書架、風過ぐ
八雲たけとら*
(約5,300字)
勉強がなんだ。進路がなんだ。
現実に漂う今が嫌いで
逃げても逃げても見え続ける未来が嫌で
見えないフリが大層うまくなった。
切り取られたピースのように
世界から忘れられたあの部屋だけが
私を守る、最後の夢。
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書 架 、 風 過 ぐ
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鍵のかかっていないドア。
ノブを回すと抵抗なく開く。ふわりと、図書館のような紙の匂いが漂ってくる。私の好きな匂いだった。
三角タイを少し直すのは、この部屋に入るときの癖だった。いつも大して乱れてない。それでも気が付くと手が伸びている。
部屋の中へ入ると、壁いっぱいに立ち並ぶ本棚に出迎えられる。今時、こんな本棚は図書館にでも行かなければそうそう見かけない。
「おはよう、ニキ。」
声が、窓際から聞こえてくる。声の聞こえた方へ目を向けると、カーテンが風に吹かれて踊っていた。まるでカーテンに話しかけられたようだった。
私は、そんなカーテンに向かって声をかける。
「おはよう、サクヤ。」
まるで計ったかのように風が一瞬止んだ。カーテンが元に戻ると、そこにはサクヤが居た。窓際に置かれた椅子に腰かけて、私に向かって微笑んでいる。
私は歩み寄りながら、いつもと同じ質問をする。
「今日は何を読んでいるの?」
サクヤは持っていた本の背表紙を見せてくれる。
「詩集、金子みすゞさんの。」
「あっ、私好きだよ。みすゞさんの詩。」
自然な言葉の響き。日常的なのにどこかキラキラしていて、いつの間にか引き込まれる。
あんな言葉を紡げるようになれたら、どんなに素敵だろうか。
「でも珍しいね、詩集なんて。いつもは分厚い小説ばっかりテーブルに積んでいるのに。」
今日に至っては、手に持っている一冊のみ。今日のテーブルはどこか寂しそうだ。次に読まれるはずの本がまったく準備されていない。
「ちょっと今日は行きたいところがあってね。」
サクヤの口ぶりに、私は気付く。いつもは後ろ側で無造作に結んでいるサクヤの髪の毛が、まっすぐ下ろされている。その時、なんともちょうどよいタイミングで風が吹いた。髪が鬱陶しそうに舞う。また随分と伸びたものだ。
「あぁ。アマ婆のところに行くのか。」
「そう正解。」
それならばと、私も薄めの本を一冊だけ手に取った。サクヤが詩集を読み終わる頃、私も読み終われるようにしよう。
めぼしい本を手に、私はサクヤの隣に座る。「ねぇ、ニキ?」と、声がかかる。
「帰りにお茶していこうか?」
私は「いいね」と答えた後、少し悩んで「ケーキも奢ってくれる?」などと言い添えてみる。
サクヤは無言で微笑む。これは了承ということだろう。
本当はケーキなんてなくても良かった。どんな形だって喜んで行った。サクヤと一緒なら嬉しかった。
いつまでも。いつまでも。
こんな今日が、いつまでも続いてほしかった。
商店街の小路をジグザグに進むと、とある床屋が見えてくる。「アマリリス」というささやかな看板が、扉にかかっているだけで、一見何のお店か分からない。よくある赤青白のくるくるが置いてあるわけでもなく、窓越しにカット用の椅子が見えるわけでもない。なんとも不思議な佇まいの床屋である。
扉を開けると、軽快なカランコロンが鳴り響く。いつ聞いてもかわいらしい音だ。
「いらっしゃい。……ってなんだ、サクヤとニキかい。」
ドアのベルとは対照的な、年季の入った低音の声が聞こえてくる。こちらも好き。いつまでも聴いていたくなる心地よさがある。
「こんにちは、アマ婆。」
アマ婆、とは、私が勝手に呼んでいるだけである。実のところ本当の名前は知らない。サクヤが名前を呼んでいるところも聞いたことがない。アマリリスのお婆ちゃん。略してアマ婆。
「サクヤは随分と久しぶりだけど、ニキ、あんたはついこの間来たばかりじゃないか。まだすくのかい?」
「うん。もう少し軽くしてもらおうかなーって。」
本当はそんなつもりはなかったんだけど、サクヤの付き添いだけで居座るわけにもいくまい。それにどちらかというと、サクヤの隣でカットしてもらっているのが好きなのだ。
サクヤはと言うと、相変わらず何も口にせず、ただ空いている椅子に座って待っている。全てお任せ、といった様子だ。
アマ婆も慣れたもので、なにも言わずにカットクロスをかけると、躊躇なく髪を切り始める。相談も何もない。この手早さに、最初は驚いたものだ。
今では見慣れたこの光景に少し微笑みながら、本棚から漫画雑誌を手に取った。今週号だ。その様子を見ていたのか、アマ婆が「おぉ」と感嘆の声を上げる。
「お目が高いね。今週号は、なかなかアツいよ。」
私用のカットクロスを持ってきたアマ婆は、少し子供っぽい仕草で雑誌を指差した。
カットクロスに腕を通しながら、私は微笑を浮かべる。
「アマ婆って本当、中身は少年だよね。」
そう言うと誇らしげに胸を張るのだから、私はこの人が好きだった。
それからというもの、私とアマ婆は少年漫画における好きな展開について語り合った。アマ婆は、主人公が活躍する展開が好き。とても分かりやすい王道タイプ。私は少しひねくれていて悪役サイドを好きになりがち。でも一番好きなのは、始めは敵対しているのに、ひょんなことから味方になる展開だ。
それをアマ婆に話すと「それは間違いないねぇ!」と溌剌とした声を出した。サクヤは終始静かだった。
特に理由があったわけでもないが、次第に私の口数が減っていく。アマ婆も無理に話そうとはしない。店内にはサクサクというハサミの音が響いている。小気味いい、とても快適な空間だった。
「はい、できたよ。」
そんな言葉が聞こえてくる。カットクロスを外されているサクヤを、私は早速覗いてみた。
重ための印象だったサクヤの髪は、あれよあれよという間に切られていた。さっぱりと清潔感のある髪型になった。それでいて切りすぎた印象はなく仕上げるのだからアマ婆はすごい。
合間にすかれていた私の髪はと言うと、控えめにすいてくれたようで、あまり変わっていない。指通りが若干軽い程度だった。アマ婆には私の心など筒抜けだったかもしれない。
帰りがけに、大きな紙袋を渡された。以前から希望していた、マンガの全巻セットである。
「返すのはいつになってもいいからね。じっくり楽しんでおくれ。」
今度、オススメの本を貸してくれと言うので、返すときに持ってくると伝えた。
「いつでもいいから、次は髪を切りたいときにおいで。」
帰り際に軽く苦笑いを浮かべたアマ婆がそう言った。
アマリリスを出てしばらくすると、私は何も言わなかったのにも関わらず、サクヤに漫画の入った紙袋を奪われてしまう。重たくて仕方なかったのがバレていたようだ。
「あっ……。ありがとう。」
「いいんだよ。」
さらりと、そう言って笑うから堪らない。私は照れて少し俯いた。
夕方の買い出し時にはまだ早いようで、商店街を歩く人は少なかった。歩く度、コツコツとローファーとレンガタイルがぶつかる。サクヤがスニーカーを履いているからか、私の足音だけが目立つように響いた。
私はサクヤの二歩ほど後ろを歩いていた。小柄な私が自然な歩調で歩いているというのに、サクヤと離れることはなかった。サクヤは振り返ったりしていないのに、どうやっているのかは分からないが、違う歩幅の私に合わせてくれているようだ。何か通じているものがあるようで、少しだけ嬉しかった。
やがて「喫茶 椛」に辿り着く。店の前まで漂う珈琲の香りが何とも言えない。まだあまり得意ではないが、今日はブラックで飲んでみようかと思った。
しかし、入店直後サクヤが「カフェモカひとつ。」と注文するのを聞いた途端に「あ、同じのもうひとつ!」と心変わりした。やはり甘い方が好きだった。
注文が終わると、サクヤはポケットから文庫本を取り出して読み始めた。いったい、いつの間に入れてあったのだろうか。
私はというと、アマ婆から借りた漫画の第一巻を読み始める。まったく初見の作品だったが活字だけの小説と違い導入しやすいようで、するするとその世界に入り込んでいく。
ほどなくして、カフェモカが二つ届く。サクヤも私も本をしまってカフェモカを飲み始めた。
「あ。」
一口、二口飲んだぐらいのタイミングで、サクヤが言葉を漏らした。
「どうしたの?」と聞くと「ケーキ頼むんだった。」と苦笑する。
「そういえば、そんなこと言ってたっけ。あ、でも、別にいいよ。食べたら太っちゃうし。」
そう誤魔化してみる。本当は注文のときから気付いていた。でも、それでも良かったのだ。
しばらくお互いに何も喋らない。本を読むのでもなく、ただカフェモカを飲んでいるだけなのに、沈黙が苦にならない。心地よい刹那。それが続いていく。
サクヤと過ごす時間は、いつもそう。一緒に何かをするのもしないのも、どれも気楽で温かくて、ずっと浸っていたくなる。
ふと目が合う。そっと笑いかけると、優しい微笑みが返ってくる。幸せな時間が過ぎていく。
「それ、良かったら家に置いていきなよ。」
紙袋を指差して、そんなことを言うサクヤ。
「さすがにニキの家まで持っていくには重すぎるでしょう。読みたい分だけ持ち帰ればいいから。」
「じゃあ、そうさせてもらおうかな。」
私は、重たい紙袋を手渡す。
あの部屋に、相も変わらず通っても良いのだと、言われたようで嬉しかった。
しかし……。
私は渡してしまった紙袋を見つめながら思う。
持ち帰れる分だけ……となると、一日に読める冊数は限られてしまう。アマ婆に返すまで、かなり時間がかかってしまいそうだと思った。
できるならこの漫画たちは、次に行った時に返したい。さりとて次こそは本当に髪を切る時に行こうと思っていた。
「……いっそ伸ばそうかなー……。」
ふとそんな独り言を漏らす。聞こえるように言ったつもりはなかったのに、テーブルの向こうから「ニキは伸ばしても可愛いと思うよ。」という声が聞こえてくる。
そんな、当たり前のように反応するサクヤに、私は「ありがとう」と笑った。
お手洗い、と一言言って、サクヤが店の奥に消えていく。私はカフェモカを口に含む。
唇にフワリと優しくくっついた泡。そこからお砂糖を入れた分の甘さがつたってくる。芳醇な香りが喉と鼻腔を抜けていく。とても美味しかった。
ふと店内を見回す。喫茶店の中は、空間が日常から切り取られたように感じることがあった。珈琲の香りや店内に流れる音楽、少しだけ暗い照明。それらが醸し出す雰囲気は、どこか落ち着くもので、つい長居をしたくなる。
そう。それはサクヤと、サクヤの居るあの部屋に抱いている気持ちと似ていた。ついつい訪ねて、同じ時間を重ね続けて、心地よさに浸ったまま、時間が止まってしまえばいい。そう願ってしまう。
口当たりがよく、甘いようでいて、少しほろ苦い。そんなカフェモカのような願いが、私の中を駆け巡る。最後に香る苦さが際立って口に残る。
カフェモカは、甘いはずなのに。
「ニキ。」
突然の声。
振り向いたらサクヤがいた。
手に……ケーキを持っている。
「いいって言ったの……に……。」と言い、私は絶句する。
「ハッピーバースデイ。ニキ。」
ケーキには「たんじょうびおめでとう ニキちゃん」というプレートが刺さっている。
私は、どう言ったものかと思案するも、事実をそのまま言うことにする。
「誕……生日じゃ……ないんだけどなぁ……。」
するとサクヤは「やっぱり?」と笑い出す。
「いや、珍しくケーキ食べたいって言うから、もしかしてって思ったんだけど。」
確かに、ケーキを奢ってくれだなんていつもは言わない。でもそれは、きっと許してくれるだろうと思って、珍しく言った我が儘に過ぎない。まさか、そんな解釈をされるとは。
「そんな大博打ある? しかもニキちゃんって……。どうしたのさ、このプレート。」
「頼んだら作ってもらえた。」
いきなり作ってもらったのに、誕生日じゃなくて申し訳ない。申し訳なさすぎて私は笑いが止まらなくなった。
「バカじゃないの、サクヤ。」
笑って笑って、少しだけ涙がこぼれた。サクヤも笑っている。
「さ、バースデーケーキ食べて。」
「だからバースデーじゃないんだって!」
バカみたいに笑いあった。
最高におかしくて。
最高に愛おしくて。
止まれ。ここで全て。この刹那に、ずっと居たいよ。
笑って笑って、食べて笑って、気が付いたらケーキは無くなってしまった。ちっとも止まらなかった。
でもまぁ、そりゃそうだよな、と気付く。
風は、止まってしまったらもう風ではない。過ぎていくからこそ、風なのだから。きっと同じように刹那も過ぎ行くからこそ尊い。
「ねぇ、サクヤ。」
帰り道、私はサクヤに話しかけた。今ではもう暮れかけた空の下、買い出しに来た人たちで込み合う商店街になっている。
私が声をかけると、サクヤは立ち止まってくれた。「何?」と優しく聞いてくれる。
「また、お茶しようね。」
「またバースデーしようか。」
「バースデーはもういいよ。」
また笑いが込み上げてくる。笑いながら、また歩く。
大丈夫。きっと風はまた吹く。吹いてくれる。
私は、最後にもう一個だけ、我が儘を欲張ろうかと思いつく。足早に歩き、サクヤの隣に並ぶ。
そっ、と。
サクヤの方へ、手を伸ばした。
<了>
書架、風過ぐ 八雲たけとら* @yakumo_taketora
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