第14話 真の優しさ

 今日は業務を早めに切り上げ、伊居いいさんとの待ち合わせ場所に向かった。

 私は会社から直行なのでスーツ姿だったけれど、伊居さんのほうもカッターシャツという企業勤めの格好をしていた。


 これはあくまで仕事上の付き合い。デートではないのだと自分に言い聞かせた。


 私は伊居さんに連れられて品のいい居酒屋に入った。


「ここは海鮮料理がうまい店なんですよ。あ、支払いは接待経費ということでこちらが持ちますので、好きなものを好きなだけ食べてください」


 そう言って優しい笑顔を向けてくれる伊居さんに私は見とれた。

 伊居さんは性格も顔もよくて仕事もできる。まさに理想の男性だ。


 私の夫がすぐるじゃなくて伊居さんだったらよかったのに。

 いままで戯言たわごととして何度も思ってきたことを、いま心の底から思った。


 料理のチョイスは伊居さんに任せた。

 刺身の絶品料理を堪能しながら、ビールや酎ハイを飲み、雑談に花を咲かせる。


 仕事の話はほとんどしなかった。

 学生時代の思い出話とか、新入社員時代の苦労話とか、お互いの過去を楽しく共有した。


 注文した料理を完食して、ちょうど会話も途切れた。

 気まずさはなかった。無言でも何かにひたれるくらいの安心感はあった。


「大丈夫ですか?」


「え?」


 伊居さんに訊かれて気づく。

 私は泣いていた。ボーッとしたまま涙を流していた。


「あ、すみません。べつに何かを考えていたわけじゃないんですけど……。どうしたんでしょうね。体が勝手に今日のことを思い出したのかもしれません」


 そんなことを言ってしまったがために、私は能動的に今日の出来事を思い出してしまった。

 そうなるともう、止まらない。

 涙があふれにあふれて、止められない。


「いいんですよ。溜め込むと毒です。今日のうちにできるだけ洗い流してしまいましょう」


 伊居さんの優しさが余計に私に涙を流させる。


「ごめんなさい。こんなことに、私なんかに、付き合わせてしまって……」


 居酒屋なので声を殺そうと努めたものの、抑えきれない嗚咽を漏らしながら私は泣きじゃくった。


 ひとしきり泣いたあと、トイレに行って化粧を直して戻ってきた。

 ずいぶんと待たせてしまったけれど、それでも伊居さんは笑顔で迎えてくれた。


 お店を出ると、伊居さんがタクシーで家まで送ると言ってくれた。

 でも私はそれ以上のワガママを言った。


「伊居さん。今晩だけはずっと一緒にいてほしいです」


 明日も仕事なので酒はほどほどにしていた。私は酒に酔ってはいないけれど、どうやら雰囲気には酔ってしまったらしい。

 でも酒は飲んだのだから、酒のせいにはできる。私は伊居さんの首に両腕を回し、熱い視線を送った。


 夜風が私の唇をなでていった。


 伊居さんは首を横に振った。


草井くさいさん、これ以上はいけません」


「私、やっぱり魅力ないですか?」


 伊居さんは深呼吸をして、首から私の腕を外した。


「いいえ、あなたは魅力的ですよ、香織かおりさん。すごく魅力的です。でも……」


 彼はひと呼吸入れた。

 そして強い眼差しを向けてくる。


「旦那さんと同じ場所に堕ちてはいけません。あなたは完璧に勝つべきです。負けないでください!」


 いろいろな感情が蟲毒こどくのように複雑に絡まり、食い合った。そして最後にひとつだけが残った。


「すみません。私はどうかしていました。自分が恥ずかしいです」


 私はうつむいたまま顔を上げられない。伊居さんの顔を見られない。

 だけど、伊居さんの温かい両手が私の肩にのって、私に勇気を与えてくれた。


「いえ。あんなことを経験したら無理もありません。でも私が支えますから。香織さん、必ずやり遂げましょうね!」


「……はい!」


 私は奮い立った。


 もう何があっても立ちどまらない。


 だから私は伊居さんの家まで送るという申し出を断り、ひとりで帰宅した。

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