第03話 断念

 土曜日。もう私にその気はないのだけれど、夫の反応を確かめるためにいつもの呪文を口にする。


「ねえ。私、子供が欲しい」


「すまない。今日は知人との約束があるんだ。帰ってきて元気だったら、ね……」


 そう言うと、夫はそそくさと家を出ていった。

 エンジン音が鳴り、タイヤの砂利を踏む音がして、すべての音が遠くへ去っていった。


 もう一喜一憂はしない。

 いや、一喜なんてないのだから、そもそも一喜一憂ではなかった。


 私も身支度を整えて外出の準備をする。今日は私も用事があるのだ。


 今日の用事は車を使わない。駅まで歩き、そこから電車に乗った。


 私が向かった先は探偵事務所だった。

 駅から出てすぐの建物を見上げると、2階の窓に『陣房探偵事務所』という文字が貼ってある。私はそこを目指し、細い通路を上がった。


 事務所内は狭い。中央にローテーブルが鎮座しており、それを挟むように黒いソファーが並んでいる。


「お待ちしていました、草井くさいさん」


 奥に追いやられたようにたたずむデスクから、スーツを着たオールバックの男性が手で示してソファーに座るよう促してきた。

 彼がこの探偵事務所の所長、陣房じんぼう剛志つよしである。


 私は促されるまま黒いソファーに腰を沈める。


 給湯室から出てきた女性が私の前とその対面にティーカップを置き、会釈をしてパーテーションの向こう側へと姿を消した。


「草井さん、調査の結果ですが――」


 陣房さんはそう切り出しながら、デスクと書棚の隙間を縫うように出てきてソファーに腰を下ろした。


「この2週間、ずっと旦那さんに張り付いていましたが、不倫の証拠は得られませんでした」


 陣房さんはテーブル上に夫の2週間分の行動履歴をまとめた報告書を並べた。


「それは、夫は不倫をしていないということですか?」


「いえ、たぶん不倫はしていると思います。ただ、監視の目を警戒していて尻尾を出さないのです」


 陣房さんの報告によると、夫は一度だけレストランで女性と食事をしただけだったという。

 かなり周囲を警戒している様子で、それ以降は一度も女性と会っていないらしい。


 報告書の中には一緒に食事をした女性の情報をまとめたものもあった。


「もしかしたら私の尾行に気づいていたのかもしれません。あるいは、気づいていなくても尾行の可能性を考慮して、不倫相手に『しばらく会えない』と言って遠ざけているのかもしれません」


 夫はスマホを金庫に入れて寝るくらいだ。私が探偵を雇う可能性を考えていてもおかしくない。


「すみません。私が余計なことを言ったから夫に警戒されたのだと思います。素人が変な探りを入れる前に依頼するべきでした」


 陣房さんは一度カップに口をつけた。

 カップを下ろすと、両手の指をジグザグに重ねた。


「仕方ありません。旦那さんは普通の人より慎重で用心深い人のようで、ここまで徹底して尻尾を出さない人は稀です。車の中も調べさせてもらいましたが、草井さん以外の女性の痕跡はまったく残っていませんでした」


 夫は頭がいい人だ。何事も効率を重視し、無駄がない。仕事でもそうだったし、プライベートでもそうだ。

 顔は普通だけれど、その切れ者感がドラマの探偵やスパイみたいでかっこいいと思っていた。

 それもいまはただ憎たらしいだけ。


「それで、どうします? どれくらい続けますか?」


 そう私にお伺いを立てる陣房さんは、その顔に心苦しさがにじみ出ていた。

 もしかしたら商売上の演技かもしれないが、高圧的にこられるよりはいい。


「少しくらいなら依頼を継続できる資金はありますけど、さすがにずっとは……。どれくらい続ければ証拠が出てきそうですか?」


「それはわかりません。なにしろ旦那さんはかなり警戒されているので」


「そうですか……」


 私はすでに着手金だけで30万円の依頼料を支払っている。

 成功報酬は40万円程度だが、それとは別に調査延長による追加料金を払わなければならない。

 ここからさらに延長すればもっと追加料金がかさむ。


 もし不倫が原因で離婚することになっても、慰謝料は高くて300万円程度が相場らしい。

 これ以上調査を継続しても損を重ねるだけ。夫のためにこれ以上の損失はこうむれない。


「すみません。依頼はここまでで結構です」


「賢明なご判断だと思います。私としては継続いただいたほうがありがたいですが、成功の見込みもないのに調査の継続を勧めることはできません」


 陣房さんはいい人だ。


 だから余計に夫が憎たらしくなる。


 そして、悔しい。


 私の中に急激にこみ上げるものがあったが、どうにかそれをグッと押しとどめた。


「追加料金分の支払いはクレジットカードでお願いします」


 私は支払いを済ませ、帰宅した。


 夫はまだ帰っていなかった。

 帰路の途中で買ってきた金庫に報告書の入った封筒を二つ折りにして押し込み、その金庫を化粧台の下に隠した。

 私は鍵を閉めたあとでふと思い出し、財布から明細書を取り出した。これも金庫に入れなければならない。


 明細書には7桁の数字が刻印されていた。主夫を2週間も監視する対価はあまりにも高かった。


 探偵事務所でせきとめていたものが、いまになって決壊した。

 涙と嗚咽がとまらない。


 悔しい。

 悔しくて、悔しくて、たまらない。


 たぶん離婚するだけならセックスレスだけでも十分な理由になるし、慰謝料も取れるはず。だけど夫の悪逆非道なおこないを見過ごす形にはしたくない。

 でも、探偵の力を使ってさえ夫の不貞行為を暴くことができない。


 私は泣きながら明細書を金庫に入れると、ベッドに飛び込んで枕に顔をうずめた。

 枕で涙をせきとめ、枕で嗚咽を殺し、時間をかけて枕に失意と絶望を染み込ませた。

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