を越えて、二つの力が再び、ここにそろった。

 輪廻のように。

 運命に刻み付けられた、不変であった道の果てに。

 別人だ。別人であったからとして、それが、終わらぬ愛を否定し切れるとは限らない。死を越えて、それは生き続けている。つながった。二つの力が、再び。約束の指環と共に。

「これからも、私を守ってください。シュエさま!」

「ああ。君を守るよ。キティ」

「で、では、こちらに」

 赤くなった顔で、少女は……。

「チョコたっぷりのクッキーも、かわいい飴も、ありますよ!」

 少年は少女に手を引かれ、温かな場所に。

 記憶などなかったとしても、『歌喰い』に勝利する恋もある。

 これは、『空を裂く虹色の牙と、鉄腕の雪』の物語。

 運命の軌道は、ようやく重なり、動き始めたばかりなのだ。




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