第十八話

「おい恋芽、大丈夫か?」

 谷内先生の声に、問題ないと主張するように小さく手を挙げて応えるものの、誰の目にもそうは見えなかった。

 ゆえに竹詠かぐ沙は、不快感を露にする。

 万全な状態の相手を屈服させることに意味があったのに、なんだか逃げられた気がした。

 恋守は、ため息でかざぐるまを回すように、必要以上に時間をかけて体勢をなおして、なんとかマイクと向きあう。

 ようやくはじまると思いきや、今度は手にしていたメニューを床に落とす。

 恋守の口からもれる、うめきなのか藻掻もがきなのかわからない苦悶くもんの音をマイクが拡散する。

 保健の先生を、いや、救急車を呼んだほうがいいのではと、懸念する者もいた。

 そして恋守はしなびれた声を上げる。

「……アップル……パイ」と。

 それは、呪いの言葉のように聞こえた。

「……アップル、パイ、ア、ップルパイ、アップルパ、イ……」

 苦汁、怨恨、憎悪、無惨。あらゆる負の感情にまみれたそれはさながら聴覚で味わう悲劇だった。

 現に、そこに恐怖を覚えた数名の生徒たちは、身震いして、手で耳を塞いでしまう。

「──アップルパイ! ──アップルパイ! ──アップルパイ!」

 不条理で不合理で不可解な不公平を嘆く、不作法で不器用で不気味な叫び。

 そんなものを聞かされている生徒たちは、不愉快になる。

「アップルパイ! アップルパイ! アップルパイ! アップルパイ! アップルパイ!」

 うるさい。そんなにほしいなら、自分でどうにかすればいいでしょ。

 誰もがそう思ったとき。

「……アップルパイ……アップルパイ…………アップル、ぱい」

 鬼気迫る声は、死期の迫りを悟ったように衰えていく。

 ロウソクの炎が消えかかるような、線香花火がおしまいに近づくような、まるで命のさいご。

 誰もが理解した。

 ああ、あなたはもう、それを食べることができないだね。

「……あっぷる……ぱい……」

 大好きだったのに。

「────」

 無音。

 恋芽恋守は足下のメニューを拾い上げると、一礼してマイクから離れていく。

 まだ無音。

 強いていえば、恋守の足音だけは聞こえる。

 無音。それを破ったのは、手と手が合わさる音だった。

 手をぶつけては離し、ぶつけては離す。連続する柏手かしわで。一般的には拍手はくしゅと呼ばれる行為。

 それをしていたのは──当代、竹詠かぐ沙だった。

「なるほど、なるほど、そうきたか!」

 声優の神は、ご満悦といったたたずまいで、称賛をおくっている。

 隣にいた谷内先生の表情にも明確な変化があった。

 表情筋の動かし方を知らないのではと思えるくらい仏頂面を維持してきた彼女が、予想外の逸品にめぐりあえたと興奮するような笑みをたたえている。

「なにこれ、どういうこと?」薙寅泣希は竹詠かぐ沙に説明を求めようとしたが、彼女は瞳孔を開いたまま固まっていた。

「……やられた」生まれてはじめてその言葉を使ったみたいに、もろくつぶやく。

「え? どうしたの? 今の恋芽さんの何がすごかったの? 迫力があったのは何となく伝わってきたけど」

「あなたにはわからなかったの?」かぐ沙は薙寅泣希に問う。「あの子が何をしたのか」

 日本の首都はどこか? という問題に答えられなかったとしても、ここまで愚か者を見る目を向けられることはないのではと、薙寅泣希は自尊心を踏みつけられた気がした。

 少しでも情報を得るため、騒がしくなった周囲の声に耳を傾ける。

「え? 今の恋芽さんの、どういうこと?」

「アップルパイってメニューに載ってないよね?」

「でも、どこかで出てこなかったっけ、アップルパイ」

「あ、思い出した。江戸時代の──」

「ああ、あったあった! 病弱でも最期までアップルパイを食べたがってたっていう」

「だから恋芽さん、つらそうにしてたんだ」

「あれ演技だったの? 気づかなかった」

「だって恋芽さん今、けろっとしてるよ」

「あ、本当だ」

「私、すごい伝わってきたよ。恋芽さん、江戸時代のお話の再現してるんだって」

「私も」

「私も」

「私も」

「じゃあつまり恋芽さんは──」

「──お姫様を演じてたってことなんだ」

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