第二十二話
「うるさい! 今は私が喋ってるんだからちゃんと聞いて! もう一度言うけど、恋守は竹詠さんに勝ったの! だから恋守は一さんにならなくていいの! だから私たちは声優科に通えるし、私も恋守も絶対に声優になるの! それから──」
「ちょ、ちょっと、アイアイ、ストップ!」
「えっと、その……すごく言いにくいんだけど、私をすごく元気づけようとしてくれているのはわかるんだけど──『オッサン声』のあたりでアイアイの声がなくなってるから、完全に私への罵倒にしかなってないというか……」
ははっと恋守は笑って「でも、ありがとう」と伝えた。
ところで、今まで恋守は何をしていたのか。
それを知るためには時計の針を二時間ほど巻き戻す必要がある。
朝。愛与より先に目を覚まし、
テストの結果を確認する前に、自分の決意を聞いてもらいたかったのだ。
早い時間だったにも関わらず、祥子専務は昨日の応接室に招いてくれた。
「気持ちは、まとまりましたか?」
祥子専務からの言葉に恋守は、はい、とうなずく。
「専務のご厚意は受け取れません」と伝える。
「そうですか」と恋守からの返事を受け取る。
相変わらず、祥子専務の表情は
谷内先生が無表情で感情を出さないように、祥子専務は朗らかさで感情を隠しているのだなと、恋守は今になって気づいた。
「だけど私──」今日、恋守は「──あの子の声になりたいです」これを伝えにきたのだ。
「あの子、というのはあなたにお願いしたプリンセスプロジェクトのヒロインのことですか?」
「そうです」
「あなたはたった今、そのオファーを断りましたよね?」
「だけどなりたいんです。なります!」
「どうやってですか?」
「新人発掘オーディションに参加します!」
「……なるほど」くすっと祥子専務は微笑んだ。「正規のやり方で──実力で役を勝ち取りたいということですか」
「そうです」
祥子専務は少し視線を下げて、懐かしい物語を思い出すような、遠い目をして、どこか嬉しそうに頬をゆるめた。
「専務さん?」
「もっと早く、この質問をしたかったのですが、よろしいですか?」
「はい」
「恋芽さん、どうしてあなたはお姫様になりたいんですか?」
「この世界からその質問をなくしたいからです」
はぐらかすか、恥ずかしがるか、どちからの反応がくると思っていたのに、迷いのない言葉がまっすぐに返ってきた。
「それはどういう意味です?」
「例えば、お花屋さんになりたい人や、本屋さんになりた人に、どうして? なんて訊きませんよね?」
「まあ、そうかもしれませんね」
「だけど、お姫様って答えると訊かれるんです。どうして? って。それどころか今はもうそんな時代じゃないとか、それは古い価値観だとか、女の子だからって無理してお姫様に憧れなくてもいいんだよとか、みんなが必死になってお姫様を奪おうとしてくるんです。なんですか価値観って。自分の気分で誰かの好きを否定するなんて最低じゃないですか。お姫様がかわいそうじゃないですか」大切なものを守るように拳を握りしめる。「だから私はお姫様を目指して、たくさんお姫様を演じて、どんな人がお姫様になりたいって言っても誰も疑問に思わない世界にしたいんです。だってあんなに素敵なんですよ、お姫様は。花や本に負けないくらい!」
「この声が今はまだお姫様にふさわしくないのは理解しています」誰が聞いても、どこから聞いても非の打ち所のない、完全無欠の中年男性声。「でも私はこの声が嫌いじゃありません。大切な私の声です。だからこれから声優科でたくさん勉強して、演技を勉強して、表現を勉強して、知らないことを知って、いつか、みんなが知ってる声優になってみせます!」
なるほど、とつぶやき、祥子専務は手を合わせて、何かを考えていた。
「一つ、聞いてもらいたいテープがあるんですけど、お時間まだよろしいですか?」
「はい」
祥子専務は応接室を出て、小さなカセットプレーヤーを持って戻ってきた。
「聞いてください」
そう言って、再生ボタンを押す。
「──ええっと、これでいいのかな? もしもーし、ちゃんと録音できてますかー?」
そこから聞こえてきたのは、少女の声。
自分と同い年くらいの、おそらく女子高生の声。これといった特徴のある声ではなかった。
「ええっとですね、私の名前はユウ子と言います。年はですね、ええっと、二十歳くらいかな?」
なぜ自分の年齢を覚えていないのか、恋守は不思議に思う。
「ええと、せっかくなので歌でもうたいたいと思いまーす」
鼻歌でリズムをとって、歌いはじめる。下手ではないけど、上手くもなかった。
歌の途中で祥子専務はテープを止めた。
「どうですか?」
正直、反応に困った。「この人は、実は有名な声優さんだったりするんですか?」
祥子専務は笑う。「どうでしょう? ただ、このテープは私が世界で一番好きなテープなんですよ」
「そうなんですか?」
時計を見ると、そろそろ学校に行かなければならない時間だ。
「お時間ですか? では学校まで送りますよ」
「ありがとうございます」
「ねえ、恋芽さん」
部屋を出ようとする恋守を祥子専務が呼び止めた。
「なんですか?」
「……私と、ともだちになってはもらえませんか?」
「え?」
「年は離れてますけど、ときどき一緒にご飯を食べたり、横浜の名所なんかにもお連れしますよ。谷内先生や学校のおともだちを呼んでくれてもかまいませんから」
「どうしてですか?」
拒否しているわけでも迷っているわけでもなく、単なる質問だった。
「それは」何か都合のいい理由をでっちあげようとした祥子専務だったが、信頼関係を失っては本末転倒だと、それを振り払う。「──こんなことを言うとあなたは不快に思うかもしれませんが、嘘はつきたいくないので正直に言います。あなたとお話をしていると、とても幸せな気持ちになれるんです。そこに──父がいるみたいで」
「…………」数秒間の静か。それから口を開く。「この間、車でクッキーと紅茶をごちそうになったじゃないですか」
「え? ええ、そうですね」
「私、紅茶って何がおいしいのかわからなかったんですけど、あの紅茶はすごくおしかったです。またごちそうになりにきてもいいですか?」
「え? ええ、もちろんです! 恋芽さんはお茶の味がわかるんですね。いつでもいらしてください。待ってますよ」
「じゃあ、また今度」
「はい、また今度」
恋守は扉を閉めた。
朗らかな表情で、祥子専務はとっておきの紅茶を準備しておこうと決めた。
それからカセットプレーヤーの再生ボタンを押す。
先ほどの女性がまだ歌をうたっていた。
そこに小さな女の子の声が乱入する。
「パパ──!」
「お、どうした祥子」
ユウ子と名乗っていた女性の声は、恋芽恋守そっくりの男性的なものに変わる。
「パパ、お姫様の声出して!」
「いいぞ」と男性の声は「こんにちは祥子ちゃん」女性に変わる。
祥子専務は笑顔でそれに耳を傾けていた。
「このあたりでいいです」
恋守は車を止めてもらって、運転手さんにお礼を伝える。
車は走り去る。
ときどき恋守は自分に負荷をかけて
離れた場所のゴミ箱に紙くずを入れることに成功したらテストでいい点をとれるとか、白い部分だけ踏んで道路を渡れたらおこづかいが増えるなど。
達成したところで、実現したわけでもないのに、験を担ぐこと自体が癖になっていた。
そして、今日。
自力で学校にたどり着けたら、自分は声優科に合格している。というルールを作っていた。
大丈夫だ。運転手さんには学校の近くまで送ってくださいと頼んでいた。
ここがどこかはわからないけど、学校のすぐそばのはず。
とにかく一度振り返って、進んでみることにする。
このとき恋守が振り返らずにそのまま前進だけしていれば学校まで十秒で着いていた。
そうして迷い迷って、絶望に打ちひしがれる。
はたして今、自分はどこにいるのだろう。ずいぶん歩いた記憶だけはある。
もしかしてここはすでに横浜ではなく、京都かエジプトではないのか。さっき、舞妓さんとピラミッドが一緒に歩く幻覚を見た気もする。
まばたきするたびに地形が変わっていくような錯覚もする。
いや、これは錯覚ではない。現実だ。世界が私を
被害妄想は破裂することなく、どこまでも膨らんでいく。涙があふれてくる。
「──恋守!」
そんなとき、背後から愛与の声がした。
余談だが、試験当日に恋守が遅刻ギリギリだったのは、何か目論見があったからではなく、験を担いで迷子になっていただけである。
離れた場所にいる恋守と愛与を確認して、
後でくるようにと当代に呼ばれていた視聴覚室に向かう途中、会いたくない生徒と出会う。
「──あ」彼女は露骨に怪訝な表情になる。
それに対して、かぐ沙は無表情を返す。
そしてそのまま通り過ぎようとする。
「待ちなさいよ。こっちは先輩なんだけど」と生徒会副会長、薙寅泣希は言った。
「それがどうしたんですか、先輩」
「あなたが見にこいって言うから、何か得るものがあると思って声優科のテスト見に行ったけど、結局何もなかったんだけど」
「受け身で学べることなんて、ほとんどありませんよ、先輩」
「いちいち先輩ってつけるな」
「あなたが先輩であることを誇示してきたんじゃないですか先輩」
「もういい、普通に喋って」薙寅副会長は降参した。「一つだけ教えてほしいことがあるの」
「なんです?」面倒だなと思ったけど、一応、訊いてみることにした。
「レストランのメニュー読んでるテストで恋芽さんがアップルパイを連呼してたでしょ。あれにみんな感動してたみたいだけど、どうして?」
「あなたにはわかりませんよ」
「そういう言い方、すごいむかつくんだけど」
かぐ沙はこの先輩の話に付き合うことを選んだ自分に心からに後悔していたが、腹を
「この国の英語教育は無意味だ、みたいな言説を聞いたことは?」
「あるけど、それがどうしたの?」
「その意見に対して、先輩はどう思われます?」
「正論でしょ。何年も習っているのに、ほとんど身につかないんだから。それがどうしたの?」
「教科書を作ってる人たちだってバカじゃありません。むしろ逆で、頭のいい人たちばかりでしょう。だから現地の識者に授業内容や教科書を精査してもらったんです」
「それで?」
「言葉遣いが丁寧すぎること以外は、とてもよくできた理想的な教材と授業だと評価されたそうです」
「嘘よ」薙寅泣希は、すかさず噛みつく。「だったらみんな英語ペラペラのはずでしょ?」
「先輩はイラストや小説は書けますか?」
「どっちも無理だけど、何なのさっきから」薙寅泣希は苛立つ。
「なぜです? ちょっとした図形や文章くらいなら書けますよね?」
「そういうの、へりくつ、っていうの知ってる?」
「英語だってアルファベットや簡単な単語ならわかるでしょう。それでいいじゃないですか」
「よくないでしょう。何年も
「上達しないのは習ってるだけで、向きあってないからです」
「はい?」
「学校教育は、等しく同じ教養を身につけるためにあります。より高みを目指すのであれば、自主的に向きあう必要があります。線の引き方、文字の意味を教わっただけで、どうして自分は画家にも詩人にもなれないのかと首をかしげるお利口さんが世の中には多すぎる」と、かぐ沙は嘆息した。
「で、それと恋芽さんのあれとどういう関係が?」
「彼女は誰よりも向きあっていたんです。この数日間の教えの全てと」かぐ沙はまぶたを閉じて回想する。「誰もが無意識に共有している物語。例えば具合が悪そうな人には同情して、その人に意識を集中せざるを得なくなる。体調不良の演技は副会長、あなたから学んだのでしょうね。あなたのような人からでも学びはあるんです」そう言って、かぐ沙は薙寅泣希を見る。「そして病弱な演技と、ある食べ物の名前を組み合わせることによって、私たちが共有していた一つの物語と、一人の人物を私たち全員にはっきりと思い描かせた。私が不可能だと決めつけたお姫様に、彼女はなってみせた」
「…………」
「私は、恵まれた環境で人より多く持っていた引き出しの中身を見せびらかしたにすぎない。それでは彼女を折ることはできないのに、それに気づけなかった。私の完敗ですよ。こんなだから私は
「あなた……」
────涙。
「……くやしい」
まぶたの下と頬が濡れていることに気づいて、慌ててかぐ沙はそれを拭った。
「──とにかく、向きあわない理由を必死に誰かのせいにして、嘘で自分もまわりもだましているあなたには何を言っても無駄でしょう。一生、
急ぎ足で去っていった。
「……なんなのよ、あいつ」
「ですよねえ」
第三者がいるとは気づけず、はっとして声の主を見る。
「こんにち! 副会長せんぱい」
「あなたは……
「あってますよ。ウッキー先輩」
「なんだかあなたには最初から全部見透かされてたようで、ちょっとこわかったんだけど」
「そんなことないですよ先輩。それに私はウッキー嫌いじゃないですよ?」
「どういうこと?」
「人はですね、先輩」白烏は、ぴんと指を立てる。「一人ではウッキーになれないんですよ」
薙寅泣希は「どういうこと?」と、また言った。
「人は人のためにウッキーになるんです。自分のためだとしても、そこには誰かの存在があるので、やっぱり人のためのウッキーです。だからウッキーとは思いやりの一つです」
なぜ嘘つきのことを、いちいちウッキーというのかわからないけれど、不快な気持ちにならないのは、そこに誰かを
「私はウッキーを否定しません。ウッキーな女の子も大好きです。だけどもし先輩がウッキーをしばらくお休みしたいなら、お手伝いできるヒントをさしあげます」
「なに?」頭で思うよりも早く、口がそう訊ねていた。
白烏は言う。「先輩の本当を教えてください」
「本当って?」
「ウッキーじゃないことです。それをすればウッキーにはなりたくてもなれません」
「は?」結局、安っぽい精神論じゃないかと薙寅泣希は少しがっかりした。
「それでは先輩、本音をどうぞ。次に口にした言葉は必ず叶います。さん、にい、いち、はい!」
「え? えと──お金がほしい!」
やはり思考より先に口が動く。確かに嘘偽りのない気持ちだけど、これが自分の本音なのかと、恥ずかしくなった。
「そんな先輩にプレゼントです」
そう言って白烏は数回折ってある紙を薙寅泣希に
「なにこれ?」
「先輩のウッキー卒業記念ですよ。その場所に行ってください。ゼソゲですよゼソゲ!」
「待って、ゼソゲって何?」
「善は急げの略じゃないですか。何で知らないんですか?」
「何で知らなきゃいけないの──ちょっと、背中押さないでよ! 自分で歩けるから!」
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