第十三話

「え?」と愛与は声を上げる。

「心配するな。半分冗談だ」

 半分は本当なんだ、と愛与は反応に戸惑う。

「いや、まあ本当に心配はしなくていい。安心はできんが、安全な場所なのは保証する」

 一体、恋守は今どこで何をしているのかと、愛与の疑念は尽きなかった。


「さあ入って、恋芽さん」

「どうも、失礼します」

「ささ、遠慮しないで、好きなところに座ってください」

 目の前には、座り心地のよさそうな高級なソファー。そのソファーの前には値の張りそうなテーブル。そのテーブルの先には座り心地のよさそうな高級なソファーがある。

 つまり、この部屋にはテーブルを挟んで向きあうようにソファーが設置されている。

 わかりました、では──と言って、テーブルに腰かけるユーモアを発揮はっきする雰囲気でもなく、恋守は素直にソファーに腰をおろすと、相手はテーブルを挟んだ向こう側に座る。

「急にきてもらって、ごめんなさいね」

「……いえ、そんな」

「それから、本当に、この間のテレビの件はごめんなさい」

 はじめプロダクションの祥子さちこ専務は深く頭を下げた。

「いえ、本当に気にしてないので、気にしないで下さい」

 薙寅副会長とのやりとりから離脱して、体育館に向かって歩いていると、校門の前で待ち構えていた祥子専務に大声で名前を呼ばれた。

 近づいてみると、とにかく話をしましょうと、自分とは生涯縁のなさそうな立派な車の中に誘われた。

 カルタくらいならできそうな広い車内で、紅茶とお菓子をすすめられて、ちょっといい気分になっていると、いつの間にか車は発進していた。

 困ります、とあせる恋守だったが、祥子専務は携帯電話を取り出し、繚夏りょうかには連絡しておくから大丈夫ですと微笑んだ。

「あ、繚夏? ちょっと今から恋芽さんかりてくから」と、小銭でもかりるくらいの軽いのりで谷内先生と通話をはじめた。

 噴火したマグマのような谷内先生の怒声が祥子専務の携帯電話からもれてくるも、それを笑って受け流している。

 何か伝言はありますかと祥子専務に訊かれたので、とりあえず帰りが遅れそうなので、愛与に先に帰っておいてほしいとだけ伝えてもらった。

 そしてたどり着いたのは関内にある、はじめプロダクション本社。

 淡黄色たんこうしょくで横に長い長方形の建物は、まるで巨大な高野豆腐のように見えたが、何かモチーフでもあるのだろうかと首をひねる恋守に「大きな高野豆腐みたいでしょう? 実際、一云一の大好物だったから、それをイメージして建てたんです」と祥子専務は教えてくれた。

 それから応接室に招かれ、現在に至る。

「明日、大事なテストなのに、すみません。だから単刀直入に言います。これを見てください」

 祥子専務はテーブルの上にあるリモコンを操作して、部屋の隅にあった大型テレビのスイッチを入れた。

 同時にビデオの起動音。

 ワイド型のブラウン管は小さな映画館のようでもあり、そこに映像が再生される。

 それはアニメーション作品だった。

 恋守と同い年くらいの少女が、暗い表情で道を歩いている。そこに妖精が現れ、少女に何か告げる。少女は光に包まれ、身に着けていた学校の制服は可憐でありながら機動性にも優れていそうなドレスに変化する。少女は笑顔に。しかし、その少女を見つめる。邪悪な影。戦いを決意する表情の少女。だが、邪悪な影はその勢力を増していく。少女に勝ち目はないように思えた。そのとき、少女とは別の色の光りに包まれた三人の少女が駆けつける。仲間だ。そして少女の顔がアップになって、彼女は何かを叫んだ。

 口は動いているのに声は出ていない。

 そこで映像は停止する。

 そういえば、先に帰っていてほしいという伝言はちゃんと愛与に伝わっているのだろうか、少し気になった。

 祥子専務は訊く。「いかがですか?」

 恋守は答える。「面白そうな作品ですね」

「再来年の春に放送予定の作品で、タイトルはまだ決まっていませんが、今は『プリンセスプロジェクト』と呼んでいます。この作品にはこれまでのアニメにはない、画期的な挑戦をする予定でいます」

「どんなことですか?」

「出演声優を全員、アマチュアから公募することです」

「……へえ」

 確かにすごいことだ。誰にでも何にでもなれる時代がやってきたと言われてはいるけれど、実際はプロの団体が徒党を組んで、あらゆる業界で新規参入を拒んでいるといわれている。

 特に役者の世界ではそれが顕著だと聞いていた。

 だから、この試みの意義は、大きい。

「私たちはこれを、新人発掘オーディションと名づけ、この夏に大々的に全国で展開する予定でいます」

「すごい、ですね」

「恋芽さん」

「はい」

「この作品で、ヒロインを演じてみませんか?」

「はい?」

 唐突な提案に、きょとん、と目を丸くする。

 祥子専務は手をテレビ画面に向ける。

「今、あそこに映っている彼女が本作のヒロインであり主人公です。名前はまだ決まっていませんが、とある理由でお姫様になりたいと願っています。親近感が湧くのではないですか?」

「…………」

 あまりにもできすぎた話に、おちつけ、罠だと、頭が警告を鳴らす。

「心配でしょうからあらかじめ断っておきます。これは取り引きでも駆け引きでもありません。役を受ける代わりに一云一を継げなどと言うつもりもありません。恋芽恋守さん、あなた自身として出演してください」

「どうしてですか? オーディションで選ぶんじゃないんですか?」

「私たちは本気で業界の改革にのぞむ所存です。自覚はないでしょうけど、恋芽さん、あなたを声界せいかいの新しい風として期待する声は少なくありません。そんなあなたを中心にオーディションをはじめれば、きっと予想外の才能が集まってくると確信しています。それこそ、かつての一云一がそうであったように」

「で、でも、だけど、いいんですか? 私で? この声で……」

 恋芽恋守の声質は先天的に恵まれている。

 よく通り、聞きやすく、聞く者を振り向かせる個性と力強さもねていた。

 歴戦の戦士、指導者、支配者、英雄、あるいは悪人を演じるなら、彼女の声より秀でた素材を見つけるのは困難だろう。

 同時にその声は、画面に映る野花のような純粋無垢な少女にふさわしいだろうか。

「お姫様になりたかったのではないのですか?」

 祥子専務は首をかしげた。

 そこで恋守は彼女の意図に気づく。

 ためされている。

 きっとここに正しい答えは、ある。それを言えるかどうか試されている。

「…………」

 だから恋守は声を発せられない。

「実はイメージしやすいように、テスト映像も用意してあるんですよ」

 そう言うと、祥子専務は映像を再開させた。

 制服姿のヒロインが胸の前で拳を握り、強く何かを訴えている。

 口は動いているけど、何も聞こえてこない。

 だが次の瞬間、画面から強い声が流れる。

「──だって私、お姫様を演じたいんです!」

 屈強な、まるで中年男性のような、恋守の声。

 数日前、祥子専務にぶつけたおのれの信念。

 テレビから映像は消え、黒い画面に、何か、見るべきではないものを見てしまったような、それ以上に、聞くべきではないものを聞いてしまった顔をしている自分と目が合う。

「いかがですか?」と祥子専務。「弊社からのオファーを受けていただけますか?」

「…………」

「恋芽さん?」

「……その、私……」くたびれた中年男性の声で、しどろもどろにつづける。「……明日、テストあるんで、今、そのことで頭がいっぱいだから……だから……」

 腰をおろしているソファーにも見抜かれてしまうような無様ぶざまな嘘をつく。テストのことなど頭の片隅にもありはしなかった。

「そうでしたね。確かあなたはまだ声優科の生徒ではないのでしたね。繚夏──谷内先生もよくわからないことをしますね。まあ、彼女は昔からああでしたけど。ちなみに恋芽さん、明日のテストの結果がどうであれ、私の気持ちが揺らぐことはないと約束します。答えは急ぎませんので、明日に備えてください。確か寮でしたよね? 車で送ります」


 ずっと考えごとをしていたせいか、一瞬で寮に戻った気分だった。

 祥子専務と運転手さんにお礼を言って、車が去っていくのを見送った。

 なぜか寮に入る気になれず、塀の内側に背を預けて、物思いにふけっていた。

 プリンセスプロジェクトと呼ばれているアニメ作品。

 そのヒロインに抜擢ばってきしてくれるという。

 なんということだ。

 声優科にやってきて、まだ一週間も経っていないのに、人生の最終目標くらいに掲げていたものが手に入ろうとしている。

 なのに。

 何度も何度も頭をよぎる映像と音声。

 可愛い少女の映像と一緒に流れた、可愛くない自分の声。

 あれはキャラクターと声が合っているとかいないとか、そういう次元ではなかった。

 ──ふざけているようにしか聞こえなかった。

 ぽつりぽつりと降りだす、雨。

 それでも恋守は寮に入ろうとしない。

 遠くから、二人の少女がはしゃぎながら駆けてくる声が聞こえる。

 その声に聞き覚えがあった。

 クラスメイトだ。

「大変だよ、明日テストなのに、風邪引いて声出せなくなったら悲劇だよ」

「私さあ、体調悪くなるとノドがガラガラになって、恋芽さんみたいな声になるんだよね」

 二人は笑う。そこには微塵の悪意も感じられない。

「でもさあ、恋芽さんと愛々さんってどうして声優科に入れたんだろう? 声優科ってめちゃくちゃ競争率高かったって聞いたよ」

「そうそう。詩の朗読テープ送ったり、電話で面接したり。あの二人、よく入れたよね」

「あれじゃない? かわいそうな人枠、みたいなのあるじゃん」

「ああ、それだそれ」

 雨はさらに強くなる。

 二人は軽く悲鳴を上げて走り去っていく。

 塀を挟んだ向こう側に、彼女たちの言葉でいうところの、かわいそうな少女は、雨に打たれながら、天を仰ぎ、こうつぶやいた。

「ポルポルミンって言われるよりはマシ……ポルポルミンって言われるよりはマシ……」

 思考はとめられない。

 ビデオの巻き戻しと早送りを繰り返すように、今日のできごとが何度も脳裏で再生される。

 薙寅副会長の嘘、祥子専務からの提案、クラスメイトたちの会話、クラスメイトたちの会話、クラスメイトたちの会話。

「病気の人みたいな声、か……」ふっきれたように恋守は吐き捨てる。「……そうだよね、そうだよ、うん……」

 一人、何かに納得して、とぼとぼと寮の玄関扉を開いた。


 部屋に戻ると、振り返った愛与が、ぎょっとして、部屋から飛び出した。

 飛んで戻ってきた両手にはバスタオルが何枚も抱えられてた。

 それで体を削るみたいに乱暴に愛与はタオルで恋守をぬぐう。

 一分後、ずぶ濡れの体から、多少は水分を奪うことに成功した。

《いますぐお風呂に入ってきなさい。風邪引くよ》

「大丈夫だよ、私、風邪引いたことないから」

 言った瞬間、くしゃみをする。

 愛与はこわい顔をつくって恋守をにらむ。

「わかったよ、いってきます」

 体操服を持って部屋を出る。

 あたたかいシャワーだけ浴びて、髪を拭いながら部屋に戻る。

「ありがとうアイアイ、心配かけてごめんね」

 言ったそばから、またくしゃみ。

【おぬし、もう寝ろ】

 フカヒレにまで心配されてしまう。

「大丈夫だから」はははと笑って見せた恋守は、愛与の机の上にある、見慣れないものの存在に気づく。「あれ? そんな色のテープ使ってたっけ? かわいいね」

 そこには桃色のカセットテープが置いてあった。

《さっきまで録音してたの》

「何を?」

《これからの生活で、一番使いそうな言葉》

「──?」恋守は首をかしげた。


 それから二人は明日に向けての準備をした。

 とはいえ愛与はイラストを見つめているだけで、恋守はメニューを開いてすらいない。

 特に二人で話すこともなく、紡椿白烏のラジオを聴いたら寝ようという意見で一致した。

「みなさん──んばんは! 声優の紡椿白烏です。今日は前回できなかったコーナー特集ですぞ。それでは最初は大人気のこちらから!」

『ウキウキウッキー!』と白烏の声にエコーがかかる。

「このコーナーは、みなさんのまわりの、あるいはみなさん自身のウッキー、つまり嘘つきな体験を募集するコーナーでございます──」

 二人とも、あまりラジオに集中できていなかった。

 放送が終わると、愛与は恋守にこんなメモを見せる。

《今日はあと一言喋れるから、聞いてほしい》

「うん、なに?」

 すうっと息を吸って、愛与は宣言する。

「私、明日の十秒に命けてるから」少し早口。でも、しっかり聞き取れた。

「うん、私もだよ」恋守はうなずく。「私も明日、命がけで喫茶店のメニュー読むから」

 お互い同時に小さく吹き出す。緊張が、ちょっとだけほぐれた。

「そうだ」恋守は机の上にあった封筒を手にして、それを愛与に渡す。「本当は明日でいいと思ったけど、今渡しておくね、いつでもいいから読んで」

 驚いた愛与の顔。なぜなら。

 愛与は机の上の封筒を恋守に手渡す。

《私からも。いつでもいいから読んで》

 不思議な偶然の一致に、しばらくお互いを見つめあっていた。


 部屋の電気を消しても、二人はなかなか寝つけない。

 ふと、先ほどもらった封筒をベッドに持ち込んでいることに気づいて、二人は封を開ける。

 中には一枚の紙が入っていた。

 じっと、目を凝らすと、暗闇に慣れた目が、それを読むことを許してくれた。

 そこには、それぞれ、このようなことが書かれてあった。


 ──ポルポルミンって言われるよりはマシ──

 恋芽恋守(声優)

 生まれつき中年男性のような声しか出せなかったのに、声優科で出会った素晴らしい友人との学びにより、いつしか女性的な声も出せるようになり、いくつものお姫様を演じるようになったのであった。


 ──グラタンにすれば、だいたいおいしい──

 愛々愛与(声優)

 霧声症という変わった病気のせいで一日十秒しか喋れなかったのに、声優科で出会った最高のともだちのおかげで、いつの間にか病気は治り、プロの声優としてデビューして、毎日ラジオにアフレコにおおいそがしで、それから歌のCDも出すのであった。


 笑顔でメッセージを読み終えた二人だったが、すぐ真顔になり、こんなことを思っていた。

 もう少し、名言っぽいこと言っておけばよかったな、と。

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