第十七話
三十名全員の演技が終了し、アテレコ組の試験は終わった。かぐ沙と白烏以外は体育館で待機するよう指示され、生徒たちは静かに視聴覚教室をあとにする。
一方、朗読の試験会場である会議室は、異様な雰囲気に包まれていた。
大勢の少女たちが、喫茶店のメニューを開き、ぶつぶつとそれを読みあげているのだから。
ただ一人、恋芽恋守を除いて。
恋守は自分だけ注文を済ませたみたいにメニューを閉じ、虚空を見つめていた。
「またせたな」会議室に入ってきた谷内先生はクジの入った箱をテーブルに置く。「まずは、これを引いてくれ」
少女たちは箱に手を入れる。
一枚手にして数字を確認する恋守が強い視線を感じてそちらを見ると、竹詠かぐ沙が自分の番号をこっちに向けていた。
彼女は二十八番だった。
恋守は自分の番号を、かぐ沙に見せる。
三十番。
つまり、最後。
自分よりかぐ沙の順番が遅ければ番号を交換する約束だったが、わざわざそれをする必要はなくなった。
かぐ沙は、勝ちを確信したように微笑する。
「では改めて試験について確認をするぞ」谷内先生は言う。「これからきみらにはメニューの朗読をしてもらう。それだけだ。かなり地味なものになるだろうから、そうさせないために、多少のセリフは付け加えてよいものとする。ただし多すぎれば減点か場合によっては失格にもなる。他に質問は?」
先ほどのアテレコと違い、複数の生徒が手を挙げた。
「メニューは全部読まないといけませんか?」
「特に決まりはない。二、三品でいいと思うなら、それでもかまわない」
「メニューの順番通りに読まないといけませんか?」
「それも決まりはない」
「メニューに書いてあることなら読んでもいいんですよね?」
「ああ」谷内先生はうなずく。「他には?」
「あの、いいですか?」どことなく辛そうな表情で、恋守がのっそりと手を挙げた。
「なんだ?」
「あの……メニューにあるものなら言っていいんですよね?」
「ああ、そうだが。なぜそんなことを聞く?」
「いえ、確認したかっただけです。ありがとうございます」
恋守は手を下ろした。それから一度、咳をした。
「他にはいないか?」周囲を見わたし、誰も手を挙げていないのを確認して「では試験をはじめる。全員下がって、一番の者だけ前に」
「はい」
現れたのは白烏だった。
会議室の壇上の中央にマイクが用意され、その後ろに立つ。
少し離れた場所に立っている他の生徒たちと、壁際の椅子に腰かける谷内先生と当代、竹詠かぐ沙が見守る中で、紡椿白烏はメニューを開いて、それを読みはじめる。
「えっとね、コーヒーでしょ、パフェに、特製コロッケサンド……あっ、カフェラテがあるから、私これにする。ねえ、みんなはどれにする?」
そう言って白烏はメニューを閉じながら、前方にいる少女たちを見た。
飾らない、親しみのある、透き通る、自分たちに向けられた声。
数人の生徒がそれにつられて、思わず手にしていたメニューを開く。
「うまい」
谷内先生と当代、竹詠かぐ沙が小さく声を揃えた。
「いいね、次の紡椿さん。さっきも言ったけど、とても有望だよ」当代は嬉しそうにこぼす。
「こういう課題を与えられると、大抵の生徒は変わったことや奇をてらおうとする傾向が強いんです。だから紡椿みたいに、喫茶店の中にいることを想定して、本当にここが店内であるかのように演じて、実際、何人かを引き込んでみせた。一番シンプルで一番難しいことができるのは、さすがだと思います」
当代は問う。「奇をてらうとは?」
谷内先生は答える。「メニューを文字単位で分解して、全く別の作文をつくってそれを読み上げる、みたいなやつですね。さっきの生徒たちの質問から察するに、それをやろうとしている子は多少いると思います」
その推測は正しかった。それを考えていた生徒は複数いた。
しかし、紡椿白烏のまっすぐな演技にあてられて、それが悪手であることを理解した。
結果、大半の生徒は、愚直に感情を込めてメニューを読みあげることに方向転換し、中には信念を曲げずにメニューを分解して作った文章を読む者もいたが、限られた文字数で形にしたそれはお世辞にも完成度が高いとはいい難く、周囲の反応は薄かった。
「では次、二十八番、前へ」
「はい」
呼ばれてマイクのそばに立つ。次代、竹詠かぐ沙。
生徒たちは固唾をのんで、彼女に意識を集中させた。
一番最初に紡椿白烏が聞かせてくれたのは、疑いようのないこの試験の『正解』だった。
では、竹詠かぐ沙はどうだろう。
白烏と同等か、それ以上か、もしかしたら白烏より劣っているのか。
かぐ沙の無表情からは、何一つ読み取れない。
竹詠かぐ沙はおちついた所作で、ゆっくりとメニューを開き、そして口を開く。
「ハンバーグ」
その一言で、生徒全員、全く同じ行動を取った。
自分の右肩を確認するように、横を向いたのだ。
なぜなら、幼い少女の声が、確かにそこから聞こえたから。
「フルーツパフェ」
次に生徒たちは左を向く。なぜなら、今度はそちらから声がしたので。
「コーヒー、ピザ、カツカレー、オレンジジュース、ミックスジュース」
かぐ沙がメニューを読みあげるたびに、生徒たちは壊れた時計の針みたいに、あちらこちらに顔を動かした。
間違いなく、その方角から声がするのだ。しかも同じ声ではない。明らかに年齢も雰囲気も違う女性や少女たちの声が。
例えば自分はこの喫茶店のウェイトレスであり、今まさに、たくさんのお客さまから、一度に注文を
あるいは今日は家族や親戚、ともだちと喫茶店にやってきて、みんなお腹がぺこぺこで、
そんな物語が勝手に自分の内側から
台詞は一切加えられていない。竹詠かぐ沙はメニューに書いてあることを読み上げただけ。
いわばそれはただの朗読で、それがただごとではなかった。
声優科の生徒たちは、言葉を失う。
「…………」
その場にいた声優科以外の生徒、薙寅泣希も同じだった。
これは、なに?
声優というのは、こんなことができてしまうものなのか。
どうしてマイクに向かってメニューを読んでいるだけで、あちらこちらから、いろんな人の声が聞こえてくるのか。魔法なのか、それともトリックでもあるのか。
御願いだから、もう一度やってみてほしいと思った。
なぜなら魔法のような現象以上に、彼女の声はとても心地よく、至楽の体験だったから。
「すごい……」紡椿白烏は唖然としていた。それは、はじめて見せる少女の表情。「これが、竹詠かぐ沙の実力……カグツチは継承順位十番目だから、これよりすごいカグツチが上にまだ九人もいるなんて……」
いつの日か、竹詠かぐ沙を超えて、紡椿白烏の名前を全ての声優と女の子の憧れにするのだと豪語してきた彼女は、自分とかぐ沙の間にある圧倒的な差を見せつけられ、思わず「すごく、ぞくぞくするよ!」と瞳を輝かせた。
壁がどれだけ高くとも、そんなもの己を磨いて圧倒してしまえばいい。
これまでもそうしてきた。それが、紡椿白烏という少女。
「あれあれ?」他方、当代の竹詠かぐ沙は首をかしげた。「うちのかわいい愛弟子ちゃん十号はどうしてあんなに意地っ張りな演技をしているのかな?」
「よくないですね」
興奮さめやらぬなか、次の生徒がマイクの後ろ立つ。
谷内先生が開始の合図をしたものの、少女は一向にメニューを読もうとしない。
短い沈黙のあとで、試験の項目を間違えたかのように少女は涙をこぼしはじめた。
「……無理です。できません……竹詠さんの……あんな、すごいこと見せられたあとだと……なにやっても無駄ですよ……すみません、失格でいいです。あきらめます」
一礼して、マイクから離れた。
心が、折れてしまっていた。
ため息をついて、それでも事務的に告げる。
「それでは最後、三十番、前へ」
呼ばれた恋芽恋守はマイクに向かって歩いていく。その足どりは重い。
この子もまた、竹詠かぐ沙に心を折られてしまったのかと誰もが想像した。
マイクの後ろに立つ小さな体は、泣きそうな顔で、マイクの位置を調節している。
かわいそうに──生徒たちは同情する。
朗読をはじめようとする恋守、そこで少女は不自然なくらい激しい咳をして、ふらついて、倒れないようにマイクスタンドにしがみついた。
ここで声優科の生徒たちは、自分たちが勘違いをしていたと気づく。
もしかして恋芽恋守はかぐ沙の朗読に打ちのめされたわけではなく。
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