第十四話

 テスト当日。


 ──持たざることは、あきらめる理由にならない──

 竹詠かぐ沙(声優)

 日舞の名家、竹詠家の長女に生まれたものの生まれつき体が弱く、生涯、手足を満足に動かせなかったという。妹との会話で声の魅力に気づき、声を磨きつづけ、声だけで物語を演じる独自の舞台は評判を呼び、ときの戦国大名、織田信長をも感服かんぷくさせたという。

 彼女のあきらめない意志と行動が、世界に声優という職業を誕生させた。


 本来、愛々愛与の朝は早い。

 健康のため、いつも早起きをして、朝の街を散歩するのが日課だった。

 横浜にきていろいろあったせいで、できていなかったけれど、今日やっと、それができる。

 壁の名言をとっておきのものにえて、涙のイラストと向きあう。

 あなたはどうして泣いているの?

 どれだけ問いかけても絵は答えてくれなかった。

 ウォーキング中にわずかでもいいからひらめきが舞い降りてくれることを信じて、ジャージに着替え、イラストをポケットにしまい、恋守を起こさないように、そっと部屋からでた。

 愛与が部屋から出て、数秒後、恋守は二度、せきをした。


「おはようアイアイ。出かけてたんだね」

 およそ一時間後。部屋に戻ってきた愛与に、恋守は朝の挨拶をする。

 愛与は微笑んでそれに応える。

 そんな愛与に、恋守はこんなことを言う。

「ねえアイアイ、今日は先に学校に行ってもらってもいいかな」

 愛与は不思議そうな表情をつくる。

《どうして?》

「えっと、なんていうか……その」

 あからさまに何かたくらんでいる、あるいは何かを隠しているのは、いやでもわかる。

 この大事な日にどうして。それとも大事な日だからこそ何かしようとしているのか。

《別にいいけど、一人で学校にこれるの?》

「さすがにもう大丈夫だよ」

《だったら別にいいけど》

「じゃあ学校で。それから、絶対合格しようね」

 愛与はうなずく。

 制服に着替えて、深呼吸して一足先に部屋を出ようとする愛与に恋守が声をかける。

「ねえ、アイアイ」

 愛与は振り返る。

「大丈夫?」

 愛与は首をかしげる。質問の意図がわからなかった。

 だから、何も問題はないよと、うなずいてみせる。

「わかった。変なこと訊いてごめん。じゃあ、学校で」


 一足先に学校に着いて体育館に入った愛与に、竹詠かぐ沙が近づき、声をかけてきた。

「恋芽さんは一緒じゃないの?」

《少し遅れてくるみたい》

「そう、ならいいけど」

 それだけ言って、かぐ沙はどこかに歩いていった。

 二日前、彼女に言われた言葉が心にぶり返す。

 絶望。

 かぶりを振って、その言葉をあたまから追い払う。

 大丈夫。きっとうまくいく。大丈夫。

 前向きな言葉で自分を鼓舞こぶするも、それは余計な不安を招くだけだった。それでもそれをやめられなかった。大丈夫。大丈夫。


 集合時間の五分前に谷内先生が体育館にやってきて「そろそろはじめるか」と言った。

 愛与にとって、想定外の不安が襲ってきた。

 まだ、恋守がきていない。

 あのバカ、何をしてるの。

 まさか本当にまた迷子になったのか、いや、いくらなんでもそれはないと思いたい。だけど──愛与は己の判断をい、歯を食いしばる。やはり一緒にくるべきだった。

 すでに周囲はテスト開始の雰囲気が形成されつつある。

 今きても、もう失格にされるのでは。

「待ってください、先生」

 一人の少女が挙手をして制した。

「どうした、竹詠」

 それは竹詠かぐ沙だった。

「恋芽さんがまだきていません」

「また恋芽か」わかりやすいくらい、谷内先生はあきれていた。

 既に恋守は登校時間について、負の印象を持たれている様子だ。

「まだ定時にはなっていません。待ちましょう」

「……まあ、そうだな」

 正直、愛与は、かぐ沙のことが嫌いではないにせよ、好きでもない。絶望呼ばわりしてきた相手に好感を持つなど、カマキリに俳句を教えるより難しい。

 だけど今は、彼女に小さく感謝した。

 その反動で、恋守には怒りを覚えはじめる。

 集合時間まであと三分、二分、一分を切ってもまだこない。

 周囲の生徒の苛立ちがなぜか自分に向けられているようで、申し訳なさもこみ上げてくる。

 仮に恋守がテストでいい結果を出しても、このことで大きく減点されるのではと思えてしかたない。

 体育館の壁に掛かっている大きな丸いアナログ時計は秒針もしっかりと目視できる。

 十時まであと十秒、七秒、五秒──。

「……おはようございます」比喩ひゆではなく本当に死にそうな声で恋守がやってきた。

 肩で息をしている。だから大急ぎできたというのは察しがつく。

 自分より先に制服に着替えて登校の準備はできていたはずなのに、どうしてここまで遅れたのだろうか。

 こっちにやってくる恋守に違和感を覚えたのはそのときだった。

 体が不自然に前のめりになる。

 倒れる、と思ったものの、そうはならなかった。

 寸前のところで持ち直し「すみません、慌ててきたせいで疲れちゃって」そう言って笑ってごまかす。

 その姿を見て、愛与の額に、嫌な汗が流れる。

 脳裏をよぎるのは、昨日の彼女。

 雨にずぶ濡れて、ぼおっとしていた。

 ──あのバカ。

 風邪を引いているんだ。

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