おかえり

 仕事が午後前に片付いたので、久々に彼女の家に行こう。僕は改札を通るのをやめ、ケーキ屋に立ち寄った。彼女が大好きな桃のナポレオンパイと、僕のお気に入りのミルクレープ。小花柄の箱のかわいい手土産ができた。

 彼女の家はちょっとした林の先にある。閑静も閑静だが、人目があまりなくいいところだ。買物が少々不便らしいが、それでも彼女はそこが好きなのと言った。

 午後になり日差しが強く、着く頃にはじっとり汗ばんでしまったので、部屋に入る前に風呂を借りようかなどと思いながら彼女の家まで数メートル、微舗装の道を早歩きした。


「ただいま~…なんちゃって。」

 玄関はあいていたが、返事はない。見知らぬ革靴が出迎えた。どう見ても女物ではない。僕のより少々大きいくらいなのだ。嫌な予感がした。怒りのような嗚咽も込み上げた。ケーキの箱と反対の手に、見知らぬ革靴を持って、彼女の寝室に向かった。



 浅緋色の扉の奥から、はっきりしないふたつの声が聞こえる。僕はものの一瞬で、中で何が起きているのかわかってしまった。彼女が時の声が、くぐもっていてもわかってしまった。


 そうだよな、最後に言い訳をしなかったのはいつだ?これは僕自身が悪いんだ。彼女はこんな静かな家で、寂しさはどうにか埋めるしかないのを、ひとりではいられない弱い彼女を僕は知っていて、仕事を言い訳とした罰だ。声が大きく鮮明になってきた。

 いけないと思いながら、僕は扉を少しだけ開けた。西陽を浴びたシルエットたちは、僕に気づくことなく寂しさを埋めあっていた。彼女の声は切なさを増していく。

 僕の身体は、僕のやるせない感情と裏腹に滾っていた。僕の自慢の彼女、いい身体をしているだろ、いい声で啼くだろ、いい顔をするだろ。ずっと見てほしかったのだ。僕以外にも彼女の魅力を知ってほしいという気持ちは、きっと前から存在していた。そしてそれを得意げに、本当は僕のものだと自覚したかった。それが今叶っているのだ。大声で僕のものはどうかと訊ねてやりたいが、発声は全くできていなかった。

 僕のものが、僕じゃないものに抱かれている。僕は僕のものを、僕じゃないものに抱かれている僕のものじゃない彼女を、どうしようもなく愛おしく思った。その愛おしさを自力で擦るほかに、気持ちを落ち着ける術を知らなかった。

 彼女が幾度か果てたのち、僕じゃないものが果てて、僕も果てた。見知らぬ革靴には、みすぼらしいのケーキのように無造作にデコレーションがされていた。脱力していると急に現実味が襲いかかってきて、玄関に僕のものじゃない革靴を置きに戻り、そのまま外に出た。帰ろうかとも思ったが、僕はどうしても彼女と一緒にケーキを食べたい。なんてことを考えていると玄関の戸が開く音がしたので、咄嗟に脇の茂みにしゃがんだ。

 僕が玄関に置いた革靴が、目の前を気だるそうに通過しかけて止まった。薄暗い玄関ではわからなかった白いデコレーションに、僕じゃないものが気づいたようだ。靴からデコレーションを掬いとった。


「なんだこれ…うわ、くせえっ!なんなんだ気持ち悪い…。」

 僕は、僕じゃないものに礼を言うことにした。─もちろん脳内で、だが。


 ───甘くて美味しそうに見えるだろ。僕はそれをわかっていて、見せびらかしていきたいんだよ。手に取ってくれてありがとう。


 ───さようなら。



 僕じゃないものを見送ってから玄関に戻ると、彼女は目を丸くして「びっくり、おかえりなさい。」と、何も無かったように出迎えた。僕の持っている小花柄の箱が何かわかったのか、嬉しそうに目を細めた。さっきまで僕のものじゃなかった彼女が、また僕のものになってゆく。彼女の桃のナポレオンパイをひとくちもらって、僕のミルクレープをひとくちあげるのだ。彼女を堪能して、僕を堪能させるのだ。またしばらく忙しい日常に戻る。そして、彼女が僕のものじゃなくなった頃にまた、桃のナポレオンパイを連れて甘やかしに来る。そんなことをミルクレープの様に繰り返し、折り重ねて、彼女はどんどん魅力的で妖しく、甘くて美味しい僕のものになっていく。

 僕は自分で作り上げたミルクレープを、誰かに食べてもらいたくて仕方がない。

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