お疲れ様
初夏の午後、新幹線に乗った。
インターネットで知り合った人に会うために乗った。
わたしは彼のことを、そんなに異性として好きではなかった。
真夏の夕暮れ前、新幹線に乗った。
見慣れた道に戻り、休んでいた代償を片付けるために乗った。
彼はわたしのことを、そんなに異性として好きではなかった。
長雨の神無月、新幹線に乗った。
もうこれ以上傷つく余地のない心と、まだしっかり期待を持った躰を連れて乗った。
わたしは彼のことを、もうどう思っていたのかはわからなかった。
───まぁまぁ、ゆっくりしてなよ。長旅お疲れさん。
疲れてなんてないよ、といつもの調子で笑ってみせて、ほんのり背筋だけ伸ばしてベッドに腰掛ける。気丈に振舞ったって、姿勢が美しくたって、彼にはなんの意味もないことをわたしが一番よくわかっていた。それでも無駄なことはきっとないと、やり遂げれば諦める時も胸を張れると思っているのだ。
わたしは心がめっぽう弱いくせに、気だけは人一倍強かった。
憧れと意地が混在する相手として、彼はいつもわたしの前にいた。彼の生活ぶりをなぞりたいかと言われれば、まったく真似はしたくないが、あれはあれでいいなと常々思っていた。だからこそ何度も足を運んだし、その都度躰を許しては意識さえ絡め捕られて、気づけばこのザマだ。名前のつかない関係に安堵しながら、名づけてもらえない感情に心を痛めた。
そんな関係が終わりに近づくことを知ってもなお、わたしは新幹線に乗るのをやめなかった。もう幾度も通った家路で初めて、窓の前に生えていたのが金木犀だと気づいた季節もわたしはそこにいた。
象牙色の扉をあけると、いつもの澱んだ空気と彼が出迎えてくれる。ふざけた調子で「ただいま」と言ってみせたり、わざと素っ気なく「お邪魔します」と靴を揃えたり、どんな入りも意味がなく溶けていくあの空気。
乱暴に下着をずらされながら、早くほしいとベッドに横たわり、そして何もがどうでもよくなるほど堪能したら、そのまま少し眠る。滞在中はそんなことを三度は繰り返す。
彼にとってわたしと会う目的はそれで、それだけなのだ。わたしもそれでも良かったし、それだけでも良かった。
相手に恋をしないと決意して始めたこの関係に、恋をして終わりがくるのが本当に怖かった。そうならないようにきっとお互いが配慮したが、わたしだけが弱かった。このまま始まらずにいれば終わりも来ないと思っていたが、実際は【終わり方に名前が無い】だけだった。
冷たい扉、軋む床、程よいマットレスに沈むふたつの躰。このまま世界に二人きりになれたらいいのに。
わたしの心の声が聞こえたのか、彼は意地の悪い表情の手本を見せながら呟いた。
───初めから無いって伝えてたのに、なんでこうなったかなぁ。
ヒールの高いローファーで、帰り道の落ち葉を踏んで歩いた。ぐじゃ、ぐじゃ、と音を立てながら落ち葉は砕かれていく。
わたし自身の心も、簡単に砕けてしまえばどんなに楽なのに。ただわたしは気だけは人一倍強いのだ。やり遂げたと思えるその時まで絶対に口にしないしさせないのだ。名前の無い終わり方など許さない。固めたのは意思ではなく意地だが、わたしの気分は悪くはなかった。
まだ彼から聞く訳にはいかない。
───さようなら。
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