第二十一話

 ──ある、ない。

 ないけど、ある。

 あるけど、ない。

 なんであるの? どうしてないの?

 何度も何度も見返した。

 だけどある。だけどない。

 自分の名前はあるのに、恋守の名前がない。

 わけが、わからない。


 体育館の中に入ると、そこには天国と地獄が同居していた。

 一目でわかる。選ばれた者と、そうでない者。

 笑う者。泣き崩れている者。魂を失っている者。

 愛与の存在に気づいた、落選したアテレコ組からの視線が痛い。

 どうしてお前が受かっているんだと、牙をかれているようで。

 発声を禁じられていなければ、遠慮なく罵声を浴びせられていたに違いない。

 合格している理由なんて、愛与自身が一番疑問を感じているのに。

 それより恋守はどこにいるのかと辺りを見回しても、彼女の姿は確認できなかった。

 間もなく集合時間となり、谷内先生があらわれる。

「おはよう、諸君──まあ、なんというか想像以上に凄惨な状況だな。特にアテレコ組からは説明責任を果たせと凄まれているのがわかるよ。どうして愛々が受かっているのか。同情か? 贔屓ひいきか? はたまた金でももらったのか? そんなところかな?」

 話題にあげられ、愛与に緊張が走る。

「とりあえずきみらに謝っておきたい。試すようなまねをして悪かった。これが最初で最後だ。二度としないとちかう。許してくれ」そう言って、一度、深く頭を下げる。

 教師からの言葉に生徒一同、疑問符ぎもんふを浮かべた。

「今回のテストの結果はえんぴつを転がして決めた。大して意味はない」

 教師からの言葉に生徒一同、感嘆符かんたんふを浮かべた。

「どういうことですか?」思わず一人の生徒が声を上げ、それから禁則事項を思い出し、あわてて口を塞ぐ。

「ああ、もう喋ってもいいぞ」谷内先生は禁を解いた。

「じゃあ、私たち全員──」

「もちろん、声優科で学んでもらう」

「普通科にいかなくていいんですね?」

「そこにあまり突っ込まないでいてくれたことに内心感謝していたよ。常識的に考えて不可能だろう、別の学科にいかせるなんて」

 そこに疑問を持たなかったのは、この人ならやりかねないという気迫があったせいだ。

「ちなみに今回不参加だった十一人も入学式から合流するので、なかよくしてやってくれ」

 桜の花びらが一つ、風に乗って体育館まで遊びにきた。

 その花びらは一人の生徒の髪に寝そべる。その生徒と周りの生徒たちは──

 はい! と全員、声優科の生徒らしく、よく通る、溌剌はつらつとした返事をする。

 不安要素が消えた途端、元気になったことに、教師は苦笑した。

「あの、先生、いいですか?」一人の生徒が挙手をする。

「なんだ?」

「だったら、今回のテストの意味って何なんですか?」

 少し間を空けて、教師は「きみたちに声優の日常を体験してもらいたかったんだ」と言った。

 またしても生徒一同、疑問符を浮かべる。

「仮にきみらが全員、プロの声優としてデビューできたとしよう。平日は毎日アフレコに吹き替えに大忙し。収録と収録の合間に雑誌の取材、グラビア撮影。休日祝日はライブにイベント盛りだくさん。ゲームやラジオの収録だって忘れちゃ困る。そんな紡椿みたいな日々は──」谷内先生は断言する。「──まずありえない」

 生徒たちは何かを堪えるように、ぎゅっとスカートを掴む。

 谷内先生は冷たい声でつづける。

「不可能だとは言わない。だがとても難しいことだ。とても」

 そんなことわかってる。別に夢見心地だけでここにきたわけじゃないと、挑むような目を向ける生徒も少なくない。

「それだけじゃない。例えば、きみたちが疑いようのない最高の役者になれたとしよう。とあるオーディションで、きみたちはその中の誰よりも優秀な成果をあげられた。しかし、優秀だったからこそ選ばれない、そういうことだってある。一見、不条理だが、現場では珍しいことじゃない」

「…………」

 その言葉を聞いて、竹詠かぐ沙は一瞬、複雑な表情を晒した。

「この業界は──人生は、予期せぬ事態の連続だ。どうして自分だけが──と絶望する瞬間は毎日のように襲ってくるだろう。反面、何一つ期待していなかった問題が勝手に上手くいくことだってある。それこそ、どこかで誰かが、えんぴつを転がしたみたいにな」谷内先生は生徒一人一人に目を向ける。「今回のテスト、合格した者もそうでない者も、結果に納得できた者は、案外少ないんじゃないのか?」

「────」

 誰も口を開かないのは、その言葉に反論することができないから。

「結局、全ては運なのか? だったら何もしなければいいのか? それが一番のあやまちだ」と教師は声を張る。「できないことはいつまでもできない。だからできるようにする。私の意見は初日から変わらない。この業界は厳しい。ただでさえ仕事の奪いあいなのに、これから新しい人材を受け入れる余地があるとは到底思えない。一人でもプロになれたら奇跡だ。同時に、少なからず私が業界に感じている閉鎖感を打ち砕きたいとも思っている。きみらの中から一人でもそういう存在が生まれてほしいと本気で願ってる。だから育てる」と宣言する。

「ついてきてくれ」

 この先、どうなるかはわからない。だけどこの学校で学ぶことは無駄にならない、無駄にはしない。その意志を込めて、少女たちは一途に声を揃えた。

「はい!」と。

「ちなみに」世間話でもはじめるみたいに谷内先生は告げる。「テストの結果は適当に決めたが、最優秀賞だけは当代と私で正当に選出させてもらった。発表しよう。前に出てこい──」選ばれたのは「──恋芽恋守」

 生徒たちはざわついた。

 しかし、いつまで経っても呼ばれた本人は現れない。

「どうした恋芽? いないのか? 愛々、恋芽はどうした?」

 その問いに、愛与は首をかしげるしかなかった。

 ただ、なぜか、胸騒ぎがする。

「ちょっと、探してきます」

 そう言って、体育館を飛び出す。


 寮の部屋まで戻る。だがそこに恋守の姿はない。

 他に彼女が足を運びそうな場所を考えてみても、天性の迷子で愛与が一緒でなければどこにもいこうとしなかったので、まるで見当がつかなかった。

 そこで唐突にテレビのスイッチが入る。

 何ごとかと思うと、録画予約が開始され、例の仕様でそうなったのだと思い出す。

 番組では恋守の憧れている声優が、いくつかの質問に答えていた。

 今はこれを見ている場合ではないことくらいわかっているので、とにかく外に出て探そうとしたそのとき、テレビに意識を向けざるを得ない事態が発生する。

「私ね、小さいころずっと字の練習をしてたんですよ」

 その声優はそんなことを口にした。

 テレビ画面には『子供のころ信じていたことは?』というテロップが映っている。

 恋守の憧れている声優、曰く「十年くらい前、テレビか何かで、手の動きと喉の動きはつながっていて、綺麗な字が書けるようになれば、声も綺麗になるって、紹介されていて、今思えば完全にデマなんですけど、それでも学生のころの私はそれを信じて必死に文字の練習をしてたんですよ。だけど、文字ってなかなか上達しないじゃないですか。それに実力のある声優さんほど、書かれている文字ってなんというか、個性的というか──」

 そんなことを言って笑いを誘っていた。

「…………」

 愛与は恋守の机を見た。

 代筆作業が途中までのものが置いてある。

 まるでワープロで書いたような、いや、それ以上に美しい文字。

 この文字が声だとしたら、どれほど美しく響くのだろう。どれほど人を魅了するだろう。

 一秒でも考えればわかることなのに、それをしようとしなかった。

 才能だと思うほうが簡単だった。

 これほどの字が書けるようになるには、一体どれだけ願いを込めて、どれだけ時間を捧げて、どれだけ血の滲むような努力をつづけなければならないのか。想像もつかない。

 愛与は寮を飛び出した。

「恋芽さんは?」

 なぜかそこにいた竹詠かぐ沙に訊かれた。

 首を左右に振って答える。

「どこにいったのよ、テストは恋芽さんの勝ちなのに……」

 かぐ沙のその言葉で、愛与とかぐ沙は同じ思考に至る。

 かぐ沙との勝負に敗れれば、恋守は一云一の後継者になる約束だった。

 掲示板に恋守の名前はなかったが、それは意味のない情報だ。

 しかし恋守は、そのことを知らない。つまり。

「──あのバカ!」わずかだが、感情を前に出して、かぐ沙はどこかに走っていく。

 彼女には向かうべき場所がわかっているらしい。

 ただ立ち尽くしていてもしかたない。何かできることはあるかもしれないと、かぐ沙とは逆の方向に向かって、愛与は急ぎ足になる。

 そして、信じられないものを目にした。

 横断歩道の先に、恋守がいる。

 どこに向かっているのかわからないけど、どこかに向かっている。

 信号は青。今ならつかまえられる。

「──恋守!」愛与は大声で呼びかける。

 恋守は振り返って「アイアイ?」と目をぱちぱちさせている。

 その目には涙。

 勢いのあまり衝突した二人。

 仰向けに倒れる恋守に馬乗りになる愛与。

「……ど、どうしたのアイアイ」恋守は、たじろぐ。

「──このバカ!」愛々愛与は叫んだ。「バカ! アホ! バカ! 大バカ! どうして勝手にいなくなるのよ! バカ! オッサン声! 恋守はテストに不合格になんてなってなかったんだよ! 確かに名前は載ってなかったけど、あれは先生のジョークみたいなもので、それどころか恋守は最優秀賞に選ばれたんだよ! 恋守は紡椿さんや竹詠さんに勝ったんだよ!」

「あ、アイアイ?」まじまじと、恋守は愛与を見つめる。「その──声が──」

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