空を裂く虹色の牙と、鉄腕の雪。
よしふみ
プロローグ 「星に願いを」
あるところに、ひとりの男がいた。
まわりの人々を幸せにするのが、大好きな男が。
彼は、笑顔の価値を知っている。
この冷たい大雪原におおわれた星では、人々が浮かべる笑顔は何より貴重なものだ。
アレン・フィックスドフラワー。
その男は、とてもやさしく気高い。『牙』の当主の一人であった。
遠い昔々の物語。
アレンはひとりの女性と出会う。マリア・マロレトコワ。うつくしく、聡明な、黒髪の乙女であった。一目で恋に落ちて、情熱的な衝動に取りつかれる。知的な彼女の心に、どうにか己の愛を届けたくて、古い地球の文学を読みあさった。
人生で初めて書いたラブレターは、17才にしては長いものである。原稿用紙で、200枚ほど。マリアは、誤解をする。『これ』はアレンが文学への挑戦のために書き上げた『恋愛小説』なのだと確信し、三十分かけて読み終わった。
「どう、だろうか?」
「では、お答えしますね」
文学的な才をもっていた彼女は、どこの表現や、引用がまちがっていたのかを、事細かく指摘してくれる。
アレンは深く落ち込んだ。ふられたと思ったのだ。マリアが、『それ』を小説ではなく、自分へのラブレターだと理解したのは、三日も経った朝である。
早朝だった。
学校に出かける前に、歯を磨いていたとき。ようやく気づく。
歯みがき粉を、口からたっぷりと吹いた。カニみたいに泡だらけとなった自分を、鏡のなかに見る。ゆで上がったカニのように、真っ赤な顔面もしていた。冷静で知的で、文才とユーモアまである自分が、こんな表情をする日がくるとは。
「私は、て、天才なんだよ。アレンくん……っ」
アレンも、知的な人物だ。物静かで、冷静沈着。友人はあまり多くはない。遠からず領地を継承する高貴な身分の少年だ。特別あつかいをするしかない。金と権力を持った彼は、どこか周りから浮いてもいたが、マリアは知ってもいる。
あの『恋愛小説』を捧げられる二週間ほど前、駅で悲劇が起きていた。
貧しい働き者がひとり、列車の事故にまき込まれて亡くなったのだ。融けかけた雪と彼の血が静かに混ざり合って、バラの色の水たまりとなっている。その悲劇の場に、マリアもいた。
よくある事故だ。高貴な者は、その痛ましさから目を背けることが多い。金持ちは、貧しい者に訪れた悲劇になど近寄らないものだ。
金持ちには、力がある。だから期待されてしまう。どうしかしろと、助けろと、顔と目が訴えてくる。それは、重荷となるのだ。事故なんてあちこちで起きている。見返りのない行いなど、一々してはいられない。その考え方も、マリアには分かる。
アレンは違った。
彼に責任は一切ない。領主になるのは別の機関都市でのこと。ここは学業のために、二年弱を過ごすだけの、そのうちに過ぎ去る土地。
ただ、その列車に乗り合わせていただけだ。責任も義務もない。それに、まだ17才だった。駅では、死んだ男の妻と、その娘が泣いている。その場に集まっていた鉄道員たちも、沈黙するのみ。駅は泣き声に悲しくつつまれて、アレンは涙ぐんでいた。
歯ぎしりする。
何かを覚悟したかのように、青い瞳に力を込めて。
駅長のもとへと、涙をぬぐいながら歩く。管理体制でも叱責するのかと、マリアは瞳を細めてしまった。この星の支配階級は、いつも怒りっぽい。だが、違った。アレンに対する予想だけは、よく外れてしまう。
「これを、あの鉄道員の、ご遺族に……」
小切手を渡していた。
人気取りの偽善者なのか、金持ちの戯れなのか。知的な者は疑い深くもある。マリアは普段ならば、そう思っただろう。アレンの顔が、あれほど悲しそうでなければ。駅のすみにひとり歩いていき、遺体と遺族がこの駅を去ったあとでも、ただただ泣き続けている姿を見ていなければ、疑っていたかもしれない。
だが。あの涙は、疑えなかった。
マリアは賢い。とても聡明な視野を持っている少女である。『恋愛小説』もどきの真意に三日ほど時間を要したが、あれはあきらかにアレンが悪いのだ。答えを見つける。つかつかと、ブーツの底を鳴らして、早歩きだ。朝から学園中を歩きまわる。探して、探し出して、告げた。
「よろしくね。アレンくん。これは、きっと。『運命』だから」
次の『恋愛小説』の執筆にとりかかっていた図書館、温かな暖炉のすぐ近く。彼は人生の伴侶を得た。マリア・マロレトコワは、見抜いていたのだ。自分たちの絆は、一生のものになると。
それについては正しかった。
月日は流れた。アレンは変わらない。成長し、一人前の男となった後でも、少年時代の心を忘れていない。66番機関都市『シャル・リリィ』の領主として、政の中心に立つようになったが……その政策は『人道的』の一言に尽きた。
弱者を助ける。紳士であり、まさに騎士道精神の体現者だ。「すべてのヒトを笑顔にできなくても。少しでも、ひとりでも多くを守る」。
善き男であった。
この大雪原には、あまりにも似つかわしくないほどに。
大雪原の年間平均気温は、マイナス50℃。季節はない。すべてが、終わることのない真冬である。
人々は暖房の利いた機関都市の中に閉じこもり、寒さから身を護りながら暮らしていた。閉鎖的な都市空間であらゆる営みを完結させなければならない。工場も、農場も、隔壁によって外界から守られた都市内につくられている。
そこでの暮らしは、豊かであるとは言い難い。生きるために全力を費やすような暮らしからは、笑顔が消えた。過酷な自然との、終わることのない戦いの日々……。
自然環境以外に、『敵』までいる。
機関都市同士が、互いに略奪戦争を仕掛けてもいるのだ。苦心して生産するよりも、相手から奪った方が、手っ取り早い。その選択の有効性については、人類史がいくらでも証明してくれている。
地獄のような環境の中で、そのうえ、乱世でもあった。
これこそが大雪原の現実である。余裕など、どこにもない。過酷なサバイバルと、奪い合いが終わりなく続く世界。その中で、博愛的な騎士道精神を貫けるなど、もはや狂気の沙汰とも言えた。
その道に、華やかさなどはない。ただただ痛みと、拒むような刺々しさにあふれる道に過ぎない。博愛の精神を、人は信じるより、疑うことの方が多いのだから。
「それでも、私はやり遂げるよ」
運命は彼に味方をした。聡明な妻が、いつでも支えて、導いてくれたからだ。「君の思ったとおりに、やってみればいいわ」。それこそが、魔法の言葉だ。人付き合いが苦手だったアレンに自信と、行動力を与えてくれる。何だって、成し遂げられそうな気持ちになるのだ。
おかげで、アレンは自分らしく生き抜けた。
大雪原に合わなかったとしても、そんなことを気にすることもなく。自由であった。真に気高い者の特徴の一つである。
人を騙すことのない真摯なビジネスで成功し、先祖から受け継いだフィックスドフラワー家の財産を減らすこともなかった。余剰に稼いだ金の大半を、困窮した者に捧げる。孤児院を整備し、労働環境の改善に努めた。医療にも、熱心な投資を行う。
その原動力は、実にシンプルだ。
笑顔が好きだっただけのこと。誰かの笑顔を見ることこそ、このやさしい男にとっての幸せだ。
アレンの性格と人生を、マリアは『魔法の言葉』を授けることで、より明るいものに変えてみせたのだ。
残念なことに。アレンが望んでいたほど長くは、一緒にいられなかったが。マリア・マロレトコワは、自らの死と引きかえに娘を遺す。
「お父さま!」
両親の才能を受け継いだ笑顔だった。
愛らしく聡明であり、父親のことを深く慕ってくれる。マリアの面影そのものの、娘のつやのある黒髪。それを撫でているだけで、アレンはどれだけの笑顔を得られたことか。どれだけの力を得られたのか。
満たされている。
だから、自分の人生を、妻を失ったあとでも彼は自由に選べた。
「領主さま、どうか貧しい私たち家族を、お救い下さいませ!」
「病が流行っておるのです。薬が、足りない……」
「事故で、私は働けなくなりました。このままでは、子供たちを守れません」
「ああ、いいとも。私に任せたまえ」
善意のために苦労した日も多い。愛する妻には先立たれてしまった。だが、それでもアレン・フィックスドフラワーは、十分に満たされた人生を過ごしていく。男は、幸せだった。いつでも笑顔で。いつでも理想の道を往く。まわりに咲くのは、誰かの笑顔。
この男は、変わらない。少年の頃から、ただひたむきに。笑顔が好きでいられた。
こうして彼は、大雪原でも有数の、名誉ある『牙』の当主となったのだ。
「―――世界は、争いと不幸に満ちている。神さまが、我々に平等な恵みを下さらないのなら。せめて、『牙』の一族である私たちが、この世界に平穏と安らぎを創らなければならないのだよ、キティ」
娘が幼いころから伝えてきた言葉だ。名家の当主として、多くの者の人生に責任を負うことは誇りであり義務でもある。
アレンは、自分たちに流れる血が背負った意味を、愛する娘にも伝えたかったのだ。支配する者の、王道を。周りの者を、より多く笑顔にする。それを成し遂げた者だけが、最良の支配者だ。
「みんなを、守る。幸せを得て、笑顔を選べるように。より多くの人たちをね」
「はい! お父さま!」
娘も大好きな父親の願いと期待に、応えたいと考えていた。自らの血が受け継ぐ義務の大きさに気づけもしない幼いころから……その義務の大きさに、おびえてしまえる年齢になった今でも、それは変わることはない。
自分以外の大勢の命に、責任を持つ。
幸せを与える。
誰にでもやれることではない。多くの者が、自らの人生を背負うだけで手一杯だ。
それでも、彼女は逃げない。
「私は、キティ・フィックスドフラワーなのですから」
フィックスドフラワー/不変なる花の一族として、成すべき義務を果たすのだと誓う。空より広く、重た過ぎる責任を、その父親ゆずりの青い瞳で見すえたまま。
……キティ・フィックスドフラワーは成長し、16才の可憐な乙女になった。
アレンの出張は一週間の予定であったが、遺体となって4日で戻る。彼女は泣き崩れて、叫んだ。頭を撃たれて死んだアレンは、保存のために冷たくされた棺のなかで、娘の涙を顔と胸に浴びる。凍てつく顔は、納棺職人たちの努力のおかげもあり、安らかではあった。
人生で最も悲しく辛い時間である。
それでも、『牙』の一族の一人娘だ。成すべきことを、成さねばならない。有能な執事とメイドたちに支えられることで、葬儀の手はずは整い、善良なる男アレン・フィックスドフラワーは、妻マリアの墓の隣に埋葬される。
善良な彼から受けていた施しに、この古い機関都市の市民たちは報いた。全ての市民たちが葬儀に集まってくれる。
貧しい者も、なけなしの手持ちを惜しむこともなく、無数の弔花を捧げていく。雪のように潔白な花が、アレンの棺に降り積もるように飾られていった。尽きることのない祈りの言葉と共に。
「ご領主さま、どうか安らかに……」
「貴方と奥様が、我々にしてくださった善意の数々は忘れません」
捧げられた行いは還ったのだ。
キティも、参列者たちへの感謝を惜しむことはない。悲しみに泣き崩れる『弱さ』ではなく、父親が求めたであろう表情と態度で応えた。
大雪原の寒さに負けることなく咲いた、強い花のように。希望を与えるのだ。凛然として、礼儀正しく。伸ばした背筋は、権威で周りを抱擁してやれる。アレンのように。声が、心に聞こえる。「キティ。皆を安心させてあげなさい」。
「はい。お父さま」
善良な男に相応しい葬儀となる。新たなフィックスドフラワーの当主となったキティは、一族の長として『最初の仕事』を見事に果たしたのだ。
……物事には。
順番がある。
二番目にしなければならない義務が、少女を待っていた。
「……キティお嬢さま。使いが参りました。図々しくも、エステルハルドめが、『ゴーティ』の屋敷に来るようにと」
「婚約の義務を、果たせと……ゾルハの『殺戮卿』は言いたいのですね」
「はい。このような、たわけた品まで……ッ」
「……っ」
指環であった。婚約指輪だ。少女は、白銀の環に取り付けられた大粒のダイヤモンドに呪いめいたおぞましさを覚える。老いた執事は、顔をしかめた。
少女を怖がらせないようにと素早くリングケースを閉じると、彼はポケットの奥底へとそれをしまい込んだ。呪わしいものだった。見せるべきでは、なかったが……これも執事としての仕事である。苦虫を噛むような苦悶が、しわの多くなった顔に上乗せされた。
「…………おとう、さま」
消え入りそうな声。それはちいさいが、叫びであった。悲鳴であった。うつむいた少女のために、老執事はやわらかな目となり助け船を出す。
「お嬢さま、しなくても、良いのです。あのような邪悪な男に嫁ぐなど……っ」
「……この66番機関都市、『シャル・リリィ』は、朽ちようとしています。大雪原を駆け抜ける力も弱り、軌道の半ばで止まることも増えました」
「……はい。ずいぶんと、年老いた機関都市ですから。戦禍の傷も、多く車体に刻まれてしまっておりますゆえ。老骨には、修理と、いたわりが必要となっておるのです」
「お父さま亡き今となっては、街のみんなも未熟な私の手腕に疑問を抱き、不安がるでしょう。エステルハルドの力は、この町には必要なのです」
老いた執事はふたたび苦悶の表情となった。少女のことは、よく理解している。彼女の両親のように、やさしく聡明なのだ。『周りの人々の願い』も、『現実の過酷さ』も想像してしまえる。
二つの選択肢があり……。
彼女ならば、どちらでも選べるだろう。
血統が決めた先祖からの約束通り、残酷で傲慢な『殺戮卿』の『妻』となり、エステルハルド家に取り込まれる道。そうすることで、フィックスドフラワー家と領地である機関都市の民に、安全を保障し、安心を与えられる。彼女自身を『生贄』にする道だ……。
父親よりも年上で、おぞましい悪人の『妻』にされたとしても、周りの人々は幸せになれるのだ。欲望の犠牲になることをキティが受け入れれば、アレンに弔花を捧げてくれた市民たちも、凍えることもなければ、飢えることもない。明日を心配せずに眠れる日々を過ごせるだろう。
若く美しい黒髪の姫君キティ・フィックスドフラワーには、それだけの価値はあった。
……政略のための結婚など。美しくも悲しい犠牲により、大勢が救われるなど。よくあるハナシの一つである。現実はきびしく、すべてのお姫さまに、勇敢な騎士が現れるとは限らないのだから。
しかし……。
もう一つの、道がある。
ある意味では、より苛烈な選択であったが、少女は迷うことはない。この時期には珍しく、善良な男のために晴れてくれた空を見上げる。
遥かな蒼穹の果てには、虹色にかがやく連なりが君臨していた。
フィックスドフラワーを含む、旧い『牙』の一族たちが継承した、人類史上最大の『宇宙船』の一つ。『空を裂く虹色の牙』。
太陽系を旅立った人類が選んだ、第二の故郷であるこの星の『環』となり、衛星軌道を回りつづける宇宙船。実在さえも疑わしい神の計画などではなく、ただただ人類の不屈の執念と科学が創り上げた、歴史ある『箱舟』の残骸だ。
滅びる地球から、人類を逃して生き延びらせるため、5000年の旅をそれは成し遂げた。
キティ・フィックスドフラワーの青い双眸は、それを真っ直ぐに見上げている。名家が背負うべき、歴史と伝統そのものを。
幼さを終えて、乙女の魅力が実り始めた唇が動いた。空よりも凍えた凛然な声が、この気高い一族を長く見守ってきた執事の耳に届く。
「許しはしません。ゾルハは、お父さまを殺した」
「……ええ。ヤツは、邪悪な野心家です。アレンさまの死で、誰よりも得をする……ヤツの兵隊が、アレンさまを警護するはずだったのに……撃たれたなどとっ!!」
「あのような悪人の妻になる気は、ありません。『牙』の血に列なる娘は、気高くあるべきだから」
「では……やはり」
「復讐を、成し遂げます。油断させ、『殺戮卿』の屋敷に入り……あちらから宝を奪い返す」
「『レリック』を、奪還するのですね」
「ええ。『牙』の一族が、受け継ぐべき遺産ですから。お父さまは、交渉で取り戻すつもりだったけれど……このような事態です。伝統に従い、力で奪い返すのみ」
愛する父親を失った悲しみは深い。
そして、その深みの底から痛みを帯びた怒りが湧きあがっている。だからこそ、戦える。挑むことを誓った敵の強大さに震えながらも、こうして蒼穹に君臨する遺産を見つめられた。背負うのだ。愛する父親から、受け継ぐ。あまりにも大きすぎる使命を。
「『空を裂く虹色の牙』に誓います。ゾルハ・エステルハルドを討ち取り、この私が、フィックスドフラワー家が守るべき全ての人々に……幸せをもたらします。お父さまに、代わって」
大きいものもあれば、ちいさなものもある。
いずれにせよ、誰しもに背負うべきものがある。
だからこそ、戦いも起きるのだ。
……悲しみの視線が動く。空から戻って、雪のように純白な無数の花に飾られた両親の墓に。言葉無き会話を試みて……やがて、瞳を閉じた。
まぶたの裏に、思い出が見える。
やさしい声も聴こえた。
父とも、写真と映像でしか会えなかった母とも。二人は記憶の中で、笑みをくれる。祝福し、力づけるような。まぶたが開き、青く宝石のように美しい双眸に力強さだけが戻る。大切な記憶は、いつも少女を勇気づけた。
「だから、戦えます」
肩を揺らす大きな決意の息を吐き、少女は老執事を従えて歩きはじめる。
父親から預かっていた品を、その手に握りしめたまま……。
それは指環だ。
仇敵から贈られた、あのおぞましい呪縛などではない。
失われた歴史と、忘れられた物語、忘れられた運命を宿す、漆黒の指環である。
「……私の『騎士』となってくれる方に、これを戻します」
誓いを刻んだ空の下を流麗に歩き、彼女は運命を信じた。
古い約束、古い伝統。
魔王のように邪悪で恐ろしい『殺戮卿』に挑むのであれば、姫君を守る騎士がいる。
この地球に似た星で起きる運命は、いつでも過酷なものであった。
西暦7216年となった今でも。
これより150年前でも、同じ。
歴史は過酷であり、人は望みを失わない。それゆえ不変なる戦いの構造に囚われる。誰もがより良き一日を求めて、この過酷な星の上で未来を奪い合ってきた。
争うことは、欲深い人類が背負わされた『変わらぬ法則』である。
そして、『変わらぬ法則』がもう一つ。
歴史の叙述はいつでも不完全だ。
記録にも記憶にも、遺れなかった戦いがある。キティ・フィックスドフラワーの繊細な指に抱きしめられた指環だけに刻まれている、封じられた物語が……。
……大雪原を駆け抜ける巨大な機関都市の一つ、『シャル・リリィ』。その汽笛が鳴った。
今日はやさしい男を悼むために、まっ白な蒸気を空へと放つ。真白の体と、そこに刻まれた金色の紋様。精霊宿る大樹のごとく、神聖ささえも帯びた巨大なる機関蒸気塔。空へと舞い上がった大量の蒸気たちは、冷たい風を浴びて、すぐさま雪へと変わっていく。
凛然とした決意を秘めたフィックスドフラワーの乙女は、花吹雪きのように舞い落ちる雪のなかを進むのだ……。
変わらぬものがあり。
変わるものもある。
可憐なる乙女が、復讐者の決意にきらめく瞳を得たように……。
150年前のその日は、今日とは違う歌があった。そのとき響いた汽笛は、悼みのための聖なる歌声ではなく、敵の襲来を報せる怒りの叫びであったのだ。
無数の爆弾が空から降った。
ひゅるひゅると、空と風を切り裂く音を長く響かせながら。
黒くて丸い、悪意と敵意の込められた害あるプレゼントだ。もちろん人々は、これから逃げようとしたが、全ての者の願いが叶うほど、高性能な機械がつくり出す悲劇は甘くない。
地上で爆発が生まれて、空が鳴りながら揺れた。悲鳴と命をかき消しながら、焼けつく熱量が骨さえ黒く焦がし尽くす。街並みごと、市民が壊されていった。
「―――『使徒騎士』の、精密誘導からは……逃げられない!!」
燃えて崩れる光景を見下ろしながら、空爆者の一人が恍惚とした笑みを浮かべている。古びた機関都市に、とどめの空爆を行った十二人……いや、あるいは『十二体』と罵るべきか。
笑う彼女は『歯車仕掛け騎士団』、その聖なる戦士の一人だった。天使を模した機械、身の丈10メートルもある機動兵器。その腹に、サイボーグ化された少女がいる。
背中と天使でつながって成される、聖なる戦闘機械の『一対』。サイボーグの脊柱と、天使の疑似神経系がつながって、命と武器は融け合っていた。それこそが、戦場の空に君臨する『使徒騎士』である。
「どんどん撃ち込め! どんどん爆撃しろ!! 異教徒どもを焼いた炎で、私たちの聖なる戦いを熱くかがやかせるんだ!!」
どいつもこいつも。正義に興奮し、正義を楽しんでいる。
あらゆる戦いがそうであるように、戦う者たちは正義に酔いしれるものだ。
意外に思われるかもしれないが、『日常』の彼女は、これほど残酷ではない。むしろ。とてもやさしく常識ある『歯車仕掛け騎士団』の一員なのだ。しかし、今は、『異教徒用の殺人機械』として尽力することを心から楽しんでいた。戦争は、興奮を与える。
正義では、あるだろう。
敵を倒して、自分たちの『教えと居場所/縄張り』を広げるのだから。
歴史はいつでも語っている。宗教は、戦のもとであった。異教徒を焼き滅ぼすための軍隊を持たなかった宗教が、かつて一つでも存在したのだろうか?
「これは、聖戦だ!!」
巨大な機械天使どもは、執拗である。爆撃と同時に無人兵器の群れも放った。3メートルの長さを持った長方形の『ユニット』。熟した果実が枝から落ちるように、天使の伸ばした腕と翼のあいだから、ボトボトと降下していく。
地面に衝突する寸前に、『ユニット』は分離して、無数の小型ロボットへと姿を変えた。緻密に折りたたまれて小型化されていたものが、展開し機能的な形へと戻る。歯車仕掛けの攻撃ロボット。それらが、四方八方に進軍を開始した。
そのロボットの群れは、まるで、おびただしい物量で獲物を襲う『蟻』の群れのように見える。爆撃で弱っていた機関都市の全身に、片っぱしから喰らいついていくのだから。
機関都市は、巨大な『機関車』だ。都市を背負って大雪原に敷かれたレールを駆け抜ける鋼の箱舟。それらの全体に、敵が取りついた。
配管を噛みついて壊し、都市機能の血管を食い破っていく。
電力も水も燃料も、情報伝達も……もちろん、抵抗し、邪魔しようとする市民さえも、歯車仕掛けの蟻の兵隊どもが襲撃した。積み重なったダメージのせいで、機関都市の鋼の巨体は減速していき……とうとう雪原に沈み込むように停止する。
「どいつもこいつも、喰い尽くせ!! 異教徒どもを一掃するんだ!! 『歌喰い』で焼き払う前に、肉の檻に閉じ込められた哀れな未発達の猿どもに、悔恨の痛苦を味合わせてやれ!! 神の正義が何たるかを、教えてやるんだ!!」
これこそが、信仰に取りつかれた彼女にとっての正義であった。
争いの場というものは、それぞれの正義が食い違っているものだ。『歯車仕掛け騎士団』が、爆撃と小型兵器の群れで敵対する者たちを殺傷する……その残酷さが正義の一種であるのなら、それから逃げて生き延びようとする正義もいた。
……戦いの結末は。
……『正義の競争』の勝者は。
力と運命が決める。
「あはは……っ!! センサーに感あり!! 見つけたぞ、まだ生きてる、私の聖なる爆撃から焼け残るなどと……間違った異教徒め!!」
機械仕掛けの天使の巨体が、うなりを放ちつつ急降下していく。向かったのは爆撃に穴だらけとなった区画だ。貧民街の一角。甲高く威圧的な音と共に、穴の一つへ突入する。彼女の視界に、獲物が映った。ちいさな影が。
「ひ、ひい……っ。ば、バケモノ……っ」
9才の少女だ。赤い髪をした、チビのやせっぽち。腰が抜けて、動けなくなっていた。しょうがないことだ。
実力ではなく、運命に助けられて生き延びただけの弱っちい少女に過ぎない。『使徒騎士』は乙女のくせにバケモノと呼ばれても、喜んでいた。戦士として行動する日は、特別だ。敵である異教徒におぞましい呼び方をされても、楽しめる。
「それは、悪が正義を怖がっている、証だからねえ!!」
「……っ。こ、怖くなんて……こわくなんて…………」
小さな歯は機能しない。ガチガチと音を鳴らすばかりで、告げたい言葉が続かない。言いたいことなど、いくらでもある。どれだけ、奪われたのか……。
「情けない。怯えたドブネズミみたいね。あちこち火傷もあるから、痛いでしょう? 今から、お姉さんが殺して、何にも感じないようにしてあげるからね」
機械仕掛けの『使徒騎士』が視線を動かした。自分の爆撃を生き延びてしまった者が、他にもいないかを確かめている。黒く千切れた姿ばかりが見つかり、彼女は満足した。自慢したくなるほどに。性的絶頂にも似た震えで身を揺らし、語った。
「ねえ。周りに『ある』のは、あなたのご家族でしょう? 千切れたり、焼け焦げたり、もう、だあれも息をしていないわねえ」
「お、お前たちが……こ、殺した……ッ」
「当然でしょう。異教徒どもは、この星の害悪なのだから。キレイさっぱり処分してあげないといけないの。あなたも、お母さんたちの待っている地獄に行きなさいな、異教徒ちゃん」
「ま、ママは……ママは……っ。私……お、お姉ちゃんに、なるハズだったのに!!」
「あら、そうなんだ。じゃあ、私の討伐スコアは一つ増やしておくように修正を申請しなくちゃねえ。産まれる前の命でも、異教徒の一匹には違わないもの!」
正義は噛み合わないものだ。
戦いの場では、とくに。
焦げた死の香りを楽しみながら、機械仕掛けの『使徒騎士』の目玉はふたたび動く。火がついた『海岸』があった。もちろん、それは本物ではない。たんに海岸の風景を描いたもので、演劇の背景として用いられる舞台装置である。
「ふーん。ここは、いわゆる『劇場』だった……のね」
「そ、そうよ。ママもパパも、みんなも……み、みんなで……練習してたのに―――」
「―――迷信深く、蒙昧で、鋼の進化を否定する異教徒どもの、下らない妄想の場……海なんて、見たコトもないでしょうに。焼き払えて、良かったわ! こんな無価値な場所!!」
恐怖は大きなものだ。重たいものだ。押しつけて動けなくする。
それでも、侮辱に傷つけられた痛みが反応する。心の痛みが生み出す怒り、それがちいさな少女にも声を与えるのだ。目の前に浮かぶ10メートルの巨大な兵器を、にらみつけた。
「ゆ、ゆるさないっ。お前は、ぜったい、ゆるさない……っ」
「ええ。私も、あなたが生きているコトを許さない。じゃあね」
天使を模した機械仕掛けの巨体が動き、少女に正義を押しつけてくる。槍のように長い5メートルの砲身を、そのちっぽけな体に差し向けたのだ。息が止まりそうになる。わずかに鳴動する砲身が、恐怖をかき立ててしまう。だが、屈したくなんてない。
「し、死んでも……ゆるさないんだからっ」
「そうなの。しっかりと覚えていてね、私のカッコ良くて、慈悲深い正義を―――」
正義は、やはり食い違う。
彼女が『これ』を正義と信じるように……相対する正義もいるのだ。
「―――キティちゃん、逃げろ!!」
半壊していた劇場に、男が一人駆け込んでいた。ロケットランチャーを抱え上げながら、太った脚を床に叩きつけて突撃を仕掛ける。全身を使い、狙った。身をひねらせて角度を作り、トリガーを絞る。
列車にさえ大穴を開けられるロケットランチャーの弾頭が、天使を目掛けて飛んでいき命中した。
壊れて焦げた劇場の空中で、また爆発が生まれた。
機械仕掛けの天使もどきは、炎に包まれる。だが、男が喜ぶことはない。引きつった顔で、少女を見た。知っている。知っていた。これぐらいで勝てる相手なんかじゃない。
「早く、逃げるんだ!!」
「う、うん―――」
おびえる足が動き始めるその前に、『使徒騎士』の機械仕掛けの腕の一本が伸びた。引きつった顔は、その瞬間に薙ぎ払われて、真っ二つとなり……少女が叫ぶ。
「おじさああああああああん!?」
「あはは!! この程度の攻撃で、私が負けるハズないでしょうに!!」
「……っ」
「ねえねえ、異教徒ちゃん。助かると思った? 間違いだよ、それ。異教徒に運が味方するなんて、せいぜい一度限りよ。ほら……見なさいな」
ほとんど無傷の『使徒騎士』が、破壊されて空とつながった天井を指差した。甲高い飛行音が響き、もう一体の『使徒騎士』が近づいてくる。
少女は、その場にへたり込んだ。絶望が二倍になれば、死に場所を探しもする。どんなときでも知性は比較し、検討を好むのだから。
ここは、おそらく他よりはさみしくない。
両親がいる。この機関都市へ一緒に亡命してきた、顔見知りの同胞たちもいる。ここで一緒に終わるのも、いいかもしれない。逃げながら背中から踏み潰されるよりは、いくらかマシな終わり方だろう。
演劇と物語は。
納得できる形で終わるべきものだ。
劇作家であった父親の言葉が響く。
「大人しくなったのね。それでいいわ。さあ、今度こそ―――」
正義は食い違い。
力と運命が、勝者を選ぶ。
機械仕掛けの彼女の視界に、エラーが表示された。仲間を示すはずのグリーンにかがやく機影シンボルが『疑わしき』イエローとなり、次の瞬間、『敵』を示すレッドに変わる。
「え―――ッ!?」
仲間であるはずのもう一体の天使が、彼女目掛けて急加速し、長大な砲塔を突き出す。それは槍のような力を帯びて、彼女の体に突き立てられた。
「が、ふうッ!?」
彼女は目撃する。『歯車仕掛け騎士団』とは、異なる正義に属する者を……。
「……奪ってやったぞ。機械仕掛けは、乗っ取られるのが厄介だな」
静かな声だ。さっきの男と同じように黒い髪をした、少年。記憶にある。記録にもあった。この機関都市を襲撃した7度の戦いで、いつもいつもいつも、彼女たちの邪魔をした『二人組』の片割れ。
そいつが彼女の同僚に刀を突き立てている。左腕で首に抱き着くようにしながら、右腕で刀を使う。乙女の胴体に長く深々と、突き刺していた。
機械仕掛けの天使と接続していたサイボーグ体が、殺されている。その胴体を白刃が貫き、機械で強化された生命活動を終わらせながら、巨大な天使型兵器を『ハッキング/乗っ取り』しているのだ。
「『鉄腕』の、付属物ごときがああああああ!!」
仲間を殺されて怒り狂った彼女が暴れた。貫かれた身を振るって、なんとも強引に槍の拘束を解き放つ。この強引さに圧倒されて、敵に乗っ取られた天使が一体、ぶん投げられる。壊れた劇場の二階席に叩きつけられたのだ。
「ぐ、うっ!」
黒髪の少年は、目を細めて衝撃が与えてくる全身の骨が軋む痛みに耐える。戦いに慣れた頭脳は、あわてはしない。どんな時でも冷静に働いた。少年の手が、死者をつかむ。先ほど殺したばかりのサイボーグのあごを下から押し上げたのだ。
「あ、ああ!? レミー、か、かわいそうに―――」
見せつけるために、叫んだ。
「そうだ! オレをにらめよ! オレを恨め! お前の仲間を、また一人、仕留めたぞ!!」
「調子に、乗るな! 生身が、肉ごときがあああああああ!!」
恨みがある。何体もの同僚を、この少年には倒されていたから。いつも涼しい顔で、淡々と。戦場で暴れる死のように冷たい少年と―――そう、彼女は怒りに囚われ過ぎていた。彼女自身が叫んだように、少年は『付属物』だというのに。
やさしく空に舞う雪のごとく。言葉少なく冷静に。いつも『となり』にいた。
……遥かな文明の遺産、『レリック』の一つ……『鉄腕』。それを継承した者の、『片割れ/パートナー』に過ぎない。
「それでいい。オレに、釣られてくれたな」
「な……にッ!?」
センサーが反応する。音よりも速く肉薄する敵意があった。彼女が、空をにらむ。破壊された劇場の天井、彼女が作った爆撃の穴から……人影が迫る。見覚えのある少女だ。青い双眸が輝き、長く赤い髪が踊り、その右腕は……漆黒。
それは、この星に到達した時代の人類が遺した、『レリック/最強の兵器』の一つ。
「これこそが、全てを破壊する、『鉄腕』だッ!!」
少女が叫びながら、その腕を振り抜いた。『使徒騎士』はいくつかある腕でガードの構えをつくる。つくるが……その全てを瞬時に『鉄腕』に撃ち抜かれてしまう。
「そんな、バカな―――」
彼女にとって幸いだったのは、全ての腕を破壊されたことで、わずかながら『鉄腕』の威力が削がれていたことだ。サイボーグ体部分、まるで乙女のような細身に拳が命中し、その腹部が消滅し、吹き飛ばされたとしても……全身が消滅に至ることはない。
衝撃が、天使を弾き飛ばした。天使は巨体ごと劇場の床に叩きつけられて、劇場の奈落よりも深い地下へとめり込んでしまった。
むろん、深刻なダメージである。その深刻度を示す警告の音が、全身から発せられた。視界にも身体の破損情報を示す赤い文字が、埋め尽くすような勢いで表示されていく。『危険』、『異常』、『破損』……あまりにも多い。
一瞬で、死の淵まで追い詰められてはいるが……どうにか逃げるための余力はあった。
「か、狩られて……たまるかっ。生身、ごときに」
機械仕掛けの巨体から小型のポッドが射出され、それらは閃光と煙幕を張り巡らしながら、ねずみ花火のように劇場の床を駆け回る。『鉄腕』の少女と、その片割れに始末されるまで、この兵器は十秒間も粘ってみせたのだ。
そのあいだに彼女は、地下を無理やり崩しながらトンネルを掘り進めていき、戦闘からの離脱を果たす。『鉄腕』は、それに気づくと忌々しそうに鼻を鳴らした。
「ふん。私が仕留め損ねるとは……厄介だな、『使徒騎士』を逃がしたか」
「しょうがないさ。それよりも、生存者の救助を優先しよう」
「……ああ。イワンは……」
「イワンは、死んでいる」
「……良くも悪くも、色々とある男だったが。気高い『狼』の一員だった」
漆黒にかがやく『鉄腕』で敬礼を作り、少女は……生き残った少女のとなりに向かう。
「お、おねえちゃん……ッ」
「ああ、無事で何よりだ、ちいさなキティ」
「みんな、みんな……し、死んじゃった……ッ。ま、また、死んじゃったの……」
悲劇に対して、言葉を選ぶのは難しい。『鉄腕』は、生身の左腕を使って、ちいさなキティを抱き寄せる。温もりと、やわらかさは……『鉄腕』の絶対的な力よりも、偉大なときもあった。
ちいさなキティは、泣きじゃくり、抱き着いて、叫んだ。
「そうだ。叫べ。思いっ切り、叫ぶんだ。ぜんぶ、叫んで出してしまえ。ちいさなキティ。『狼』たちも、がんばったのだが……悲しい運命を打ち崩せない時もある。だけど、私たちは、まだ生きているのだ。必死に生きている者には、運命が分かる。成さねばならないコトが、感じ取れるものだ」
劇団の発声練習が鍛えた肺活量は大したものである。数十秒続いた叫びは、やがて終わった。ちいさなキティは、涙を拳で拭い捨てながら宣言するのだ。
「ママの、かわりに……うんであげるのっ」
「うん。それでいい。さすがは、キティだぞ!」
生きることには意味がある。成し遂げて、果たすべき役割が誰にでもあるものだ。ちいさなキティはそれを見つけた。
「二人とも、避難を始めよう。敵は、まだ多い。この機関都市は、もう動けないんだ」
「脱出するほかないか。さあ、行くぞ、キティ。お前は、生き延びねばならん」
うなずくキティの手を引いて、死と思い出と愛があった場所から『鉄腕』は進む。その片割れは静かに、『鉄腕』とちいさなキティの背後を守った。いつものように。
……この機関都市は、『歯車仕掛け騎士団』の襲撃に敗北した。
だが、幸運もある。大雪原をかき分けながら敷かれたレールの上を走り抜くのが、機関都市―――前後に数キロもある、巨大な『動く都市』だ。この大雪原のレールを巡る旅には、補給を行うために、いくつかの『駅』があった。
「……『駅』と言っても、補給と補修工事をするための小さな設備だが……地下道も、用意してある」
「そこまでは、この機関都市も、どうにか持ちこたえてくれたのだ。私たち『狼』は、いつだって仕事を成し遂げる!」
最後に残された避難用のルートだ。そこに、機関都市の人々が集まっている。地下道を走り抜けるために用意された小さな列車は、怯えた顔の人々で屋根まであふれ返っていた。
「二人とも! 無事だったのか!」
そばかすが目立つ黒髪の少年が、疲れ果てた笑顔で駆け寄ってくる。彼もまた『狼』と呼ばれる自警団の一員であり、『鉄腕』たちの後輩だった。『鉄腕』の片割れは、伝えるべき言葉を口にする。
「ニコライ。イワンは……お前の父親は、戦死した」
「……っ。あ、ああ。だと、思った。親父は、もう、オッサンだし……」
「あの子を庇って戦死したんだ。名誉ある終わりだったぞ」
「あの子は……あの子も、たしか、キティ……難民劇団の……」
「そうだ」
「は、ははは。親父……母さんが、死んでからは、オレを、ぶん殴ったりしてたのに。何だよ、それ……虐待野郎のクソ親父のくせに……っ。どうして、そんな死に方……」
「悪い面も、良い面もあった。ニコライ、ちいさなキティを頼む」
「……お前は?」
「あいつと一緒に、戦場に戻る」
「あ、危ないだろ……ッ。もう、『狼』のほとんどが死んでいるんだ」
「そうだな。だが、誰かが『囮』を果たさなければ、この避難列車を追跡されかねん。仲間を守るための最高の方法の一つは、敵を叩くことだ。団長も、そう教えてくれただろ」
「それは……そう、だけど」
「こっちは任せた」
ニコライは、うなずくほかなかった。彼では、『囮』として長く戦う力はない。死ぬまで『囮』をし続ける意志の強さも、おそらくなかった。今このとき、勇気を込めて足を踏み出せないのが証明になるだろう。その場に凍てついたように立ちつくし、避難列車を守る道しか選べない。
ニコライは臆病者ではないのだ。たんに普通なだけ。
戦場はいつも英雄の血を求めすぎる。
「お姉ちゃん……お兄ちゃん、行っちゃうの……」
「ああ! 私とコイツで、性悪な機械女どもを片っ端から仕留めてくるぞー!!」
「元気で。ちいさなキティ」
牙を見せる『鉄腕』の笑顔と、そのとなりに立つ片割れの冷静な微笑み。ちいさなキティは、二人を見送る……姿が見えなくなるまで、ちいさな体を弾ませながら全力で手を振っていた。
ニコライは『鉄腕』と片割れの背が見えなくなると、うなだれる。
「……やっぱり、お前が、彼女と一緒に行くんだ……っ。元々、『狼』じゃないのに。お前、オレたちと関係なかったのに……この機関都市の『外』から来たのに……仲間どころか……っ」
……『敵』だったのに。その言葉が口から出ることはなかった。
ずっと昔。『鉄腕』がまだ『鉄腕』を継承していなかった頃。
自警団『狼』は遭難した山賊たちを発見した。彼らとは因縁深い関係であり、長らく双方に死者を出す争いをしていたものの……山賊たちの命運は、戦いの疲弊と突然の猛吹雪により潰えた。
どこまでも白が広がる雪原に、凍り付いた死者たちがいる。一か所に集まり、支え合うようにお互いを抱きしめ、折り重なって……全員が雪に呑み込まれてしまっていた。
当時の『鉄腕』の使い手である『団長』に率いられ、『狼』は山賊たちの終焉の地に到着する。幼いころのニコライもそこにいた。『鉄腕』の背に隠れたまま、無数の凍死者に怯えて震え続けている……。
山賊たちの青白い死に顔は苦痛で歪んでいて、その表情は、自分たち『狼』への怒りと恨みに満ちているようにニコライは感じた。この『敵』どもは、容赦なく『狼』も機関都市も攻撃してくる、恐ろしい連中であった。
……風が吹いて、死者たちから雪を払うように大雪原を駆け抜ける。『鉄腕』は、そのとき見つけた。ちいさな少年が、雪に半ば埋もれて倒れている。
青ざめて横たわり、動くことはない。『死んでいる』と彼女も判断する。ひとりで、少年へと近づいていき、パキリと牙を鳴らした。
口に入れていた飴を、噛んで割ったことにニコライは気づく。
この山賊たちも、元々は他の機関都市を追われた難民に過ぎない。みじめで貧しく、誰もが傷だらけで、やせ細っていた。必死になって求めていたのは、機関都市の食糧だけだ。
噛んで割った飴を、『鉄腕』は凍死したはずの少年の口に詰めてやる。彼女なりの弔いのつもりだったのだろうが……運命は、少年に死を与えない。飢えた舌が、甘味に誘われて動く。白く凍てついたまぶたが、出血を伴いながら開いた。
「お。生きていたか!」
ありえない、ニコライは思った。だが、それは現実だった。少年は息を吹き返し、笑顔に手を引かれ、雪の底から引っぱり出される。
よろつきながらも死にあらがうように、彼は立ってみせた。その様子を見て、少女の笑顔はますます強くなる。あんな笑顔を見せるなんて、幼なじみのニコライも知らなかった。
「来い! 山賊たち全員は多すぎて、うちの機関都市には受け入れられなかった。だから、争うしかなかったんだ。でも、お前ぐらいなら、大丈夫だろう。ちっこいし。だよな、父上!」
団長はうなずいた。厳格なリーダーであったが、娘には甘いところもあるし……子供が一人だけ生き残った『理由』も見えていたからだ。
山賊たちが、どうにか子供だけは守り抜こうとした結果としか、考えられない。死を呼ぶ絶望の吹雪の中心で、彼らは善意を選んだ。それでも、この結果は奇跡と言うほかにないが。
ニコライは、団長が白い息を吐きながらつぶやいた短い言葉を覚えている―――。
「―――『運命だ』。やっぱり、あいつは……最後まで、彼女と一緒だった……ッ」
初恋の相手を、奪われた気持ちになる。涙がボロボロとこぼれ落ちていく。ニコライにとっては一種の失恋だったが、それでも、運命には勝てないような気がした。不思議なことに、勝てなくてもいい気さえする。こんなに悔しいはずなのに、これが正しい結末だと感じられるなんて。
理性的ではない。
科学的でもないだろう。
だが、『鉄腕』と片割れは、そう在るべき運命だったのかもしれない。少なくとも、それでいいと信じられるからこそ、この二人は笑顔で戦い続けている。
「行くぞ!」
「ああ」
壊されてしまった機関都市の中を、駆け抜ける。敵の群れを目指して、二人は迷いなく突っ込んでいく。
敵は、思惑の通りに反応した。『攻め込まれたら守る』、それが戦場では当然の反応の一つである。ほとんど本能的に、その再現性の高い傾向は発生した。今もそうなっている。市民狩りに出ていた戦力は引き返し、二人に殺到していく。『囮』としての役割は、十分に果たせるだろう。
代償として……生き残れる可能性は、これで完全になくなったが。
それでも、自警団『狼』の使命は果たせる。
「ならば、問題はない!!」
群れの仲間を守るために、戦う。
たとえ、死の運命に呑み込まれたとしても。それこそが、大雪原を走る鋼の機関都市に棲む『狼』たちの伝統に他ならない。
獣じみた、勇敢な笑みで駆け抜けた。
「殺せ!! 『鉄腕』と、その片割れを引きちぎってやれ!!」
「こいつらに倒された『歯車仕掛け騎士団』の聖戦士たちの恨みを、今こそ晴らすんだ!!」
敵、敵、敵。
地上も空も敵でいっぱいになる。
これまでと同じことだ。何も変わらない。『狼』らしく、仲間のために成すべきことを達成する。その結果、死んでしまったとしても運命に過ぎない。
少女が父親から継承した『鉄腕』を振り回し、『歯車仕掛け騎士団』に突撃していくのなら、少年がその背を守る。ときには前に出て『囮』にもなる。盾のように、剣のように。騎士のように。静かだが迷いなく、全力と全霊を注ぐのみ。山賊たちの使っていた刀術と共に。
戦った。
命の全てをこの場で燃やし尽くすという覚悟は、二人にかつてない力を与えている。
「いっくぞおおおおおおおおおおおおおッ!!」
雄叫びを放ちながら、赤毛の少女が『鉄腕』を空に向けて突き上げる。漆黒の腕が『開き』、その奥から巨大な鎖の群れが撃ち出された。
空を裂く無数の鎖たちは、まるで『黒い雷』だ。『歯車仕掛け騎士団』のセンサーさえ追い切れない速さで、空に稲妻の軌跡を描く。轟く、雷鳴の咆哮を響かせながら!
空に広がった漆黒の幾何学は、鞭となり怒りのしなりを帯びた。敵の群れを裂いて暴れながら貫く。爆撃で廃墟となった街並みごと破壊ながら、何百メートルも伸びるのだ。
「そ、空と地を這う、黒い大蛇!? 黒い、雷!? お、おぞましい……ッ」
「なんだ、こ、こんな技は……報告にないぞっ!?」
「当たり前だ! こんな力、危なっかしくておいそれと使うものか!! お前たちが、街を壊したから、ようやく手加減せずに戦えもする!!」
長く伸びた鎖に貫かれた兵器と、かつて街並みであった瓦礫。鎖は、それら破壊の残骸を無造作に巻き取りながら、『巨大な球体』を練るようにして作り上げた。
「ま、まさか……ッ!? て、て、『鉄球』!?」
「そうだ!! これは知っているだろう!! 私の父上も、これで伝説を作った!!」
数百トンはある、巨大が過ぎる鉄球だ。使い方次第では、山さえも一撃のもとに吹き飛ばしてしまうだろう。
それがどんなに重たかろうとも、『レリック/最強の兵器』ならば使いこなせた。『鉄腕』は牙を剥いて笑いながら、走る。鉄球とつながる鎖はすぐに張り詰めて、力は鉄球を引きずり、壊れた街並みを共に進む。加速する、疾風のような速さに。
「あれを、あんな速度で引っぱっている!?」
「ありえん力だ!?」
「こ、これが、『空を裂く虹色の牙』の『護衛艦隊』を、ま、丸ごと『圧縮』して生み出した『レリック』……『鉄腕』……う、浮いたッ!?」
「片っ端から、ぜんぶ、ぶっ壊してやるぞおおおおおおッッッ!!!」
まだ若い少女の体ではあるが、『鉄腕』に強化された身でもある。常識など、とっくの昔に超越した力を宿している。引きずられていた鉄球は加速と共に、浮かび上がるのだ。彼女はその場で竜巻のような勢いのフルスイングを始める。
原始的な破壊力が、そこに作られた。
巨大であり、恐ろしく重たい鉄球が、超高速で回転する。その威力は、想像を絶するものだ。
漆黒に染まった破壊の竜巻が、機械仕掛けの蟻どもを街並みごと粉砕し、空中に逃げる『使徒騎士』も打撃していく。鎖は、少女の願いの通りに伸びもすれば、縮みもしてくれた。片っ端から敵を滅ぼすために。
「衝撃波が……暴れてるッ。お、音速超え!?」
「馬鹿げた速さと質量だ、絶対に、避けろ!!」
「あ、あんなもの、まともに当たれば、吹き飛ばされてしま―――――」
直撃すれば、断末魔さえも吹き飛ばす。それこそが、この鉄球の威力であった。機械仕掛けの天使の巨体も、それに付属するサイボーグの鋼の身体も、圧倒的な破壊の前には刹那の間ももたずに分解する。
一体、二体、三体。天使が吹き飛ばされていくが、『歯車仕掛け騎士団』も戦いのプロである。鉄球とつながる鎖を狙い撃ちし、制御を失わせた鉄球を数十キロメートル先の雪原へと落とすことに成功していた。
雪原に落ちた鉄球は、巨大な爆発を起こし……大地を揺らす。
「ふ、ふざけやがって……あんな爆薬まで、仕込んでいたのかぁ……っ」
あまりの破壊力に、『歯車仕掛け騎士団』は押し黙る。だが、その沈黙も長くは続かない。恐ろしい鉄球は去ったのだから。あの大技を、いくら『鉄腕』でも何度も使えるはずはない。赤くかがやく『使徒騎士』たちの目が、二人へと向いた。
「ち……っ。全員、丸ごと、巻き込んでやるつもりだったのに」
「デカブツを三体も倒せれば、上出来だ。来るぞ、鎖をパージして、備えろ!」
「ああ!」
「『鉄腕』どもを、爆撃で殺してやれ!!」
「物量で、踏み潰すんだ!!」
戦いは継続する。爆撃の雨が降り注ぐ中、残りの『使徒騎士』と無数の小型兵器どもが迫った。
「ハハハ! 薙ぎ払ってやるぞ!!」
黒いうねりを帯びた『鉄腕』を振るった。空間が歪む。壊れた街並みがえぐられ、瓦礫の津波となり、小型兵器どもを押しつぶした。正拳を放てば、はるか遠くの『使徒騎士』さえも打撃し、ダメージを与える。
それが、『鉄腕』という『レリック』の力のひとつだ。無限の火薬庫以外にも、能力は多い。『あまりの力で、空間も物理法則さえも捻じ曲げる』。
他の『レリック』と同じように、使いこなせば、魔法じみた力を実現させるものだ。
「『飛べ』!!」
小型兵器をぶん殴って破壊しながら、『門』を作った。傷口のように君臨した、揺らめく空間の裂け目。少年は迷いなくそこに飛び込み、空間を跳躍する。
「え―――」
「―――痛くはしないさ」
空中高くの安全圏にいるはずの『使徒騎士』、そのサイボーグ体の目の前に、空間の裂け目と少年が現れていた。回避も恐怖も許さない速度で、刀による突きが放たれる。
特別な汚染能力を持った、ナノマシンの毒が刃にはたっぷりと寄生していた。それに貫かれれば、サイボーグ体は機能を停止し、機械仕掛けの天使は『支配/ハッキング』されてしまう。機械殺しの魔剣だ。
「暴れろ」
少年はナノマシンに命令しながら天使を蹴って、空間の裂け目へと背中から戻る。瞬時に、彼は彼女のそばに帰ったのだ。ワープ。空間を転移する。『鉄腕』を使いこなせば、こんな芸当も可能となった。
「いい仕事だ! ほら、予備の山賊刀!」
「ああ。ありがとう」
空中に残された機械仕掛けの天使は、暴走する。少年の刀を突き立てられたまま、同胞たちへと襲い掛かった。戦場は混乱し、それは二人に有利を呼ぶ。
「そ、その技で、さっきも……レミーも……ッ!! ゆ、許せん!! 卑怯者め!!」
……『狼』は奇襲を恥じない。そもそも……。
「こっちは二人だけ。この数の差なら、卑怯どころか、勇敢が過ぎるというものだ!!」
「守ってやるから、攻めろ。この数を相手に、後手では犬死にだ」
「ああ!! 『狼』は、退かん!!」
戦った。『狼』として、仲間を守るために。多くを仕留めたが、傷を負わされ、追い詰められてもいく。お互いが、死へと近づいていくが……そもそも勝者は決まっていた。
あちらにも『レリック』はある。
命どころか記憶さえも焼き尽くす、『歌喰い』が。その発射時間は、近づいていた。
「……作戦時間は、終了だ。あとは、『歌喰い』に焼かせればいいわ」
「撤退するぞ。これ以上、わざわざ異教徒どもに付き合わなくていいんだ!」
敵が撤退を始めるのが見えたが、あの『使徒騎士』だけが居残っていた。ちいさなキティの前に降り立った、あの怒れる正義の執行者だ。怒りもまた、逃走を封じさせる。
「お前らは、ゆるさん!! 『歌喰い』で焼かれる前に、必ず、私が殺すううう!!!」
「来るがいい。勝負は、受けて立つのが『狼』だ!!」
「……こんな傷だらけでもか。援護するオレの身にも、なって欲しいぞ!」
突撃し合う。
とてもシンプルで、とても破壊的な時間が訪れた。原始的な殴り合いである。これぞ西暦7000年代。
「肉ごとき!!」
槍のように長い砲身が少年を叩きつける。防御に使った刀が真っ二つに折られた。
「そいつを殺させるかああああッ!!」
相棒の窮地に、血が燃える。『鉄腕』が飛び上がり、空間さえも歪める鉄拳を機械仕掛けの天使にぶち込んだ。鋼の巨体さえもねじりながら引き裂く圧倒的な威力が走り、天使の体は四つに分断されて破壊される。
「ま、負けるか! 『歯車仕掛け騎士団』を、なめるなあっ!!」
空に飛び散る天使の欠片、それから分離して『使徒騎士』が襲い掛かる。あがいて暴れるサイボーグ体の攻めには、鋭さがあった。
「レミーの、スペアボディが、私に力をくれている!!」
倒された仲間のパーツを使ったのだ。鋼の乙女の格闘術が、『鉄腕』と片割れを襲う。瞬時に間合いを奪い取られ、二人は殴られ、蹴られる。骨にヒビが走ったが、それでも『鉄腕』は反撃した。
「殴り、飛ばしてや……る!?」
「当たらなければ、『鉄腕』とて!!」
漆黒の突きをかいくぐり、必殺のカウンターを入れる機会を得た。見事な動きであったが、二対一である。
「オレが、いるぞ!!」
折られた刀で斬りつけた。長さは半分になっていたが、『毒』はまだある。鋼の乙女は、怯まない。刃を拳で受け止めた。前腕の半ばまで斬撃は到達していたが、止まる。
「ナノマシンに、壊されるまでに……ッ!! お前らを、仕留めればいいだけだ!! レミー、やるぞ!! レミー、レミー!! レミーの今日の記憶は、戻らない!! 出撃前に、あの子は、このリボンをくれたんだ!!」
サイボーグでも、心が与える力があった。保存されなかった思い出と共に、彼女はおそろしい速さをまとう。まるで、鋼の獣のようだ。
もはや避ける余裕など、誰にもありはしない。あまりにも近い間合い。こうなれば、ただひたすらに攻撃し合うのみだった。血と歯車とオイルが飛び散りながらの接近戦、三人全員が傷つき壊れていく。だが、最初に倒れたのは……『使徒騎士』だった。
「う、うごかな―――」
ナノマシンの毒が運動機能を蝕み、『鉄腕』の拳の直撃を避けられない。吹き飛ばされて、廃墟の中に沈む。立ち上がる力は、これで消え去った。戦場の風が、解けてしまったリボンを何処かに連れ去っていた。
「ぐは、ああう。はあ、はあ……っ。こんなの、嘘だ。負ける、なんて……ありえん。生身に、肉ごときに……どうしてえ……っ」
機械仕掛けの視界が、涙ににごる。空は高く、虹色の牙がいた。仲間はもう誰もいない。
よろめく『鉄腕』は相棒に支えられ、空を見上げる敵に顔を向けた。血混じりの言葉を捧げるため、血まみれの唇を動かす。
「お前は、よくやったよ。私たちも、ボロボロだ……ここらで、退かせてもらう」
「……生き延びれんぞ。『歌喰い』は、記憶改変だけじゃない……爆心地は、吹き飛ぶ」
「『レリック』の狂暴さは、身に染みている。『牙』の一族だぞ、私は」
「……ムダだ。逃げ出しても助かりは、しない。そもそも、お前らも……死にかけてるじゃないか」
「うん。だが、まだ、どうにか歩ける。生きているのなら、果たすべきコトが見える……」
「この期に及んで、何が、あると……」
「じゃあな。最期の時が訪れるまで、そっちも生きろ」
「……違う。死ぬのは、お前たちだけだ。私は、保存されている。データが、保存されているから、再生してもらえる……怖くなんて、ない。怖くなんて、怖くなんて……っ。ママとパパの元に、戻れるんだ……っ。レミーとだって、やり直せば……いいっ」
それもまた、この星で企画された『進化』の答えの一つだ。体を機械化して、命をデータ化する。それもまた、進化と言えなくもない。魂の所在も、『歯車仕掛け騎士団』という『宗教』が定めてくれたはずだった。
「死んでも、生き返るんだ。わ、忘れ去られたとしても、保存された私が、さ、再生されて生きていける。その子は、私じゃないけど、ちゃんと、『私』なんだ! ママと、パパは、明日も『私』を良い子だって褒めてくれる……っ!」
死にかけた体を支えながら去り行く者たちは、答えてやる余裕もない。ひとりぼっちとなる。仲間たちからも合理的な判断として放棄された『使徒騎士』は、強がれなくなった。バックアップ/代わりがあるのなら、戦場で捨てたとしても問題はない。
「同じだろう。同じだろう!? こ、こんな恐ろしいところに、わざわざ舞い戻ったのは、お前らも私も、同じじゃないか……同じで、いいや。私だけが、生き残れるのに……ッ」
仲間である『歯車仕掛け騎士団』との通信は切られた。
正しい判断で、合理的で、間違いではない。再生してもらうべきデータは、残してあるのだから、このみじめな叫びを電子化して受信する必要なんてどこにもない。精緻な歯車の教義に反する、よどみを生みかねないノイズに過ぎないのだから。
「そ、それなのに……それなのに……ッ。どうして、私は、こんなに怖いんだ……ッ」
空を裂いて走る、虹色の牙を見上げながら。取り残された者は、その悩みと最期まで向き合うのみだ。おそらく、ひとりぼっちで。『いくらでもやり直せる』と信じてしまった者が、どれほどの価値を自分に持てるのか。無限の中の一つなどになってしまったとき、その命が本当の気高さを自覚するのは難しい。
「どうして、お前らは……何もかも失うお前らの方が、笑っていやがるんだよ!!」
ここは歴史の繰り広げられる場所、戦場である。問いかけるような叫びに、答えてやる義務はない。そもそも瀕死なのは二人も同じ。機械化されていない体は、傷だらけで、動けるだけでも奇跡だった。
「……笑顔だって?」
「オレは、死ぬほど苦しいぞ」
「私もだ。でも……」
「……でも?」
「さみしくは、ないな」
「……そうだな。満足だよ」
「どうして……?」
「……さあ。たぶん、一緒だから」
「うん」
支え合いながら歩く。揺れて並ぶ足跡に、どちらの血も落ちた。冬には珍しく、空はよく晴れてくれている。焦げ臭くなった風の流れる街並みは、炎に呑まれつつあったが、思い出はいくらでも感じ取れた。戦いと瓦礫には、もうなれている。
たくさん壊され、たくさん奪われた。
最後に残っているものは……。
「負けたな……そのあげく、『歌喰い』に、記憶までも焼かれるか。私たちは、よくここで遊んだな」
「……ああ。誰かは女のくせに、いたずらばかりするから困る」
「すまん」
「……素直にあやまれるのなら、最初から…………」
「鍛錬にもなっただろ。『狼』として、鍛えてやったんだ。お前やニコライを!」
「物は言いようだな」
「……何にせよ、楽しかったはずだぞ。笑ってた、お前も」
「……ああ」
「全部、消されるのか」
「『歌喰い』は、この世でいちばん邪悪な民族浄化兵器だ。焼かれた者たちの記憶も記録も、消し飛んでしまう。オレたちは、『いなかったコトにされる』……」
「……そうすれば、『後腐れ』がない。歴史というものは、報復の連鎖だからな。消え去った者たちの記憶がなければ、恨みさえも、残せない……」
「残酷な兵器だ。オレは、あんなもの大嫌いだぞ……」
「私だってそうだ。そう、だが……」
「……だが?」
何もかも、義務さえも果たした今では、いくらか大切なものが心に浮かんだ。空を走る虹色を見つめながら、少女は素直になった。あんなに重たかった空が、義務が、今は怖くない。『牙』の一族の継承者ではなく、ただの女の子でいられる。
「…………お前が……一緒にいるから、いい」
「……ああ。オレもだ」
痛くても、苦しくても。笑顔でいられる理由を二人は知った。
戦いの場などにいれば、死について学んでしまう。どんな死に方が、良いのかも考えてしまうものだ。
仲間同士で、語り合った夜もあれば、文学を頼ったこともある。悲劇の定めを持たされた愛に、少なくない数の物語たちが……共に死ぬ道を与えてきた。
愛する者と、共に死ねるのであれば、それは、文学的で詩的な美しさがあるだけではなく、本当に幸せな終わり方でもある。少なくとも、この残酷で容赦のない戦場に生きる者にとっては、ぜいたくなほどの終わり方であった。
誰だって、最後の瞬間に独りぼっちは嫌だろう。愛は星のように引力を持っていた。おたがいをそばに、呼び寄せようとする。離れ離れはいやだ。『空を裂く虹色の牙』を、この星で生まれた劇作家たちは、それぞれの比喩で表現してきたが。
その一つは、地球の物語になぞらえたものである。
あの虹色の牙は、まるで天の川。
もはやアルタイルもベガも、この星からは見えないのだが……カササギがかける橋の物語に、共感を抱ける。織姫と彦星は、出会いたいだろう。ロミオとジュリエットもそうだ。愛はやっぱり引き合って、独りぼっちはさみしくて嫌だ。
壊れてしまった『狼』の基地を目指して進む。追いかけてくる敵もいない。意図があったわけではない。ただただ訓練された通りの動きを体がしているだけのこと。意識はもうろうとなりながらも、ゾンビのようにふらつく脚で進んだ。生きるために、体と心に刻み込んだ訓練が、そうさせただけ。
「あーあ。私たちの基地、壊れちまってるなー……」
「……オレたちと同じで、ひどいありさまだ」
街並みを見渡せる小高い丘に建てられた小さな基地、その壁は爆破で崩壊し、鉄骨は熱で歪んで、穴だらけになっている。あちこちを吹き抜ける風が、冷たいくせに焦げ臭かった。
「地下は、まだマシか……ほら、行くぞ」
「……ああ……がんばった私を引っぱってくれ。だが、行ったところで、な……」
「それでも、だ。時間があるのなら―――」
―――告げたいことも、ある。したいことは、できないかもしれないが。せめて。
「……んっ!?」
空に音が響いた。無数のミサイルだ。それらは、やわらかな放物軌道を描き、停止した機関都市のあちこちへと降り注ぐ。『鉄腕』は舌打ちした。
「クソ。あれが、『歌喰い』か!?」
「……いや、違う。その前段階……ただのミサイルだ。障害物を崩して、より『歌喰い』の炎を通すようにするつもりだろう」
「まったく。どこまでも嫌味な、女どもめ――――――」
遠くない場所にミサイルが落ちた。光と、街を破壊する爆音どもが融け合い、声が聴きとれなくなった。
死にかけていても、本能が命ずるままに逃げる。しかし、街並みを焼き払いながら土煙を引き連れて進む衝撃波は、あまりにも速い。二人してよろめきながら、どうにかエレベーターに身を投じる。
ドアが閉じる前に、衝撃波の一部が追いついていた。少女は、あきらめる。少年は、あきらめなかった。ろくに動けないはずの体で、彼女を庇う。盾になった。爆風が、瓦礫の破片を散弾に変えている。それらが少年を貫き、爆風の振動がエレベーターを襲った。
抱きしめられる。
死にかけているのに、力強い。
少女は自分の名前を聞いた。喜びのしびれが生まれるのが分かる。大好きだ。この声も、この黒髪も、このやさしさも、ぜんぶ、誰にも渡したくない。いつまでも、抱きしめられていたい―――。
エレベーターを吊るしていたケーブル機構が壊されて、地下に向かって落ちていく。3秒後、とんでもない衝撃があって、血と土煙のにおいがあたりを満たした。あちこちぶつけて死ぬほど痛かったが、それでも表情は…………。
……自分におおいかぶさる少年を、少女は抱きしめ返してやる。すぐとなりにある顔が、あまりにも愛おしかった。
「やっぱり、お前は……いいやつだ」
「……っ」
薄暗さと土煙の混沌に呑まれたまま、少女は少年をその唇を奪った。血の味がした、命の味だ。
どちらも同じ味を感じる。お互い、全身がボロボロだったから。
赤い赤い血の味。
……それなのに、少年が思い出したのは……ずっと昔の飴の味。
やわらかな唇の下にある牙が、ガチリとぶつかった。それが合図になって、唇が離れていく。少女は、言った。少年が、この行いの意味を確かめるための言葉よりも早く。
「行こう。まだ、地下の電力は、生きている」
「……ああ。う……ぐっ」
少女に支えられて、少年はいつかのように立ち上がる。
死にかけたように点滅する非常灯のかがやきの下、断ち切れた通信ケーブルが火花の涙を流す細い通路を進んだ。『地ならし』の爆撃は続いている、地下の通路もよく揺れたが、電力が途切れることはなかった。
痛いが、それが気付けとなっていたのだろう。二人の意識と記憶はつづく。瀕死の歩行のなかで、現在の意識と、過去の記憶が混ざり合ってはいたが……。
雪の下から引きずり出された少年は、機関都市で暮らすようになる。
最初にあった抵抗感も、やがては小さくなっていく。
バカで無邪気な子供らしく、仲の良い日もあれば。
大人みたいにマジメな顔で、ケンカした日もあった。
教え合う。
秘密だとか、本音だとか。
山賊たちの言葉も、『狼』の暗号も。
多くの日々が、流れていった。
すれ違うことも、分かり合うことも。
遠ざかったり、近寄ったり。
大きな義務を重荷だと感じたり、普通の女の子に憧れたりしていることを知った。
じつのところ少女が英雄よりも、花嫁にあこがれていたことも知っている。
だから、あの指環は右手に……。
少女がどんな選択をしても、一緒にいることを決意した夜もあった。
戦いに行くのなら、何処までも……。
死がふたりを分かつまで。
日々は積み重なって、何かを変えていく。
……歴史に記述されない時が流れて、二人も、二人の周りも、変えたのだ。
少女の父親は、出来る限り多くの難民を受け入れるようになった。少年を見る度に、可能性を見たからだ。追い詰められて荒んだ者たちのなかにも、不変なる善意があると。
行き場がないがゆえ、山賊になるはずだった者たちが、機関都市に迎え入れられた。
あの難民劇団も、運命が変わった者たちに含まれる。
守るべき者たちが増えたせいで、苦労も増えたが、幸せも増えた。命を捧げた最後の戦いの日々を、その男は喜びと共に過ごし……愛娘に『鉄腕』と『狼』は託される。
記憶があって、それらは多くをつないでくれた。
忘れたくない思い出ばかりだが……これから『歌喰い』は、それらも食いつぶす。
死よりも辛いのだ、その喪失の痛みは。
飴の味も、血の味も、忘れたくなんてなかった。
運命は、選ぶ。二人は、その道の果てにある医療施設にたどり着けた。だから、少女は決めるのだ。歴史の叙述が、不完全であるというのなら……敗北の炎が、あらゆる記憶を奪おうとするのならば……『鉄腕』には、選べる道があった。たとえ、悲劇よりも悲しくて痛みをともなう道であっても。
「―――良かった。医療ポッドは、生きているぞ。本当に、良かった」
「これから死ぬのに、治療なんて、いらない……」
「……いいや。私はともかく、お前が死ぬとは、限らん」
「おい。何を、考えている……う、ぐっ!?」
少年は医療ポッドに投げ込まれていた。ボロボロの体に、冷たく硬い時代遅れの機械がぶつかる。文句を言いたくなるほどの痛みだったが、失血に疲弊しすぎている体は動いてくれない。起きようとしたが腕にも足にも力が入らず、その場に崩れ落ちてしまった。
「一緒に、死ぬ気だった……ロミオと、ジュリエットみたいな気持ちで」
泣くのだ。強がりなんて、できやしないから。ボロボロと、星くずみたいに光って、涙は落ちてくる。
「お、い―――」
「―――それでも、きっと私は幸せだから。でも、気が、変わったぞ」
「何を……っ」
「『歌喰い』に、ケンカを売るんだ」
「バカを言え。あれは、核爆弾みたいなものだ。爆心地は、全部、吹き飛ぶ」
「『鉄腕』がある。これで、その爆発の瞬間だけ、ここを守る。そうすれば、お前は、助かるかもしれん」
「嫌だ」
「……正しい判断だろ」
「それでも、嫌だ」
「……どうして?」
「一緒に、いる。いたい。戦うのなら、オレも、一緒だ」
「ああ。それが、『狼』だから―――」
「―――『狼』だからじゃないっ」
「……ああ。ああ。本当に、私を、笑顔にさせてくれるよな、お前は」
笑顔で泣くのだ。
あまりにも、うれしいから。
このまま、決断を変えてしまいそうになる。一緒にいたいのは、同じだ。だから、でも。だからこそ、この『鉄腕』で運命をねじ曲げてでも……守ってあげたい。
覚悟をする。乱暴に、無理やり、力尽くに機械の扉を閉ざしてしまいながら。
静かになる。
網膜に残っている少年の顔が、何かを言いたそうだった……おそらく、叫び出す寸前だったのだろうが、よく聞こえなかった。姿だって見えなくなった。聞こえないし見えなくもなったが、それなのに、理解はできる。つながっている。
「だから、嬉しいのさ。聞こえなくても、見えなくても、分かってしまえる。だから……この記憶を、私は……誰にも奪われたくなんてないんだ」
一緒に死ぬのも、良かっただろう。
それは、とても、おだやかな終わりだったはずだ。孤独とは、まったく違う終わり方だった。そうだったとしても。
後悔はしない。後ろ髪を引かれながら、進むことを決めた。少年のために、自分のために。
「守るんだ。絶対に、守ってやるぞ……」
大切な者の名前を愛しさで呼び、少女は新たな運命を選んだ。
……空は、揺らぐ。
はるかな高みに君臨する『空を裂く虹色の牙』の下に、『歌喰い』が現れた。歪んだ空間が折り重なって、紫色の光を放つ『紋章』へと化ける。その中心に、両腕を大きく広げた『女神』の姿が紡ぎ出された。
女神は、両腕を標的に伸ばす。巨大な両手の先に、紫色のかがやきの集積が生まれ、太陽みたいな強い光に揺らいでいた。
記憶も記録も、存在した痕跡さえも消し去る……『究極の民族浄化兵器』、『歌喰い』が、その破壊の光を地上へこぼした。
……地下では、避難列車が逃亡を始めている。逃げ延びた全員を無理やりに詰め込んだ列車が、地下のトンネルを必死の全力で駆け抜けていく。暴れるように揺れる車体のなかで、ニコライは泣くのだ。
「二人のことも、死んじまった皆のことも……母さんのことも、お、親父のこともっ。ぜんぶ、ぜんぶ……忘れちまうなんて……っ。忘れたまま、生きて、いくなんて……っ」
ちいさなキティは、その小さな手を必死に握りしめる。痛いほどに、強く。
「……ちがう。忘れても、奪われても……取り戻すんだッ」
「むり、だよ……っ。『歌喰い』は、『レリック』なんだぞっ」
「難民劇団も、『歌喰い』の犠牲者だもん。みんな、忘れてる……過去の記憶なんて、なかった。でも、でも……ッ。パパは、私のパパになってくれたし、ママは、私のママになってくれた!」
血のつながりがなくても、絆も運命も紡げる。本当の両親の記憶がなくても……。
「二人は、本当に、私のパパとママだったもん。『歌喰い』に、負けない……思い出す。奪い返す。いつか、きっと……ここに戻るんだ。お姉ちゃんも、お兄ちゃんも、助ける。だって、私は……私と、お姉ちゃんは―――」
紫色の破壊が、地上に落ちた。大雪原の途中で、行き倒れて停止した小さな機関都市。爆撃で穴だらけになったそれを、『歌喰い』の炎が破壊していった。その街並みどころか、地下にさえ威力は届き、避難列車は脱線しかけるほどに揺さぶられる。
地上は、もっとひどかった。
ひどかったが。
……『歌喰い』の破壊の嵐の一端を、『鉄腕』の放った漆黒が切り裂いていた。ほんの、ちいさな一か所だけを。
歴史の叙述に、多くは残れない。
その日、ある機関都市と、そこに住んでいた者たちの記憶と記録が、『歌喰い』の力によって、この世から消し去られてしまったのだ。
誰も、覚えてはいない。
覚えているのは、ただ彼女ひとりだけ。
「どうだ……空が……見える……『虹色の牙』も……」
……かすれた目で、少女は空を見ている。死にかけの認識は、空から降る破壊されたあらゆるものが変化した粉塵を、雪と見間違えた。
愛おしい記憶が雪にはある。触れてみたくなり、もう『鉄腕』の形状を保てなくなった右腕を伸ばした……『鉄腕』は崩れて、本体である漆黒の指環へと戻って落ちた。
新たな継承者が、いつか受け取るその日のために。
……『鉄腕』の使用者の代償も始まった。父親と同じく、彼女もまた全身が灰へと変わり始める。人外の力は、使った者の骸も残さない。まったくもって構わないと、彼女は思った。守りたいものは、もう守ったのだから。
「……お前のこと、忘れてない。お前は、どうだか聞けないが…………聞きたい。聞きたい言葉も……ある……私から、こっちから、キスまでしたんだぞ。だから、『それ』は言わない……そっちから、言うべきだ……だから…………」
背中に感じる機械は、何も教えてはくれなかった。だが、記憶とは力強いものだ。心は、『もしも』を許す。魔法のように、想像力の世界は広がった。もしも、この機械に阻まれていなかったなら、もしも、横たわる彼女のとなりに少年がいてくれたなら。
声が届き、顔が見れて、手をつなげたのならば。
願いは、おそらく。
「フフフ」
幸せを勝ち取った者の表情は、やさしくほころぶものだ。いつか、ちいさな彼女があこがれた花嫁のように。祝いの汽笛が歌う空、指環のような虹色と、ブーケの花と雪が踊る。もしも、彼女がその日を迎えていたとするのなら……。
「予想はつくから、いい……許してやる。お前は、いつも変わらない。記憶が、あっても。なかっても……いつも、いつだって……初めて会ったあの日も……今日も……私を、笑顔にさせてくれたから」
きっと、彼女はジュリエットになれた。
「お前は……いつも、そうだから……そうしろ……これからも。ずっと、お前らしく……私は、織姫みたいに……あの牙の向こうに…………でも、だったら……織姫だったら……」
天の川の王、織姫の父。いちばん偉い神さま/天帝は再会を許した。ながい時間に阻まれても、思い合い、引き合い続ける者たちに。この過酷な星に生きる者たちは、輪廻の運命を信じる。
「いつか……『また』……うまれかわって…………おまえに……あうんだ……そのときは、そのときは……わたしに、いってくれ……まってるから―――」
最期に選んだ言葉は、名前だった。
愛しい者の、名前。
漆黒の指環は聞き届け、新たな契約者は決まる。
熱く燃える灰と、そのあとに降った雪が積もっていく。あらゆる者に忘れられながら、この場所は、白く封じられて、大雪原の何処でもない場所となった。
歴史は続く。
多くの願いが生まれ、多くの戦いが生まれながら。
長く長く。雪は積もって、すべては白く。
……134年が経ったとき、ようやく、それは掘り起こされた。
「―――さすがは、星間移民のための機械よね。ちゃんと、無事だった」
「奇跡的だね。『歌喰い』の力を相手にして……蒸気塔も、形が残っているなんて、奇跡だ」
「あら。これは、『運命』って呼ぶべきよ。アレン・フィックスドフラワーくん」
「歴史の講義をしているときみたいだね、マリア・マロレトコワ教授」
「なに? 旧名で仕事しているの、まだ納得していないの?」
「いや、そうじゃないけど。その……」
「あはは。嫉妬してくれてるのねえ。少女の頃から憧れていたヒトに私が会うから」
「そ、そんな器の小さな男であるとは、思っていないよ……っ」
男のつぶやきに女は気づいていないようだ。結婚指輪のかがやく左手が、指折り数える。
「ひいひいひい……『大おばあちゃん』の代からの宿願なのよ。大おばあちゃんは、劇団を率いて世界を旅しながら、探しつづけた。自分の失われた記憶をね」
「戦いばかりのこの星で……とんでもない偉業だ」
「ええ。『自分が死んだ後でも探させるために、劇を遺したの』。さすがは、偉大な劇作家ね。想像力が、『レリック』に消された記憶を、わずかでも取り戻させるなんて……」
「奇跡……じゃなくて、運命だったね」
「そう。運命だよ。私たちが出逢えたのと同じ。運命はつながっていたのね。『牙』の一族の当主がいたから、『レリック』の反応を探り当てられた」
「君の仕事が成し遂げたんだよ。大まかな場所が、分かっていなければ……いくら私でもムリだったさ。大雪原のなかから、こんなに小さな指環を、見つけるのは」
「結婚式が前だったら、それを結婚指輪にしてくれるのも良かったんだけど」
「れ、『レリック』を? まさか。この指環だって、最強の、兵器なんだよ……?」
「それも一側面。お姫さまを守る騎士のために、この指環は託されたものよ」
「んー……大おばあさんの、物語ではね」
「ええ。でも、間違っていないわ。やっぱり、黒髪だったし!」
「大おばあさんの結婚相手も、黒髪……だったね」
「大好きな騎士さまの影が、いつも心にいたんじゃない?」
「うっ。そう、かもね。だとすると、大おじいさん、ちょっと気の毒だ」
「マロレトコワの乙女たちの初恋は、いつだって黒髪の騎士さまのものよ」
「……そ、そうなんだ」
男は嫉妬などしないと、試みる。難しいかもしれないが。
「見て。内側の映像。この凍り漬けの少年は……ものすごい形相で、もがいていた。『外』に、守るべきヒトがいたのね。だから、動き過ぎて、心臓まで止まった」
「……それも、幸いだったかもしれない。コールドスリープと、緊急蘇生のプログラムが起動した。おかげで、蘇生されて保存され……今まで、氷床の下でも、死なずに済んだ」
「運命よ。私が……ううん。私たちマロレトコワが探していた、騎士さま。ただいま。キティ・『リトル』・マロレトコワの子孫と、『新しいキティ』が戻ったわ!」
……大きくふくらんだお腹を撫でながら、明日、母になる女は微笑んだ。名づけはとっくに終わっている。偉大な先祖の名前を、与えるのだ。生まれてくる彼女の名前は、キティ・フィックスドフラワー。
歴史は全てを叙述し切れない。欠片のような、残響のような、ほんのわずかだけ。
「彼は、しばらく動かさない方がいいわね。百数十年の冷凍保存。心停止は、四回もしている。起こすには、専門の技師が必要だわ。エステルハルドあたりが適任ね」
「うん。だから、先に……この指環と……ああ、それだけじゃなく、あの蒸気塔も、回収しておこうか。君、気に入っていたよね」
「あら。愛する妻のために、領主の特権を使ってくれるんだ?」
「ま、まあ、ね。それに。ちょうど、新しいのが必要だったし。あれは、古くて良い鋼だ。大きくて強さを保っているから」
「ええ。きっと、良い汽笛を鳴らしてくれるわ。空に、雪を呼ぶ大きな歌声を! 祝うべき日は高らかに……悲しい日には、背中を押して……勇気と力をくれるのよ!」
雪に埋まり、凍り付いていた運命が動き出す。
その出産でマリアは死に、父親となったアレンはますますやさしい男になった。
エステルハルドは契約を無視して『棺』を奪う。『鉄腕』の正当な継承者だと、知ったから。フィックスドフラワー家に『鉄腕』の力が渡ることを望まなかったのだ。
両家に、緊張が生まれるが……。
争いにあふれた乱世では、先祖代々の同盟の絆を破るわけにもいかず、アレンは領民たちの安全のためにも忍耐の道を選ぶ。
そして。
ふたたび運命は動き出した。邪悪な男は野心に突き動かされ、善良な男を一人、死に至らせる。無垢で可憐な令嬢は、復讐者の瞳を得た。
……偽りの花嫁へと化けて、キティ・フィックスドフラワーの仇討ちの旅が始まる。手には漆黒の指環。彼女を見送るのは、空の虹色と……あの偉大なる古き鋼の蒸気塔。汽笛が鳴り、歌声を帯びた蒸気は、純白なる雪となった。
「行ってまいります。お父さま、お母さま。全てを、この手に取り戻すために―――」
―――歴史の叙述はいつでも不完全であるが、指環に刻まれた言葉を語ろう。
戦いと義務と、使命。
運命の軌道と愛が描いた旅路を。
「貴方に、『また』、会いに行きます。私の騎士さま」
……これは、『空を裂く虹色の牙』と、『鉄腕の雪』の物語。
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