第01話 仮想タイムリープマシン
モーター音とともにヘッドギアが離れ、機械の白クジラが私を吐き出した。
「お疲れ様です」
私が上体を起こすと、白衣の男性が水の入ったペットボトルを差し出してきた。
「ありがとうございます」
それを受け取ると、私の全身が思い出したように汗をかきはじめた。
顔にへばりつく髪をかき上げ、水をノドの奥に流し込む。
「ふぅ……」
体調を整えて落ち着くと、急激に恥ずかしさが襲ってきた。
いまの私は激怒した義母みたいに顔が赤くなっているかもしれない。こんな顔は
「あの……モニターしていたんですよね?」
私は正面を向いたまま横に立つ彼に問いかけた。
事前に聞いていたことだけど、現実逃避欲が私に改めての確認をさせた。
「はい。失礼ながら、たいへん興味深いものを見させていただきました」
「お恥ずかしい限りです」
あまりの恥ずかしさに膝を抱えてそこに顔を隠した。
ふと爽やかな香りに鼻孔をくすぐられ、私は思わずそちらに視線を向けた。そこには男らしくも綺麗な手が差し出されていた。
吸い寄せられるようにその手を取ると、もう片方の白衣の袖が私の背中を支え、ゆっくりとベッドから降ろしてくれた。
「ありがとうございます」
見上げると、思ったより近くに顔があって動揺してしまう。私の顔が赤いのは鏡を見なくてもわかる。
顔が赤いのは恥ずかしいから。さっき恥ずかしい思いをしたのは、むしろ幸いだったかもしれない。
「伊居さんだったら、よかったのに……」
私の夫が
本人には聞こえないよう、ボソリとつぶやいた。
この白衣を着た黒縁メガネの男性は、
AIを使ったシミュレーションの研究をしている人で、仕事で訪れた私に協力してくれている。
私は大手の広告代理店に勤めているのだが、政府から国として支援するAI技術者を選定するようお達しがあったため、こうしてAI研究者を訪れて技術の将来性やら実現可能性やらを調査しているのだ。
なんでも、日本がIT分野で遅れを取っていることを受け、AI関連で世界を牽引する国として返り咲こうという方針らしい。
伊居さんは技術者として優秀で、彼の開発したAIシミュレーターは素晴らしい。
国が支援するとしたら、間違いなく彼を選ぶべきだ。
「
「はい。ぜんぜん大丈夫です」
研究者にしては珍しく気が利いて優しい。身長もたぶん180センチくらいあるし、顔も整っている。
私の夫とは大違いだ。
「あの、伊居さん。もう一度この装置について教えていただけますか?」
「はい、もちろんです。この装置は――」
伊居さんは改めて丁寧に装置の説明をしてくれた。
私がさっき使わせてもらった装置は〝仮想タイムリープAIシミュレーター〟という。
英語表記のVirtual time leap AI Simulatorの大文字部分を抜き出して、通称、
これは端的に言えば、過去を再現する装置である。
世界中のありとあらゆるネットワークから収集した情報を使って、AIが過去世界を再現する。
それをモニター越しに観察することもできるし、ヘッドギアを着ければ、フルダイブ型VRゲームみたいにVAISが作った仮想過去にダイブすることもできる。
仮想過去では、世界は基本的に歴史どおりに動く。
ダイブした人間が歴史と異なる行動を起こせば、その影響をAIが計算し、世界の動きがどう変わるのかを精巧にシミュレートしてくれる。
さっき私は過去の自分の結婚式をぶち壊したが、「もし当時の自分が同じことをしていれば、おそらくこうなっただろう。絶対ではないけれど」という世界を見ることができたわけである。
「この技術は特に警察の犯罪捜査躍において期待値が高いものです。コストなどを考えないのであれば、ストレス発散としての使い方も可能です」
伊居さんの説明に私はハッとした。あくまで仕事として使わせてもらったのに、使い方がかなり個人的なものになってしまった。
「あ、すみません……」
「いえ。草井さんはあくまでAIのシミュレート能力を試すためにやったんですよね。わかっていますよ」
伊居さん、いい人だなぁ。そんなことを思いつつ、引き続き彼の説明に耳を傾ける。
「仮想タイムリープなので、さっきみたいに無茶なことをしても、すべてなかったことになります。もちろん、歴史が変わった状態のデータを保存することもできますが」
「あの……。もし仮想タイムリープ中に死んだら、どうなるんですか?」
「ダイブ中に意識を失うと強制的に仮想過去から現実に意識を戻されます。死ぬ場合もそうですし、眠る場合もそうです。痛覚や味覚は調整可能なので、やろうと思えば自殺体験もできます」
自殺へのハードルが下がるので禁止したほうがいいと思いますが、と伊居さんは付け足した。
シミュレーションといえども死ぬ思いはしたくない。
ログアウトは音声やウィンドウ呼び出しで簡単にできるので、もし死にそうになったら、さっさとログアウトしたほうがいい。
「伊居さん、ありがとうございました。この素晴らしい技術が日の目を見るよう、私も頑張って推薦しますね!」
「はい。こちらこそありがとうございます。よろしくお願いします」
私は伊居さんのラボを出た。
もう陽が赤い。
「よし……」
私はこれから職場に帰って報告書と推薦書を作成しないといけない。
ずっと残業続きで早く帰って休みたい気持ちもあるけれど、伊居さんの技術を応援するためと考えると気合が入った。
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