■■■■事象 の フィルター解除を申請致します

 脇腹を刺され、床に倒れ込む四辻。運悪く動脈か臓器を傷付けられたのか、血が流れて止まらない。


 全身を支配する痛みに、四辻は舌打ちした。

 顔を真っ青にして叫ぶ逢の悲鳴を、どこか遠くで聞きながら、視線だけで自分を刺した相手を探す。


「婆ちゃん……」


 部屋の隅で震えていたはずの田原稲男が繭を破り、天井からぶら下がった祖母の方へと歩いて行くのが見えた。繭には、稲男が四辻を刺した時に浴びた返り血が付いている。


「婆ちゃん、婆ちゃん……ごめんよ……こんな姿にしちまって……」


「近づいちゃ駄目です! 梅さんはもう、田原さんが知っているお婆さんじゃありません!」


 逢の制止は一歩遅かった。


 祖母の形をした怪異は、穢れを振り撒く悪霊に成り果てていた。孫を守るという願いを胸に抱いたのに、彼女は自分の孫がどんな姿形をしていたのかすら、もう思い出せなくなっていた。


 梅は鬼灯のように赤く光る目を見開き、稲男めがけて天井からベッドを落とした。


 叫び声を上げる間もなく、稲男はベッドの下敷きに……——ならなかった。


 まさに間一髪。息も絶え絶えに起き上がった四辻が、札を繭に変えて田原を守った。


 その後ろでは、逢が狐の窓を通して四辻を覗く。


「報告の通り、あたし達は事象の原因を特定しました。

 照魔の神様、我が神の封印をお解きください。


 我が神よ、お目覚めください。

 繭を破り、悪鬼羅刹を胃の腑にお収めください」



————フィルターの解除に成功しました————


【神無四辻事象】


 機関が初めて存在を確認した時、彼の神は、守り神の加護が及ばぬ辻に顕現し、辻神を食らっていた。


 その食欲たるや凄まじく、中世以前は朝に三千、夕には三百の悪鬼羅刹を飲み干していたと推測される。



 その凶暴さから、一時は辻神と混同されたものの、後に辟邪絵に描かれた善神と同じ類の怪異であると判明した。


 機関が有するこの怪異の記録は中世以降のものであり、この世に招かれた理由、召喚方法、依代にしている青年の詳細は不明。

 近代に入ってからは、常世に潜む怪異を見つけて捕食する為か、彼の神は機関に隷属する素振りを見せている。


 神の名は【神虫】

 底無しの胃袋を持つ八脚の蚕である。


 人の姿をとるときは、神無四辻を名乗っている。


 ————————————



 逢の願いに応えるように、四辻の体が糸のように解けて足元の影に沈む。

 同時に、影からは鎧のような外皮に覆われた巨大な手が伸びて、天井異界ごと悪霊を捕らえた。


「待って! 待ってくれ!」


 田原は叫び、繭を破ろうとした。しかし、繭は破れずに叩きつける手を弾き返した。


「俺の婆ちゃんだ! つれて行かないで! 俺の……俺の、ただ一人の家族なんだ!」


「田原さん……梅さんはもう、あなたの知るお婆さんじゃありません。だけど……」


 逢は、諭すように話しかけ、


「一番最初、自分自身の遺体を隠した時の梅さんは、まだ梅さんのままでした。きっと泥棒と言ってあなたを怒らせてしまったことを、悔やんで霊になったんです。


 でも、穢れに侵されて、次第に梅さんは、梅さんじゃなくなっていきました。遺体を粗末に扱うことも、人を殺めることも、平気な悪霊になってしまったんです。


 自分自身を見失った梅さんが、それでも大野家の周りに遺体を降らせ続けたのは……必死に、あなたのことを思い出そうとしていたからだと思います」


 懇願するように、稲男を見つめた。


「悪い怪異をこの世に留めるのは、人の負の心です。でも、故人の死後に平穏をもたらすのもまた、人の心なんです。


 祈ってください、田原さん……悪霊になってもあなたを愛し続けた、お婆さんの、死後の安らぎを」


 やがて、神虫の手は、悪霊となった梅を影の中へと引きずり込んだ。


 逢は闇の中に投げ出されたように何も見えなくなり、僅かな浮遊感のあと、照明が戻った部屋に立っていた。部屋の中の荒れ具合が、先程の出来事が夢や幻じゃないことを物語っている。


 一部始終を見守っていた中島は、手を合わせて祈りを捧げている稲男を一瞥し、暗い表情で視線を床に落とした。


 ただ一人、神無四辻だけが満足そうに自分の腹を擦っていた。体は元通りの青年の姿に戻り、傷は跡形も無く消えていた。

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