第10話 桐崎涼①
普通の幸せ、人並みの生活。一生そんな生活を送りたいと思い続けてきた。
桐崎涼は東京都狛江市出身だった。平均的な偏差値の高校に行き、テニス部の活動に勉強と人並みに3年間を謳歌した。そして、大学は誰もが羨む難関大学へと進学した。
家庭は決して裕福とは言えなかったが、両親は電車で1時間のところにある私立大学への進学を許してくれた。
この大学にはいわゆる、お金持ちの子供が多く通っていた。エスカレーター式で進学した者、医者や弁護士や政治家の子供、帰国子女。
それでも一般家庭育ちの涼を笑うものはいなかった。そして、今、涼はいわゆる、そのお金持ちという部類の方に仲間入りしていた。
メガバンクの本社勤務の涼は、入社3年目に役員に紹介された美しい娘と結婚した。妻、愛との間に昨年、息子が生まれた。現在は、愛の両親が用意してくれたタワーマンションの屋上に住んでいる。
誰もが羨むおしどり夫婦、可愛い息子、平均以上の生活レベル。
公園で遊ぶ息子と髪を1つにまとめ黒いモンクレールのコートを着た妻を遠くのベンチで眺めながら、黄色い銀杏の葉が風に舞うのを感じた。
昔もよく公園で遊んだ。ここではなく、狛江市の小さな公園で。その時の仲間を涼は好きだったが、彼らが涼のことを金持ちと言い出した頃から、すっかり疎遠になってしまった。
テニス部時代の仲間や、大学、会社の人、愛の友人たちと交流の幅はある。それでも、あの地元にいた時代は涼にとって代え難い時間だった。
一度、愛に心境を吐露したことがある。愛は、住む世界が変わったのだから仕方ない、と言うばかりで、涼の気持ちを理解しようとはしなかった。
「桐崎涼さんでお間違い無いですか?」
40代くらいの後頭部の禿げ、眼鏡をかけたスーツ姿の男性が声をかけてきた。
「はい、そうです」と涼は言った。
「私、弁護士の相原勉と申します。新見香里奈さん殺害容疑で拘束中のエスさんの弁護士を務めています」
突然のことで涼は眉間に皺を寄せた。
「新見香里奈さんのことでお聞きしたいことがあります」
「どうしたの?」息子を連れた愛はそう言うと、涼の青いオータムコートについた銀杏の葉を取り、息子に渡した。息子は銀杏の葉で楽しそうに遊んでいた。
「愛、先に帰っていてくれ」
「わかったわ」
そういうと、愛は息子を連れて帰って行った。ものわかりのいい妻だ。
涼と相原は近くのカフェに入り、コーヒーを頼んだ。店員がコーヒーを持ってくると、気まずい時間を避けるように、相原が話はじめた。
「それで、新見香里奈さんとは、どういったご関係ですか?」
「新見香里奈さんの件は報道で知りました。優秀な方でしたから、大変残念に思っています。あなたはもう私の調べはついているのでしょう。香里奈さんは、地元の同級生です。ただ、それだけです」
「それだけ?」
「はい。中学卒業後は、会ったこともありません。とても頭のいい高校に進学したと噂で聞きました。あとは、成人式で見かけたくらいです。ですからなぜ、エスさんの弁護士が、私のところにやってきたのか、さっぱりわかりません」
涼は自分の手の震えを相原に隠そうと、コーヒーに一切手をつけなかった。
「エスさんのことはご存知ですか?」と相原。
「もちろんです。有名人ですから。妻がユニットのティーのファンで、よく握手会に」
「そうですか……実は、エスさんに、りょう、という人を探して欲しいと言われたんですよ。おそらく香里奈さんの関係者です。それで、あなたのところに来たわけです」
「なるほど、でも、りょうという名前は割と多いですし、私では無い可能性もありますよね」
「ごもっともです」
相原はコーヒー代を2人分支払うと、帰って行った。涼はようやく多量に吸い込んだ息を吐いたような心地だった。手の震えがバレていないだろうか、足の揺りに気が付いただろうか。涼は不安で仕方なかった。
これは急いで帰らなければ、と涼は思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます