第二十三話
「お待たせしました、
視聴覚室に入るなり、次代、竹詠かぐ沙は、当代、竹詠かぐ沙に一礼をする。
【ぐっもーにんぐ!】
喋るサメに迎えられた。
「なんですか、それ」
【はぶあないすでい】
「それ、愛々さんの飼ってるサメですよね。どうして師匠が持ってるんです?」
「借りたんだ」当代は言う。
「なぜです?」
「かわいいから」
「……そうですか」
当代がこの学校の制服に着替えていることには、
おおかた、谷内先生に無理を言って用意させたのだろう。
相変わらず、自分より三十歳も年が離れているとはとても思えない。
自分と体つきが近いので、中学生の頃はよく勝手に制服を身に着けられていた。
「いいよね、こういうの」当代は、フカヒレを
「そんな小さなカセットテープ、逆に使いづらいですよ」
「とはいえ、小型化の
「ここに呼んだのは、何か私に見せたいものがあるからですよね?」
「察しが早くて助かるよ。では早速ご覧あれ。映像科の生徒が朝の街を撮影していて、偶然撮れたものだそうだ」
当代はリモコンのスイッチを入れた。
大きなスクリーンに映し出されたのは、学校近くの道路。
人が歩き、鳥と猫がたわむれ、車が通っている。
そこに、朝の静けさを引き裂くような悲痛な叫びが駆ける。
「なおちゃん、あぶない!」幼くも、大きな声。
小学生低学年くらいの女の子が無邪気に道路に飛び出している。
まさか子供が現れるとは予期していなかった赤い乗用車のタイヤが悲鳴を上げる。
間に合わない。
次の瞬間の悲劇を予想して、かぐ沙は画面から目を逸らそうとしたが、次の瞬間に訪れたのは、一人の少女であり、彼女の勇気ある行動が、間一髪、幼い命を救う。
道路に飛び込み、片方の手で女の子を抱きかかえ、もう片方の手でアスファルトを
ダンスの時間に判明した
これは映画の撮影ですと聞かされたら、誰もが信じただろう。
だが、かぐ沙は信じない。
なぜなら、スクリーンの中で活躍を見せた彼女が目指しているのは、舞台役者でも映画俳優ではなく、声優なのだから。
一難は去った。だが、休む間もなく次の一難がやってきた。
小さな爆弾が起爆したように、女の子は泣き叫ぶ。
もし車に轢かれていたら、大けが、もしくはそれ以上のことになっていたかもしれないという恐怖が、遅れて襲ってきたのだ。
女の子の友人と思しき女の子も近づいて、どういうわけか一緒に泣き出す始末。
これには手こずりそうだと、空気が張り詰めたそのとき、二人の泣き声をかき消すような、とてつもない号泣があたりを支配した。
大きな衝撃を、より大きな衝撃で打ち消すように。
女の子たちの前には涙をこぼす少女のイラスト、そのイラストの向こうには、一人の声優。
彼女の放つ
「ばかばかばか、なおちゃんのバカ! 危ないのにどうして飛び出すの!」
イラストの少女は言う。
少しおどおどした女の子は「……な、泣かないで、ごめんなさい。もうしません」と、イラストに頭を下げた。不注意で飛び出した自分のまちがいに、ちゃんと気づいたように。
「ほ、本当に?」ひくひくと涙声でイラストの少女は問う。
「本当です」少女は約束した。
「──約束だよ」そこからこぼれた、優しい笑顔の声。
その瞬間、イラストの意味が変わった。悲しみで泣く少女から、喜びで涙を
イラストそのものは何も変わってはいない。
変わったのは役者の演技。それが全てに変化をもたらしていた。
イラストにも、それを見つめる女の子の心にも。
女の子たちは、命を救ってくれた少女に何度もお礼をいって、手を繋いで安全確認しながら、帰っていこうとした。
ところが、命を救われた女の子が引き返して、こう言った。
「お姉さんって、もしかして、竹詠かぐ沙さんですか?」
映像を見ていた次代、竹詠かぐ沙の頬が、小さく反応した。
少女はその問いに首を左右に振って答えた。
「そうなんですか、でも私、お姉さんの声、大好きですよ」
そう告げて、帰路についた。
それを笑顔で見送る少女だったが、何かとりかえしのつかないことをしてしまったことに気づいて、青ざめて自分の首に手をあてる。
まるで、今日はもう声を発することができないと察したかのように。
スクリーンは白に。映像は終わる。
「これが昨日、愛々さんが声を出せなかった理由ですか」
「いやあ、ずっと考えてるんだけどまだ答えを出せないんだよ、ぼくは」当代は首をかしげて、口をとがらせる。
「何をです?」
「もしぼくがあの状況にいたら、ちゃんとあの子たちに笑顔を戻せたかなって」
かぐ沙も考えてみた。自分だったらどうだろう。
まず、道路に飛び込んで子供を救うところから無理だと感じた。
深いため息をつく。
「どうしたんだい?」
「さっきから己の未熟さを痛感してばかりです」恋芽恋守と愛々愛与「……二人のことを考えていると、私、砂になってしまいそうで」
それを聞いた当代、竹詠かぐ沙は「いい傾向だ」と口角を上げた。「そうやって何度も粉々になって、何度も取り戻してを繰り返して、最後に残ったゆるぎないもの、それがきみのかたちだよ」
「そう、なれればいいのですが……」
「あと、これ返しておいて」
そう言って当代はサメ型のカセットプレーヤー、フカヒレを次代の少女に投げた。
そよそよと気持ちよさそうに魚が空を泳ぐ。
慌ててかぐ沙はそれを抱きしめるように受けとった。
「投げないでくださいよ。あぶないじゃないですか」
「受けとってくれると信じているから投げられるんだよ」
何かもっともらしいことを口にして、ごまかそうとしているなと、かぐ沙はあきれる。
「それから、持ち主のアイアイちゃんだっけ? よかったら、これも渡しといてよ」
当代は、銀色のカセットテープを掲げた。
「記念品でもらったんだ。録音した音が百年劣化しないらしいよ」
「そうなんですか」受けとって、じっと見つめる。一つ、思うことがあった。「あの、
「きみからお願いなんて珍しいね。いいとも愛弟子よ」当代は腕を広げ、寛大な姿勢をとる。「なんでも言いたまえ。愛情かな? それともお金かな?」
少し考えて、かぐ沙は「では、両方」と答えた。
「これ、本当にジョークなんだよね?」
《そうだよ》
「本当に本当?」
《本当に本当》
「アイアイは名前があるから、私に気をつかってくれてるだけなんじゃ?」
《だから違うって》
学校に戻る前に、あらかたの説明は聞いてはいたものの、実際に自分の名前の載っていない合格者一覧を目にすると、嫌な汗が噴き出てくる。
「本当にみんな合格してるの? ここに名前のない人も? 明日から声優科に通っていいんだよね? ね?」
「心配するな、私が保証する」手にプリントの束をもった谷内先生が声をかけてきた。「お前の場合はそんなことより、入学式のスピーチも考えておけよ、新入生代表」
「それなんですけど、本当に私でいいんですか? 紡椿さんや竹詠さんじゃなくて」
「単純な実力だけなら、お前はあの二人の足下にも及んでない。とはいえテストでのお前は、その二人を凌駕した。それを
「……はい」と言って、気恥ずかしさをごまかすように、背中を丸める。
その背中を正すように強い風が吹いて、谷内先生の手にしていたプリントを数枚飛ばした。
足下に舞い降りた一枚を恋守は拾う。
笑顔の少女が描かれていた。その画風はテストで使った涙の少女と同じだった。
「もしかして、次の授業で使うんですか?」
「ああ、そうだ」
「泣いてる女の子の絵もそうでしたけど、上手いですよね。こういうのってやっぱり、プロのイラストレーターさんに依頼してるんですか?」
「……いや、それは……だな」
困惑と喜びを混ぜたような複雑な表情を披露する谷内先生。
「──先生?」恋守は首をかしげる。
「実はだねえ、こがしこくん」どこからともなく出現した紡椿白烏が割って入る。「このイラストは全部、谷内っちが描いているのだよ」
「おい、こら、紡椿!」
「へえ、すごいですね。プロみたいです」それは本心だった。
「──そうか?」まんざらでもない谷内先生。
「今からでもプロ目指せばいいじゃん」と白烏は
「そうですよ、もったいないですよ」
「谷内っちのプロ魂はすごいんだよ。描いたイラストのバックストーリーを考えてるだけで感動して、一日中泣いたりしてるんだよ」
「紡椿、お前だけもう退学な!」顔を真っ赤にして谷内先生は声明を表明する。
さっきよりも強い風が吹き、プリントが舞い、それをみんなで拾う。
「そういえば先生、こんなときにですけど、一つ訊いていいですか?」
「なんだ?」
「入学案内にあった『指示があるまで喋ってはいけない』ってルールは、やっぱり私やアイアイ──愛々さんのことを想って書いてくれてたんですか?」
「それもあるが、それだけじゃない」
「──? どういうことですか?」
「卒業式まで覚えていたら、教えてやろう。とりあえず今はプリント拾いを手伝ってくれ。あと、どさくさにまぎれて紡椿の背中に蹴りの一つでも入れておいてくれ」
「──善処します」と恋守は笑った。
夕方。
紡椿白烏からもらった一枚の紙を手に、薙寅泣希は店の前に立っていた。
純喫茶『はなや』
桜木町駅で古くからある有名店だ。ただし、自分は入ったことはない。
扉を開くと「いらっしゃいませ」と気持ちのいい声に迎えられた。
「あ、すみません。私、お客さんじゃなくてこれを見てきてんですけど」
薙寅泣希は紡椿白烏からもらった紙、アルバイト募集の広告をひろげた。
「ああ、葉ノ咲の生徒さん。ということは声優さん?」
「いえ、私は声優志望じゃないんですけど」
「とにかくすごく助かるよ」と店員さんは言う。
「……そう、ですか」まだ働くかどうかも決めてないのに、向こうのペースにのせられてしまい、少々気まずい。
「ねえオーナー、せっかく若い人がきてるんだから、こっちにきてもらって意見聞けば?」
店の奥からそんな声が飛んでくる。
「そうだね。ちょっとこっちきてもらってもいい?」
「……はい」
拒否するのも面倒なので、しかたなく店の奥へと進む。
そこにあったのは、いくつもの、衣装。
「……これ、なんですか?」
薙寅泣希の興味が一瞬で開花する。胸が、高鳴る。
「今度、秋葉原に支店を出すことになって、いろいろ新しいことを試そうって考えていてね、その中の一つとして、オリジナルの衣装を模索中なんだけど、例えばあなただったら、どんな店員さんに迎えてもらいたい?」
「これなんてどうですか?」
薙寅泣希は、迷わず一つを選んだ。
「メイドさんっぽい、衣装だね」
「持たせてもらっていいですか?」
「もちろん」
薙寅泣希は英国メイド風のドレスを手に、体にあてて、そして自分の好きを演じる。
「こんな感じで──」スカートをつまみ「──お帰りなさいませ、ご主人様──みたいな」
そこで薙寅泣希は、はっとする。
そこにいるスタッフ全員、目が点になっていた。
「じょ、冗談ですよ、冗談。メイドさんが迎えてくれる喫茶店なんて聞いたことないですよね」
「ああ、確かに聞いたことない」オーナーはつぶやく。「でも、すごくいい」
「──え?」
薙寅泣希の偽りを必要としない物語が今、はじまる。
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