第02話 夫・草井卓

 残業を終えてやっと帰宅できたのは、日付が変わる30分前だった。


 リビングの照明をつけると、ダイニングテーブルにラップをした食事が用意してあった。

 どうせ冷めているから、先に化粧を落としてシャワーを浴びた。


 晩秋で肌寒いが、風呂上りなのでまだ体に熱が残っている。

 エアコンをつけるのを我慢し、食事をレンジで温めている間にドライヤーで髪を乾かす。


 ドライヤーの音がうるさいはずなのに、部屋はシンと静まり返っていた。


 チン、と音がしたので、エアコンのスイッチを入れ、髪を生乾きにしたまま食卓についた。


 ご飯はうまい。

 喜ばしいはずなのに、悔しくなってくる。


 悔しい原因を考えだすと、もうとまらない。底なし沼にはまったみたいに冷たい闇の中に沈んでいく。

 気づくと流れ星のように涙が頬の上を走っていた。


 皿を流し台に放り込んで水をかけ、私は洗面台へと向かった。

 歯を磨き、ダメ押しのドライヤーをかけ、エアコンを切った。


 寝室の扉を開けると、夫がダブルベッドの半分に綺麗に納まって寝ていた。


 あとは寝るだけ。


 だけど、私はしばし入口で立ち尽くした。


 暇をもてあました脳が、友人と食事に行った日のことを鮮明によみがえらせた。



   ***



「うわぁ、おいしそう!」


 テーブルの上に2人分のモンブランとコーヒーフロートが置かれ、対面に座る明るい雰囲気の女性が目を輝かせた。


 彼女は多芽ため春子はるこ

 高校時代からの同級生で、私の最も仲のいい友人である。


 もう秋も終わるというのに、彼女のピンクのワンピースがいまは春ではないかと錯覚させる。

 モンブランみたいなブラウンのショートヘアをした彼女の口に、光沢のある栗が遠慮なく吸い込まれていった。


「おいしーい!」


「よかったね」


 彼女の勢いに苦笑しながらも、その幸せそうな表情を見ると、私もほんのり心が温かくなった。


 モンブランを食べおえると、追加注文したおかわりのフルーツタルトがやってきた。

 2品目でさすがに落ち着いた春子は、手をつける前に話を振ってきた。


香織かおり、結婚生活はどう? 最近は何か変わった?」


「うん、まあね。すぐるが主夫になった」


「ええっ!?」


 目をまん丸にしてのけ反るその反応は、当時の私より驚いているかもしれない。


 夫は私の勤める広告代理店の下請け会社に勤めていた。

 その会社が不況のために人員整理を敢行し、いまなら退職金も増額されるということで夫は会社を辞めた。


 元々私のほうが稼ぎは多かったので、夫はこれを機に主夫になって私を支えると言い出した。

 不安だったが、当時はとある理由で私はそれを受け入れることにしたのだった。


 私は春子に大袈裟とも思える驚き方をされて落ち着かなかったので、彼女を鎮めようと海に浮かぶ藻屑を拾うように少しずつ言葉を並べた。


「まあ、でも、卓は優しいから。会社員時代は仕事ができる人だったし。それにいまだって、家事を完璧にこなしてくれるし……」


「香織さあ、私じゃなくて自分に言い訳しているみたいだよ」


 親友の核心を突いた言葉に私は息を呑んだ。


 言葉の意味だけを拾えば、私は夫の卓をベタ褒めしていた。しかし、その口調は母親に叱られる子供のようにたどたどしかった。

 長い付き合いの春子からすれば、私の心理は幼子のようにスケスケだったみたいだ。


「ねえ、香織。本当は旦那にも働いてほしいんでしょ? いまからでも働くように言えないの?」


「でも、卓は仕事で疲れていると、その……シテくれないから……。私、子供が欲しいの」


 私たち夫婦はいわゆるセックスレスだった。

 会社員時代、夫はいつも仕事で疲れているからと私を遠ざけていた。


 仕事で疲れているのは私も同じ。でも、子供が欲しかった。なんなら不妊治療を意識するくらいだった。

 けれど、私たちの問題はそれ以前の段階にあった。試行回数が少なすぎて、治療が必要かどうかさえわからなかった。


「で、いまは? レスは解消されたの?」


 私はうつむいたまま首を横に振った。


 私が帰宅すると、夫はいつも先に寝ている。それは私が帰るのが遅いから仕方ない。

 でも、休日はそうじゃない。休みなのに「気分じゃない」とか「用事がある」とか、なんやかんやで避けられていた。


 私は夫に主夫としての価値を求めていない。

 結局、夫は仕事を辞めただけだった。


 春子はフォークを皿の上に置いた。フルーツタルトはまだ半分ほど残っている。

 私が春子の顔を見ると、彼女は私の目をまっすぐ見て言った。


「それ、浮気されてるよ。たぶん」


「え……」


「香織の旦那はほかに相手がいるから香織とそういうことしないんだよ」


「そんなはず……」


 ない、とはっきり言葉にできなかった。春子の言葉を否定できない。

 でも、認めたくもない。だって、浮気されないために卓を夫に選んだのだから。


 私はいわゆる〝サレ女〟だった。

 サレ女というのは、浮気をされやすい女性のことを指す。


 学生時代も、新入社員時代も、付き合う男はみんな浮気をした。

 なぜ男は浮気をするのだろうと考えたとき、自分が彼氏にしてきた男たちに共通点を見つけた。

 それはイケメンであること。


 だから私は、結婚相手に卓を選んだ。イケメンではない卓を。

 私自身が面食いだからこそ、顔が冴えなければ浮気できないだろうと思ってしまった。


「さっさと離婚しちゃいなって。レスが原因なら慰謝料も取れるだろうし。香織ならもっとイケメンを捕まえられるでしょ? 美人なんだから」


「でも、イケメンはすぐ浮気するから」


「そんなの、人によるでしょ。ブサメンでも浮気する人はいるし、イケメンでも浮気しない誠実な人はいる」


 春子は独身だが、顔もよくて愛嬌もあるから私よりモテる。現にいまもイケメンの優しい彼氏がいる。

 私より経験豊富な彼女だからこそ、その言葉には説得力があった。



   ***



 寝室の入り口に立つ私を、大きな欠伸と強烈な眠気が襲った。

 廊下の照明を消して暗闇の中を進み、ベッドを探り当てて中にもぐり込む。


 睡魔の下にあってもモヤモヤは取れなかった。


 春子とカフェに行ったあの日の晩、私は夫に「浮気してないよね?」と冗談めかして言った。

 夫はもちろん否定したが、その日以来、彼はスマートフォンを金庫に入れて寝るようになった。


 夫は私が浮気を確信していると思ってそんな大胆な行動に出たのだろうが、実際に私が浮気を確信したのは、彼のその行動を見たときだった。

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