下車・歩行・乗車

鮎崎浪人

第一話

 一


 午後五時を少し過ぎたJR大井町駅のプラットフォームには、夕暮れ前の陽春の西日が穏やかにさしこんでいた。

 そこに佇む人々の前に、シルバーの車体の上部にブルーのラインのはいった京浜東北線の上り大宮行きが勢いよく滑り込んできて、やがて徐々に速度を落としてその動きを止めた。

 最後尾の車両のドアがぷしゅーという音を立てて開くと、はやる気持ちを抑えるように、野呂はあえてゆっくりと落ち着いた足取りで車内へと歩を進めた。

 平日で通勤ラッシュの時間にはまだ早いせいか、座席はすべて埋まっているものの、立っている人の数は少なかった。

 時間調整のために、一分ほど停車することを車内アナウンスが告げている。

 野呂も立ち組の一人に加わり、プラットフォームとは反対側のドア付近に陣取り、あたりを素早く油断のない眼で見回した。

 野呂の斜め左、三メートルほど離れた位置に、つり革を持ったスキンヘッドの男が立っている。

 野呂と同じく、この駅で電車に乗り込んできた男だ。

 その男は、二〇代後半の長身の小太りで、派手な色彩のスカジャンを着こんでいる。

 野呂は横目で男をちらりと見やると、今度は前方に視線を移した。

 開いたドアの手前、向かって左手の手すりをつかんで立つ男が一人。

 ドアの前には、この男以外の乗客はいない。

 この男も当駅から乗車したことを野呂は知っている。

 五十代という年配の小柄な男で、色の褪せたベージュの薄手のジャンパーに、これも着古したようなジーパンといういでたちだ。

 その男にじっと視線を固定させている野呂は、警視庁で麻薬捜査にあたる薬物銃器対策課の刑事だ。

 電車内もしくは駅構内で麻薬取引が行われる可能性があるとの情報が入り、容疑者を尾行している最中であった。

 そんな野呂は、四十八歳のバツイチ。

 勤続三十年に及ぶが、現在の仕事には満足していない。

 殺人や強盗などの凶悪犯罪を扱う捜査一課への異動を熱望しているが、このままでは実現しそうにないことはわかっていた。

 なにか大きな手柄を上げなければと焦りは募るばかり。

 そんな気持ちを反映してか野呂の表情はいつも暗く沈んでいるが、瞳だけはギラギラとした輝きを放っていた。

 そんな飢えた野獣のような視線を前方に向けていると、野呂はふいに男性の老人に大きな声をかけられた。

「『思ひ出座』に行くには、この駅で降りるんですかな?」

 瞬間、野呂の頭は空白になった。

「思ひ出座」? 

 どこかで見聞きした記憶があるが・・・

 視線を前方に据えたまま、記憶を探っていく。

 野呂の視界で、さきほどから手すりをつかんで立っていたベージュのジャンパーの男が斜め左に動いて、すぐそばの座席の前に移動した。

 男の周囲で他に動いた乗客はなく、遮るものがなくなったドアを出入りする人もない。

 ややあって、野呂は答えた。

「ああ、この駅だよ」

 尋ねた老人は頭を丁寧に下げて、ドアから出て行った。

 野呂がすぐに返答できなかったのも無理はない。

「思ひ出座」とは、いわゆる名画座で、二本立てなどで主に旧作映画を上映する映画館だが、十年前にその名を「シネマ・クラシコ」と変えていたからだ。

 野呂が記憶を手繰り寄せることができたのは、たまたま彼の地元が東大井であり、現在も住み続けているからで、その意味で老人は運が良いといえた。

 その老人が去ったところで、発車を告げるメロディーが軽やかに鳴り響き、鳴り終わるとドアはゆっくりと閉まって、電車が動き出した。

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