第17話 おつぼね泥棒ママ①

 週末は仕事を家に持ち帰り、休日はひたすらパソコン画面とにらめっこしていた。


 休日の夫はちゃんと家事をこなしている。

 だからこそ平日に家事代行サービスを利用しているとは思いも寄らなかった。


 夫は何かにつけて警戒心が高い以外は愛想がいいので、私も円満夫婦を築けているものと思っていた。

 仕事がかなりハードなことを除けば、とても充実していた。


 だがいまの私は夫に騙されていたと気づいている。

 私の前では笑顔でいることの多い夫だが、その笑顔が邪悪に見えて仕方がない。


 邪悪といえば、会社にも1人、悪夢の権化ごんげみたいな人がいる。

 あずま仁実ひとみ。コネ入社組で窃盗常習犯のおつぼねである。


 会社にとって政治家とのパイプ役である彼女は、多少の横暴を働いても許される。むしろ会社は彼女の味方をする。

 ただ、本人は自分がシングルマザーという境遇だから他人のものをくすねても許されると思っているフシがある。


「東先輩、私のUSBメモリを知りませんか?」


 それは火曜日の朝のこと。デスクの引き出しに入れておいたピンクのUSBメモリがなくなっていたのである。


 中には推薦書を作るために必要なデータが入っている。

 昨日のうちにそのデータをパソコン内に移しておけばよかったのだが、その前に少しフォルダを整理しようと思ったのが運の尽きだった。


「は? 知らないけど」


 長い茶髪を指にグルグル巻きつけながら東先輩はそっぽを向いた。


「あれがないと困るんです。今週が提出期限になっている国家支援技術候補の推薦書を作るためのデータが入っているんです」


「あたしが盗んだっていうの? ひどい言いがかりだわ。先輩に取っていい態度じゃないよね?」


 東先輩はまるで親の仇を見るような目で私をにらみつけてきた。さらには課長に言いつける始末。

 誰かに言いつけたいのはこっちだというのに。


草井くさい、物をなくしたからって人を疑うもんじゃない。データがないなら取り直せ」


 当然ながら課長は東先輩の味方をした。


 データの取り直しなんてしていたら、提出期限には絶対に間に合わない。

 かといってこれ以上食い下がると、左遷されるか、最悪クビが飛ぶ。


 こうなったら自力で取り返すしかない。


 私は伊居いいさんに連絡し、急いでラボへ向かった。


「はぁ、はぁ……。急にすみません」


「いえ、大丈夫ですよ」


 私は息を切らしながらVAISのある部屋に入った。

 伊居さんは先に準備をしてくれていた。


 東先輩は定時になったらすぐに退社する。盗んだものはバレないようその日のうちに持って帰るはず。

 だから今日中に取り返さなければならない。時間との勝負だ。


「時間は今日の早朝でお願いします」


「わかりました」


 今日という日を仮想的にやり直した私は、いつもより1時間早く会社に出社した。

 事務所に入ると、東先輩や私の席からは死角となる課長のデスクの陰に隠れた。


 しばらく待っていると、扉の音がして事務所の電気が点いた。


 足音からして東先輩で間違いないだろう。

 彼女はこれから盗みを働こうとしていて周囲を警戒しているはずだから、私はまだ顔を出さずに音だけで気配を探る。

 足音の移動、引き出しの開閉音からして私のUSBメモリを盗ったことを悟った。


 足音が東先輩のデスクへと戻ったとき、私は課長のデスクの陰からそっと顔を出して彼女の姿を覗いた。


 東先輩はUSBメモリを自分のハンドバッグの中に入れた。


 さらに正確な位置を知りたい。

 私は飛び出していき、東先輩からハンドバッグをひったくった。


「あっ、ちょっ!」


 即座にハンドバッグの中をあらため、ピンクのUSBメモリが内ポケットに入っていることを確認した。


 これで仮想過去での任務は完了だが、ついでなので糾弾きゅうだんした場合の東先輩の反応を見ることにした。


「先輩、私のUSBメモリを盗みましたね。泥棒ですよ!」


「だから何なの? 後輩のくせに、あんたまでシングルマザーのあたしをいじめるのね。理解ある課長に言いつけてやる!」


「シングルマザーとか関係ないですよ。泥棒はハッキリと犯罪です。会社が許しても社会が許しません。警察に通報します!」


 私がスマホを取り出すと、東先輩が鬼の形相ぎょうそうで飛びかかってきた。

 髪を掴もうと右手を伸ばしてきたので、その手首を掴んで押しとどめる。


「草井のくせにっ!」


 左手も飛んでくる。その手首も掴む。

 その拍子にスマホを床に落としてしまった。


「シングルマザーがどうのって他人を責めますけど、あなたがいちばん他人を見下しているじゃないですか! しまいには暴力。癇癪かんしゃくを起した子供ですか!」


「殺してやる!」


 さすがに本気ではないと思うが、東先輩が向けてきた目は、私を心の底から震え上がらせた。


 両手を封じられている東先輩は右足で私の腹を蹴り上げようとしてきた。

 幸いながら体が固くてそれは届かなかった。


 だが今度は右足を高い位置でひきしぼっている。それは開かない扉を蹴破るときの構えだ。

 この人は他人を傷つけることにためらいがないのか。


「コール・ログアウト!」


『ログ――』


「はい!」


 VAISは私が確認のシステム音声を最後まで聞かずとも返事を聞いてくれた。

 東先輩の足が腹に到達する寸前のところで私は現実世界に帰ってきた。


「東先輩、性格が悪すぎる……」


 伊居さんは苦笑しながらペットボトルの水を渡してくれた。


香織かおりさん。いちおう説明しておきますが、痛覚設定は鈍く調整してあるので多少の怪我は大丈夫ですよ」


「はい。でもあんな人に蹴られたくはありません」


「それは、そうですよね……」


 いけない。あんまりこういう態度を取っていると伊居さんに失望されかねない。

 私は自重するよう自分に言い聞かせた。


「すみません。ちょっと気持ちが状況に引っ張られてしまいました。気遣ってくれてありがとうございます」


 伊居さんはいつもどおりの優しい笑顔を返してくれた。


 VAISでの任務は完了したが、本番はこれからである。

 私は道中でお土産の和菓子と、盗られたのと同じ型の小容量タイプのUSBメモリを買ってから帰社した。

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