第04話 禍根残しのチキンレース

 月曜日。その響きだけで憂鬱だというのに、私は朝から心にモヤモヤを混ぜ込まれ、かき乱された。


「あのう、どなたか私のマウスを知りませんか?」


 新調したばかりのピンクのマウスがデスクからなくなっていた。

 少しでも好きな色を増やして激務を乗り越えようと買ったものだった。


 私の蚊の鳴くような声に反応する人はいない。

 事務所はうるさくはないので、聞こえていないはずはない。誰も心当たりがないのだろうか。

 借りるならせめてメモを残しておいてほしい。


 このままでは仕事ができないので、応急処置としてマウスを買いに行かなければならない。

 ただでさえ忙しいのに、余計に時間を取られてしまう。


 私があれこれ脳内で計算しながら席に着くと、隣のデスクから同期の道木みちき美希みきに小声で呼びかけられた。

 黒のショートヘアが私の顔に近づいてきて、そっと耳打ちしてくる。


「ねえ、それっていつものあいつじゃないの? 今日、早かったみたいだし」


 美希が言ったのは、あずま仁実ひとみという先輩の女性社員のことだ。


 部署内ではたびたび小物が紛失するという事件が発生していた。そのほとんどのケースで犯人が東先輩だとわかっている。

 彼女はいつも始業ギリギリに出社してくるが、盗難事件が起こる日は早めに出社してくるのだ。


 正直なところ、東先輩の名前が出てきて「やっぱり」という気持ちはあった。


「確認してくる」


「ちょっと! あまり関わらないほうがいいって!」


「わかってるよ」


 私は美希の制止を振り切って、東先輩の元へ行った。

 夫のことがあって、誰かにやられっぱなしでは気が収められなかった。


 東先輩はご機嫌な様子でパソコンに向かっていた。

 みんなスーツなのに彼女は白いブラウスとピンクのフレアスカートという格好。

 派手なのは服装だけではない。長い茶髪はまとめることもなくウェーブをかけているし、人一倍に化粧も濃い。

 彼女は吊り目なので、ご機嫌でも威圧感がある。


「あの、東先輩」


 私が声をかけると、気だるそうにしてこちらへ顔を向けた。


「ん、何?」


「私のマウス、盗りました? ピンクのやつです」


「はあ?」


 東先輩は一瞬にして不機嫌になった。


 彼女は当たりが強いので、本当はこういう態度をとるのは処世術的に好ましくない。

 さすがに「知りませんか?」から入ったほうがいいかと思ったが、まず間違いなくしらばっくれるので、やっぱりこれでいいと思いなおす。


「もし先輩が盗ったのなら、差し上げるので正直に言ってください。新しく買いなおすか判断するために知りたいんです」


 逡巡した東先輩は不機嫌な顔を崩さずに大きな息を一つ吐き出した。


「マウスだけピンクでセンスがないから没収したのよ。これは先輩からの忠告として受け取りなさい」


 先輩の言う「受け取りなさい」は忠告のことであって、マウスを返してくれるわけではなかった。


「そうですか。わかりました。マウスは差し上げますが、もうほかのものは盗らないでくださいね」


 ここらへんが限界だった。

 これ以上、東先輩には強く出られない。


 普通に考えれば彼女は窃盗犯であり、警察に捕まってもおかしくない。

 しかし、彼女はうちの会社では特別枠であり、もし何か問題があっても会社が総出で彼女をかばうのだ。


 私の会社には大きく分けて2種類の社員がいる。

 能力入社組とコネ入社組だ。


 能力入社組とは、普通に入社試験を合格して入社した社員のこと。

 この会社は名の知れた大手の広告代理店なので、競争率が非常に高い。

 高学歴なのは最低条件で、学生時代に青春を犠牲にして勉学に励んできた者たちを目の細かいフルイでふるい落とし、厳選する。


 コネ入社組は会社外に強力なツテを持つ社員のこと。

 彼らは学力どころか常識すら求められない。いかに太いパイプを持つかだけが重視される。


 東先輩は親が政治家だった。国が何か行動を起こすたびにうちの会社を介するので、彼女は会社に在籍するだけで利益を生む存在なのである。

 あんまり東先輩の機嫌を損ねると、私の首なんて簡単に飛んでしまう。


 実際、過去には東先輩の機嫌を損ねて左遷された社員もいた。

 その際には部長から部署全体に強い口調で説教をされた。


「社員は会社に価値を提供することで対価として給与を得ている。君たちは会社に東さん以上の価値を提供できるのかね?」


 そういったことを延々と言い聞かされ、最終的には東先輩の手癖の悪さには目をつむれとのお達しが下された。


香織かおり、あんた、よくやるねぇ!」


「まあ、ね……」


 席に戻ると美希にパシンと肩を叩かれた。


 わかっている。本当はまったく関わらないほうがいいとわかっている。

 だけど、いまの精神状態ではこらえきれなかった。泣き寝入りするにしても、小さな爪痕を残すくらいはしないと気が済まなかった。


 月曜日の朝から嫌な思いをしたが、夫の件に比べたら些事だ。

 いや、実際には泣きっ面に蜂なのだけれど、そうとでも考えなければやってられなかった。

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