第13話 感情の波
ログアウトしたら一気に涙が押し寄せるんだろうなぁ、と思っていたけれど、夫のあまりにもバカげた物言いに涙すら逃げ出してしまった。
これは夢だろうか。現実でないことには間違いないけれど、シミュレーションにしては悪夢が過ぎる。
ベッドから起き上がった私は、うつむいたまま水を受け取った。そして手に持つ水を見つめながら訊いた。
「伊居さん。仮想過去で夫が言ったことって、あくまでAIによるシミュレーションなんですよね? 私の介入で過去が変わって、実際には夫が言っていないことをAIが勝手にしゃべらせたんですよね?」
少し間があった。おそらく説明の仕方を思案しているのだろうが、私には試験結果を保留にされているような心境だった。
ようやく口を開いた伊居さんはバツが悪そうにしていた。
「VAISの仮想過去では、本人が言ったことのない言葉は基本的に言いません。AIはデータの蓄積によって学習しますが、独自の創作はしませんから」
伊居さんの説明によると、AIが作り出したように見えるものは、すべて蓄積されたデータの組み合わせでしかないらしい。
夫が言ったことは、その時間、その場所では言っていなくても、別のどこかで言っているはず、ということだ。
AIは賢いので、意味が変わってしまうようなデータの組み合わせ方もしない。
仮想過去の夫が私のことを臭いと評したのなら、それは紛れもなく私のことで、AIが別人の評価を私に当てはめたわけではない。
個人の人格再現についても、あくまで事実がベースになっているので精度が高い。
VAISによる仮想タイムリープは本当のタイムリープと変わらない。ただ現在の現実世界に影響を及ぼさないだけである。
精度が高いことは喜ばしいことだが、正直、今回ばかりはAIの精度の粗が出たという逃げ道が欲しかった。
「
「やめてください……」
「え……?」
現実のほうでは我慢していたのに、これでは顔が大雨の道路のように冠水してしまう。
「優しくしないでください! 飴と鞭みたいで感情がグチャグチャになります」
私は両手で顔を覆った。とても人に見せられる顔じゃない。
声を殺していると、私の肩に温かい手がのった。
たまらず伊居さんの腰に抱き着いて白衣に顔をうずめた。
――そろそろ帰らないと。
5分か、10分か、30分か。どれくらいそうしていたかわからない。
伊居さんは傷心に沈む私にずっと寄り添っていてくれた。
「すみません。ありがとうございます。もう、大丈夫です」
私は顔を伏せたままトイレに駆け込んだ。
顔を洗い、化粧を直す。
私がVAISのある部屋に戻ったとき、伊居さんはコンソールで作業をしていた。
「大丈夫ですか?」
伊居さんはVAISを操作する手を止めて私のほうに顔を向けた。
「はい。ありがとうございます」
「休んでいきますか?」
伊居さんが私を応接室へ連れていこうと近づいてくるけれど、私は首を横に振った。
「いえ、もう帰ります」
伊居さんはラボの入口まで見送りに来てくれた。
「あの……草井さん。よければ今晩、一緒にご飯を食べに行きませんか?」
伊居さんなりに私をメンタルケアしようとしてくれているのだろう。
完全な技術職の彼にそんなことをさせて申し訳ない気持ちになる。
「はい。行きましょう」
でも、今回ばかりは甘えさせてもらうことにした。
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